0x09 エラッタ、古傷

 七月の二十三日。学校は十九日の終業式を最後に夏休みへと突入していた。

 試験も終わり、夏休みまでテストを気にせずに開発できる僕たちは勢いづいて、二回目のテストチップの製造まで終えている。

 二回目のテストチップでは、一回目には間に合わなかった多くの機能を追加できた。何より、一番の違いは二つのコアを一つのチップにまとめるマルチコア化を行っていることだ。

「これで運が良ければ性能は二倍だっ」

「ま、二倍になることはないけどな」

「うるさいなあ、いいの! 論理上の最大が二倍なのは事実だし」

 面積に上限がある中で無理やり回路を詰め込んだ砂橋さんは、そう言って胸を張っていた。

 一方で、蒼の顔色は一番よかったのがあの勉強会の日だった。あれからは、一向に良くなる気配を見せていない。

 様々な機能をスケジュールに間に合わせようと頑張ってくれたおかげで、なんとか第二回の試験製造までにはほぼすべての機能が間に合いはした。その時点でいったん蒼の仕事としては一区切りのはずだ。

 だけど、その後も蒼はずっと論理設計ツールと向き合い続けている。

「ひと段落したんだし、ちょっとくらい休んでもいいんだぞ?」

「私は一応部長なんだから、みんなが頑張ってる時に休んでるわけにはいかないわ」

 見かねた僕が声をかけても、蒼は聞いてくれる様子を見せない。

「――それに、もうあの日は繰り替えさせない」

 そう零した蒼の表情は、何かに怯えているように見えた。

 そして、そんな蒼の様子を見るたびに僕の心は小さく軋みを上げる。ぼんやりとした心の痛みは、徐々にその鮮明さを増していた。

 一昨日には第二回試作、B‒0ステッピングと番号の振られたチップの電源投入も終わったけど、意外とあっさり動いて拍子抜けだ。OSが起動するところまでは、快調にMelonは動作しているように見えている。

 今日は、昨日までと同じように手分けしてチップがちゃんと動くか、動かない時にはどこがおかしいか、という検証を進めていたんだけど。

「……ん? なんだぁ?」

 珍しく、宏が不思議そうな声を上げた。大体あいつが呟くのは思考の整理をするためと思わしき独り言なんだけど、そんな雰囲気の声じゃなかったな。

「どしたん杉島くん?」

 その呟きを耳ざとく拾った砂橋さんが宏が使っている机へ向かう。

 僕も一緒に向かうと、確かに接続されているキーボードを叩いても全く何の反応も無くなってしまっているテストシステムが居た。隣の席で同じように動作確認をしていた悠も覗き込んでいる。

「なんかOSが落ちたんだよな。なんだこれ?」

「OSごとクラッシュ? 再起動の抑止は掛けてる?」

 砂橋さんが今更? というような表情で首をかしげる。それもその通り、今までOSがクラッシュしてしまうような致命的な問題は見つかっていないからだ。

 昨日も一昨日も、マシンが固まるような問題は見えていない。本当に、どうして今更? という感想は砂橋さんと同じだ。

 最初の試作の時は確かに苦労したけど、直せるところは全部直したはずなんだけどな。

「ああ、もちろん。ちょっと待ってな、今デバッガ見てみる」

 パソコンにつながった何かの四角い装置をテストシステムに接続し始める宏。その間に、手が空いている悠にこのおかしくなった工程の確認をしておくか。

「何を確認してたんだ? 今日は実際に走らせるソフトでチェックだったよな」

「LINPACKをこのMelon向けにチューニングした奴のテストをしてたんだよな。そんなに変なことはしてないんだけどなあ」

「うーん、確かに変なことはしてなさそうだね。後はデバッガ見てみないとわかんないか」

「致命的なエラーのフラグは立ってない、ってことはコア自体は動いてるっぽいけど」

「ってことは、コアが単純に処理をミスってる?」

「ありそうだね、何かの処理をトチって連鎖的にメモリを壊したとか」

 致命的なエラーが起きたと認識できてないけど、実際には計算に失敗してる、ってことか。

 その失敗が例えばメモリの番地、つまりは住所を計算するところで起きていれば、アクセスしてはいけない重要な場所のデータを書き換えてしまってOSをクラッシュさせるってことも全然あり得る。

「俺が作ったコンパイラが狂ってて、バイナリが吹っ飛んでるとか?」

「昔のOSならともかく、Linusでしょ? その時はOSが止めるでしょ」

「ドライバ周りとかじゃなくて、本当にただの演算プログラムだからなあ」

「んじゃ、やっぱコアか?」

 本来なら、アクセスするとOSが落ちるような場所への読み書きは制限されている。特別なプログラムならともかく、ただの計算プログラムではそんなところにはアクセスしないし、もし何らかのソフトの不具合でアクセスしようとしてもOSがブロックするはずだ。

 つまりは、状況証拠的にはソフトウェアじゃなくてハードの可能性が高そうだ、ということになる。

 悠の推論に、宏と砂橋さんも頷いた。

「そんな気がするな。つまりは、今回の差分のどこかに『エラッタ』があるな? こいつ」

 エラッタ。

 別名、ハードウェア・バグ。

 砂橋さんが設計した回路、もしくはさらにその元となる蒼の論理設計に欠陥があるということを意味する言葉だ。

 バグ、と世間一般で言えばソフトウェアの専売特許と思われがちだけど、実際にはそんなことはない。CPUのようなIC、集積回路にもいわゆるバグは存在する。

「とりあえずアタシは蒼と道香ちゃんに声かけてくる。氷湖はファブに入ってるんだっけ?」

「ああ、今日もファブだな。……製造の欠陥ってことは?」

「ほかのボード、ほかの石でも試してみないと判らないかな」

 製造が上手くいっていなくて、このCPUだけがおかしい可能性ももちろんある。それを確かめるためには、今回試作した中の別のシリコンで試してみる必要がある。

 狼谷さんは今ファブに入っているから、何度も出入りさせるのは時間のロスが大きい。ある程度製造の問題に絞れたら、でいいかな。

「そうだよな。ファブの出入りにも時間かかっちゃうし、製造の欠陥かどうかがある程度見えてきてからでいいでしょ」

「ん、アタシもそう思う」

 そう言うと、慌ててラボを後にする砂橋さん。その間にさっきの小さな箱の接続は終わったようで、宏はパソコンの上で何かのソフトを走らせていた。

「それは何やってんだ?」

「ああ、デバッガ繋いでレジスタを確認してんだよ……っつてもわかんねえか。簡単に言えば、CPUがうまく動かなくなって固まった時にはダイイングメッセージみたいなのがCPUの中に残ってんだ」

「そんなのが残るのか」

「ソフトだけじゃなくてCPUがエラーを検知して止まると正攻法でチェックする方法が無くなっちまうからな。このデバッガって機械を繋ぐと、正常時には使わない裏口からアクセスできるんだよ」

「今回はコアが止まったわけじゃないけど、OSは動かないから役に立たないし、コアの中の情報を引っこ抜けるからな。これが一番手っ取り早いってわけだ」

「その裏口から引っぱり出したコアの中の情報を使って、何が原因かを調べるってことか」

「その通り。……さて、読めた」

 宏がさらにマウスとキーボードを操作して、画面一面にアルファベットと数字をぶちまける。その隣では、別のマシンを操作していた悠が渋い顔になっていた。

「げ、こっちでも再現しやがったな」

 一つのチップだけで同じように問題が起きるなら、製造不良というセンも出てくるだろう。

 でも、今回はそうではなかった。ということは、一台だけの問題ではない可能性が高い。いよいよ、プログラムか回路かの二択に絞られてきた。

「同じプログラムか?」

「そうそう。……アプリが吹っ飛ぶだけじゃなくてOSを巻き込んでるってことはマジでエラッタな気がするな」

「いや、俺のコンパイラがタコって可能性も捨てるべきじゃないな。とりあえず、今の段階で原因の判断を始めるのは時期尚早だ」

 原因について憶測を交わす二人。当然、悠の言う通りまだ手がかりは少ない。

 つまりは、何が悪いのかいろいろな条件分けをしながら調べる必要がある。

「これの調査もしないといけないのか……」

「並行してその他の検証も進めないといけないことを忘れんなよな」

「そうなんだよなあ」

 そう、宏の言う通り。予定ではこのチップが本番一歩手前くらいの感覚で、ちゃんと動くことを確認し、細かい修正をして金曜日には本番用のチップの製造を始める予定だった。

 だから、この致命的な問題以外にも何か問題がないか、検証も引き続き進める必要があるというわけ。

「お待たせっ、二人連れてきたよ」

「どんな挙動か説明してもらえるかしら?」

「ボードが絡んでないといいんですが……」

 頭を悩ませていると、ドアを跳ね開けて砂橋さんが道香と蒼を連れて戻ってきた。

 道香はともかく、蒼は今までで一番青白い顔をしているのは凄く気になるな。

「おお、ちょうど今二台目が再現したところだ。悠、そっちもログ取っとこうぜ」

「おうよ、説明は任せた」

 ぽい、とさっきのデバッガーと呼ばれた箱を悠に放ると、もう一度説明をしてくれる宏。それを聞き終えた蒼の決断は早かった。

「動かなかったコードのバイナリとステートダンプを全部頂戴、こっちで解析をかけてみるわ。結凪も手伝って、物理設計でミスがないとは限らないし」

「ん、そりゃアタシも判ってる。いいかな鷲流くん?」

「じゃあ、宏と砂橋さんと蒼でこの問題の調査。悠はそのまま別の検証を続けてもらって、追加で道香にも検証を手伝ってもらう感じでどうかな。僕も悠と道香に加勢する」

「りょーかい、アタシはいいと思うよ」

「わかったわ」

「うん、わたしもいいよお兄ちゃん」

「ほい、じゃあこれにバイナリとダンプ入れといたから」

 頷いた宏がUSBメモリを投げると、それを受け取ろうとしたのであろう蒼の手は空を切った。慌てて砂橋さんが落ちたUSBメモリを拾う。

「おいおい、大丈夫か……?」

「ええ、大丈夫」

 やっぱり、顔色は酷く悪い。その表情は無理をしています、と自分で言っているようなものだ。でも、さっきの話を聞いている限りだとどこか思い当たる節がある、という風でもない。どっちかと言えば、心因性な気がする。

