1-6


 怖い、と言った喬之介の言葉に茅花は、分からないなと首を傾げる。


「だって喬ちゃん、海は目の前ってわけじゃないんでしょう?」


 そうだよ、と喬之介は頷く。

 喬之介と両親の暮らした家は、海からは少し離れた位置にあった。ふらりと良く遊びに行く浜辺からは子供の足で歩いて五分ほど、途中、些か急な長い坂道を登った先。離れているとはいえ家の窓からは、勿論のことであるが、海が見える。晴れた日のその景色は上から順に、薄い色の空があり、濃く深く色づく海があり、家いえの屋根があるという具合だった。

 つまり窓を一枚の絵に見立てるのならば、その前に立ったとき、顔をやや上げ海を見上げる形になる。海は空の下、まばらに軒を並べる民家の屋根の上に横たわっているのだ。


「ふうん。良い景色じゃない? 視線の先に海が見えるなんて、気持ち良さそう」

「屋根の上に海が広がってるんだよ?」

「なによ喬ちゃんたら、そんなの、空が落ちてくるって怖がるのと一緒じゃない」

 次は、星や太陽が落ちてくるって心配するんじゃないでしょうね、と言わんばかりの顔で茅花は、喬之介を見る。

「杞憂だ、って言いたいんだろう?」

 そう言い返せば、茅花は少し笑う。

 天気が良い日ばかりであるならば、喬之介も、そんな不安を抱えることも無かっただろう。気持ち良く晴れた日には、茅花の言うように、見慣れたはずのその景色の素晴らしさを、子供ながらに、改めて感嘆の思いで見つめることだってあった。

 海の色というのは青というには美し過ぎて、上手く説明がつかないものがある。まさに金青こんじょうとも云うべき時もあれば、瑠璃色のなかに縹色をした箇所や孔雀緑を見つけるなど、光の加減だけでなく、海流によっても刻々と変化を見せるそれは、海中の温度や海底の砂にも関係しているのだった。

 ただ、天気が悪い日の海は、決まっている。鈍色の空の下で灰色の強い黄色みのある緑色――麹塵きくじんとも青白橡あおしろつるばみという色にも似た――をしており、そこには白い波頭がいくつも並び、その波打つ様は渇きにひび割れ盛り上がる大地が蠢いているようにも見え、唸り声に似た轟きと強い海からの風が窓を震わせ、隙間という隙間を通り抜けるそれは悲鳴に似た叫び声を上げる。

 海は、途端に悍ましいものに変わるのだ。

 また、月の見えない夜にもなれば、空よりも深く濃い闇が、家いえの屋根を黒く染めるようで怖かった。

 美しいものが、姿を変える怖さ。

「海は、それ自体が生きものなんだと思い知らされるんだ」

 それ、は追いかけてくるのだ。

 ……どこまでも。

 部屋に落ちる沈黙の音が聞こえる。

 手のひらで包み込むようにしていたカップに唇を寄せ、すっかり温くなったミントティーを口に含めば、仄かな甘みは消え、すうすうと裏寂しいばかりの味を喬之介の舌の上に残した。

 隣りに座る茅花もまた、その動きにつられるように、ひと口、ふた口と続けてミントティーを飲む。ややあってカップの中を覗き込んでいた茅花が、顔を上げ喬之介を見た。


「火事、だったんでしょ?」

「えっ?」

「お母さんと、お父さん」

「……ああ、そうだね」

 

 忘れようもない夜空を染める炎と煙の色。

 記憶の中の炎が喬之介に覆い被さる、その瞬間、煙に混じって鼻先に何か別の匂いが掠めたことを不意に思い出した。

 家が燃える煙とは違うあの匂いは、と過去を呼び覚まそうと喬之介が眉を顰めたとき、茅花の声で現在に引き戻される。

 

