1-5


 シャワーを浴びた喬之介きょうのすけが、リビングへ戻ってみれば、一足先に入浴を済ませた茅花ちかはソファに仰向けに寝転び、スマホを眺めているところだった。

 喬之介に借りたスウェットの上下は茅花には少し大く、スマホの画面に向けて傷ついた表情を覗かせている化粧を落とした後のその姿は、彼女を年齢よりも幼く見せ、庇護欲を掻き立てられるものがある。


「茅花、お茶淹れるけど飲む?」

「んー……ちょっと待って……ん、いいよ。何? なんの、お茶?」

「ペパーミントとかカモミールとか、ハーブティーかな。ところで良いの? それ。何か削除してるみたいだけど……」

「喬ちゃん、はい、そこでストップ。今わたしの頭の上に飛んで来てる、その言葉、すでに領空侵犯だからね。それ以上は詮索も干渉も禁止です」

「……ごめん。分かった。茅花が話したくなるまで、待つよ」

 寝転んだまま、スマホを胸に隠すようにしている茅花に、喬之介は両手を掲げ、降参の意思を示す。その姿を見て、茅花は目元を少し和らげると言った。


「ならば、よろしい。えっと……なんて言うか、聞いて欲しくない訳じゃないんだ。まあ、もろもろの汚い心を喬ちゃんに勝手に暴かれたくないっていうのは、あるにはあるけど……でも、ね? いま、わたしが話すことって、なんか、全部、本当じゃない気がするからって思うところもあって。どう言ったら良いのか分からないけど……」

「本当じゃ、ない?」

「……うん。いま何を話しても、その言葉は、ぜんぶ自分をごまかしてるだけっていうのかな? だってさ、色んなこと全然受け入れられないけど受け入れるしかないって、そんな理解したくもないこと、それすらも理解しちゃってる時点で、もう自分を騙してるんだよ。何を言ったところで、わたしのことはもう特別じゃないって分かってるから。格好つけたいから。惨めになりたくないから。別れ話をされてるのに、それでもまだ自分を良く見せたいなんて可笑しいよね。だったら納得いかなくても、どうやったって受け入れるしかないじゃない? そうでしょう? 分かった、そうねって言うしか出来ないよ」

「……うん」 

「心の中で、どんなに相手を責めても本人には言えないんだよ。なんでだろう。嫌われたくないって思っちゃうの。それがまた悲しくて悔しくて……ってもう、ね……ぐるぐる同じところを回ってるの」

「分かるよ」

「でもきっとこれも、本当の言葉じゃない」

「うん」 

「だから……喬ちゃん。わたしを暴こうとしないで。……忘れて、聞かなかったことにしておいてくれる? お願い」


 ひとつ言葉を重ねるごとに唇は震え、顔は歪み、今にも泣き出すかに思えた茅花だったが、喬之介に聞いて欲しくも言えない深淵に秘めた言葉を、込み上げる涙と共にぐっと奥歯で噛み締めるのだった。そんなふうに、目の縁を赤く染めたまま黙り込んだ茅花を見て、喬之介は、静かに頷くだけに留めた。

 暫く時間が経ってから茅花が次に口を開いたとき、無理をしていると分かるものの、声の調子は既に普段の様子を取り戻していた。


「……で、淹れてくれるなら、お茶はミントティーにしようかな。ね……ところで、喬ちゃんってハーブティー好きなんだね。知らなかったなあ。どうして? 何か、理由があったりするんじゃない?」


 やがてこの話は、もうお終いとばかりにソファの上に勢いよく上体を起こしながら茅花は、これまでの反撃とばかりに揶揄いを含んだ目で喬之介を見上げる。


「残念でした。茅花の期待に応えられなくて悪いけど」

「えー、つまんないの。嘘ついてない?」

「嘘じゃないよ」

 

 ハーブティーを喬之介が好むのは、茅花が暗に仄めかしているような過去に関係があった恋人などではなく、母親の影響だった。

 ただ、それもまた母親を忘れられない、忘れたくない、というのとも違う。

 そこにあるのは、言うなれば残滓とも呼ぶべきものだろう。

 祖父母の家で暮らすようになってから、あの海辺の小さな町で暮らした毎日は、朧げな記憶と遥かな過去になった。だが、一人暮らしを始めてみれば、どうだ。過ぎ去ってしまったはずのあの日々が、中には本人がそれと気づいていないものも含めて、幼い頃に暮らしていた習慣が、べったりと喬之介の奥深くに染み付いて離れていないことに気づいたのである。

