【一巻後編】Over the ClockSpeed! A-1 Stepping
0x07 コン部、再起動
ふと、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
「……ん、まだこんな時間かよ」
目をこすりながら時計を見ると、仕掛けた目覚ましの三十分前。部活がある日と同じくらいの時間だ、この時間なら朝の部活が無い今日は蒼すら居ないだろう。
布団の中で一度伸びをしてから起き上がると、体を起こす。
今日は五月の二十七日の月曜日。
あの敗北から一夜明け、世界は何事もなかったかのように朝を迎えていた。
「今日も五月晴れ、か」
疲労がいまいち抜けきっていない気がするのは、昨日なかなか寝付くことが出来なかったからだな。
それなのにこんな早い時間に起きてしまったってことは、眠り自体も浅かったんだろう。
この感覚は、嫌でも覚えているが――頭を振って、嫌な記憶を追い出した。
「蒼が来る前に起きるって、平日だといつぶりだ?」
ベッドから降りると、ふとそんなことを思う。休みにはもちろん来ない日もあるけど、平日はほぼ毎日のように来てくれていたはずだ。しばらく来なかった時と言えば、去年の夏休みくらいだったかな。
眠気はどうやらやってくる気配もない。とりあえず制服を着て顔を洗い、鞄を持ってリビングに降りると。
「すぅ、すぅ……」
ダイニングテーブルに突っ伏して寝息を立てている蒼の姿があった。
早めに起こしに来てはみたものの眠気に負けてしまったとか、多分そういうことだろう。もしかしたら、蒼もよく眠れなかったのかもな。
「ん、んうぅ……」
眉間にしわが寄っているのを見る限り、あまり夢見は良くなさそうだ。
「ったく、無理すんなって」
僕はソファーの上に置いてあったタオルケットを蒼に掛けると、ちょっと早めの朝食の準備をすることにした。
適当にパンを焼いて、買ってあった袋詰めの野菜を皿に盛って、インスタントスープにお湯を注ぐ。実に簡単な朝食だ。
普段はもうちょっと手が込んだものを準備するんだけど、冷蔵庫の作り置きもあまり残っていない。今週は家に居ないか、帰って即寝る生活だったからなあ。
こうして朝食の準備をしていると、時々作ってくれる蒼の有難さが改めて身に染みる。
ほどよくきつね色になったパンをトースターから救出していると、聞きなれない電子音がリビングに響いた。
「ん?」
それがインターホンの音であることを認識するまでに数秒かかったのは、この時間にインターホンが鳴ることが全くないから。
「はーい、どちら様ですか?」
そう言って、インターホンのディスプレイを見る。玄関先のカメラが捉えたそいつの姿を見て、僕は慌てて玄関へと走った。
「どうした!? 天変地異か!?」
「挨拶がそれかよ、違えよ何もねえよ!」
玄関を開けた先にいたのは、徹夜と寝坊の常習犯である悠。
相変わらずかわいらしい姿をしているが、この時間は大体営業時間外のはずだ。そんな廃人がこの時間に起きているなんて、完徹でもしたのだろうか。
「お前、幼馴染に対して死ぬほど失礼なこと考えてんな?」
何かあったのかを確かめるように悠の顔をじろじろ眺めてみると、目の下のクマはいつもより幾分か薄い。
「珍しいな、ちゃんと寝たのか」
どうも、徹夜をしたという読みは外れたらしい。不思議がっていると、悠は大げさにため息をついてみせる。
「正解、って俺の生活リズムを目の下のクマだけで判断するの地味にすげえな」
「お前が文化的で健康的な生活をしているなんて……本当に悠、なんだよな? 悠のコスプレをした妹とか言わないよな?」
「言わねーよ! 知ってんだろ俺が一人っ子だって!」
「ああ、そりゃもうな」
間違いない、このやりとりは悠本人だ。珍しく僕がボケてもちゃんとツッコミをしてくれる。
とりあえず、こんな早朝に玄関で立ち話は近所迷惑だろう。
「ま、とりあえず上がれよ。朝飯は?」
「おっす、お邪魔するよ。食ってきたから気にしないでくれ」
「この時間に朝飯食ってるとかマジか……」
「ああ、正直自分でも珍しいと思うよ」
そんなくだらない話をしながら、僕は家に悠を上げた。
リビングでは、相変わらず蒼が寝息を立てている。その様子を悠は一瞥すると、勝手知ったるようにソファーに腰掛けてテレビを点けた。さすがに音量はかなり小さくしているけど。
僕は準備中だった朝食を改めてダイニングテーブルに運ぶと、蒼の肩を叩く。
「おーい蒼さんや、そろそろ起きて。朝飯要るか?」
「んん、シュウ……? んーん、要らない」
どうやらまだはっきりと目覚めていないようで、蒼は一瞬ぼんやりと目を開けただけで再び眠りへと落ちていった。
普段なら、こんなに寝ぼけた姿を見せることなんてない。昨日のことが間違いなく後を引いているんだろうな。
そんな蒼の様子を、悠も珍獣を見るような目で見ている。
「あの蒼がここまでへばるなんて、珍しいな」
「あー。まあ、昨日が昨日だったからなあ」
言葉を濁す。脳裏によみがえるのは、圧倒的な敗北と不十分な結果。思わず表情が暗くなってしまった僕を見て、悠はため息をついた。
「ちょうど、お前らが昨日帰ってくるところが見えたんだよ。二階から」
「ああ、そういうことか。道路側だもんなお前の部屋」
「そしたら二人ともこの世の終わりみたいな顔してたからさ。だから心配して来てみたって訳」
「今日の早起きってそういうことだったのか」
「おうよ」
「お前、いい奴だな」
そうか、こいつなりに気を使ってくれたんだな。普段の言動がだいぶアレなせいで見誤っていた。
だいぶ失礼なことを考えている僕に、悠はさも当然かのように笑う。
「当たり前だろ、幼馴染なんだし」
なんだか気恥ずかしくて、僕は会話を切り上げて朝食を食べることにした。
食べている間は、悠も特に話しかけてくることはない。やっぱり蒼にも気を遣ってんだな、見直したぞ。
「……おい、寝てるじゃねえか」
食べ終わって食器を片付ける途中でソファーを見てみると、朝食を食べている十分ほどの間に、悠は日の当たる暖かなソファーで二度寝を敢行していた。やっぱり悠は悠だったか、さっきちょっと感心したのを返してくれ。
その食器を片付け終わっても、まだ蒼は眠っていた。
学校に行く準備を終えると、そろそろ家を出るにはいい時間だ。
「蒼、そろそろ起きないとギリギリになっちまうぜ」
蒼の肩を強めに叩くと、さすがに起きたのか、ぽけーっとした表情でゆるゆると顔を上げる。
「……ん、あれ?」
「お、起きたか?」
「あれ、私……寝ちゃってた?」
今度はよっぽどはっきりした声が聞こえてきた。ようやく覚醒に成功したっぽいな。
「そりゃもう、ぐっすりと」
「って、もうこんな時間!? 部活に――って、そっか」
