偽りの契り

 その夜、ハイヤートの王宮は王子の帰還に沸いていた。

 シエナが案内された大広間の天井は高く、円柱の柱の上部から天井にかけては花弁の長い花の紋様が装飾されている。忙しなく行き交う王宮の者達は皆揃いの白服を身に纏い、腰を曲げ手を掲げた独特の会釈をして通り過ぎていった。


(これがささやかな宴、なのね……)


 そうして、彼女はたった一人座らされた席から広い円卓を見回した。ひよこ豆のスープに平たいパンはもはや見慣れたものだが、黄色く細長い米に鎮座する肉塊や、得体のしれない黒い煮込み料理らしきものは、未知を恐れるあまり手を付ける気になれなかった。しかしながら、薔薇のような花の形の焼き菓子や、ナッツと思しきパイなどにさほど抵抗を感じないのは、故郷でも馴染みのある見た目だからだろうか。

 シエナがあれこれと頭を悩ませていると、目の前に突然、何かが置かれた。脚のついた透明なグラスには、みるみるうちに甘い香りの赤い液体がなみなみと注がれていく。


「あの、これは……」


 酒だろうか、と戸惑いを覚える。年齢的には問題ないものの、今まで一滴も口にしたことは無かった。遠慮すればよいのだろうが、と彼女は迷いながらおのずとザイドの方へ視線を送ろうとした。が、いつのまにか右を向いても左を向いてもその姿は見当たらなかった。

 ひっきりなしに運ばれてくる食事を前にシエナが途方に暮れていると、出し抜けに大広間全体に響き渡るかと思われるほどの大声が降ってきた。


「おう! 誰かと思ったらおひいさんじゃねえか!」

「……あなたは、確か―」


 声の持ち主の方へと顔を向けると、そこに居たのは見上げるほどに図体の大きな壮年の男だった。常人のふた周りはあろうかという強靭な肉体に、アッシュグレーの髭にはシエナにも見覚えがあった。確か、ラジャブという名だっただろうか。思わぬ人物との遭遇に面食らい、白金の睫毛は瞬きを繰り返す。


「ラジャブ、と言ったかしら。どうして、ここに……?」

「おうよ。覚えててくれて嬉しいぜ。まあ、話せば長くなるんだがよ。てなわけで、ここ、いいかい?」


 大男―ラジャブは返事も待たず、彼女の前にどっかりと腰を下ろした。すぐに彼のための杯が注がれる。大男は間髪入れずぐいと豪快に飲み干すと、にんまりと髭に覆われた口元を持ち上げ、人がよさそうな笑みを浮かべてみせた。


「実はなあ……俺はカティーフからずっと、陰ながらお前さんたちの後を付けてきたんだよ。」

「えっ……?!」


 シエナが目を見張る。すぐさま神妙な面持ちで記憶を辿ってみたものの、あの砂漠を渡っていた際に、後方に誰かがいたような気配など思い当たらなかった。彼女が尚もひそかに思い悩んでいるのを見ると、ラジャブのオリーブ色の目は悪戯を成功させた子供のようにきらきらと輝いた。


「―っていうのは、冗談だ。」

「……なんですって?」

「だが、護衛がいたのは嘘じゃねえぞ。もしかしたら知らなかったかもしれねえが、カラムの部隊の精鋭たちがしっかり守ってたから安心してくれよ。ああ、カラムってのは密偵部隊の長でな。へへっ、どうだ。さすがはうちの密偵部隊、気づかなかったろ?」

「そ、そうだったのね……。」


 西の王女にまんまといっぱい食わせてやったことが余程気に入ったのか、大男はいい話相手を捕まえたとばかりに破顔すると、矢継ぎ早にまくし立てた。


「おひいさんはアレかい。ザイドの親父さん―陛下と会ったんだろ。俺はなあ、カティーフで野暮用終わらせて、こっちへ真っ直ぐ飛んできたんだよ。ま、その昔に陛下の側近みたいなことをやっててなあ。見ての通りあの調子だから、早めに顔拝みにいかねえと、と思っててよ。って、縁起でもねえか。がっはっは!」