 ふと思い出されたのは、去年の夏ごろの記憶。蒼のこの青白い顔を、僕は見たことがある気がする。

「頼むから砂橋さんも蒼も、無理はしないでくれ」

「ん、大丈夫」

 言葉ではそう言った砂橋さんだけど、僕には小さく手招きをしてきた。

 近くに寄ったら、ジェスチャーでしゃがめと言ってくる。その通りに軽く腰を落とすと、砂橋さんは小声で耳打ちしてきた。

「蒼のことはちょっとアタシも気に掛けとく。気になることもあるし」

「気になることってのは?」

「あー、まあ……ちょっと今は保留にさせて」

「砂橋さんがそう言うならわかった。無理してるのが見え見えだ、なんかあったら引っぱたいてでも止めてくれ」

「ん、わかった」

 そう言った砂橋さんは、不思議そうにこちらを見ている蒼の元へと戻っていった。二人がラボを去ると、残されたのは悠と宏、僕と道香の四人だ。

「っし、じゃあ俺らも俺らで色々やるか。他の機能の確認は進めないといけないからな」

「はいっ、よろしくお願いしますっ。どれやれば良いですか?」

「んじゃあな……」

 悠と道香がばたばたと装置の準備をしている中、僕はさっきの蒼の表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 しかし、調査に戻ってもすぐにどこが悪いか判明するわけじゃない。

「ボードの依存性はないので、ボードじゃなさそうですね」

「逆に手元にあるチップは全部駄目だな」

「IPのCPUだと問題なく動くな、このバイナリ。ってことは、俺と宏じゃないってことだ」

「ということは、本格的に設計ってことですか……」

 思いつくことを片っ端から試した結果、その日の夜までにはここまでは判った。ボードと偶発的な製造のミスは原因ではなさそうだ。

 それに、ソフトの問題でもないこともはっきりする。同じように固まったりエラーが起きてアプリが強制終了されるようならバイナリの問題だけど、IPのCPUではちゃんと走った。IPのCPUと同じ命令セットを使っててよかった、と思う機会はもう来ないで欲しい。

「論理設計で自動生成された回路と、物理設計の配置後の両方でプログラムのシミュレーションを走らせ始めたよ、論理設計のミスか物理設計のミスかはこれではっきりすると思う」

 下校時間ギリギリにラボを出ると、別の解析を始めていた砂橋さんからそう報告を受けた。実際に動くプログラムをシミュレーションに掛けて、コアがどんな動きをするか確認するということだ。

「ってことは、そのシミュレーションが終われば判るはず、ってことか」

「とはいえ、全部のレジスタの記録を取りながらシミュレーションするから……かなり時間が掛かる無理やりな手法ではあるんだよね。予測は二十五日まで掛かると思う」

「二十五、か……」

 その日程はなかなか厳しいものがあった。七月二十五日は、本来の本番チップの製造開始予定日の前日にあたる。

「後ろのマージンがきついから、あまり遅らせたくはないってのが本音になるかな」

 本来なら二十六日から製造を開始し、完成が八月五日午前の予定だった。

 それから電源投入と諸々が正常に動作をする確認をして、その週末、八月十日の本番に臨む予定だ。

 スケジュールの遅れは、本番チップの安定性や機能の確認、設定を煮詰める時間に直接影響してくる。

「ま、そだよね。一応蒼とレジスタダンプも確認してみるけど」

「とはいえ、ちゃんと動かない方がまずいからな。後ろはある程度決まってきちゃうけど、ある程度後ろに動くのは仕方ないと思う」

 とはいえ、スケジュールに間に合わせるために動かないものを作るのも得策じゃない。だから、今はこの問題の解決に全力を注ぐべきだ。

「幸い、今回の試作でも良品率は安定してたし幾つか特性いい石が取れてるのも狼谷さんに確認してある。制作に入る前の検証を重めにやれば、実機検証はある程度削れるかな」

「アタシもそう思う。シミュレーションすればほぼ確実に判るだろうし、修正にもよるけど二十九までには間に合うかなあ」

 二十九日は最終防衛ラインだ。この日までに製造を始めないと、完成が大会前日になってしまってまともに検証ができなくなる。

 とはいえ、捕らぬ狸の皮算用状態じゃ意味がない。スケジュールの話はもうちょっと具体的なところが見えてきてからだな。

「判った。蒼もとりあえずはそれでいいな?」

「ん、わかったわ」

「だから、無理して今晩終わらせようとか思わないこと。今日はゆっくり寝て明日に備えろ、いいな?」

 これから蒼の出番は多くなりそうなのに、今の状態じゃ体を壊しかねない。それだけは、そう、本当にそれだけは嫌だ。未だに癒えない生傷が痛みを増したような錯覚さえ覚える。

 だから釘を刺したんだけど、返事は冴えない。

「……善処するわ」

 うん、と言ってくれない蒼に対して、僕と砂橋さんは小さくため息をつくことしか出来なかった。



 その翌日、七月の二十四日。

 目覚ましで起きることに成功した僕は、家の中の物音がしないことに気付いた。思わず時計を見てみるけど、いつもの部活があるときの起きる時間だ。

「ん、今日は来てないのか」

 着替えてリビングへ降りても、蒼の姿はない。

「やっぱり、昨日のアレかな……」

 昨日の蒼の様子は、明らかにおかしかった。いや、ここ数週間、と言うべきだな。病的なまでに追い詰められているように見えるけど、本心は話してくれないから分からない。

 ……腹が減っては戦はできないな。適当に朝食を作って、一人で食べることにした。

「頂きます」

 作り方なんかはいつもと変わらないはずなのに少し味気なく感じてしまうのは、やはり蒼が居ないから、なんだろうか。

 食べ終わった食器を片付けて、学校へ行く支度を整えて。

「やっぱ来ないな、あいつ」

 時計を見ると、部活が始まるまでもう少しだけ余裕のある時間だ。もしかしたら、昨日の夜も遅くまで調査をしていたのかもしれない。

「……たまには、こっちから行ってやるか」

 誰もいないリビングで誰にともなく呟くと、僕は家を出た。

 何度も訪れた隣の家。相変わらず緑が眩しい綺麗な庭を抜けて大きな建物に辿り着くと、インターホンのボタンを押す。

「ごめんくださーい、鷲流ですけど。蒼は起きてますか?」

 古めかしいインターホンに対して声を掛けると、中からぱたぱたと走ってくる音が聞こえる。

「兄さん、おはようございますっ」

 がらがらと引き戸が引かれ、響いてきたのは鈴の転がるようなかわいい声。

 玄関を開けてくれたのはかわいらしい私服の翠ちゃんだった。そうか、部活漬けで忘れてたけど夏休みだもんな。

「おはよう翠ちゃん、蒼は起きてる?」

「それがですね、姉さんはまだ起きてきてないんです。寝坊しちゃってるみたいで……」

 寝坊。

 とはいえ蒼の事だ、決してただ単に寝過ごした訳じゃないだろう。やっぱり、嫌な予想は当たってたみたいだ。

「翠ちゃん、蒼が最近何時ごろ寝てるかとかわかる?」

「えーっと、日付が変わるくらいまで電気がついてるのはよく見ます。それからは、私の方が先に寝てしまってるので……兄さんのお役に立てずすみません」

「いや、それだけで十分だよ」

「姉さんが出てくるまでもう少し時間が掛かると思うので、上がってってください。母も喜びますから」

「う、じゃあ……お邪魔します」

 本当はお邪魔するつもりは無かったんだけど、金江さんの名前を出されてはそうもいかない。

 リビングへ行くと、翠ちゃんの言っていた通り金江さんが笑顔で迎えてくれた。

「あらあら弘治くん、おはよう。もしかして蒼を迎えに来てくれたの? とりあえず座って座って」

「は、はい」

 促されるがままにダイニングの椅子に腰かけると、隣には翠ちゃんが座った。すぐに金江さんが温かいお茶を出してくれる。

 金江さんは自分の分のお茶を一口すすると、少し困ったように言った。

「あの子、また最近頑張ってるみたいね。ただ、ちょっと頑張りすぎてる気がするの」

「やっぱりそうですか。正直僕も、見ていて不安になるくらいで」

「姉さん、昨晩も日付が変わるころまでは間違いなく起きてたよ」

「あらあら、そんな時間まで。頑張りすぎねえ」

 思わず全員でため息をついてしまう。体調の心配をせざるを得ないくらいに頑張りすぎているようにしか見えないのは、金江さんも同じようだ。

 それから、金江さんと翠ちゃんと情報交換をしていると。

「うぅー、ねむぅ……おあよ~~」

 パジャマのまま、半分寝ているような蒼がダイニングへと入ってきた。

 さすがにここまで寝起きそのままの姿を見るのは初めてのことで。普段の元気で凛とした姿とのあまりのギャップに、思わず目を奪われる。

 それと同時に、こうして無理をしている姿は――

 そうだ、去年の初夏。六月ごろの蒼は、今よりちょっとマシとはいえ酷い顔をしていた。さらには七月に入ると、しばらく起こしにくることも無くなる。また起こしに来てくれたのは、新学期が始まって少し経った九月になってからだ。

 その時期にあったことと言えば、今ならわかる。「魔の八月」だ。のうのうと過ごしていた当時の自分を張り倒したい気分になるし、今の蒼にそんな顔をさせている自分も嫌になる。