慌てて立ち上がり鞄を掴もうとする蒼。そこでようやく完全に目が覚めたらしく、大きく息を吐いてからもう一度椅子に座り直す。
「そうよね、私が今日の朝の部活は無しにしたんだものね」
「お前が居眠りしてるなんて珍しいな、眠れなかったのか?」
「……ええ、そうね。でも大丈夫、寝かせてくれたおかげでだいぶ良くなったわ」
やっぱり昨晩は良く寝れなかったようで、その目はうっすらと赤い。
「顔洗ってこい、目が赤いぞ」
「えっ、本当? 洗面台借りるわね」
ぱたぱたと洗面台へ駆けていく蒼を見ながら、僕はソファーへと腰掛けた。
「そういえば、この時間まで家に居るのも久しぶりだな」
大会に向けて僕も蒼も朝の時間も使って活動していたから、この時間まで家にいることは久しぶり。二年生になってから、僕の周りはどんどん変わっていっている。
今まで受け入れがたかったその変化は、今では日常になりつつあった。
「お待たせっ、行きましょ」
リビングに戻ってきた蒼の声を聞いて、僕はゆっくりと暖かな日の当たるソファーから立ち上がる。
それから、ひとつ忘れていたことを思い出した。
「おう。……あ、ちょっと待って」
隣で惰眠を貪る悠の頬に張り手を叩き込んでから、僕たちは学校へと向かう。
当然、登校した先の学校生活には大きな変化は何もない。いくら僕たちが大会で傷心であろうと、学校の授業には関係なかった。
退屈だった授業はあっという間に終わり、迎えた放課後。
もはや自然に足が向くようになった部室への道中な訳だけど。
「……で、何でお前らは付いてくるんだ?」
普段は大体僕が一人で通る部室への道。今日はそこにおまけが二体ほど追加されていた。
「いや、お前らがどんなことしてんのか気になってよ」
「よりによって今日かよ……」
「今日は会議するんだろ? 一石二鳥っしょ」
ため息をつく僕の後ろをウキウキで歩いているのは、悠と宏。昼休みに突然『僕が入った部活に興味が出た』とか抜かしたこいつらをちゃんと連れてきているあたり、僕もお人好しだな。
「そうだけど、昨日、ってか今までやってたことの反省会だからな。あんまり面白いことは期待しないでくれ」
「おう、構わねえよ」
「今までの設計を知れるわけだし、むしろラッキーまである」
ため息をつきながら、普段より少し長く感じた部室への道を歩ききる。
学生証で鍵を開け会議室に向かうと、早速蒼の背中が見えた。どうやら既に会議室の準備をしていたらしい。机の上には、相変わらずみんなが持ち込んだおやつが積まれている。今日はいろんなキャラメルだ、ちょっと前に道香が持ってきた物を出してきたらしい。なんでも通販でいろんな味の詰め合わせを頼んだんだとか。
「うーっす、蒼」
「ん、シュウ。……って、なんかおまけが居るわね」
僕の後ろについてきた二人を見て驚く蒼。それはそうだろう、僕もこいつらとここに来るなんて今日まで考えもしなかった。
「おーっす、遊びに来たぜ」
「オレもー、って地味にちゃんと話すの初めてか。オレは宏、杉島宏。よろしく」
「知ってるかもしれないけれど、私は早瀬蒼。コン部の部長で論理設計のPEよ、よろしくね。なに、二人は入部希望なの?」
「そうなるかな」
「え、マジで!?」
さらに積み重なる驚愕の事実。どうやら真面目にこの部活に入ろうという心積もりらしい。
……もちろん、今は人手不足だから助かるには助かるんだけど。
「そうだそうだー、最近オレたちのこと放っておいて自分ばっかり楽しい思いしやがって! オレも混ぜろ!」
「めっちゃ不純な動機だな! そんなことだろうと思ったけどよ」
「今日の会議、参加するならせめてNDA結んで欲しいんだけど」
ため息をつきながら言う蒼に、二人はノータイムで返事を返した。
「あ、じゃあ書類書いちゃうわ」
「俺も俺も」
「決断早いなぁおい」
あまりにもとんとん拍子に進んでしまい、思わず頭を抱える。こいつらが入るとこの部の混沌さが何割増しかになりそうだ。
悠と宏が入部書類を読んだり書いたりしている間に、残りの三人も揃う。昨日のことがあったからか、みんないつもよりも集合が早いな。
「おつかれーっす、あれ、またお客さん?」
「お疲れ様ですっ!」
「こんにちは」
三人とも、目の赤みはだいぶ取れている。昨晩はちゃんと寝れたみたいで、ちょっと安心した。
「おーっす、こいつらは新入部員だ」
だから僕も、気をつかわずに返事をする。ついでに粗悪な他己紹介をしてやると、
「正気? この時期に?」
砂橋さんには正気を疑われ、
「そう」
言葉だけはそっけない狼谷さんの目はそこはかとなく好奇の目で二人を見ており、
「か、かわいいです……!」
道香ちゃんは悠のかわいさに心を奪われていた。今日は目のクマが薄いからなおさら見てくれは良く見えるし、可愛いもの好きな道香が引っかかるのも無理はないか。男だけど。
「さて、みんな集まったところだし始めましょうか。まずは昨日の反省会、と行きたいところだけど、見ての通り新顔が居るからその紹介をしましょ。どっちから行く?」
「んじゃ、俺から」
「俺っ娘!?」
「道香ちゃん、ステイ」
「はは、俺は普通科二年の柳洞 悠。コンピューターのソフトウェアが得意で、ソフトの中でもミドルレイヤーって呼ばれる……ドライバとかコンパイラとか、そのあたりが専門。シュウと宏とはクラスメイトで、あと見てくれはこんなだけど制服の通り男だからよろしく」
このドライバ、正式にはデバイスドライバーというのは、OSやソフトウェアがハードウェア、つまりCPUなど実体のある部品達を正しく扱うための手順書のようなプログラムだったはずだ。
チップから読みだしたデータが何を意味しているのか、またそれぞれの機械をどうやって制御するのかなどが書かれており、USBメモリやマウス、キーボードなども基本的にはそれぞれのドライバを介して情報のやりとりを行っている、と読んだ記憶がある。
「お前、そんなこと出来たのか」
その自己紹介で語られた内容が衝撃的すぎて、思わず感想が口から漏れてしまった。ずっと、こいつはただの廃人だと思ってたんだが。
それが聞こえたんだろう、悠は少し気まずそうに笑う。
「お前に対して……特に、ちょっと前までのお前には言い出しにくくてな」
「そう、か」
思わず大きなため息をついた。そして、それを全く責めることができない今までの自分の姿を思い起こして自己嫌悪する。
こいつにも、そんなに気を使わせちまってたんだな。
「えっ、本当に男の子なの?」
「へっ、へえぇっ、ええっ」
「ああ、残念ながらな」
「……興味深い」
そんな僕の心の動きもつゆ知らず、初めて見た女性陣三人は悠が男子であるという事実に驚愕していた。なんなら悠の渋滞している属性に道香ちゃんなんてトリップしてるし。
「悠なら幾らでも後で煮るなり焼くなり好きにしていいから。次行くわよー」