 その中でも寝る前に飲むハーブティーは、いつからか、疲れてささくれ立つ神経を宥めるために、喬之介にとって、なくてはならないものになっていた。


「子供の頃、一日が終わり、寝る前にはホットミルクかハーブティーを飲むのが習慣だったんだよ」 

「えー? そんなことしてたっけ? おねしょしちゃいそうだからって、お祖母ちゃんは寝る前に飲ませたがらなかったじゃん……あ、そうか。わたしが知らない喬ちゃんの小さい頃ね? やれやれ、ホットミルクを勧められなくて良かった」


 お茶を淹れるためにキッチンで湯を沸かしながら、茅花の最後の芝居気たっぷりの台詞を聞きつけた喬之介は、リビングに向かって笑いを滲ませた声を上げる。

「茅花、さっき食べたパスタもそうだし、グラタンとかシチューだって好きなのに、小さな頃から牛乳は嫌いだよな」

「嫌いっていうか飲めないわけじゃないんだよ? 好きじゃないだけで」

 口を尖らせている茅花に、ポットいっぱいに淹れたミントティーとカップを二つ持って現れた喬之介は、テーブルの上に置くとソファに並んで座る。


「ありがと、喬ちゃん。……考えると、好きじゃないって、変な言葉だよね。嫌いじゃないけど、好きじゃない」


 嫌いになったわけじゃないんだ。


 茅花の頭の中に、そう言って別れを切り出した少し前の彼の顔が、蘇る。


 そうじゃないんだけど、分かるだろ?


 申し訳なさそうな、ばつが悪い様子で、目の前の茅花に言うというよりも、まるでその場には居ない誰かに、言って聞かせているみたいに。

 嫌いになったと、優しい嘘すらつけないなんて卑怯だと、考えているそんな自分と彼は、いったいどっちが卑怯なんだろう、と茅花が思っていると、ポットからお茶をカップに注ぐ柔らかな音が聞こえて、いつのまにか深く俯いていた顔を上げた。

 ペパーミントのどこか甘く、だが、爽やかな清涼感を伴う香りが、熱くなった目頭をひりつかせ鼻の奥に抜ける。


「ねえ、喬ちゃん。わたし達のお母さんって、どんな人だった? 覚えてる?」

「どうした、急に」


 ぴたり、と喬之介のポットを持つ手が、宙に止まる。

 茅花の言葉によって不意を打たれた喬之介の首筋に、何故だろう一瞬、すっと冷たい風が入り込んだような気がした。須見の声が、その風の細く高く歪む唸りに重なり、喬之介の耳元を掠めたようで、誰もいないと知っているのに思わず振り返る。

 リビングと部屋続きの明かりが消してある書斎から、夜の海が滲み出て来る気配を感じた。あの頃に暮らしていた昔の家と違って、海は遠く、この部屋には隙間風なんてものは入っては来ないのに。


「……喬ちゃん?」

 名前を呼ばれ、はっと茅花を見た。

「ごめん……ちょっと疲れてて。なんだっけ……ああ、お母さんのことだったよな」

「うん。この頃さ、考えるんだよね。少し前に、家の片付けをしてたら偶然、お母さん達の写真を見つけて……お母さんも、お父さんも、秋パパも皆んな若いんだよね。当たり前だけど。それに多分あの写真は、今のわたしと同じくらいだったと思う。それから、色々と……想像するっていうか、思うことがあったりして。もし、お母さんが居たら、どんなだろう、とか。どんな人だったのか、わたし全然覚えてないというか知らないし」