「わたし達、良く助かったよね」

「……ああ、うん」

「お父さんが、助けくれたのかな?」


 喬之介は、曖昧に頷くことしか出来ない。助けられた記憶がないのだ。気づいたときには、闇に飛び散る火花と、縦横無尽に煽られる炎を見上げていたからである。

 力強い手のひらが、幼い喬之介の手首を強引に掴み家の外へと連れ出してくれたような気もするのだが、凡そ現実らしからぬものを目撃してしまった所為で、あの夜は母親が首を締められていたということ以外、確かなことは何も覚えていなかった。

 

「……なんで茅花は、そう思うの?」

「だって、わたし達は外に出てたんでしょ? お父さんは子供たちを助けて、また妻を助けに家に戻ったんじゃないのかなあって想像するわけですよ」

「なるほどね。そうか……うん」

「で、煙に巻かれてしまった。そうなんじゃないのかなあ……そうだったら、良いな? ってことかな」

「死んじゃったのに?」

「死んじゃったからだよ。子供たちは、助けた。家の中には、まだ妻がいる。いま一度助けに戻ってみたものの煙で前が見えない。どうにかして手を伸ばす。その先に愛する人がいると信じて。ああ、もう無理かもしれない、でも子供は助けた。二人一緒ならそれだけでもう……みたいな」

 両親は愛し合っていて、わたし達のことも愛していたんだって、そんなお芝居みたいな話にして自分を慰めるしか出来ないくらい、わたしは記憶が無いんだもの、と茅花は喬之介に向かって肩をすくめて見せる。

 ――記憶、とは実に不思議なものだ。

 自身の感情をフィルターにして脳に残されたそれは、どこまでが正確なものなのだろうか、と喬之介は考えずにいられない。結局のところ人は、正否を余所にしても、覚えているものを信じるしかないのではないかと、折に触れ喬之介は、思うようになっていた。


 あの火事で、何もかもが焼けてしまった。


 喬之介の中に、記憶だけを残して。

 両親も、あの古い海辺の家も、今となっては、その全ては単に喬之介の脳が『思い出』として記録しているだけに過ぎない。

 楽しかったことも、幸せだったことも。

 悲しみも悔しさも、母親の姿も、父親の姿も、全部が喬之介という人間を通して残されたものなのである。

 

「喬ちゃんのことを羨ましいって思うこともあるんだ。というか、正直に言えば小さい頃はずっと、羨ましかった。お母さんのことも、お父さんのことも喬ちゃんは独り占めしてたし、覚えてもいるから……狡いって思ってた。だってほら、ね? いくら、こんな風に事実に色付けしてみたところで、全く知らない覚えてない人のことなんて、実際のところは輪郭すら描けない。想像するにも限界ってものがあるじゃない?」


 眩しいものを見るような目で、喬之介は茅花を見る。

 喬之介と茅花という二人きりで残された兄妹は、欠けてしまった箇所をそれぞれに、決して分かち合うことの出来ないものを抱えている。あるものが無くなるのと、最初から無いのでは違う。それはどちらの方が辛いとか比べるものでも、比べられるものでもない。だが、羨ましいと、狡いと、そうやって言葉にすることを迷わない茅花を、喬之介は、自分にはないその素直さを、眩しいと思うのだった。

 

「茅花は、どんな想像をしたわけ?」

「もう、ありとあらゆることだよ。火事になったのは漏電に見せかけて、実は悪の組織に狙われてたっていうのから、美しすぎるお母さんにはストーカーがいて家に火を点けたとか」

「えっ? 悪の組織とか……想像って、そっちなの?」

「そっち、ってどっち?」

「や、ほら、なんて言うか」

「普段の生活ってこと?」

「うん、そう」

「あー、うん。それはさ、友達の話を聞いたり本を読んだり、それこそお話の中の親というものから想像することはあったけど」

「けど?」

「それって、わたしのお母さんとお父さんじゃなくて、どこにでもいる『お母さん』と『お父さん』の想像にしかならないってことに早々に気づいちゃって。理想が邪魔をすると言うか、想像の限界が来るのが早かったと言いますか。さっきも言ったけど、知らな過ぎると想像すらままならないんだよね。かと言って二人のことって、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんだけじゃなくって、秋パパとかにも詳しく聞いちゃ拙いような……それこそ禁句? みたいな雰囲気があったし」