「オレは杉島宏。専門は低レイヤーのソフトウェアで、アセンブリからC言語までが守備範囲だ。BIOSとか大好きだからよろしく。それ以外にもとりあえずコンピューターのことなら浅く広くって感じで、悠も言った通り弘治と悠のクラスメイトだな」
アセンブリもC言語も、コンピューターに指示をするプログラムを書くための言葉……いわゆるプログラミング言語だ。特にアセンブリ言語はCPUの命令に一対一で置き換えられる言語で相当難しいんだけど、それが好きとはさすが宏だ。一筋縄ではいかない男なだけある。
「BIOSできるの!?」
「お、おう」
だけど、それはこの部活にとっては救世主。BIOSと呼ばれる、コンピューターに電源が入ってからLinusやWindoxといったOSに制御のバトンを渡すまでコンピューターの準備と設定を行うプログラムがある。
それの開発と準備はいままで砂橋さんの仕事だったんだけど、特に興味がある訳ではなくてやる人が居ないから付け焼刃でやっているだけと聞いていた。
そんな砂橋さんは跳ね上がるように立ち上がって声をあげ、思わぬ状況になったのであろう宏が珍しくどもる。
「よっしゃー、じゃあ杉島くんにBIOSはぜーんぶ任せたっ! アタシはもうアセンブリと戦いたくない!」
「……楽しいのになあ」
お互いにWin-Winのはずなのに、宏はどこか切ない表情。自分が好きなところを他人から押し付けられると、ちょっと寂しい気持ちになるよな。その気持ちはわからないこともない。
「じゃ、私たちも自己紹介しましょうか」
そう言って、各々が自己紹介をする。とはいえ僕は当然する必要はないし、蒼もさっき簡単なものは済ませているから三人分だ。
簡単な自己紹介が終わると、蒼はぱん、と手を叩いた。
「じゃ、新入部員が居る中でアレだけど……昨日の反省会を始めましょう」
その言葉に、馬鹿二人も含めて背筋を正す。それを見て、少しだけ奴らを見直した。
この部活が置かれている状況や昨日のことは、今までの雑談で大体話してある。こいつらは、ただ遊び半分でこの部活に入る訳じゃなさそうだ。本当に力になろうとしてくれてるんだな、この部のみんなの、そして僕の。
「知っての通り、昨日のIP大会で私たちは1.76GFLOPSの成績で二位だったわ。一位の電工研は3.91GFLOPSで、ダブルスコア以上の差をつけて負けよ」
蒼がスクリーンに投影したのは昨日の結果。改めて数字を見ると、やはり性能差は圧倒的だ。
「だから、廃部撤回の条件の電工研に勝つ、または一位になるというゴールは達成できなかった。でも、望みは繋いだ」
同じようにスクリーンの隣に向かった砂橋さんは、昨日の涙が嘘のように力強く言い切る。そう、まだ可能性はあるのだ。
「そ、結凪の言う通りまだ望みはある。今回のIP大会で二位入賞を果たしたことで、八月のCPU甲子園の出場権を手にしたわ。だから、CPU甲子園で勝つための方策を練りましょう」
映し出された数字を見た宏が、早速その濁った眼に光を灯す。
「へえ、シングルコアで4GFLOPS近くってのはそこそこだな。IPCは1を超えてるみたいだし」
「間違いなくそうね、貰った結果票に、クロック周波数は2.6GHzって書いてあった」
「僕たちが作ったCPUよりも、クロックも性能も高いのか。でも周波数の差は500MHzだし、二倍以上負けるのは不思議だな」
周波数の差は500MHzと、周波数の差は二割くらい。もちろん大きいけれど、向こうの半分にも満たない性能にはならないはず。
蒼は、ため息をつきながら答えてくれた。
「IPC……Instruction Per Cycle、一クロックの間に一コアでどれだけの命令を処理できるか、という指標があるのだけれど、それも負けてるのよ。私たちが使ったコアはIPCが実測の平均で0.85くらい。だけど、電工研のコアは……計算すると約1.53。ここで二倍以上の差があるわ」
「CPUの性能は基本的にクロック周波数×IPCで決まるから、掛け算した値がデカい方が正義ってわけだ」
僕たちのCPUは2.1GHzとクロック周波数も低いうえに、IPCも0.85と負けている。だから、結果は2.1×0.85で、1.785GFLOPSだ。
それに対して、電工研のCPUはクロック周波数が2.6GHzで、IPCが1.53と高いから2.6×1.53、約4GFLOPS。
つまりは、性能は足し算じゃなくて掛け算で決まるってわけだ。
「論理設計の段階で、まず負けてたってことか?」
「正確に言えば、狙うところが違ったという言い方になるかしら。Light Burstコアの欠点、わかってはいたのだけれど……」
蒼が嘆息したあたり、やっぱりこのコアには何かがある。
一方、何かを思い出したらしい道香ちゃんは少し気まずそうに発言した。
「あの、らいとばーすと、って、昨日星野って先輩が言ってた……」
Light Burst。それは聞き間違いでなければ、昨日の蒼と星野先輩とやらの会話に出てきていた単語だ。つまり――
「そ、正解」
重々しく頷いた砂橋さんが、僕が思った通りの答えを言ってくれた。
「Light Burstは、ウチの部活の去年の論理設計チームが作っていたコアなんだ。ちょっと……いや、かなりピーキーな設計で、普通に動かすだけではお世辞にも性能が高いとは言えなかったんだよ」
やっぱり、あのコアは去年から受け継いだものだった、というわけだ。
「ああ、そう言うことか」
一方の悠は、今の言葉だけで何かが判ったらしい。
「何だよ悠、何が分かったんだ?」
「そのコア、実行ユニットは細いわりにパイプラインがめちゃくちゃに深いだろ」
僕が訊くと、悠はその少女のような顔でにやりと悪く笑ってから蒼に問いかけた。顔の作りと表情のギャップが凄くて風邪を引きそうだ。
だけど、その質問は的を射ていたらしい。
「……あんた、本当に詳しいのね」
蒼が珍しいものを見たかのように悠を見る。正直、僕も蒼と全く同じ感想だ。
「そうよ。このコアはかなりパイプラインが深いの」
「パイプラインが深い、ってどういうことだ?」
「CPUのコアの中でも色々な処理をする部分があるけど全部を一気に動かすのは難しい。だから、処理ごとに細かくブロックに分けて、工場のパイプラインみたいに処理が終わったら次のブロックへ渡すといった感じで処理をしてるの」
「ああ、なるほど。その名の通りパイプラインなのか」
「次の命令をメモリから取ってくるブロック、命令を解釈するブロック、それを実行する準備をするブロック、実際に実行するブロック、みたいな感じだね。このブロックに切り分けるときの決まりは無くて、好きに分けて良いんだよ。このへんは論理設計の最初の方のお仕事」