 もう一つ気付いたのは、心に走る鋭い痛みの原因が去年の蒼の姿じゃないこと。

 もっとぼんやりとした、何かだ。

 でもそれが何なのかは、思い出せなかった。記憶が吹雪に飲まれたかのように白く染まって、はっきりとした映像を結ばない。

「姉さん、おはよう……ずいぶん眠そうだね」

 翠ちゃんの声で、現実に引き戻される。そうだ、今はこの蒼を何とかしなきゃいけない。

「あらあらあらあら、蒼あんた今日も夜更かししたの?」

「らって今追い込み時期らし……五時半までは記憶があるんらけど」

 蒼は金江さんと話す方に気を取られてどうやら僕には気付いていないみたいだ。眠気で舌も全く回っていない。

 慌てて気を取り直すと、ぽやぽやしている蒼に声を掛けた。

「おはよ、蒼」

「ん~、シュウの声……? あっ、おあよシュウ……朝からうちであえるなんて、ゆめみたい~」

 見たことないほどふにゃふにゃの笑顔。ちょっとドキッとした感情を、今は心配の方が上回る。

 その自分の言葉で目が覚め始めたのか、少しずつその目の焦点が合っていき。

「って、シュウ!?」

 数秒してやっと、蒼はここに僕が居るということに気付いて目を見張った。

「おはよう蒼。顔洗ってきな」

「えっ、今……うわっ、もうこんな時間!?」

 時計を見て、状況を悟ったのだろう。蒼は慌ててばたばたとリビングを出ていく。

 制服に着替えて戻ってきた蒼は、ひとまず普通の蒼に戻っているように見えた。とはいえ、相変わらず色濃く出ている疲労の色は隠せない。

「今日は休んだ方がいいんじゃないか? ほんと顔色悪いぞ、蒼」

「何言ってるのよ、今はそれどころじゃないじゃない」

「それはそうだけど……」

 休むよう言いはしたけど、今の設計が判っているのは蒼しかいないという問題もある。だから、蒼がやりたいと言うのであればお願いするしかないのが苦しい。

 そんな蒼と普段より一本遅い列車で学校へ行き、部室へと入る。階段を上がる前にちらりと製造室を伺うと、狼谷さんは相変わらずファブの中で作業を続けていた。

 オフィスエリアに入ると、既に残りのみんなが揃っていた。宏や悠、道香もラボに入る前だったみたいだ。

「はよーっす、悪い、遅れた」

「おはようみんな、遅れてごめんなさい」

「おお、おはよ。お前ら今日どうしたんだよ、朝シュウの家に居なかっただろ」

 声を掛けると、早速悠が不思議そうに返してきた。今日はウチに来てくれていたらしい。ちょっと悪いことをしたな、きっと昨日の様子をみて悠も心配してたんだろう。

「あーわりい、蒼の家に行ってたんだわ。今日は蒼の寝坊だ」

「へぇ。蒼が、ねぇ」

 悠が言わんとしていることはよくわかる。今の蒼はそれだけ疲弊しているんだ、普段ならありえない寝坊をしてしまうほどに。

「ささ、私のことはいいの。始めましょ」

 本人は何事も無かったかのように自分のデスクへと向かい、皆も心配そうに蒼を見ながら自分の作業へと入っていく。今日の問題調査の始まりだ。

 だけど今日は、ここから先が進まなかった。

 実際のモノ、ハードウェア的にはそれ以上の致命的な不具合は見つかっていない。

 本命ではない小さな怪しい挙動はもちろんいくつか見つかったけど、簡単な修正で済むものばかり。

 本命の問題に関する進展があったのは、雲の上を太陽が通り過ぎ、真上を超えてからもしばらく経った頃だった。

「っあー、こいつか!」

 ちょうどラボから小休憩に出てきていた僕たち検証班の耳に、砂橋さんの声が届く。

「おっ、何かわかったのか?」

「多分ね。蒼、ちょっと来れる?」

「今行くわ」

 あっという間に、蒼を始め部員の皆が砂橋さんの液晶の前に集まる。それを確認すると、砂橋さんは一枚の波形図を出した。

「今『レジスタダンプ』と『メモリダンプ』、『ステートダンプ』を見てたんだけどね」

「その三つは何だ?」

「レジスタダンプとメモリダンプは、その名の通りメインメモリの中身とレジスタ……CPUが持ってる計算用の小さいメモリの中身だよ。ステートダンプは、簡単に言えばCPUの動作記録。何をもらって、どんな形で命令を実行させたかって内容が入ってるの」

 道香の解説を聞いて、なんとなくイメージが湧いた気がする。つまり、砂橋さんはCPUの中の動きを、シミュレータの結果を待たずに実機の記録を読み出して一つ一つ確認していったということだ。

 一秒間に実行される命令の数はざっくり十億個以上にもなる。どのあたりで問題が起きたかの目途が立っているとはいえ、想像するのも恐ろしい手間だ。

「ありがと、こっちでも見てたんだけど、それらしいのは見つからなかったのよね」

 蒼は小さくため息をつくと、目をこする。眠いのか体調が悪いのか、もしかしたら両方なのかもしれない。大会本番用のシリコンを作り始めたら、無理やりにでも休ませた方がいいな。

「結論から言えば、多分……蒼の論理回路の問題だと思う」

 砂橋さんが辿り着いた結論は、無常なものだった。

「うへー、やっぱりシリコンバグか」

「これ見て。ここのブロックの挙動がおかしくて、書き出し先の物理レジスタの値がおかしくなっちゃってる」

 指を差したところを見たけど、そこに表示されているのは一定の数の数字とアルファベットが次々と切り替わっていくグラフみたいなもの。見ただけでは正直何が何だかわからないけど、これがその症状らしい。

「それ、『コミット』して『リタイア』するとこか。確かに複雑な条件処理だが」

「そ。しかも必ずじゃないんだよね、何か条件がありそう。当該のブロックの名前を送るから、ちょっと見てくれる? おかしくなってる起点から先のダンプも切り出して送るから」

「わかったわ。すぐやる」

「それにしても、何で今更なんだ? 前回のテストチップだと動いてたよな?」

 図を見ていた悠が、ぽつりと言葉を漏らす。

「……今回のチップで大きく修正が入ってるのよ。SSEの本実装にあたってちょっとロジックの変更が必要だったのと、クリティカルパスになりそうだったから高クロック対応で組みなおしたの」

 そう呟く蒼の表情は、どんどん生気を失って白くなっていくようにさえ見えた。

「ってことは、そこか」

「可能性が一番高いのはそうね」

 でも、問題の調査を止めるわけにはいかない。

 光明は見えてきたとはいえ、まだ具体的にどの回路が間違っているかははっきりしていないからだ。

「アタシも、生成されてる回路の動き追ってみる。蒼は論理回路の方をお願い」

「じゃあ、僕たちの検証はひとまずそっちにお願いしちゃっても大丈夫か?」

「ええ、任せてちょうだい。他に問題が無いか、洗い出しの方に集中して」

「じゃ、ラボに戻って作業するとするかぁ。他にも無いとは限らないし」

「はいっ、もうちょっとですし頑張りましょうっ」

 道香と悠、それに宏は笑顔でラボへと入っていく。蒼に気を遣わせないための空元気なのはわかったけれど、それでも笑顔でいようとしてくれているのが有難かった。

 僕は、砂橋さんのデスクへと向かう。プロジェクトマネージャーとして、ある点を砂橋さんに確認する必要があるからだ。

「砂橋さん、いいか?」

「ん、どしたん?」

「正直、オンスケで行けると思うか?」

 そう、確認しないといけなかったのはスケジュール。問題の箇所がある程度絞れてきたから、改めて確認しておきたかった。

 砂橋さんが時間をかけて物理設計を詰めて速度を上げられるかは、性能を引き出す一つのポイントだ。

 だけど、僕たちにはもう一つ大会当日という動かせない締め切りが存在する。

 だから、蒼から論理設計が出てくる時期によるとはいえ、まずは砂橋さんが現状でどんな見積もりを立てているかを改めて確認したかった。

「んー……厳しい、かなあ。今日が二十四、製造開始が二十六予定でしょ? 明日まずいロジックが判れば嬉しいかなってくらいだし、それから修正するとなるともう少し時間が欲しくなるよね。二十六に修正版の論理設計が蒼から出てくれば、二十七か八にテープインできるかな」

「そうすると製造が終わるのは八月六日か七日、ギリギリにはなるけど何とかなるか。そんな短い日程で物理設計のチューニングは大丈夫なのか?」

「そこまで致命的じゃない……って言いたいんだけど、ちょーっと影響があるかも」

「そんなに大問題にはならないはず、ってことか」

「まずい個所とその改良方法次第だから、正直今は何とも言えないんだけどね。コアを片っ端から変更しないといけないようだと、ソフトの配置そのままでGOを出さざるを得ないかも」

 とりあえず現状の把握はできた。ある程度性能が落ちてしまう可能性があるのも、期限がある以上仕方ない。

「あとは、バックアップとしてとりあえず動かす方法も考えてはおいたよ。性能に影響は出そうだけど」

「今回問題が起きたところを飛ばす、ってことか」

「そそ。ちょーっと色々BIOS、ってかマイクロコードをいじらないとだけど」

 マイクロコードとは、簡単に言えばCPUのファームウェアだ。ある程度の機能のオンオフや一部の回路の挙動なんかは後から変えられるようになっていて、今回のブロックはそこでオフに出来るのだという。

「もちろん、氷湖もプロセスにさらに手を入れてるみたいだからギリギリまで粘るに越したことはないけどね。最悪、他のバグ取りだけした今のデザインをそのまま持って行っても大丈夫」

 それは、今の僕たちへの福音。去年の魔の八月みたいに、動かせるシリコンが無い状態にはならないからだ。少しだけ気が楽になる。

「わかった、じゃあ狼谷さんに本格的にスケジュールが後ろに倒れるかもしれないことは伝えておくよ。それに、何とか製造の方も詰められないか――」

「スケジュールは、遅らせないわ」

 割り込むように響いた蒼の言葉は、絞り出されたように、どこか追い詰められたように細く消えそうなものだった。

 そんな蒼を見て、直感がまずい、と告げる。だけど、何がまずいのかはわからない。曖昧でよくわからない直感だけど、なぜか蒼を止めなくちゃいけないってことだけはわかった。今のままだと、だれも望まない結果になる気がしてならない。

「蒼、どういうことだ?」

 とりあえず、蒼にその発言の意味を確認してみる。もしかしたら、何かが判ったのかもしれない。

「遅くとも明日の放課後までにレジスタダンプは確認しておくわ。そうすれば大体どこが原因か、問題が起きた個所を大体絞り込める。明日までに原因個所の究明をして修正まで出来れば、明後日に物理設計をやって製造に持ち込めるわ。違うかしら?」

 でも、そうじゃないことはすぐに判った。あの蒼がまくし立てるように話した設計修正の計画は、到底受け入れられないものだ。最悪を想定しなくていい理由にならないのが、素人の僕でもわかるくらいに。