 確かにその通り、茅花が言うような雰囲気があったのだ。おそらく両親が祖父母と疎遠だった理由が、そこにある。茅花もまた喬之介と同じように、幼いながらも、両親と祖父母の間には死んでしまってもなお、何か埋めることのできない感情の齟齬があることを、鋭敏に嗅ぎ取ったのだろう。

 

「こうしてみると喬ちゃんに聞いて、お母さんって人が、初めてほんの少しだけ分かったかも」

「……猫舌の?」

「ふふっ、そう。無邪気で子供みたいな」

「少しは想像、出来そう?」

「うーん、どうかなあ。まだ推測の域を出ないというか、を超えないかも? 他にも喬ちゃんが覚えていること教えてくれたら、妄想も想像になるかも」


 長い夜になりそうだと笑いながら喬之介は、もう一度新しくお茶を淹れ直すために立ち上がると「そういえば、この前お祖父ちゃんが旅行先から送ってきた栗落雁があるんだった。茅花、食べたい?」とポットに手を伸ばした。


「うん、食べたい食べる。あ、出来ればハーブティー以外の、違うお茶が飲みたいなあ。せっかく栗落雁を食べるんだし、さ。それにミントティーは熱いか、冷たいのなら美味しいのに、中途半端なのって……えっと……かなり不味い、よね?」

「まあ美味しくは、ないかな。緑茶か紅茶は、どう?」

 飲み頃を過ぎ、風味を損なってしまったカップの中の液体を見ながら喬之介は、物事というものは、飲み物でも同じだと考えていた。それぞれに適した温度があり、その好機を逸すれば損なうものの方が大きい。

「うーん、じゃあ紅茶で」

 甘いものがあって嬉しいと言って喜ぶ茅花の顔を見ながら喬之介は、ポットとカップを手にキッチンへ再び戻る。

 湯を沸かす間にと、喬之介が茶器を洗いながら、ちらとリビングに顔を向けてみれば茅花は、ソファに背を預け、またスマホを覗き込んでいた。

 その顔を見ながら喬之介は、もしかしたら両親の、母親の思い出を、それも前触れもなしに現れた妹に語るという形で、過去を振り返ることになったのは、やはりクライエントとして須見が自分の前に現れたことに起因するのではないだろうかと考えていた。

 単なる偶然だと思う一方で、須見の口から語られた言葉が、声が、喬之介を惑わせる。


 『誰か特定の人を、じっと見るだけで……その相手の、過去が……場合によっては、あれは、多分……そう未来……が』

 

 『美しい女性が、首を絞められている』


  ――んです。


 何ともおかしな考えだと分かってはいても、喬之介は、奇妙な胸騒ぎがするのだった。それはまるで、茅花が母親たちの写真を見つけたのも、恋人と別れたのもみな、同じ一本の鎖で結ばれた運命の一端のようなもので、こうして喬之介の部屋で過去を振り返るために予め用意されていた一連の出来事のように思えてならないからである。

 ……運命? だとしたら何だというのだ。

 喬之介は、頭を小さく横に振る。

 妹に思い出話をすることによって、過去がひたひたと忍び寄り、現在の喬之介を侵蝕するとでも? 

 だが過去は、変えられない。

 それでも不安にも似た重苦しいものが、喬之介の胸に根を下ろすのを感じて、そのことに戸惑うのだった。




 朝、喬之介がリビングの扉を開けると、一日の始まりを告げる、脳の覚醒を促すような芳しいコーヒーの香りが鼻腔を抜け、嗅覚を刺激した。

 コーヒーを淹れたのは茅花でしか有り得ないが、その姿はリビングにはなく、布団を敷いて寝ていた筈の書斎にも見当たらない。

 どうしたものかと喬之介が思いながら、ソファに腰を下ろした時、玄関から音が聞こえ、しばらくすると茅花が現れた。


「あ、喬ちゃん、起きた?」

「茅花、おはよう。コーヒーありがとう。ところで、どこ行ってたの?」

「黙って帰っちゃったと思った?」

「うん、少し」

「えへへ、ごめんね? 喬ちゃんには悪いけど朝にスムージーを飲む気にはなれなくて、ご飯炊こうか考えながらコーヒー飲んでたらパン食べたいなって。仕方ないから、近くのコンビニで食パン買って来た」