「この切り分けが大雑把で、ブロックの数が少ないパイプラインのことを『浅い』パイプライン、逆に細かく切り分けて行ってブロックの数が多いパイプラインのことを『深い』パイプラインって言うんですっ」
「ってことは、めちゃくちゃに深いってことはかなり細かく切り刻んでブロック分けしてるってことか」
「正解。切り刻めば切り刻むほど、一つのブロックの中でやらなきゃいけないことが減るのはわかる?」
「まあ、そうだよな。仕事自体は同じだし」
「そのメリットが、ある」
「やらなきゃいけないことが減るなら通るトランジスタの数が減って、処理に必要な時間が減るよな」
「そう。そして、CPUのクロック周波数っていうのは一番処理にかかる時間の長いブロックの時間で決まってくるわ」
「クリティカルパス、って奴だったな」
これは前に砂橋さんとやったから覚えている。砂橋さんはちょっと嬉しそうな表情をしながら腰に手を当てて大仰に頷いた。
「そそ、クリティカルパスがあるブロックが一番のネック。それが小さく分割されればクリティカルパスの所要時間が短くなるよね?」
「ってことは、クロック周波数が上げられるようになるのか!」
みんなに教えてもらって、ようやく少し理解できた。処理を細かく刻むことで、一つの工程を短くする。そうすればクロックの周期が短い、つまり周波数が高くても処理が間に合うようになるってことか。
その理解はどうやら正しかったらしく、蒼は満足げに頷いた。
「大正解、その通りよ。Light Burstマイクロアーキテクチャはクロック周波数を大きく引き上げるための設計で、パイプラインが三十四段あるわ」
「三十四段、ですかっ!? それは……正気ですか?」
そのパイプラインの深さは、知ってる人にとっては衝撃的だったらしい。声を上げたのこそ道香ちゃんだけだけど、それ以外の悠や宏、狼谷さんも驚いた表情で固まっている。
「その代償として、平均したIPCが落ちているってわけ」
「細かい説明は省くけど、パイプラインが長いと相当慎重に設計をしないと実プログラムでのIPCが落ちてしまいがちなのよ」
もちろん代償もあるんだな。IPCが下がるってことは、一クロックあたりの平均的な命令の実行数が落ちること。ということは、クロックが上がっても性能が上がらないという事態さえ起きうるのか。
「つまりは、低いIPCを高いクロックで補おうとしたってわけだ」
にやりと笑う宏の答えが全てなのだろう。それでも、一つだけ疑問が残る。
「じゃあ、逆にそんな設計がどうして2.1GHzくらいで打ち止めになったんだ?」
その質問は、辛いところに触れてしまったらしく蒼が目を逸らす。でも、僕が遮る前にもう一度こちらを向き直した。
「それは、このコアがCPU甲子園向けのコアだったからよ」
「多分、選別に選別を重ねて非常に特性の良いものにギリギリまで電圧を掛けることで、嘘のような周波数で動かそうとしていた。違う?」
「そう、その通り。そのために半導体のプロセスも相当攻めた設計をしたんだよ、バックアッププランも無しにね」
狼谷さんの推測を、砂橋さんがため息をつきながら肯定する。
なるほど、こんなにシリコン……実際のケイ素の塊に負担を掛ける設計だったのか。物理設計も製造プロセス的にもため息を付きたくなるようなプロジェクト、という訳だ。
「想定駆動周波数はどれくらいだったんだ?」
悠が興味深そうに聞く。それに対して、今度は蒼が遠い目をしながら答えた。
「机上の空論なら、6から7GHz程度を見込んでいたわ」
「消費電力予想は320ワット。これを、超強力な電源回路を搭載したボードで無理やり動かす予定だったってわけ」
砂橋さんの補足を聞いて、素人の僕でも去年の失敗の理由がさらに明確になってくる。
つまりは、極端な設計のコアの特徴を最大限活かすために、プロセス側に難題を持たせたってことだ。その結果、まともな半導体が作れなかった、と。
「それは……無茶苦茶だな」
その言葉が、全てだと思う。
蒼も少し後悔しているようで、どこか後ろめたそうにしていた。
「今回使ったのは、ほんの少しだけ手を入れてIPCが少し上がるように設計した……いわば、Light Burst改みたいな設計、マイクロアーキテクチャなのよ」
「それを、現実的なプロセスで行った結果がこれ。ただ、それだけじゃない」
狼谷さんが、目を伏せながらまた別の観点を持ち込む。どうも論理設計だけの問題でも無かったらしい。
だけど、狼谷さんの製造プロセス技術には特に大きな問題がなかったはずだ。蒼も同じ認識のようで、不思議そうな目で狼谷さんを見据える。
「どういうこと? 氷湖」
「向こうのプロセス技術が、一つ先に進んでいた」
「それって……」
「向こうが使っていたWTMP863というプロセスは、私がいた時には開発中だったもの」
「そういうことか」
「それってもしかして、このプロセスを作るときに氷湖が懸念してた?」
「そう、なんとか完成させていたみたい。IP大会は一台でいいから、イールドは極悪でも何とかなってしまう」
向こうは、コン部の状況を精度よく推測していたんだろう。
新しいコアを作る時間はない。入ったばかりの狼谷さんには、こちらの装置をまともに製造できるパラメータを作ってもらうだけで精一杯。
そんな中で、自分たちはより良いコアと、より良いプロセスを使うことができる。
……それは、あれだけ確信をもってウチに勝てないと言えるわけだ。
「プロセス技術的、ゲート長とかはいわゆる90nmと聞いていたけれど、具体的な数字はわからない。完成すれば消費電力は小さくなると言ってたけど、良品率は凄く低い。試作品のばらつきも大きかった」
「ウチは良品率がよかったのに、そんな良品率が下がることもあるんだな」
「その原因は、歪みシリコン。消費電力を落としつつクロックを上げることができた」
「またそんなリスキーなプロセスを……」
蒼は頭を抱える。なんとなく、去年のプロセス開発の様子が見て取れるようだった。
「ああ、だからあの時氷湖は歪みシリコンの技術をやろう、って言ったんだね」
一方の砂橋さんも頷く。この間、体育祭の前に歪みシリコンの話を狼谷さんが持ち出した理由がはっきり判ったからだろう。確かに、向こうが使うかもしれない技術はこっちも持っておかないとまずいよな。次は直接対決になる以上、なおさら。
「だけど、多分なんとかしたんだと思う。そうすると、トランジスタの大きさは同じで、より性能が優れたプロセスということになる。私と一緒のチームだった人たちもいるから、多分できた」
狼谷さんは少し寂しそうに呟く。追放にも等しい形で追い出されたのだ、悔しい思いがあるんだろう。それでも、小さく首を振ってから蒼に向き直った。
「これが、プロセス担当の私の知っていること」
「ありがとう氷湖、十分よ。さて、他に反省点はあるかしら?」
その言葉に対して、砂橋さんも道香ちゃんも少し思案顔を浮かべた後、首を横に振る。