 さて、何て言って止めよう。今の蒼は追い詰められてるから、あまりはっきり言いすぎるのもまずいか。

「いーや、違うね」

 僕の一瞬の逡巡の間に、砂橋さんが一閃した。

「結凪っ」

「その計画、原因究明と論理設計のところ。何人日の作業を一晩でするつもり? 多分ウチの環境全部使ってもそれだけやるには三,四人日じゃ足りないよね? 睡眠時間でも削る? その分効率が悪くなるのを知っておきながら?」

 砂橋さんは珍しく――いや、僕が聞いている中で初めて、蒼の発言を冷たく切り捨てた。

「だって、この時期じゃっ」

「確かに、もう少し深く追いかければすぐに判るのかもしれないよ? でも、逆に全然判らないかもしれない。だから、今鷲流くんにその甘い見積もりを言うのは違うよ、蒼」

 砂橋さんは怒っていた。少なくとも、この数か月の中で一番。

 蒼はその砂橋さんの言葉を聞いて苦悶の表情を浮かべる。砂橋さんが言いたいことは、もちろん蒼にも判っているのだろう。

 止めなきゃいけないのは判ってる。でも、砂橋さんの剣幕がそれを許してくれなかった。

「そんなの、そんなのっ」

「アタシだってもちろん手伝う。何万個、何億個の論理ゲートが並んでる回路だって、蒼のHDLを片っ端からだって調査のためなら読んであげるよ。でも、デュアルコアで二倍、なーんて調査効率にはならないのは蒼も知ってるよね? 根拠もなく、見通しも立ってないのにいつまでに出来ますって言うのは……駄目だよ。エンジニアとして、見逃せない」

 でも、そこが限界だったみたいだ。

「だから、せめて――」

「わかってるっ、判ってるもんっ、そんなの! でも、私が頑張るしかもう無いじゃないっ! あの八月みたいにさせないためにはっ!」

 蒼は砂橋さんが何かを言いかけたのに被せるように叫ぶと、ノートパソコンを片手にそのままオフィスを飛び出して行ってしまった。

「あっ、ちょっと蒼っ!」

 砂橋さんは蒼に手を伸ばすけど、その手は空を切る。

「……あっ……やっちゃった……また、やっちゃった……」

 その声は、震えていた。表情からはさっきの剣幕どころか血色さえ抜け落ちていて、砂橋さんにも何かがあったことがありありと判る。

「蒼に何か……僕のまだ知らない何かが、あったのか?」

 そんな砂橋さんに声を掛けると、無理してるのがはっきり判る笑顔を見せた。正直、今の砂橋さんも痛ましくて見ていられない。

「一年前に……ね。きっと、蒼は鷲流くんになら話してくれるよ」

 確かに蒼は言っていた、『あの八月みたいにさせない』と。

 つまり、この部活を大きく蝕んだ「魔の八月」は、ただ単に製造プロセスの問題だけじゃなくて、他にも何かがあったんだ。

 それはきっと、あの蒼のが怯えている何かでもあるに違いない。

「わかった」

 頷く僕を見て、砂橋さんは言葉を続ける。その声からは、感情が抜け落ちているようにさえ感じた。

「蒼の荷物持って追いかけてあげて、今日はそのまま二人は帰っていいよ。デバッグはこっちで進めとくし、戸締りなんかもアタシがやっとくからさ。忘れられがちだけど、これでも副部長だし。……蒼に甘えてばっかりだから、たまにはアタシに頑張らせて」

「……ん、わかった」

 そして最後に、目を伏せて付け足す。

「今日くらいはゆっくり寝て、頭しゃっきりさせてから来なって。結凪が体の心配をしてたよって蒼には伝えといて。もしかしたらアタシの言葉なんて聞きたくないかもしれないけど」

「いや、きっと伝わるよ。さっき言いかけたのだってそれだろ?」

 伝わらなかった、伝えられなかった一言は、蒼の友達である砂橋さんが伝えたかった一番大事なところに違いない。だから僕は、それも蒼に届けないと。

「あと、これアタシの自転車のカギ。使うでしょ?」

「いいのか?」

 そう言って渡されたのは、ストラップの付いた小さな鍵だった。

「ん、アタシはバスで帰れるから」

「悪い、正直助かる。じゃあ砂橋さん、申し訳ないけど部のことは頼んだ」

「任せて。それくらいしか、今アタシができることなんてないからさ」

 そう言って笑顔になっていない笑顔を見せる砂橋さん。こっちも気にはなったけど、まずは蒼の方を優先したほうがいいな。

 蒼のデスクから荷物を回収すると、僕も追いかけるようにオフィスエリアを飛び出す。

「やっぱり、アタシには――」

 砂橋さんの隣を通り抜けた瞬間に、何かが聞こえた気がした。



 部室棟を出ると、砂橋さんの自転車を借りて校門を飛び出した。

 目で蒼を探しながら近くの道を漕いでいくけど、その姿は見えてこない。

 夏の日差しは傾き始めても容赦なく、かいた汗でシャツが張り付く。でも、そんなことを気にしている場合じゃない。

「くそっ」

 心はやっぱり痛みを訴えている。分解すると寂しさと苦しさ、そして無力感に繋がっていることがわかるくらい、ぼんやりとした痛みははっきりと痛覚を持ち始めていた。

「もう帰っちまったのか……?」

 だけど、町のほうまで走っても蒼は見つからない。

 結局走り続けている間に、家まで戻ってきてしまった。そのまま早瀬家へ向かうと、慌ててインターホンを鳴らす。

「はい、どちらさまでしょう?」

 その向こうから聞こえてきたのは翠ちゃんの声だった。こっちに来てもらうのももどかしくて、インターホン越しに声を掛ける。

「僕だっ、蒼は戻って来てない?」

「いえ、まだです……姉さんに何かあったんですか?」

「部室を飛び出しちゃって。帰ってきたら連絡してよ」

「わかりました、すぐ兄さんにお電話しますね」

 その翠ちゃんの返事を確認すると、すぐに自転車へと戻る。家に向かっていないとなると、探さなくてはいけない範囲が大きく広がったぞ。

 少しだけはやる心を落ち着かせて考えてみる。

 あの状況で人通りの多い場所には行かないだろう。となれば、さらに街の中心部には行っていないはず。

「落ち着いて一人になれそうな場所……か」

 そう狙いを定めて、学校と家の間で思い当たる場所をひたすら探すことにした。

 目でその制服を探しつつ、頭ではどんなところに向かうかを考えながら街を走っていく。

「どこにいるんだ、蒼……?」

 たっぷり三十分以上は探しただろう。さすがに疲れてきた僕の目に飛び込んできたのは、市内の中心から少し南、鶴ヶ城の近くを流れる川だった。

「もしかしてここ、か?」

 今は、水量のそこまで多くない川がちょろちょろと流れているだけ。土手には遊歩道が整備されていて、水面にまで降りれる階段もある。

 ここなら、もしかして。そこまで考えて景色を見直した時、僕の心の痛みが一段と解像度を増した。

 そうだ。ここは、僕と蒼にとって何か思い出がある場所だったはずだ。

 それなら、探す価値はある。

 河川敷の道を、見落とさないようにゆっくりと走る。進めば進むほど、記憶による痛みが強くなるのを感じた。

 走り続けること、さらに十分ほど。

 水面まで続く階段に腰掛けた見慣れた制服姿を見つけて、最初に安堵のため息が出た。

 細かい表情までは伺えない。けど、どこか遠くをぼーっと見つめるように空を見上げている姿を見ると、なぜか早く声を掛けてあげなきゃいけないという思いが強くなった。

 遊歩道から外れたところに自転車を止めると、スタンドを立てて鍵を掛ける。

 逃げ出したのに、律儀に掴んだまま飛び出したノートパソコンは隣で開かれていた。スマホもパソコンに繋がってるのを見ると、ここでも作業をしていたのが丸わかりだ。

「……見つけた」

 ようやく、声が出た。

「何しに来たのよ」

 蒼の背中越しに、ぶっきらぼうで疲れの混じった声が帰ってくる。

 それはそうだろう。睡眠不足なうえに何時間も作業をして、それから学校からここまで走ってきているんだ。疲れていないわけがない。

「隣、座るな」

 だから、その棘々しい声を無視して隣に座った。

 覗き込むように蒼の顔を見ようとすると、ふい、と逸らされる。でも、目もとに流れた涙の跡を見つけてしまうにはその一瞬で十分だった。

 太陽はさらにその角度を浅くしており、空の色を変える準備に勤しんでいる。そのおかげで、吹く風はよっぽど涼しくなっていた。

「……怖い、のよ」

 しばらく二人で無言の時を過ごしていると、隣から細い声が届く。

「自分の作ったものが、動かないのが」

 それが、今までの焦りの原因なんだろう。

 蒼はさっきまでと同じように空を見上げながら、ゆっくりと過去を語り始めた。

「去年の八月……本当に、ほぼちょうど一年前ね。ちょっとでも製造を知っている人は製造チームに駆り出されて、論理設計チームは人手不足だったの。そんな中で、大きな論理設計の不具合が出たのよ」

 魔の八月、当事者しかもう知り得ない真実が、少しずつ明らかになっていく。温度を感じさせない表情で、滔々と蒼は話し続ける。

「最後のチップまでになんとか直さないといけなくって、当時新入生でようやくその実装を理解してきたくらいの私がやらざるを得なかった。結局その論理設計は修正したわ。その代わりに、別の分かりづらい、でも致命的なバグを残して」

 病的なまでに蒼を追い詰めていたもの。

 それは、去年の消えない傷跡だった。

「それが分かったのは、なんとかギリギリの良品率で製造を回した後。もちろん電源を入れても正常に動くチップは存在しなかった。最後にはこのバグが原因で論理設計チームと物理設計チーム、そして製造チームが大喧嘩しちゃったのよ」