「そ、そうなのね……」


 話を聞きながら、頭の中で関係性を整理する暇もない。ラジャブは忙しなく巨体を揺するようにして大袈裟な身振り手振りで話しながら、大きな手には些か小さく見える杯をぐっとあおった。そして子気味良く喉をごくりと鳴らし、美味の余韻に浸るように満足気に鼻を鳴らす。


「ところで、おひいさんはいける口かい? こっちの酒は美味いぞ。まあ、まずは飲め飲め」

「え……ええ。」


 シエナは困惑しながらも、勧められるままに杯に手を伸ばしていた。おもむろに口に運ぶと、流れ込んできた液体が染み渡り、僅かに舌が痺れるような妙な感覚を覚える。途端に広がる芳醇な香りに酔いそうになり、彼女は口に入れたことを後悔していたが、既になす術はなかった。甘みはなく、渋味と酸味がせめぎ合いながら口内を押し寄せてくるようだ。たまらず嚥下すると喉が焼けるように火照り、彼女はげほげほとみっともなくむせた。


「おいおい、大丈夫か? ったく、すまねえな。こっちの酒は強かったか?」

「げほっ……いえ、お気遣いはいらないわ……」


 慌てて水を飲み干す。こんな味を好んで飲むとは、やはりシャンマール人とは分かり合えないと強く思う。そして同時に、もはや疑うこともなく異国のものを口にするようになってしまっている己に気づくと、気高いはずであった王女は自嘲混じりにため息をついていた。

 そんな彼女を横目に、大男はぼさぼさの眉を下げて慌てふためいていた。


「落ち着いたか? やべえな、こりゃザイドに怒られるってもんじゃねえ。クビになってもおかしくねえな……」

「心配しなくてもあの人には言わないから、安心して。」

「おっ、そいつは本当かい? はあ~……おひいさんが寛大な方でよかったぜ。おかげで、老いぼれの首の皮一枚繋がったぜ。」


 ほっと胸をなでおろしている気のいい大男に、シエナは知らず知らずのうちに苦笑していた。そのどこか間抜けにも思える親しみやすさを前にすると、すっかり毒気を抜かれるようだ。この男に辛辣な言葉を浴びせるのは、まるで筋違いと言うものだろう。それどころかこちらの油断も誘われるようで、彼女ははっとして慌てて唇を引き結んでいた。


 そんな彼女の心に相変わらず引っかかっているのは、先ほどザイドから聞かされたばかりの婚姻の話である。ラジャブは、ザイドをよく知る人物であることは違いないはずだ。そんな彼から何か情報は引き出せないものかと、王女はためらいがちに切り出した。


「あの、それで……あの人……いえ。ザイドは、どんな人なの?」


 唐突な問いに、ラジャブはしばらく鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしていた。だが、すぐに心得たとばかりににやりとほくそ笑むと、迷うことなく口を開いた。


「……そうだなあ。誰よりも情け深いくせに、それをおくびにも出さねえ奴だ。」

「情け深い……?」


 想いもよらぬ返答に、息を呑む。それもそのはず、ここに着く前、彼女はザイドのことを優しいと評して、本人からはねつけられたばかりである。彼の親切には打算があると、本人の口からそう聞いたのだ。彼女がしきりに首をかしげる一方で、ラジャブは子を慈しむように穏やかな面持ちをしていた。


「確かに、優しいだけの奴は国の頭に据えるにはちと不向きかもしれねえな。けど、あいつは誰よりも民のことを考えてる。それが王の素質ってやつなんだろうな。俺たちは、あいつが上に立ってもらわないと困るんだ。それくらい、高く買ってるってことさ。」

「……そう。身内には、甘いのかしら」

「それを言われちゃ元も子もねえけどな。もっとも、あいつはおひいさんには大層特別扱いをしていると思うぜ?」

「……。」


 それは利用価値があるからだ、とは言い出せず、シエナは何も言えずにうつむいていた。

 ザイドには確かに人望があるだろう。加えて、彼が国や民のことを第一に考える王であるなら、何とも文句の付けようがない。それだけに、一国の若き王の未来に自らも関係してくることに、彼女はいよいよ気が重くなっていった。