「冷凍庫に、炊いたご飯とクロワッサンがあったのに。鯛そぼろと、あと柚子風味の明太子も。瓶詰めなら、牛肉のしぐれ煮とか、鰻と実山椒のつくだ煮とか、コンビーフとか」

「えー、知らないよ。なんなの。しょぼい缶詰しかないと思ってたのに。さては隠してたな。断然、そっちの方が良いじゃん。もう、喬ちゃん昨日のうちに言っておいてよ」

「さては隠してって……隠してないから。缶詰は青魚を食べろって、お祖父ちゃんが送ってくるんだよ。良いよ、茅花は好きなものを食べて。その食パンは僕が食べるから」

「迷惑なら、お祖父ちゃんに、送料もかかることだしDHAとかEPAはサプリで摂るって言って断れば?」

「気にかけて貰っておいて、そんなこと言えるわけないだろ。迷惑ってわけじゃないし、親切を無下には出来ないよ」

「もう、喬ちゃんだなあ」


 そのまま慌ただしく賑やかな朝食を終えた後、書斎で仕事へ行く支度をしていた喬之介は、ソファに座る茅花がスマホを見ながら、気になるニュースや話題を読み上げているその声を、半分だけ聞いていた。


「ねえ、喬ちゃん聞いてた? 怖いよね」


 茅花が怖いと言うのは、数日前に近くで起きた殺人事件の話である。犯人はまだ見つかっていないが、その続報として妹がストーカー被害に遭っていたことがニュースになっていた。

「姉妹の取り違えってあるのかな? ストーカーされてたのは、妹の方でしょ? 殺されちゃったのは、姉だけど」

 もしかしたら被害者は人違いによって殺されてしまったのではないか、いや、始めから姉の方を狙っていたのだ、とネットでも話題になっており、それならすでに犯人と目ぼしいその人物が任意で事情聴取されているだろうと、誰もが同じようなことを呟いている。


「ねえ、喬ちゃん。ストーカー被害に遭っていた続報が出たってことは、犯人はその人かな。どう思う?」


 支度を終え、部屋から出て来た喬之介の姿を見て、茅花もまたソファから立ち上がりながら尋ねれば「さあね」と素っ気ない答えが返るばかりだった。


「そんなことより、このあと、茅花は?」

「秋パパに連絡して、お祖父ちゃんの家で合流しようかなあって思ってる」

 玄関で靴を履く茅花に聞けば、大学を休むとは、はっきりと言わないが、どうやらそのようだった。

「ふうん。気をつけて」

「分かってる。喬ちゃんも、お仕事ムリしないでね」

 ああ、と頷きながら扉を開けようとした喬之介だったが、何かを思い出したように、茅花に先に出るように促すと、また靴を脱ぎ、その場に鞄を置いてリビングへ向かう。

「忘れもの?」

 背中に向けられた声を聞き流すように、適当に返事をしたあと戻ってみれば、茅花はまだ玄関で喬之介を待っていた。

 手に何も持っていない喬之介を見て茅花は「忘れものじゃなかったの?」と首を傾げる。

「うん、ちょっと電気を」

「消し忘れ? 点いてなかったでしょ。わたし、ちゃんと確認してきたから」

「……ああ、そうだね」


 茅花が確かめたと言った傍から、選りに選って、点けてきたのだとは言える筈のない喬之介は、曖昧な笑顔を見せながら靴を履き、二人で玄関の外へ出るとしっかり鍵を締めたのだった。






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