 自分のミスが、部活が崩壊していく引き金を引いてしまった。

 第三者視点から見れば、どう考えても開発体制に問題がある。でも、崩壊へと転がり落ちていく最後の一押しをしてしまったという後悔が、ずっと消えていないんだ。

「それでみんな行く先が電工研って同じ所なんだから、世話無いわよね」

 蒼は力なく笑う。その表情は――そう、母さんが一時期見せていた表情と重なった。

「だから、その時作っていたモノだけは何とか出したくて……それが、Sand Rapidsの原型」

「でも、あれはちゃんと動いたじゃないか」

 その表情が見たくなくて、励ます言葉をかける。でも、蒼の諦めたような笑顔は変わらない。

「そりゃあ、開発に一年ちょっと掛かってますから。何十回も、何百回もシミュレーションしたから、大丈夫だって解ってたわ」

 そして、何かを後悔するかのように長くため息をつく。

「だけど、それで大丈夫と思っちゃったのよね。負けて悔しくて、だからまだ未完成のコアを前提にシュウにプロジェクトを進めさせて」

「蒼……」

「今も解析を掛けてるけれど、多分私の論理回路よ。……自分が嫌になるわ。一年経っても、何も変われてないんだもの」

「だからこそ僕は休んで欲しいんだよ、休まないと見えないものだって一杯あるだろ?」

「そういう訳には行かないわ、自分が蒔いた種だもの。さて、そろそろ解析が終わったかしら」

「なあ、蒼……」

 口から出たシンプルな言葉とは裏腹に、大きく膨らんだ心の痛みが感情となってあふれ出す。怒りではない。これは……悲しみと、過去に感じた辛さのフラッシュバックだ。

「蒼まで、母さんと同じにならないでくれよ!」

 ようやく言葉にすることができたその感情は、心からの悲鳴だった。

 いつの間にか、目からは涙がこぼれている。一回堰を切ってしまうともう止まらない。

「何があったのかは判った、辛い思い出があるのも判ったよ。でも、だからって自分を粗末にしないでくれよ! 技術に取り憑かれておかしくなる奴は、もう見たくなんてないんだよ!」

 叫びながら、ぼんやりとした記憶がようやく色を、形を持つのを感じた。

 そう、まだ僕が本当に小さかったころ……ここに引っ越してくる前の記憶だ。

 母さんは、弱い体を押してずっと働き続けていた。時には夜にお客さんに呼び出されたり、夜明け前から電話会議に出たり。

 その結果、ついに耐えきれなくなった体は壊れてしまったんだ。その結末がどうなってしまったかを、僕は今の暮らしをもって知っている。

 蒼のその笑顔が、入院中の母さんの表情と同じように見えるんだ。

 胸に流れ込んでくるのは寂しさと無力感、そして絶望。いつの日か感じたそれの一部ってことはわかるけど、それでも僕の感情を乱すには十二分。

「せっかく面白いな、って思えかけたコンピュータを、また嫌いにさせないでくれよ、頼むから……!」

「えっ……」

 気付いたら僕は、蒼を抱きしめていた。その細い体を、強く、強く。

「今は、蒼一人じゃないんだよ! 一人で頑張らなくても、僕――じゃ力になれないかもだけど、砂橋さんだって、狼谷さんだって、道香だって。悠も宏も居るんだ。頼むから、一人で頑張りすぎないでくれよ……!」

 その折れそうなくらい細い肩にも雫は落ちる。もうしばらく涙は止まらないだろう。

 そんな僕の胸の中、蒼は、暴れることも文句を言うこともなく。ただただ、静かに抱きしめられていた。

 何分そのままで居ただろうか、太陽はついに空の色をとりどりに変え始めている。

「そう、だよね……私があのことを思い出させるようじゃ、駄目だよね」

 その蒼の呟きがきっかけになって、ようやく落ち着きを取り戻した。これじゃ、どっちが助けに来たのかわからないな。

「ごめん、ね。シュウ」

 僕の体にその顔を埋めながら、蒼は優しく呟く。

「いや、謝ってもらうことなんてないんだけど……僕の方こそ、取り乱しちゃってごめん」

 僕も落ち着くと、気恥ずかしさが押し寄せてきた。ゼロ距離にあるその体を解放すると、蒼は申し訳なさそうな表情でちらちらとこちらを伺ってくる。

「今日くらいは、ゆっくり寝てくれ。きっと今も、皆が何とか頑張ってくれてるから」

「わかった、わかったわよ」

 そう言った蒼は、どこか拗ねるように膨れて見せた。

「素直じゃないな」

「っ、仕方ないじゃない、シュウのお陰で気付かされたんだもの。去年と今は違うこと、頼れる皆が居ること、私のことを、心配してくれる人がいること……」

「お、おう。気付いてくれたならよかったよ」

 幸せそうな、それでいてどこか優しい笑顔を見せる蒼に、思わず目を奪われる。何度見たかわからない、それこそ親の顔より見た蒼の顔。だけど、そんな表情は今までほとんど――

「おわっ!?」

 次の瞬間天罰の如く震えた携帯のバイブレーションに、思わず飛び上がってしまった。

 慌てて携帯を取り出すと、WINEで連絡が来たらしい。心配した道香がメッセージを送ってきたみたいだ。

――蒼先輩、見つかりましたか?

 会って話す時は敬語を使わなくなった道香だけど、メッセージでは敬語なんだな。確かに、蒼を見つけた一報をしてなかった。

――ああ、見つけた。今ようやく落ち着いたところだ

「ふふっ、どっちがよ」

「う、うるさいなあ。いいんだよ、嘘は書いてない」

 僕のスマホを覗き込んだ蒼が、いたずらっぽく笑う。さっきの表情は、どこかへと消えてしまっていた。

 翠ちゃんにも同じようなメッセージを送った直後、道香から返信が届く。

――よかったです。今結凪先輩と色々試してるんですが、やっぱり正常な組み合わせだけだと起きなさそうで

――やっぱり駄目か

――なので、もうちょっと調査に時間が掛かりそうなんです。結凪先輩が言うには、明日シミュレーションの結果が出るのとどっちが早いか、ってくらいで

 道香から伝えられた内容は想定していたから、すぐに返事を打ち込んだ。蒼に、何か文句を言わせないように。

――わかった。じゃあ、製造開始はとりあえず一日遅らせよう。二十七日だな

「ちょっ、そんなっ」

 蒼が隣で慌てるけど、もう既読はついた後。ちょっと強引だったけど、これくらいしないと蒼も覚悟を決めて休まないだろうし。

――わかりました。氷湖先輩にも伝えておきますね

――頼む、多分スマホはロッカーに置いていってて見てないと思うから

――ですね。あと、蒼先輩にはゆっくり休むよう伝えておいてください

――任せろ

――では、蒼先輩のことお願いします。明日はゆっくりで大丈夫ですよ

 そのメッセージを見た蒼は、笑顔のままため息をついた。

「はあ、何なのかしら」

「あともう一つ。砂橋さんからも伝言を預かってるよ」

 丁度いいタイミングだ。僕は、もう一つ預かっている言葉を伝える。

 それは、何だかんだで蒼のことを大切に思っている砂橋さんの言葉。

「今日くらいはゆっくり寝て、頭しゃっきりさせてから来なって。砂橋さんも、本気で蒼の体の事を心配してたよ」

「そう。ふふっ、結凪ったらまったく……」

 その気遣いの言葉が最初に出てこなかった砂橋さんの難儀さに、蒼はまた小さく笑う。

「素直じゃないんだから、もう」

――正直、結凪先輩もちょっと不安なんです

 まるで見ていたかのようなタイミングで、携帯が再び震える。WINEグループから個人メッセージに切り替えた道香から、ちょっと気になるメッセージが届いた。

――どういうことだ?

――なんだか、心ここにあらずな感じで……手は動いてるしちゃんと作業はされてるんですけど、普段と雰囲気がちょっと違って

「どういうことかしら」

「ちょっと心配だな。蒼に言い過ぎたって、結構ショックだったみたいだから」

 脳裏に思い出されるのは、蒼が飛び出していったあとの血の気が失せたような砂橋さんの表情。自分でも言い過ぎたって、かなりショックだったのかもしれない。

「明日、フォローしてあげないとね」

「だな、僕も手伝うよ」

 明日、学校に行ったらすることは沢山ありそうだ。でも、今日だけはこうしてゆっくりした時間を過ごしても許されるよな。

 眼前に広がるのは、雄大な景色。どこか寂しい気持ちにさせる川を、山々を、空を全て赤く染め上げている夕焼け。

 お互いに言葉は無いけど、再び流れる穏やかな時間。

 ふと、僕の右肩に重みを感じる。疲れが限界を迎えたのか、蒼は静かな寝息を立てていた。

「おい、ここで寝るなよ。風邪引いちまうぞ」

「んぅ……」

 声を掛けても、はっきりと起きる気配はない。

「ったく、仕方がないな」

 思わず苦笑いしながら、寝ぼけた蒼を負ぶる。背中に乗る重みは思ったよりも軽くて、背中に乗せた体は、思ったよりも小さい。

「蒼はいつも、頑張りすぎなんだよ」

 二人分の荷物を持つと、僕は家路についた。砂橋さんの自転車は、蒼を家に届けてから後で回収しに来よう。

 夕暮れが赤く照らす街を、蒼を負ぶって歩く。

 いくらそこまで重くないとはいえ、普段から運動していない体にはそれなりに辛い。体が存分に悲鳴を上げ始めたあたりで、なんとか蒼の家に辿り着いた。

「兄さん! 姉さんは……って」

 呼び鈴を押すと、翠ちゃんが飛び出してくる。連絡を入れていたとはいえ、やっぱり心配してたんだろう。

 そんな翠ちゃんは僕の姿を見て固まってから、呆れたように笑った。苦笑を返してから、小声で伝える。

「このまま部屋に置いてっちゃうね。ゆっくり寝かせてあげて」

「はい、わかりました。……ありがとうございます、兄さん」

「気にしにないで。よっ、と」

 改めてしっかりと蒼を背負いなおしてから、玄関を上がる。みしみしと音を立てる板張りの廊下を歩いていると、背中の蒼が小さく身じろぎをした。

「……んぅ、シュウ?」

「起きちまったか?」

 声を掛けると、すこし強くしがみついてくる。だから僕も、それ以上は聞かない。

 きっと後ろの蒼も真っ赤になっているだろう。僕の顔も、普段より赤みが強いに違いない。

 そのまま久々に蒼の部屋に入ると、そこは昔と変わらず小奇麗な洋間だった。この部屋に入るのも、えらく久しぶりだな。

「お前の部屋は変わんないな」

 返事が無いことを合図に、掛け布団をどけて蒼を降ろす。ベッドに寝かせてから布団を掛けたら、僕の仕事は終わりだ。

「ゆっくり寝て、ゆっくり休んでくれ。明日は起こしに来なくてもいいから」

 そう言い残して、ベッドの隣を立とうとする。

「ん?」

 何かに裾を引かれる感覚に振り返ると、ベッドの中から伸びた手が、小さく僕のシャツの裾を掴んでいた。そのいじらしい無言の自己主張に、小さく笑ってからもう一度ベッドサイドに腰を下ろす。

