アル・シャンマール王

「街に入るから、馬を降りるぞ」


 目前にぐんと迫るように立ちはだかるのは、鮮やかな青のタイルが整然と並ぶアーチ型の門。その縁は、貴婦人が編んだレースのように繊細な白い幾何学模様で彩られている。街をぐるりと囲うようなレンガの壁は、まるで砂漠とは一線を画した別世界を予感させるようだ。ザイドが先に砂馬から下りたのも気付かないほど、シエナはしばらくの間吸い込まれるように見とれていた。


「姫君?」

「……っ! ああ、えっと―」


 腰の辺りに差し出された褐色の手に気付くと、彼女は思わず目も眩むほど下にある地上と馬上の足元とを見比べていた。ここで意地を張るのは簡単だが、落馬しては一溜りもないので、大人しく手を預けることに決める。シエナが地面に降り立つや否や、足元からはむっと火照るような熱が伝わってきた。その熱気に当てられて、早くも額からはどっと汗が噴き出てくる。


 ふと門の横を見やると、槍を持った数人の大男たちが並んでいた。あの大男ラジャブほどではないが、一人で常人の二人分はありそうなほどの貫禄である。加えて、全員浅黒い肌が日に焼けて、暗い目の色と寸分違わぬ仕上がりになっていた。彼らはザイドに気付くと、手を揃え一様に腰を曲げた。


「これはこれは。高貴なるアル・シャンマールの若き太陽に、ご慈悲とご加護があらんことを。」

「ああ。お前たちも、ご苦労」


 そして、彼らの視線は打ち合わせでもしていたかのように、同時にシエナへと集まった。そんな反応などとうに見越していたように、ザイドは先回りして付け足した。


「俺の客人だ。丁重に頼む」

「はっ! か、畏まりました!」


 その間も、シエナはきょろきょろと落ち着かない様子で、門の向こうに広がる街を見渡していた。網目のように張り巡らされた路地からは、賑やかな商売人の声が響き渡る。遠目に見えるのは、青や金の糸で織り込まれた絨毯の数々に、赤、緑、青、オレンジと色鮮やかな明かりを灯すモザイクガラスのランプ。ツンと鼻腔を刺し食欲を刺激するスパイスの香りは、エキゾチックな果実や花を思わせる香水と混ざり合い、摩訶不思議な匂いを漂わせている。随分と見慣れぬ光景の数々は、彼女に遥か遠くに来たことを改めて実感させていた。


「王宮に向かう。共に来てくれるか?」


 現実感を失いつつあったシエナは、その思いがけない申し出が自らに向けられたものだと気づくまで、少し時間がかかった。


「……え? えっと、あなたは……王宮に自由に出入りできる立場なの?」


 彼女がザイドの方を見上げると、彼の浅黒い肌は傾きかけた日を背に、より暗く影を落としていた。相変わらず気候にはそぐわぬ涼しい顔は、艶めかしさすら感じさせる。

 思えば、シエナは今までこの男の身の上について尋ねたことがなかった。気にならなかった、と言えば嘘になる。が、あれこれ詮索するのはまるで自分が彼に興味を持っているかのようで、癪だったのだ。そういえばとよくよく考えてみると、思い当たる節は何度もあった。アイシャらはもちろんのこと、年長者のラジャブまでもが彼に一目置いて付き従っていたのだ。彼自身から溢れる気品はただ者でないことを予感させたゆえに、高貴な身分であることにはおのずと納得がいった。


「自由に出入りできるも何も、あそこは俺の生家だが?」

「―なんですって?」

「言っていなかったか。ザイド・アル=サレハ。俺はアル・シャンマール国の第三王子だ」


 シエナは鳩が豆鉄砲を食ったように、釣りがちの青緑の目を大きく見開いていた。目前の表情の見えない群青の双眸には、呆けた様子の何とも間抜けな自身が映っている。


「……聞いて、ないわよ」


 呟き混じりの抗議も、街に近づくにつれて雑踏にかき消されていた。


 それから市場を通り抜ける間、シエナは摩訶不思議な体験でもしているかのようだった。何せ、聖典にある昔話で海が二つに分かれるように、人波がさっと二人を避けるように割れるのだ。爽快を通り越して、なんだか畏まらざるを得ない事態に戸惑いを隠せぬまま、彼女はすっかり砂埃に汚れてしまった長いスカートのすそを握り締めると、先を行かれまいと小走りになった。


「あら、ザイド様よ」

「隣の愛らしい方は誰かしら。異国の方?」

「見ろよ、あの金髪に白い肌。西の女は初めて見たぞ」


 尊敬と共に入り混じる好奇は、間違いなくシエナに向けられたものだ。ひそひそと話す内緒話は、賑やかな路地のあちこちから聞こえてくる。まるで見世物にでもなったかのようで、この上ない居心地の悪さを感じながらも、彼女はなぜこのハイヤートまで連れてこられたのか考えていた。カティーフを発った時は、一刻も早くあの場を離れたかったためにあえて尋ねなかったが、一度気になると居ても立っても居られなくなってくる。