「んー、物理設計では負けてないと思うよ。アタシの観点では最善を尽くしたかなあ」
「ボードはIPでしたから同じですし、その二点、でしょうか」
「二点って言ったって、肝のとこ二つだけどな。論理設計と製造技術」
「馬鹿、お前……」
「その通りよ」
確かにその通りだろうけど、言い方が直球すぎだろ。ちょっと無神経な宏の言葉に僕はフォローを入れようとして、蒼の鋭い声に遮られた。
「弱いところを受け入れないと、前には進めないわ。少なくともSand Rapidsでは、私の論理設計と氷湖の製造技術はあの部活に劣っていた」
「そ、そこまで言わなくても」
「いい。事実」
狼谷さんも、道香ちゃんを諌める。言葉は短かったけど、その目はわずかに笑っているようにさえ見えた。
蒼は真っすぐ、真剣な表情のまま僕たちを見回す。
「逆に、弱点はわかったわ。だから、次こそ絶対に勝つわよ」
「でも、どうやって?」
「まずは論理設計。こういう言い方はしたくないのだけど、隠し玉があるわ」
「どんな?」
「開発名、Sunnyfield。新しいマイクロアーキテクチャを使おうと思う」
「ああ、あのずっと準備してた奴か」
蒼は確かに、IP大会で使うコアを仕上げてからもずっとパソコンに向かっていた。そこで作ってたのがそのSunnyfield、ってことか。
「そうよ。これを見てちょうだい」
蒼がパソコンを触ると、スライドが進んで四角い箱が並んだ、ブロック図のような物が表示された。上側にSunnyfield、下側にLight Burstと文字が入っている。
「へえ」
「おお?」
「ふぅん?」
「おおっ!」
「……全く、別物」
その図を見ると、明らかに今回使ったLight Burstとは設計が違うことが一目瞭然。全体的にブロックの数は少なく、ただし縦軸の揃ったブロックは多くなっている。
さっきまでの話を合わせると、パイプラインは浅くなっているが、同時に動かすブロックが増えているということになる。
蒼がもう一枚スライドを進めると、表示されたのはより大きなSunnyfieldのブロック図。そこで蒼が言った言葉に、僕たちは度肝を抜かれた。
「これがSunnyfieldのブロック図よ。要点を絞ると、IPCを高くすることを目標に作ったコアね。具体的には浮動小数点演算の理論的な最大値を、一クロック当たり四に設定してるわ」
「四!? どうやってそんな無茶な、今のLight Burstだって一が最大なのに……って、蒼、もしかして」
砂橋さんのツッコミももっともだ。今蒼が言ったことは、今までの四倍以上に演算性能を引き上げることを意味している。
いくら前の設計が一クロック当たりの性能を重視していなかったとはいえ、四倍を目指すのが簡単ではないのは簡単にわかるぞ。
でも、蒼は淡い笑顔を見せる。
「要点は二つ。まず一つ目は、実行ユニット……実際に計算を行う部分の数を増やすわ。今までは二つだったけど、二倍の四つに。これだけだとバランスが悪くなるから、データを持ってきたり、命令を解釈する部分も増強する」
これはすぐに分かった。最近のCPUは「スーパースカラ」と言って、使うデータに依存性が無ければ並行して処理が出来るような構造になっているらしい。
例えばA+B=C、B+C=Dという処理をするときには、Cの値がA+Bをするまで確定しないから並列処理が出来ない。
でも、A+B=C、B+D=Eという処理であれば、計算する部分さえ二つあれば一気に処理できるというわけだ。
「それだけでそんなに早くなるのか?」
「いいえ、そんなことはないわ。そこでもう一つのポイント、SIMD拡張命令を本格的に実装していくわ」
「やっぱりかぁ……SSE系の対応、イマイチだったもんね」
「そうよ。これが出来れば相当早くなるはず」
砂橋さんが頷くと、蒼も自信ありげに拳を握る。僕は当然のように置いて行かれたままだ。
「なんだその、えすえすいーってのは?」
「簡単に言えば、一クロックで二つ以上の浮動小数点の計算を片付ける機能よ」
「今までは一クロックあたり一つの小数点の計算をする機能しかなかったから、IPCが1の時に1GHzで動かせば最大で1GFLOPS。それを、一クロックで二つの浮動小数点を計算させられれば……IPCは1のままでも、2FLOPSになるでしょ?」
「つまりは、演算回路を横に増やすのか」
「そ。並列に演算できる回路を追加して、さらに数も増やすわ。今までの浮動小数点の演算回路は64ビットの入り口が一つだったんだけど、それを二つ並べて128ビット幅、64ビットのデータを同時処理できるように対応させるの」
こちらもぼんやりと理解が出来てきた。今までは64ビット、つまり一と〇が64並んだサイズの小数点のデータを一つしか同時に処理できなかったが、一つの命令でそれを二つ分同時に処理できる演算器を実装するということだ。
「その並列に演算する回路を使うための命令がSSE、って名前なんだよ。二十年近く前から存在する命令だな」
プログラムに詳しい悠がさらに補足説明を入れてくれた。つまりは、SSEという命令を実行できるような演算器を実装する。それを使えば、さらに数の暴力で高速化することができるってわけだ。
「つまりは、IPCを上げるってことは「クロックの速度以上に一つのコアで命令の処理をする工夫をする」ってことか」
「まさにそういうことよ。もっとも、最新のCPUはSSEみたいな手法を使わなくてもIPCが3や4になるんだけど」
「そこまで増やそうとすると、さすがに回路規模がね……」
苦笑いする砂橋さんを見て、今度は宏がため息をついた。こいつもここまでの話を完全に理解してるっぽいし、ただの変人じゃなかったんだな。
「やっぱ、IPCを引き上げるとなるとコアは大きくならざるを得ないよなあ」
「そうね、回路規模は相応に大きくなると思う。そこで、氷湖にお願いがあるわ」
蒼がにっこりと笑顔を狼谷さんに向けると、狼谷さんもすぐに反応した。
「何nmが必要?」
「そうねえ……最低65nmプロセス、できればそれ以下が望ましいわ」
「わかった。やってみる」
一連の流れを受けて、二人以外の全員がおお、と声を上げた。
「え、機材はどうするんだ?」
「今の装置を、そのまま使う。もちろん、歪みシリコンも採用する」
そこまで聞いて僕も驚いた。IP大会向けのプロセスから、機械を変えずにより進んだプロセスルール、つまりより細かく密度の高いプロセスを開発する、ってことだ。さらには安定して生産するのが難しい歪みシリコンさえも使うのだという。
「現実的に、出来るんでしょうか?」
僕が思ったことを、不安げな道香ちゃんが言ってくれた。実際、確かに歩留まりは良かったとはいえもっと小さく出来るもんなんだろうか。