「わかった、寝るまでな」

 ベッドの中から再び穏やかな寝息が聞こえてくるまで、そう長い時間は掛からなかった。



 次の日、二十五日。前日蒼にああ言っておいたからか、今朝も鷲流家は静かだ。

 支度を全て整えると、普段と同じ時間に家を出た。今日も晴れ、太陽がうざったいくらいの熱線を放っている。

 悠はもう学校に向かってる、とWINEが届いていた。今日は夕立が来るな。

「おはよ、シュウ」

「おはよ、蒼」

 昨日のことがあるし、早瀬家に寄っていこう。そう思って足を向けると、ちょうど蒼が家から出てきたところだった。

 その顔色は昨日よりよっぽど良くなっていて、ちゃんと休めたのは一目で判る。

「よし、ちゃんと休めたみたいだな」

「ええ、お陰様で。……ありがと、シュウ」

 蒼の笑顔も元通り。少なくとも、今日の作業で回路の不具合と戦う気力は十分に回復したみたいだな、よかった。

 列車で移動して、部室へと向かう。砂橋さんに昨晩メッセージを送ったら、自転車を返すのはとりあえず製造を開始してからでいいよ、と言われたから置いてきている。

「おはよーっす」

「みんなおはよう、昨日は迷惑をかけて……本当に、ごめんなさい」

「お、来たな。無事でよかったよ」

「ん、普段の蒼だな。よしよし」

「元気になってよかったです!」

「ありがとう、みんな。さ、今日こそ何とか片付けるわよ」

 既にオフィスエリアにいたみんなに声を掛けられて、蒼はどこか恥ずかしそうだ。でも、何かが足りない気がする。

 見回して気付いた。砂橋さんの姿がない。

「あれ、砂橋さんは?」

「今日はまだ見てないですね……」

 どうしたんだろう、体調でも崩したのかな。とりあえずWINEをしてみるか。

――おはよう砂橋さん、おかげで蒼はずいぶん元気になったよ

 既読はあっという間についた。一応スマホが見れる状態ではあるみたいだ。

――よかったよかった

 返事はシンプルなもので、今日来てない理由とかは書いていない。ちょっと迷ったけど、とりあえず聞くだけ聞いてみるか。

――砂橋さん、今日は部室に来ないの?

 これにも、既読はすぐにつく。でも、その返事はしばらく帰ってこなかった。

「んん?」

「どうしたの?」

「いや、砂橋さんに連絡を取ってみたんだけどさ。今日は来ないの?って聞いてみたら返事が来なくなっちゃって」

「……どうしたのかしら」

 ちょっと申し訳ないけど、蒼にも砂橋さんとのWINEの画面を見せる。それを見た蒼は、顎に手を当ててしまった。

――今日は、ごめん。しばらく頭を冷やさせて

 次のメッセージは、数分経ってから届いた。連続してメッセージが届く。

――開発は家からやってるから、何かあったら全体の方で連絡するね。逆に、何かあったらすぐ聞いてよ

 とりあえず、体調が悪いとかそう言うわけではないみたい。だけど、あんまりいい状態でもなさそうだ。

「うーん……気になるけど、結凪の家知らないのよね」

「そうなのか。じゃあ、どうしようもないな」

「とりあえず、今日はこのままでやるしかないわね」

 困ったような蒼と顔を見合わせるけど、今日はこのまま進めるしかないか。頭のどこかで砂橋さんのことを気にしながら、皆で問題調査や機能の動作確認を進めることにした。

 でも、そう簡単に問題は全体像を掴ませてくれなかった。

 蒼の周りには、様々な場所の実際の回路のブロック図と真理値表――入力に対してその回路の出力を全部まとめた表のことだ――が印刷された紙が積まれている。

 蒼はそれに赤ペンを入れて、アナログで検討を重ねていた。

「こっちのほうが分かりやすいのよね。シュウ、いまプリンターから出てきたのをもってきてくれるかしら」

「おう、これだな」

 いつの間にかその紙は実際の回路のように繋げられて、オフィスエリアの空きデスクの半分ほどを占拠するほどにまで到達している。

「こーらすげえな。これでごく一部って言うんだから恐ろしいわな」

「な、正直僕もびっくりだ」

 その広大な広さの回路図には、ちょうど作業がひと段落していた宏と二人で感嘆の声を上げるしかなかった。これですら一部でしかない、っていうのが驚きだ。

「絞れたからこの規模で済んでるけど、そうじゃなかったら多分この学校の敷地を埋め尽くしても足りないわ」

「そんなにか……」

「考えてみて、百ナノメートルを一万倍しないと一ミリにならないのよ?」

「……そりゃ、確かに足りないかもな」

 見たところ、一ブロックでも十数センチの大きさに拡大しているから百万倍くらいの大きさにはなっていそうだ。

 今のチップが十二ミリ角くらいだから、百万倍くらいに大きくしたら千二百万ミリ、つまりは十二キロ四方。どれだけの大きさを縮小して詰め込まれてるかをこうして実感すると、莫大すぎて言葉さえ出ない。

 そんな莫大な回路を繋げて追いかけていきながら、どこがおかしいかを絞り込んでいく。昼過ぎには、砂橋さんからWINEが届いた。

――シミュレーション結果出てきたよ、おかしくなったところがこれではっきりする

「よし、だいぶやりやすくなるわね」

 蒼は、その波形を表示したノートパソコンを片手にまるで巨大なカーペットのような広さの回路図を追いかけ始める。いっぽう、製造室から出てきた狼谷さんからも吉報が届いた。

「鷲流くん、いいニュース」

「ん、どうした狼谷さん?」

「明後日二十七日の十九時までに準備ができれば、予定通り五日の部活時間中に製造が終わる」

「お、マジか! さすが」

「製造工程を最適化して、生産時間を短縮できた。テストチップも流したけど万全」

 相変わらず表情の起伏は乏しい狼谷さんが、薄い表情のままピースをする。ちょっとシュールな光景に笑いそうになるけど、それをこらえて頷いた。

 そして、ついに。

 日はとっくに山々に身を隠し、ギリギリまで粘ったがそろそろ最終下校の声かけをしないといけない時刻になった、その時。

――あったよ!

 砂橋さんから、一通のメッセージが資料と共に全体WINEに届いた。

 ほぼ同時に、がたがたっと椅子が動く音が響く。その中でも蒼は弾けるように、ノートパソコンを抱えて床一面の回路図へと向かった。

「おっ、ついにか?」

「どこだったんですか?」

「見せて」

「どれどれ」

 全員がわらわらと集まって、その動きに静かに注目する。数十秒赤いマーカーが紙をこするしゃっ、しゃっという音の後、蒼はその動きを止めた。

「あった……」

 蒼が言葉を漏らす。赤ペンで二重丸が書かれたのは、印刷された広い回路図の隅の方に小さく存在する一つのブロックだった。

「え、このアービタ? なんでまたこんな、問題はコミットのとこだったよな?」

「あー、多分ですけどこれ、……」

 宏と道香は具体的な話を始めてしまった。さすがに深すぎて付いていけないから苦笑いしながら顔を上げると、蒼と目が合う。

「はぁ」

 そのため息は、もちろんため息ではあったけどどこか楽しそうだ。なにより目が生き生きと笑っているのが大きな違いだ。

「お疲れさま、って言ってもこれから修正だもんな」

「そうよ、まずかったところが判っただけなんだから」

 それから、技術議論に花を咲かせている部員の皆を見てから蒼に向き直る。

「……な? 今は仲間がいるだろ?」

「ん、そうね」

 柔和な笑みを浮かべる蒼。そこには昨日までの心を摺り減らすような軋みの影はなかった。

 でも、その笑顔を見せてあげたかった一番の人は、この部室に居ない。

「……結凪、大丈夫かしら」

「作り始めたら、どこかで話をしに行こうか」

「そうね。そうしましょう」

 蒼は翌日、半日で回路の修正を仕上げて見せた。昼過ぎには論理設計から物理設計へと開発のバトンタッチが行われる驚きのスピードだ。

 そんなに動作に致命的な影響のない場所だったようで、顔を見せていない砂橋さんも丸一日で物理設計を終わらせることができ。

「他の部分も、蒼に伝えてあるくらいだったな。それが直ってれば、かなりいい感じだぞ」

「これなら、間に合う」

「よし、作るぞ!」

 最後に皆で最後のチェックを済ませて、ようやく。

 MelonのB-1と名づけられた本番用チップは、予定の二日遅れ、七月二十七日に製造開始を迎えた。

 皆が製造開始に湧きたつ中、僕は一通のメッセージを送る。

――お疲れ様、砂橋さん。無事製造が始められそうだ

――ありがと。よかった

――自転車だけど、次の月曜で大丈夫?

――わかった

――家まで届けようか?