「……ねえ、」


 と言いかけて、その場にいる民衆の注目を一挙に集めてしまっていることに気付くと、彼女はすぐさまはっと口をつぐんだ。


「話は後だ。……少し歩くのが早かったか?」

「いえ、結構よ」


 まるでアレスの紳士のごとく腕を差し出されたものの、これ以上余計な真似をして人目を引くのが本意でないのは、彼も同じはずだ。彼女は苛立ちと戸惑いをぐっとこらえると、顔を隠すように覆い布を手繰り寄せた。

 

 やがて彼らは噴水のある大広場へとたどり着いた。アル・シャンマールのような砂漠の国では水が貴重であろうに、このように惜しみなく噴水として水を使えるのは、街が豊かであるからに他ならない。人々が多く憩うこの広場は、街の中心地にしてオアシスのようだ。


 いつのまにか二人の背後には、門で見かけた大男が付き従っていた。圧倒的な存在感に面食らいながら広場を通り過ぎると、やがてひと際屈強な男たちが立ち並ぶ階段に突き当たった。門の横で見たように、一様に腰を曲げ片手を上げたその姿は、アル・シャンマール式の礼なのだと思い当たる。そのまま長い石段を登っていくと、不意に上の方からきらりと輝く何かがシエナの目を射った。


「……っ! あれは―」


 黄金の門。街の入口の門とは対照的に、上部は青や緑、黒の幾何学模様が緻密に彫られており、扉部分はすべて煌びやかな金である。美しく磨かれた金細工が厳かに煌めく門は、中を見ずともここが王宮なのだと全身で主張しているかのようだった。

 あまりの存在感に圧倒され、言葉を失う。記憶の片隅にあるアレスの王宮もこれほどまでに手が込んでいただろうか。知らず知らずのうちに記憶を辿ったものの、彼女の脳裏によみがえったのは、長らく過ごした古めかしい離宮だけだった。




                 ***




 これは、一体どうしたことだろうか。

 シエナはぽかんとしたまま、鏡に映る自身を見つめていた。

 この地に来てから、コルセットがないことにはすっかり慣れきってしまったが、肩が大きく空いた袖も、レースのように透ける生地の裾も、風通しこそ良いものの、どこか落ち着かない。おまけに、所々に縫い付けられたエメラルドや真珠から察すると、どう考えてもこれまで着てきたドレスの中でも最高級品だとわかる。

 そう、彼女は王宮に着くなり数名の女性たちに別室へと連行され、あれよあれよという間に、ネックレスにブレスレット、指輪にイヤリングと思いつく限りのありとあらゆる宝飾品で彩られ、皮肉にもこれまでで最も王女らしい姿になっていたのだった。


「こんなの、頼んでないわ。いったいどういうつもりなの?」


 彼女がきっと睨みつける方には、金糸で彩られた白の衣装に身を包んだザイドの姿があった。赤と紺の模様の入った腰の帯が鮮やかで目を引く。こちらもシエナに負けじと、首飾りや耳飾り、腕輪にはルビーやアクアマリンといった煌びやかな宝玉が嵌め込まれている。気品溢れる彼が豪奢な宮殿を背景にすると、何人もひれ伏さざるを得ない存在感を放っていた。


「シャンマール王……俺の父の元へ案内する。来い」

「なんですって?」


 明らかに、人質である身で会えるはずのない人物の名前に、彼女は息を呑んでいた。そして、要件は伝えたと言わんばかりにさっさと歩き出したザイドを慌てて追いかけるものの、かかとの高い華奢な靴のせいでちょこまかとした動きになり、うまく追いつけない。


「待って。どうして、シャンマールの王に?  約束はあるの?  私なんかがお会い出来るものなのかしら?」


 というのも、アレスではシエナが父王と会ったのは数える程。それも、あちらから呼び出され謁見という形でしか許されなかったのだ。最も、その理由も一方的な辺境追放の宣告くらいであるが。シエナにとって、父である王とは畏まった関係であったため、焦るのにも無理はなかった。


「……?  確かに突然帰ったら驚くだろうが、そんなに心配する必要は無いだろう」


 ザイドは振り返るとしなやかな首を屈めて、矢継ぎ早に尋ねるシエナを不思議そうに見返していた。

 そうして、彼が向かった先は想像していたような玉座の間ではなく、王宮の中でも奥まったところにある一室だった。


「父上、俺です。ただいま戻りました」


 ザイドがおもむろに声をかけ、扉を開ける。シエナも後ろから室内をそっと覗くと、視界に飛び込んできたのは数人の者達に見守られるように臥せっている初老の男の姿だった。


「ザイドか。よくぞ無事で……ああ、もっと近くにおいで。」

「父上、ご容体は……?」


 ザイドが目配せすると、周囲の者達は両手を合わせるように一礼し、一斉に部屋から出ていった。

 シエナは臥せっている男を恐る恐る見やった。弱々しい白髪交じりのグレイヘアに、彫りの深い顔立ち。目尻に皺の刻まれた群青の瞳に、白い斑点の混じった浅黒い肌。彼がザイドの父王だというのは、すぐに見て取れた。