その質問に、狼谷さんは表情を変えずに答える。
「やってみないとわからないけど、一応装置はArFだから……いけるはず。とりあえず、マスクだけなら32ナノ、三世代先のプロセスに対応したものまで作れる」
「手探り、という訳ですね」
やっぱり少し不安そうな声の道香ちゃん。でも、蒼は笑顔を崩さない。本当に狼谷さんのことを信頼してるんだな。
「私の設計もまだ終わっていないから、最初のチップの製造開始は来月の二十一日を目指すわ。いいわね?」
「わかった。来月頭までには目途を付けて、ルールを準備しておく」
「よろしくねー、氷湖から情報来ないとアタシが仕事できないからさ。ってか、アタシも手伝うよ」
「助かる」
それから狼谷さんと砂橋さんが打ち合わせを始める。その間に、蒼はプロジェクタを消すとホワイトボードをガラガラと引っ張ってきた。
そこに整った字でCPU甲子園大会規定と書いてから、ばしん、とそこを叩く。それを聞いた皆も自然とホワイトボードを見る。
「さて、ちょっと具体的な話に入っちゃったけど、CPU甲子園の大会規定を確認しておくわ。規定はシンプル、とにかく最速のCPUを作ることよ」
「そんなシンプルなのか」
思ったよりもシンプルな規定だな。
と言っても具体的なものはいくつかあるようで、補足するように砂橋さんが話し始める。
「特徴的なのは、複数台の準備が必要なことと時間が長丁場なことだね。いくつかのベンチマークを同時並行で走らせるから最低三台マシンの準備が必要、当然同じ設計のチップでね」
「三台、ですか。微妙ですね」
「三台とも性能測定に使うなら、出来たチップの一番出来が良いのを使うってのも難しいな」
ふんふん、と道香と悠が頷いた。
二人が言いたいことはわかる。IP大会なら、最悪一つしか動くチップが取れないほど極端な条件で作っても、逆に言えば一つ動けば勝機はある。
だが、今回はそうはいかない。三台、しかも同じくらいに高速なチップを取らないといけないからだ。かといって、良品率を上げようとプロセスを緩くしすぎては単純に性能が出ない。難しいバランスだ。
「それと、最大シリコンサイズは百五十平方ミリメートル以内。だから、無尽蔵に巨大なチップを作るということは出来ないわ」
「コンピューター甲子園の一・五倍か」
「じゃあ、例えば十五センチ四方みたいな超巨大なチップは作れないんだな」
宏はどこか残念そうだ。十五センチ四方のチップなんて実際に作れるのか?
……いや、コイツが言うってことは物理的には可能なんだろう。現実的かどうかは別として。
「残念ながらそうね」
「そうかあ、そうすりゃ何百コアとか余裕なんだけどな」
「実用的じゃ無さ過ぎるでしょ」
「歩留まりゼロでよければ」
「うう……ウエハースケールのチップはロマンなのに」
そんな宏の声は、砂橋さんと狼谷さんにばっさり切って捨てられた。その直接的な斬撃に宏がいじけてしまっているけど、まあ些細なことだ。
次に進むよう砂橋さんに目配せをすると、それを拾った砂橋さんが話を再開する。
「表彰の観点はいくつかあるけど、まずは三種のベンチマークの総合成績で競う性能部門、そのベンチマークの結果を消費電力で割った電力効率部門、ボードまで設計して製造しているチームだけで性能を競うシステム部門、そして最後にプロジェクト部門」
「そのプロジェクト部門、っていうのは何をするんでしょう?」
「そのチームが如何に新しい技術を創造したか、というプロジェクトチームとしての成果を発表する……いわば、技術自慢のプレゼン大会ね。もっとも、速いチップは何らかの新しい技術がないと作れないから、性能部門のおまけみたいなものよ」
「逆に言えば、よっぽどじゃない限り優勝チーム以外が貰うことは無いってことか」
「そういうこと」
僕たちは少なくともこの四部門の中のどれか一つで、一位になるか、電工研を上回らないといけない。部門は多いとはいえ、なかなかハードルが高そうだ。
うーむ、と唸ってしまっていると、道香ちゃんがはいっ、と元気に手を挙げた。
「あのあのっ、今回はボード設計までやるんですよねっ!?」
高速信号や電源、そして熱という、いわゆるCPUを動かすためのボードを作るために必要な資格を持つ道香ちゃんは、確かにIP大会ではサブストレートくらいしか設計するものがなかった。だから、この元気さは今回の大会で本領発揮をしたいってことなんだろう。
「そだよ、今回はボードの設計までやるつもり。ちょうどいいから分担の話までしよっか」
「まず、もちろん私が論理設計をやるわ」
「で、アタシは物理設計。氷湖はプロセス技術開発及び製造、道香ちゃんにはサブストレートと電源回路周りを含めたメインボード、基板の設計をやってもらうね」
ここまでは前回と概ね同じ仕事だ。大きな違いって言えば、道香ちゃんが待ちに待ったボードの仕事をゲットしたくらいだな。
続けて、蒼が真剣な表情を向けたのは悠だった。
「悠、特定プロセッサ向けのコンパイラってできる?」
「ん、ある程度はできるよ。カスタムgccくらいでよければ」
「十分よ。じゃあ悠はコンパイラとドライバ、それにOS周りのチューニングね。杉島くんはBIOS、いいわね?」
「コンパイラって、あのコンパイラか?」
本で出てきたコンパイラというのは、C言語など人間が理解できるプログラム言語をCPUが解釈できる機械語、いわゆるゼロとイチのバイナリファイルに変換するツールだ。
確か、コンパイラとリンカ、そしてアセンブラというプログラムが実は居て、コンパイラが作ったアセンブリ言語のコードをアセンブラがバイナリに変換して、リンカが実行できる形に並べ替えたり組み合わせたりする……とかだったはず。
そんなものを人間が作れるんだろうか。いや、誰かが作ったからあるんだろうけど。
「そ、今回使うのはCとC++のコンパイラね。ありがたいことにCPU甲子園の方は自前のコンパイラが使えるのよ。動くようになったらコンパイラの違いでどれだけ性能が変わるか教えてあげるわ」
「お、おう」
その言葉に頷きはしたが、未だに実感はない。そのコンパイラの差だけで、本当にそんなに性能の差が出るのか? そもそも自前のコンパイラって、何を変えるんだ。
「シュウ、シュウ! 聞いてるの?」
「っと、すまん。そうそう、僕は何をすればいいんだ?」
コンパイラの話に意識を引きずられて気付いていなかった。蒼の声で意識を会議に戻すと、その真っすぐな目は僕の目をきっちりと見つめている。
「シュウ、あんたはこのCPU甲子園用のプロセッサの開発主任をやりなさい」
……聞き間違い、かな。
「すまん、もう一回いいか?」
「シュウは、新しいプロセッサの開発主任、言い方を変えればプロジェクトリーダーとして統括をしてちょうだい」
思わず目をしばたかせる。僕が、開発主任?