――お願いしようかな。住所送るね

――助かる。じゃあ二十九日の月曜、昼過ぎに行くよ

――了解

 小さくて元気で騒がしくて、居ないと皆がどこか寂しげになるくらいに愛されている主任技術者様。この場に居ない彼女に戻ってきてもらうために、蒼と相談した算段だった。

「蒼」

「結凪のことね」

「理解が早くて助かるよ。来週の月曜、お昼に部活を抜けて行こう」

「わかったわ。住所は?」

「貰った」

「よし、決まりね。私が行くことは?」

「言ってないよ。多分、断られると思ったから」

「正解ね。じゃ、決行はその日で」



 七月二十九日、朝。

 自転車に油を注したりして準備を整える。借りた時よりもよっぽど状態はよくなったはずだ。玄関で待っていると、軽やかな声が耳に届いた。

「おはよ、シュウ」

「おう、おはよう。朝早くに悪いな」

 時間はまだ七時。授業がある日の朝部活にさえ間に合う時間に集まったのには理由がある。

「仕方ないわ、歩いていくしかないんだもの」

 大きなお届け物である自転車は、二人乗りができない以上歩いていくしかないからだ。

 いや、やってやれないことはないんだけど、朝の車通りが多い道でやるのはちょっと怖い。万が一転んで蒼を傷つけでもしたら、後悔してもしきれないしな。

 薄い雲が掛かってるお陰で、まだ気温もそこまで上がっていない。徒歩一時間の長丁場を、僕と蒼は快適に楽しみ始めた。

 街を抜け、田畑の間の道を通り。

 無事学校に辿り着けば、いつもよりちょっと早いくらいの時間。砂橋さん以外の全員が集まる中、シミュレーションを流したり、ボードのチェックを手伝ったりしている間に、時計は十二時半を指した。

「んじゃ、そろそろ行くか」

「そうね。皆、申し訳ないけど二、三時間くらい部を空けるわ。その間は、何かあったら氷湖の指示に従ってちょうだい」

「任せて」

「困ったことがあったらWINEを頂戴ね」

「わかりました! ……結凪先輩に、居ないと寂しいです!って伝えて来てください」

「私も、同じ。結凪が居ないと、静かすぎる」

「だな。面白さ三分の二って感じだ」

「頼んだぜ、シュウ、蒼」

 みんなから寄せられたのは、砂橋さんに来て欲しいという声。愛されてるな、砂橋さん。

「行ってくるよ」

「行ってくるわ」

「はいっ、行ってらっしゃい」

 見送られながら僕たちは部室を出ると、駐輪場に停めておいた自転車を回収して歩き出す。雲はいつの間にか居なくなっていて、気温は急激に上昇していた。ずっと晴れてる日よりはマシとはいえ、暑い。

「隣町なんだな、砂橋さん」

「私も知らなかったわ」

 送られてきた住所は、阿賀川を渡った隣町のもの。調べてみれば、バスで大体二十分、歩いても三十五分くらいで着く道のりだった。

 盆地特有の湿気た熱風を浴びながら川を渡ると、陶芸が有名な隣町に入る。家の密度がだいぶ落ち着いてきたのを感じながらさらに歩くこと十五分ほどで、書かれた住所に辿り着いた。

「ここ、かしら」

「表札は砂橋じゃないな。塩川さん?」

 そこには、一軒のそれなりに大きな古い家が建っていた。うちよりも一回りくらい大きいだろうか。

 表札には塩川、の文字がある。砂橋さんはここに住んでいるのかな。

「まあ、とりあえず聞いてみるか」

「そうね。間違ってたら教えてもらいましょう」

 玄関についているボタンだけの呼び鈴を押すと、ぴんぽーん、というどこか古めかしいチャイムの音が、ドアのこちら側まで聞こえてくる。

「すみませーん、砂橋結凪さんはいらっしゃいますか?」

 これなら、多分表で声を上げてもある程度まで聞こえるだろう。そう思って声を出すと、軽いととと、という足音が聞こえてくる。

「ん、ありがと……っ」

 ガラガラ、とドアの開く音とともに出てきたのは砂橋さんだった。その身には制服をまとっていて、いつでも学校に来れそうな姿だ。

 でも、いつもの砂橋さんじゃない。どこか憔悴したような顔の砂橋さんは、蒼の姿を認めた瞬間にドアを閉めた。

「待って、結凪っ」

 そのまま逃げるように籠っちゃうことを一瞬懸念したけど、蒼が声を掛けると足跡はぴたりとやんだ。しばらくすると、すりガラスの玄関扉にうちの夏服の模様が透ける。高さ的に、どうも座り込んだみたいだ。

「……」

「結凪、ありがとう」

 降りた沈黙を破ったのは、やっぱり蒼だった。

「……ありがとうって言われることなんて、ないよ」

「そんなことないわ。私に正しいことを言ってくれて、体も気遣ってくれた。それに、自転車まで貸して――」

「でもっ」

 砂橋さんは、遮るように声を張る。

「アタシ、蒼を傷つけた」

 そのゆっくりとした声には、深い後悔と自分への呆れが混じっているように感じた。思い出されたのは、道香の謝罪のときの声だ。

「アタシって、いっつもそう。前もそうだった……他人を傷つけちゃって、疎遠になって」

 砂橋さんも、過去に何かがあったみたいだ。同じように、言い過ぎてしまったことがあるんだろう。

「もう、人と関わるのが怖いよ。自分で自分が、怖い」

 細く呟く。多分それが、部活に顔を見せなくなった理由だ。

「アタシには、技術しか価値なんてないんだよ」

 自嘲するような笑いが、背中とすりガラス越しに聞こえてくる。僕からは、何を言っても届かないような心の距離を感じた。

 多分今、砂橋さんに声を届けられるのは……蒼だけだ。眉を落とした蒼は、静かに、真っすぐドアの向こうを向きながら砂橋さんの言葉を聞いている。

「ごめんね、蒼。嫌な思いをさせちゃって。部活の方は大丈夫、ちゃんと仕事はするからさ。今回だって、アタシが直接顔を出さなくてもテープインできたでしょ?」

 諦めるように、軽い言葉で話す砂橋さん。そこまで聞いた蒼が、ようやく重い口を開く。

「それで、言いたいことは終わり?」

「言いたいこと、って……」

 ガラスの向こうを真っすぐに見つめる蒼の目は、優しかった。

「結凪」

「な、何?」

「それでも。ありがとう。苦しい時に私の味方でいてくれて、二人の時もずっと支えてくれて。それに、私を正してくれて」

 蒼はいつもの声色で、ゆっくりと感謝を伝える。それからちょっと拗ねたような声色に変えて続けた。

「そんなことくらいじゃ、私は結凪の友達をやめてやらないわ」

 砂橋さんは、叫ぶように声を上げる。

「~~っ、なんでそんなこと言えるのっ。どうせまた、いつかアタシは蒼を傷つけるようなことを言っちゃうんだよ!?」

「上等よ。その時は私だって色々言ってやるわ」

「そんなの、蒼にはできないくせにっ」

「そうかもしれないわね」

「あっ、アタシ、また……」

 砂橋さんが、また息を呑んだ。でも、別に間違ったことや嫌味を言ってるわけじゃない。実際僕も、蒼はこの間みたいによっぽど追い詰められていない限り感情的に言い散らかすことはできないと思うし。

「いいじゃない、この間も今も、別に間違ったことを言ってるわけじゃないわ。そんな程度で、いちいち傷つきなんてしないわよ」

「……」

「それよりもね、結凪。私にはあなたがやっぱり必要よ。私が間違ったときに、ちゃんと正してくれる友達が」

「そん、な……」

 再び、さも当たり前のように蒼は続ける。

「だからね、結凪。また一緒に部活をしましょう? それに、部の皆も結凪のことを大好きなんだから」

「……っ」

「さ、今からでもまだまだ間に合うわ。仕事は一杯あるの、知ってるでしょ?」

「いいの、かな」

 ガラスの向こうからは、まだ迷うような声が聞こえてくる。

「あたり前じゃない。時にはまた口論みたいになっちゃうかもしれないけど、私は結凪が優しい子だってこと、知ってるわ」

 そう、砂橋さんは優しいんだ。言葉選びが上手じゃなくて時々失敗しちゃって、それで自分が深く傷ついちゃうほどに。

 実際、砂橋さんが他人を傷つけるようなことを言っているのは聞いたことが無いし。

「そんなこと、ないんだけどな……」

 最後に聞こえたのは、すこし照れたような声。すりガラス越しに砂橋さんが見えなくなったかと思うと、ほんの少しだけ玄関の扉が開いた。

「蒼」

「何かしら」

「改めて。その……ごめんなさい」

「私も改めて。気にしてないわ、こちらこそありがとう、結凪」

 次の瞬間、ドアを開けて飛び出してきた砂橋さんが蒼の胸に飛び込む。蒼はそんな砂橋さんを抱きとめると、優しくその頭を撫でた。

 ……身長差と相まって、お母さんと子供みたいだな。

「ちょっ、その撫でるのは何か違うニュアンスを感じるんだけど」

「いいじゃない、気にしたら負けよ」

「気になるって! 鷲流くんも絶対親子みたいだって思ってるでしょ!」

「イヤー、ソンナコトナイヨ」

「ほらあっ!」

 口ではわいわい言ってたけど、しばらく蒼に抱かれていた砂橋さん。やがて離れると、その表情は見慣れたいたずらっぽい笑顔に戻っていた。

 ようやく元気に戻ったみたいだな。やっぱり砂橋さんはこうじゃないと。

「あーあ、せっかく持ってきてもらったのにまた学校行かなきゃ」

「いいじゃない。今日は雨降らない予報よ」

「んじゃ、部活に戻りますか」

 鍵をかけると、三人で部活に戻る。帰りの四十分弱は、来る時よりも幾分短かったような気がした。

「戻ったわよー」

「ただいまー」

「お帰りなさいっ」

「お疲れ様」

 部室に戻ると、狼谷さんと道香が待ちかねていたようで、弾かれたようにやってくる。野郎どもの姿はない、どこに行きやがったあいつら。

 道香はきょろきょろ見回すと、僕と蒼に耳打ちをしてきた。 

「結凪先輩は、どうでしたか?」

「あれ、居ない?」

 僕もつられて見回してみたけど、確かに砂橋さんの姿がない。二階に上がる階段まで一緒に居たのに、どこに行ったんだ?