                 ***



 それからシエナは気もそぞろに食事を終えると、適当な理由をつけて席を立った。絶えず彼女の頭の中を占めているのは、不可解な婚姻のことである。何せ、張本人に尋ねたいことは山ほどあるのだ。


 彼女がザイドの姿を求めて歩き回っていると、やがて城を出ていく後ろ姿を見かけた。しかしながら、シエナは声をかける機会を伺ったまま、しばらくその背を追うことしかできなかった。

 彼が進んだ先は、なぜか王宮の裏手であった。守りの固い正面や門と違い、人気はない。小高い丘のようになっているそこは、見晴らしがよく街の様子が伺えた。ぼんやりとした豆粒のような明かりが方々に見えるのは、街に入る時に見かけたモザイクガラスのランプだろうか。点々と散らばる光が織り成す幻想的な光景に、シエナは後をつけていたことも忘れて、しばし見とれていた。


「……話があるのだろう。近くに来い」


 突然、前を向いたままのザイドに声をかけられ、彼女はびくりと身がすくむ。どうやら、後方に潜んでいることなどお見通しであったらしい。彼女はすぐに観念すると、おずおずと側へ出てきた。


「……あの」


 闇に溶けそうな黒髪。彫刻のように緩やかなカーブを描くザイドの横顔を見やる。いざ本人を目の前にすると、なぜだか言葉が出てこなかった。王子だと知ったのも、ついさっきのことなのだ。あんなに悪態をついて、子供のようにつらく当たっていた自らを思い出して躊躇していると、彼は思考を読んだかのように淡々と告げた。


「先ほどのことだろう。説明を忘れていたな。すまなかった」

「そうよ。あなたと……こ、婚姻なんて、わけがわからないわよ。勝手に決めないで頂戴」


 いつも通りの文句を言いつつも、これから聞ける話が間違っても好意を寄せた、とかいう類の話ではないのは火を見るよりも明らかだった。彼がここに来る途中、シエナを利用すると宣言していたことを思い出す。


「アレス王には文を出してある。式は、ひと月後だ。来るはずないとは思うが……今度はアレス人に託したので、確実に届くはずだ。」

「……そう。」


 シエナは息を吐いた。結局この男も、自国の父王と同じなのだ。彼女を駒としか見ていない。それが当然であると頭ではわかっていても、こみ上げてくるのは怒りでではなく、失望にも似たやりきれなさだった。


「……事後承諾なのね。随分と勝手に決めてくれるじゃない」


 しかしながら、変に情けをかけられるよりは、初めから駒のように扱ってくれた方がいっそ清々しいのかもしれない。そうすれば、はなから選択肢がないことにも、渋々ではあるが納得が行くというものである。


「これでアレス王は、姫君が生きているという事実と向き合わざるを得なくなる。そして、あの王の出方でこちらの身の振り方を決める。」

「……そういうことじゃないかと思ったわ。」

 

 駒のように扱われるような口ぶりを聞いて、彼女の心は泥を混ぜられたように濁っていく。ザイドの親切の裏には打算がある―その事実が、消えないささくれのように胸の奥に突き刺さる。彼が心を開いたように見えたのも勘違いで、いつのまにか絆されていたのは自分の方だけだった。そんな簡単なことさえ忘れかけていることに気付くと、シエナの頬はかっと熱くなった。


「わかってる。……わかってるわ。」


 自分に言い聞かせるように、繰り返す。異国の王子は、何か言いたげな彼女に気付いたものの、それを拒絶の色と判断したのか、きまりが悪そうに目を逸らした。


「この瞬間にもカティーフに危険が訪れるかもしれないことは心苦しい。姫君にも辛い思いをさせてしまうだろう。好きでも無い蛮族との結婚など、屈辱以外の何物でもないはずだからな。」

「―っ! そんなこと―」


 と言いかけて、シエナはなんと言うべきかもわからずに押し黙った。

 思えば、このところザイドのことを「蛮族」と詰っていないことを思い出す。彼がシエナを攫った直後から、水を呑ませようと苦心していたこと。めまいに倒れた時、抱き止められたこと。命を狙われ絶望にした時も、黙って涙を拭われたこと。そうしたこれまでの彼の態度は、決して計算ずくには見えなかった。否、彼女がそう思いたくなかっただけかもしれない。