背筋が冷たくなり、手が急に死んだかのように冷たくなった気がした。
「素人だぜ?」
「もちろん私もサポートするわ。でも、私もしばらくは論理設計にかかりきりになっちゃうと思うから、リーダーは別の人にお願いしたいの」
大抜擢を受けて、その理由も理解できる。
でも僕は、この部活で初めて――やりたくない、と思ってしまった。
もちろん技術の知識も足りないだろう。でも、それだけじゃない。
「別に僕じゃなくても、砂橋さんとか……」
だから、言い訳を重ねる。
「アタシ? アタシはめんどいからパスで」
「おいっ! そんな理由でいいのかよ」
ツッコミを返すと同時に、誰か反対してくれと願う。
「わたしは大賛成ですっ!」
「私も、いいと思う」
「しょ、正気か二人とも……」
でも、誰も止めてくれる人はいない。
「シュウがリーダー、いいじゃねえか」
「ま、面白いことになりそうじゃん?」
「お前ら……」
みんな笑顔で、僕の背を押してくれている。
追い詰められた僕は、救いを求めて発案者の目を見た。
そして悟る。いや、分かってしまった。
蒼はきっと、全部わかって僕にこの仕事をさせようとしているんだ、と。
親父がやっていたのだという、新しいCPUのプロジェクトリーダーという仕事に拒否感を持っていることに気付いた上で。
その上でやってくれ、と言っているんだ。
「……っ」
残酷さと優しさが共存した今回の提案。
だけど、それは確かに乗り越えなくてはいけない過去でもある。
「鷲流くん?」
「おい、大丈夫か弘治?」
冷や汗が背中を伝った。
外からの声も、今は遠い。
母の「お父さんの技術が、いつかみんなを繋ぐから」という言葉。その理解を拒むのは。
過去と本当の意味で決別することから逃げていただけ、だよな。
この春から今までは、そのための助走期間。
その助走を終わらせて、踏み切るための準備は蒼が整えてくれた。
「シュウ、どうするの?」
なにより、自分が悪者になっても僕の足を前に進ませようとしてくれている。
その覚悟を、無駄にはしたくない。
「……わかった。やる」
だから僕は、心の中で痛みを訴える生傷を強く押さえつけると、声を絞り出した。
「本当にみんな、僕でいいんだな?」
その言葉は、僕が先に一歩踏み出すための小さな勇気。
「ええ。あなたがやるのよ」
はっきりと言葉にしてくれたのは、蒼。
「頑張ってください、センパイっ」
「分らないことがあったら、教える」
「やってみないとわかんないこともあるしね」
「ま、今のシュウなら大丈夫だろ」
「面白そうだしいいぜ」
それから、皆も思い思いに言葉にしてくれた。
だから僕は、もう逃げない。
「わかった、出来る限りやらせてもらうよ。じゃあこれからの開発会議は僕が主導すればいいってことだな?」
でも。
目尻に一筋の光が走ることだけは、許してほしかった。
「そうよ。頼んだわ、シュウ」
柔らかな笑顔を見せる蒼。その優しさが、胸に沁みた。
その表情は、残っている一つのテーマについて僕が話し始める、未来に向けて一歩を踏み出す勇気をくれた。
「じゃあ、まずは新しいCPUの名前を決めようか。何かアイデアはある?」
「はいはーい、CPUには当然計算するコアが入ってるわけだし、Core――」
「訴状が届きそうだからやめような?」
「やっぱ駄目かぁー、いいアイデアだと思ったんだけどなあ」
悠がおどけた様に笑う。きっとこいつもこいつなりに気を使っているんだろうな。
「んー、何か無いかなあ……」
「難しい、ネタ切れ」
砂橋さんも頭を捻っているが、これといったアイデアは出てきていないみたいだ。なんなら狼谷さんに至っては白旗を上げているし。
「安直なのは前回使っちゃいましたからね」
道香ちゃんも難しい顔をしている。なかなかしっくり来る名づけって難しいよな。
そんな中、宏がその目に謎の光を湛えて言った。
「なんかもう適当でいいんじゃないか? ……例えばそうだな、メロンとか」
「メロン、ですか。なんだか美味しそうですね」
「これかしら?」
蒼が取り上げたのは、机の上に置かれていたキャラメルのうちのひと箱、メロンキャラメル。名前の元はともかく、その名前はなんだかしっくり来た。
「メロン、いいな。Melonか」
ホワイトボードにスペルを書きつけると、みんなの意見も飛んでくる。
「良いんじゃない? なんかかわいいし」
「賛成」
「いいと思いますっ!」
「んじゃ、CPU甲子園用の新しいCPUの名前は『Melon』で決まりってことで」
Melon、と書かれたホワイトボードに赤いマーカーで丸を描いた。
もう決める必要が残っているものは無いはずだ。目線で蒼に助けを求めると、小さく頷いてくれたし、大丈夫だろう。
「それじゃあ、蒼は引き続き論理設計。回路規模の見積もりが出来次第すぐプロセスチームに伝えて。砂橋さんと狼谷さんは新しいプロセス技術の方針決定。道香ちゃんは早速ボードデザインを始める……のは無理か」
「だあね、さすがに今の何も手がかりがない状態じゃピン配置も決められないや」
「じゃあ、ファブの見学する?」
「いいんですかっ?」
「問題ない」
「よし、じゃあ決まりだ。悠と宏はそれぞれウチの部の今までのソフトウェア資産を確認して、それぞれBIOSとコンパイラの作業を始めて」
さっき蒼と砂橋さんが言った役割分担をほぼなぞるだけの、拙い指示。でも、それを僕の仲間たちはちゃんと聞いてくれる。
「おーっ!」
みんなの声が、会議室に響く。そんな仲間と出会えたことが、今は一番嬉しかった。
開発会議の後は、蒼からプロジェクトの進め方に関して引継ぎ……というか、進め方を教えてもらう。その後に勉強がてら過去のこの部のプロジェクトマネージャーの残した記録を読んでいると、あっという間に夜になってしまった。