 ポットを、ゆっくりとテーブルの上に置いた喬之介は見ていたテーブルの上のカップから、目を外すと改めて、横並びに座る茅花の顔を覗き込んだ。

 傷つき悲しげなその顔は、いつからか、見かけることが多くなった喬之介の記憶の中にある母親と、似ていた。すっと視線を逸らす。

 部屋に満ちるハーブティーの香りが鼻腔を擽り、仕舞い込んでいた記憶を、感情を誘因し、刺激するのが分かる。

 あの頃、を。

 あの日の前までの毎日、を。

「まあ、覚えている筈なんてないよ。茅花は生まれたばかりだったもんな」

「わたしが生まれたとき喬ちゃんは、九歳? だよね」

「うん、そうだよ。小学生だったな……もう、すごく昔のことだから」

「忘れちゃった?」

「……いや、覚えてるよ」

「ふうん? 覚えてる、けど、ほとんど忘れちゃってるなってこと?」

「そんな感じかな」

「じゃあさ、覚えていることだけをパッと言ってみてよ」

 二人、ほぼ同時にテーブルの上に置かれたカップを取り上げて、同じようにそれを抱くようにして両手で包み込んだ。ちらと茅花を見ると、そっと口を寄せたカップに息を吹きかけている。

 その横顔に、喬之介はふっと笑み溢れた。


「一つ、思い出した」

「なあに?」

「お母さんは、猫舌だった」

「えー? なにそれ。そういうのじゃなくてさ、美人だったとか、優しかったとか」

「そんなので良いの?」

「や、違うか……うん、違うね? それじゃあ、お母さんって人から、どんどん離れて、単に写真を見てるみたいだもん。ふふ。猫舌は、分かんないよね写真じゃ。ごめん、喬ちゃんが思い出したことを教えてください」

 

「化粧」

「お化粧?」

「そう、お母さんは化粧が嫌いだった。普段はすっぴんなんだ。だから授業参観とかの顔は見慣れなくて、驚くほど別の人みたいで。だけど友達のお母さんって毎日ちゃんと化粧してるから不思議で聞いたら……」

「えー! こんな便利なものを。なんで?」

「……便利?」

「便利だよ。魅せたい自分をつくれるし、盛れるし、見られたくないのは隠せるんだよ。上手く出来た時は、なんか気合いも入るし。気合いを入れたい時にも、がっつり頑張るけど。なんで、お化粧が嫌いなの?」

「肌が苦しいって言ってたな。唇がべたべたするのも、服に着くのも、睫毛が重くなるのも嫌だって」


 喬之介を抱き寄せて頬を合わせる母親は、さらさらと馴染み、当たる睫毛が柔く擽り、肌の甘い良い匂いがしたと懐かしく思い出す。


「美人だったから?」

「いや、お母さんは確かに綺麗な人だったけど、自分の外見に自信があったとかじゃないと思う。子供だった僕から見ても、随分と無邪気な人だった気がする。だから、化粧をすると途端に近寄り難い大人に見えたって言うか」

「喬ちゃん。なにそれ大人って……変なの」

「そうとしか言いようがないんだから、仕方ないだろ? 僕だって子供だったけど、お母さんも子供みたいだったんだよ」


 大人といわれる年齢になった喬之介が、思い出のなかにある母親のことを振り返って見れば、彼女は子供のように無邪気なところがあり、それでいて濃艶とした魅力を兼ね備え、澄ましていれば、きつく見えるが実は脆い、といった、ちぐはぐで掴みどころのない人間だった。


「魅力的だった?」

「うん。海で遊んでいたりすると、いつだって全然知らない子供がいつのまにか近くに来て、仲良さげに話しかけてくるんだよ。僕と遊びたいんだってお母さんは言ってたけど、違うんだ。見ていれば分かるんだけど、話しかけたくなっちゃうというか、つい目で追ってしまうのは僕じゃないんだよ。その子供は、お母さんの気を引きたいんだ。でも一方で……」

「分かるかも」

「……うん」

「お父さんは、心配だったんじゃない?」

「そうだろうね。男なんて子供だからな」

「そっかあ。わたし、そんなお母さんを見てみたかったな。仲良くなれたかな?」

「茅花は、似たようなところがあるから多分。思春期は、それこそ最悪かもしれないから何とも言えないかも」


 それを聞いて笑い転げる茅花を、喬之介は見ながら思う。あのまま、海辺の小さな町で育ったらきっと、目の前にいる茅花は今とは少し違うのではないだろうか、と。


「茅花は、今の茅花しか考えられないな」

「えー? それって褒めてるんだよね?」

「もちろん」

「海が近くにあるって、どんな感じ?」

「……怖い、かな」


 ――嵐の夜は、特に。



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