 もはや、シエナにとってのザイドはただの「野蛮な東の民族」ではなく、目の前に存在する一人の人間だった。それなのに、自分だけ厚い壁の向こうへ追いやられたようで、彼女はぎゅっと胸が締め付けられるように痛んだ。


「いや、いい。姫君は俺を愛する必要などない。時が来れば、自由にする。一生食うに困らないような宝石と財産を与えよう。国内のどこでも、アレスに戻れるならアレスでも、どこか他の国でも。好きなところへ逃げるといい。」

「……そう。役目が終わったら用済みと言うことね。」

 

 なぜザイドは、こんな時まで「お前を愛するつもりはない」といった自らの意志を口にせず、シエナのことばかり口にしているのだろうか。この次期王が何を考えているのか、ますますわけがわからなくなる。やはり、捨て駒はどこに行っても捨て駒なのだろうと落胆した刹那、彼女の耳に飛び込んできたのは思いがけない言葉だった。


「―『自由になりたい』。それが、姫君の望みであっただろう?」


 言葉を失う。彼が自身の何気ない望みを覚えていたとは思いもよらず、彼女は視線をさまよわせた。


「……ええ、そうよ。確かに私は、そう言ったわ。でも……。それは―」


 言いよどむ。なぜこんなにも息が苦しいのだろう。ザイドは自らの意志を尊重してくれているはずだ。それなのに突き放されているかのようで、シエナの心臓は刃で抉られているかのように、呼吸を忘れるほどの痛みをもたらす。

 ふと、もしここで偽りではなく真に愛してほしい、と言ったらどうなるのだろうと考える。彼は、戸惑うだろうか。計算違いだと面倒がるだろうか。思いつく反応はどれも悪いもので、シエナは唇を開いたが、そこから続く言葉が発せられることはなかった。


「……。」


 鉛のように重々しい沈黙は、言いたかったことも、詰りたかった苛立ちも、いつしかかき消していく。


 そうだ。王都に戻ったところで、父王の手駒になることが分かりきっているシエナにとっても、これは決して悪い話では無い。それなら、答えはあってないようなものだ。この優しさも、彼女を慮るような言葉も、所詮は偽り。なら、思う存分こちらも利用すればいい。そう割り切ろうとしても、彼女の心には重石のような蟠りが尚も残る。

 ややあってから、彼女は呟くように告げた。


「……やっぱり、それ以外に効率的に自由になる道はなさそうだものね。あなたとの婚姻、受け入れるしかなそうね。」


 複雑な感情を気取られまい、という彼女の虚勢は諦めにも似た口ぶりになる。だがその答えを聞くや否や、ザイドはうっすらと目を細めた。


「……無理を言ってすまない。感謝する」


 夜のオアシスのように深い青はどこか悲しみを湛えたようで、シエナはそれ以上見つめることができずに顔を背けた。傷つけてしまっただろうか、と後悔が過ぎったが、既に遅い。

 二人の間を隔てるように、冷え冷えとした風がそよぐ。頬にかかるプラチナブロンドは、いつのまにか彼女の肌よりも冷たくなっていた。王女がそのまま動くことができずに俯いていると、不意にぱさりと肩に何かが掛けられた。


「夜は冷える。他に用がなければ、早く部屋に戻るといい」

「……そう、ね」


 このちっぽけな矜持を守るためには、掛けられた絹布を突き返せばいいのだろうが、シエナは彼の視線を遮るように、すっぽりと絹布を頭から被った。風を遮るには十分暖かいはずだが、身に纏うドレスの生地が薄いせいで、あちこちから隙間風が吹き荒れていた。ぶるり、と震えると全身が粟立つ。それでも歯を食いしばり、喉の奥からこみあげてきそうな何かを押し殺した。


「……今、行くわ」


 身体の震えは、砂漠の国の夜が冷えるせいだけではないだろう。彼女は両腕を抱くように布を握り締めると、未来の王を真っ直ぐ見上げることができぬまま、今にも消えてしまいたいような虚しさを感じていた。



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