この部のプロジェクト記録は、去年のものがすっかり抜け落ちている。つまりは、去年何があったのかは正式な記録が残っていないということだ。
「……いや、そんなはずは無いんだ」
蒼が言うには、コアの設計も存在し、またそれを全力で動かすための半導体の試験製造もやっていたはずだ。そこまで進んでいたのに、記録が残っていないなんてあり得ない。
つまりは。
「破棄、されちまったのか」
何らかの理由で、その失敗したプロジェクトのデータは破棄されてしまった、という可能性に思い至った。
確かに、大きな部が完全に空中分解してしまう程の大惨事だ。記録さえも残したくない、という気持ちは分らなくもない。
でも、成功から学ぶことと同じくらい、失敗から学ぶことも大切だ。だからこそ去年の記録を見ておこうと思ったんだけどなあ。
ちょっと心苦しくはあるけど、去年の当事者である蒼に聞いてみるか。
「なあ蒼、去年の例のプロジェクトに関するプロジェクトマネージャーの資料が見当たらないんだが、何か知らないか?」
「……さあ? 私は特に触ってないわよ。去年モメてる間にでも破棄されたんじゃないかしら」
数秒の沈黙ののち、返ってきた返事はどこか引っかかりのあるものだった。普段は何でもはっきりしている蒼のどこかぼかした言葉に、どこか違和感がある。
とはいえ、あの蒼が自分からそういうことをするとは思えない。
去年の部活の出来事でもあるし、今これ以上追求するのは良くないか。
「そうか、まあ何か思い出したら言ってくれ。何か参考になるかもしれないから」
曖昧に返すと、蒼は苦笑いを見せてから画面に目を戻す。
「参考になんて、させないわ」
その後、小さく聞こえた一言。それは、自分への決意のようにも過去への呪詛のようにも聞こえた。蒼にしては珍しい、棘のある言葉だ。
「……あんまり詰めすぎるなよ」
開発はまだ初日で再始動したばかりに過ぎないし、今回は二か月半とちょっと期間も伸びるし無理をしたら体が持たないだろう。そんな僕の心配に、蒼は陰のある笑みで応えた。
「そうね、ありがと。っと、そろそろ良い時間ね」
「ああ、そろそろ下校の準備させた方がいいな」
なんてことない雑談に戻るころには、もうさっきの陰は見えなくなっている。
残念だけど今日は時間切れだ。蒼と一緒に、皆に声をかけて回ることにしよう。
「そろそろ最終下校時刻が近いわ、帰る準備してちょうだい」
「っと、もうそんな時間か」
蒼の声で、空いているデスクで早速何かの資料を読み込んでいた悠が目を上げた。
その目はゲームに興じているときと同じくらい輝いている。正直、学校でこんなに楽しそうな悠の表情が見れるとは思わなかったな。
「っとと。早瀬ちゃん、明日で良いからここのシステムレジスタの実装を教えてもらっていいか? とりあえず疑問点はチャットで投げておいたから」
「ん、わかったわ。返事しておく」
新しいCPUの挙動に関して確認したいところがあるようだ。宏の目も、いつもより幾ばくか輝いている。
「ったく、あいつらも学校でそんな顔、できんだよな……」
そう考えると、今まで気を遣わせていた自分が何だか馬鹿らしくなった。
「んじゃ、僕は下の狼谷さんと砂橋さん、道香ちゃんに声かけてくるよ」
「頼んだわ」
蒼に笑顔で見送られながら、オフィスエリアを出た僕は大きく伸びをすると階段へ向かう。
一階に降りると、ガラス越しに機械のランプが見えた。何かのテスト製造を走らせ始めたらしく、AHMSが元気に天井を動き回ってはシリコンウエハーの入ったフープをやりとりしている。
「おーい三人とも、そろそろ最終下校だから出ておいで」
インターホンの受話器を取って声を掛けると、笑顔でこっちに手を振ってくる道香ちゃん。狼谷さんも小さく頷くと、砂橋さんたちを連れてクリーンルームの出口へと向かってくれた。これでクリーンルーム組も問題ないな。
「っと、これでひと段落か」
そう呟いた声は、無人の冷たいリノリウムの廊下に響いて消えた。
他のみんながやってくるまで、廊下に置きっぱなしになっているパイプ椅子を広げて製造室をぼーっと眺める。
天井を高速で機械が走り回り、巨大な機械とプラスチックの箱をやり取りしている。言葉にすればただそれだけなんだけど、見ているだけでどこかわくわくしてくるものがあるな。
「僕も、頑張らないと」
ふと口から漏れ出たその言葉は、僕の本心だった。
こんなにも楽しんでいる、そして腕利きの皆をまとめる仕事をするんだ。だから、時々思い出したかのように痛む傷なんて気にしてはいられないぞ、自分。
「それが受け入れるってこと……なんだよな」
その質問の答えをくれる人は、もう居ない。
改めて椅子から立ち上がると、ちょうど蒼たちが階段を降りてきたところだった。
「お待たせシュウ、製造組は?」
「ちょっと前に出口に向かってくれたから、そろそろじゃないかな」
「ありがと、じゃあちょっと待ちましょうか」
それから、蒼となんてことない話をしている間に砂橋さんたちがクリーンルームから出てきた。悠と宏も切り上げて階段を降りてきている。
「っと、お待たせ。帰ろっか」
「凄かったです……ありがとうございました、氷湖先輩」
「むしろ、道香がすごい。明日からも、ちょっと手伝ってほしいくらい」
しばらく待つと、クリーンルームのドアが開いて砂橋さんたちが出てきた。僕の周りが賑やかになると、まるで冷たい廊下が暖かくなったように感じる。
「早く帰らないと怒られちまうぜ」
「その通りよ。さ、早く出ましょ」
その温かさに笑顔を向けると、僕たちは揃って部室棟を出た。
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