「相変わらず古傷が痛むくらいだ。そんな顔をするでない。……して、そちらのお方は?」

「……あ」


 目が合う。苦労がそのまま刻まれたような皺の下の、慈しみが宿った眼差しを目にして、彼女は緊張のあまり口ごもった。


「……。」

「彼女は、アレス王国第十三王女、シエナ・ヴェルレーヌ殿下です」


 ザイドからの紹介に、シエナは慌てて腰をかがめてドレスの裾をつまんだものの、果たしてアレス式の挨拶で失礼はないのかとよぎったため、どうにもぎこちない動きになってしまう。


「そうか、あなたが……。すまないが、こんな身体でね。このままで失礼するよ」

「ええ、お気になさらずとも結構です。」

「どうやら、うちのザイドが勝手な事をして迷惑をかけたようだね。こいつは今や長子みたいなものだが、儂も甘くなってしまい……いやはや、お恥ずかしい。」


 国を統べる王と聞くと自らの父を思い出すゆえ身構えてしまっていたが、目前のシャンマールの王は物腰柔らかく、敵であるはずのシエナに対しても穏やかな口調で語り掛けてきた。彼女はその人柄に引き込まれるように、気付けば口を開いていた。


「長子……ですか。」


 怪訝にもザイドを一瞥する。彼が先ほど第三王子と名乗ったことは記憶に新しい。それが自分の思い違いだったかと眉根を寄せて考え込む王女に気付いたのか、老いた王は静かに語り始めた。


「上の二人の息子たちは、十年前の戦争で民を率いて勇猛果敢に戦い、死んだのだよ。儂も見ての通り、死にかけだ。脚をやられたもので、うまく動けなくなってしまってな。今やこの者が、儂らの希望だ」


 それから王は心配そうに見守る息子の方へと視線を向けると、威厳の滲む気迫で重々しく告げた。


「カティーフでのこと、ご苦労であったな。……儂も、もう長くはない。儂の死を待たずに、戴冠の議を行おう」


 だが、対する王子の歯切れは悪かった。彼は迷いを隠しきれずに暫し逡巡した後、躊躇いがちに唇を結んでいた。


「……俺にそんな資格はあるのでしょうか。カティーフは守りましたが、負傷した者も多くおります。命を落とした者も......もちろん。そして彼女を戦地へ巻き込んでしまい、結果として危険な目に遭わせてしまっている……」

「うむ。アレス王国には儂も長年苦労してきた。お前は手を尽くし、王女殿下もカティーフも守り抜いた。それは確かだ。」

「……恐れ入ります。」

「だが、もしこの先互いの領土を不可侵し、均衡を保てるならこの限りではないであろう。王女殿下を連れてこられたのも、そのつもりだったのだろう?」


 着慣れぬ衣装も手伝ってか、シエナは知らぬ間に進む会話を持て余すように身動ぎしたが、唐突に自分の話になり目を瞬いた。

 そして何を思ったのか、傍らの王子は暫し沈黙した後、出し抜けに切り出した。


「その件ですが、父上。―彼女との婚姻を許してほしいのです。」

「―っ?!」


 思ってもみない台詞が飛び出し、シエナは仰天のあまり声が出そうになり慌てて口元を抑えた。そんな彼女は置いてけぼりに、ザイドは真剣な面持ちで病に臥せる王へ切々と訴えかけた。


「俺と彼女で手を結び、この国とアレスとの平和を築きたいと、願っております」


 王は目前の息子の提案などわかっていたかのように、ほっと息をついた。それが安堵か呆れかも理解が追い付かないまま、親子の込み入った話は進んでいく。


「……なるほど、よく考えたものだ。だが、あの冷徹なアレス王が果たして首を縦に振るかね? 自分の身内でも平気で切り捨てると聞くが―」

「俺に考えがあります。国の危機を脱するには最良と行かないまでも、必要な一手です。」


 すると、老いた王はここまで蚊帳の外であったシエナの方へと顔を向けた。


「あなたは、それでいいのかね?」

「……私、ですか?」


 何か言おうと口を開くが、唇は渇き喉が引きつって声が出てこない。質問の意図がわからず、下手なことは言えぬとシエナは狼狽していた。

 確かに、心のどこかでいつかは政略結婚の駒になることを覚悟していた。しかしながら、その相手がザイドであることは夢にも思っていなかったのだ。王女が混乱したまま考えあぐねていると、見かねた王は思いがけない提案をした。


「お前の望みはよく分かった。このことは、王女殿下のご意志も尊重して決めようではないか。」

「......え?」


 はっと顔を上げる。これまでシエナ自身の意志など考慮に入れられたことなどあっただろうか。信じ難いような驚愕と畏れ多さに、彼女は再び俯くように礼をするほかなかった。それから、これで難しい話は終わりと言わんばかりにアル・シャンマール王は柔和に微笑んでみせた。


「今夜、カティーフの再建と守りを固めるため部隊を派遣しよう。お前と王女殿下は暫し、旅の疲れを癒すといい」

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