 そう思って来たドアを伺うと、壁の向こうから開いたドア越しにちらちらとこちらを伺っている砂橋さんが居た。表情はちょっと不安げで、まだ自信が持てないのかも。

「あら? 結凪? 早く入ってきなさいよ」

「……や、こんにちは」

 蒼に声を掛けられて、ようやく観念したようにやってくる砂橋さん。二人は駆け寄ると、そのまま飛びついた。

「結凪先輩っ」

「結凪っ」

「わあああっ、ちょっ、氷湖まで!?」

 大型犬に群がられる子供のように、もみくちゃにされる砂橋さん。……手荒いけど、きっと皆が砂橋さんのことが好きなのはこれで伝わったよな。多分。

「ただいまー、お、戻ってきてたのか。砂橋ちゃんは……ありがとうございます」

「わり、飲み物買いに行ってたわ。砂橋も戻ってきたみたいでよかったよ」

「だな。あと宏は静かに手を合わせるのをやめろ」

「本当に、心配した」

「そうですよっ、寂しくて仕方なかったんですからねっ」

「わっ、わかったから、ごめんって、蒼助けてーっ!」

 砂橋さんは相変わらず狼谷さんと道香にしがみつかれて身動きが取れなくなってるし、宏はそれを見て拝んでいる。砂橋さんが戻ってきた瞬間に、いつもの混沌とした部室が戻ってきたなあ。

「これでひと段落、か」

「ええ。残るはパワーオンね」

 そんな中で僕と蒼は、砂橋さんが皆に好かれている様子を微笑ましく眺めることにした。

「た、助けてーっ! 重いー!」

「失礼ですねっ、女の子は重さなんて無いんですっ」

「んなわけ、あるかーっ!」



 八月五日、夕方。

 一秒がこんなにも長く感じるのは、人生で初めてだった。

 ラボの中には、狼谷さん以外の全員が集まっている。

「……っ」

 目の前には、あとはCPUを載せれば起動する状態のボード。

 狼谷さんからは、何分か前に「出来た。待ってて」というシンプルなメッセージが届いている。

「いや、さすがに緊張すんなあ」

「動くはずだって判ってるのにな」

「ま、まあバグ調査のおかげでかなり手広くチェックできたし。多分大丈夫でしょ」

「お前らがそんなに緊張してんのも珍しいな」

「弘治お前、人のことを何だと」

「いや、そうだろ……」

 いつもは馬鹿な話をしている悠と宏も、今日は緊張が伺える。

 今までのチップは最悪動かなくても何とかなるけど、今回ばかりはやり直しが効かない。

 なにせ、その一個前のチップはバグ持ちだから本来の性能は引き出せない。

 最初の試作品は性能が十分に出ないし幾つか入っていない機能があるから、本番に使うのは難しいだろう。

 つまりは、これからここに来るのはこの部活の存続の掛かったチップ、ってことになる。みんなが一様に緊張してるのも仕方ないよな。

「ったく、そんなに緊張しなくてもいいだろ?」

 一応プロジェクトマネージャという立場もあるから、緊張をほぐすよう声を掛けておく。

「そういうシュウも手が震えてるわよ。一番緊張してるんじゃない?」

 その計らいは、不安を隠すようにわざとらしく笑っている幼馴染によって粉砕された。みんなが吹き出すように笑って、少しだけ空気が軽くなる。

 蒼には敵わないなあ。僕自身も緊張していることに気付いて、それを少しでも緩ませてくれたわけだし。

「お待たせ」

 そんなちょうどいいタイミングで狼谷さんがラボに入ってきた。手には、CPUを入れるためのプラスチックのトレー。

「お、来たね。じゃあやりますか」

 砂橋さんが受け取ると、中から慣れた手つきでCPUを取り出す。手早く取り付けると、CPUクーラーを載せて固定まで済ませた。

「CPUよし、っと……んじゃ、早速電源入れてみようか」

「シュウ、出番だぞ」

「そうですそうです、ここはお兄ちゃんが」

 悠と道香から不意を突かれる。てっきり蒼か砂橋さんがやるものだと思ってたんだけど。

「いいのか?」

「もちろんよ。ほら、早く」

 有無を言わさぬ二人に、ボードの前に押し出される。

 改めてボードの前に向かうと緊張してくるけど、そう時間を掛けてはいられない。

 えいや、と手元に伸びているコンセントからのケーブルを電源ユニットに差し込んだ。

「あれ?」

 だけど、ボードはうんともすんとも言わない。

 冷却用のファンが回らないどころか、電気が来ていることを確認するLEDすら点かないぞ。

 全身の血の気が引いていくのが判る。これは、まずいんじゃないか?

「お?」

「ん?」

 皆も異変に気付いたらしい。何より、道香ちゃんの顔が真っ青だ。

「どどど、どうしましょう!? 起動しないどころか通電しないのはさすがに予想外というかなんというかあの」

「まあまあ落ち着いて、深呼吸深呼吸」

「すー……はぁー……すー……はぁー……」

「アタシ達はジャンパのチェックしとこ。何で動かないか確認確認」

 深呼吸して落ち着いた道香ちゃんとボードの確認を改めてしたけど、特におかしなところは見つからない。

 ここまでうんともすんとも言わないのは逆におかしいな。前の奴までは動いてたわけだし。

「まさかだけど」

 一つ、思いついた。

 その簡単にして重大な原因を疑って、電源のケーブルを辿ってみる。

 そこには、何かのはずみでコンセントから抜け落ちた電源プラグの姿があった。

 きりきりと痛み始めていた胃が一瞬で解放される。心の底からよかった、と思いながら大きくため息をつくと、皆に声を掛けた。

「おーい、コンセントが抜けてたわ」

「はぁ!? なんだよそりゃ」

「あーよかった、また変な不具合踏み抜いたかと思っちゃった」

「はぁぁぁ……よかったです」

「よし、じゃあ今度こそ頼むわシュウ」

 少しだけ不安そうな蒼の顔を見て頷くと、僕はコンセントにケーブルを差し込んだ。すぐにボードにはLEDの光が灯り、数秒後にはファンが回り出す。

「ブート・シーケンス開始、コア間インターフェース初期化開始……完了、コア内部トポロジーグリーン、基幹レジスタ初期化完了、マイクロコード読み込み完了、キャッシュメモリ初期化開始、メモリ初期化シーケンス開始、TXEQオートネゴシエーション開始……完了、CE,UE共になし、周辺機器認識開始」

 相変わらず恐ろしい速度で画面に流れるログを読みながら動作を確認していく道香。その隣では砂橋さんと狼谷さんがオシロスコープとにらめっこしながら色々な個所の電圧や信号の波形を確認している。

 三分ほど経っただろうか、道香ちゃんの読み上げが止まる。

 その数秒後に、画面は見慣れたBIOSのものに変わった。

「はあああぁぁぁ……」

 道香ちゃんの長いため息が響く。

 画面には「Melon B‒1」の文字。まずは最初、起動までは大丈夫そうだ。

「よっし、起動出来たし前回引っかかったとこまで早く終わらせよう!」

「おっしゃ! 任せろ」

 分担して、ラボのデスクに置かれた何枚かのボードに別れて動作確認を行っていく。ホワイトボードに書かれたテスト内容を分担して進めていって、どんどん問題なしのチェックマークが増えていった。

 もちろん、夕方から夜だけでは終わらない。次の日もチェックを進めて、午前中にはついに前回のサンプルで動かなかった課題プログラムのテストに辿り着いた。

 テストをを担当しているのは悠だけど、その周りにはチームのみんなが集まっている。

「ここまでは大丈夫ね」

「そだね、問題はここだからね」

 やっぱり緊張するんだろう、蒼の声は少し震えていた。顔色もどことなく悪い。

 だから、僕はその頭に軽くでこぴんをお見舞いする。ファンの騒音に紛れてぴしっ、という音が響いた。

「いったいわね、何するのよっ」

「大丈夫だって。皆も手伝って問題ないこと確認してくれたんだし、間違いなく動くよ」

 蒼の目を見ながら、伝えたいことを精一杯言葉に起こす。少なくとも言いたいことは伝わったみたいで、蒼は少し緩んだ表情で頷いた。

「……そうね。私だけの力じゃないんだから」

 少しほっとして、悠がカタカタとキーボードを叩く姿へと視線を移す。ちょうどテストを始めるところみたいだ。

 ぱちん、とあっけない音と共にエンターキーが押されると、件のプログラムが走り始める。

 一瞬の静寂。

 数秒後、比較的静かだったファンの音が急に大きくなった。

「よしっ」

 悠がガタンと立ち上がる。

「どうしたっ」

「行けた気がする!」

「気がするってなんだよ」

「エンジニアの直感だ」

「意外とアテになるやつですねっ」

「頼りすぎると大惨事になるやつでもあるけどね」

 それから数秒で、再びファンの音が小さくなる。立ち上がった悠が画面に吐き出された情報を一瞥して、右手を突き上げた。

「動いたぜっ!」

「……よしっ!」

 その瞬間、いつの間にか。本当に無意識のうちに、ガッツポーズが出ていた。手が震えることもなく、足がすくむこともない。

 ああ、コンピューター関係でこんなに僕も喜ぶことが出来たんだな。

 じわじわと湧き上がってくる暖かな感情に浸っていると、突然衝撃が腰に走る。どこかで感じたことがあるような、それでいて少し違う感覚。

「おわっ、蒼!?」

 衝撃を受けた腰を見下ろすと、そこには蒼が飛びついてきていた。

「少しだけ、少しだけこのままで居させて……」

 声には嬉しさからか涙が滲んでいる。ぐりぐりと頭をお腹に押し付けてくる蒼の頭をよく見ると、耳には赤みが差していた。やったはいいけど恥ずかしいらしい。

 一方僕の頭の中もパニックのままで、どうしたらいいかなんて当然わからない。お腹に飛びついてきている暖かい感覚に振り回されていると、ふと周りから視線を感じた。

 その視線の方へ恐る恐る顔を上げると、そこにあったのは皆の生暖かい笑顔。僕が自分から何かをやったわけじゃないのに、何となく顔が赤くなる。

 そんな恥ずかしい状況からの現実逃避も兼ねて、不器用な喜び方をする蒼の頭を優しく抱き返して労った。

「お疲れ様。な、みんなでやったら出来ただろ?」

 腕の中で小さく頷くような感覚。それを感じて、その頭を優しく撫でる。それから一、二分ほど、蒼は満足したのか赤い顔をしたまま僕から離れていった。

「さあ、十二時からは予定通り長時間試験に入るぞ! 各々担当のマシンの準備して!」

「はいはい、お邪魔虫はやりますよーっと」

「宏お前っ」

 照れ隠しも兼ねて必要な指示を出すと、各自自分が担当するマシンの所へと散っていく。最後に残った砂橋さんは、僕の元へとやってきた。

「ねえねえ、鷲流くん」

「どうしたの砂橋さん?」

 それから浮かべた砂橋さんの悪そうな笑顔は、多分しばらくの間脳裏から消えることは無いと思う。

「蒼、良い匂いしたっしょ」

「バカ言ってんじゃないよ」

 それどころじゃなかったから仕方ない。それに、相手は蒼だしな。

「にしし、恥ずかしがらなくてもいいのに」

「違うっての」

 砂橋さんも、調子をかなり取り戻したな。にやにやと笑う砂橋さんをあしらいながら、内心で安堵のため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る