0x06 IP大会、そして

 体育祭が終わってしまえば、IP大会はすぐそこだ。

 下っ端の僕は、最後の試作となるA‒2、と名前の振られたチップの様々なチェックを道香ちゃんと一緒に行った。

 魔術師狼谷さんが製造プロセスの調整を更に進めた結果、このチップはなんと余裕を若干取っても2.1GHzでの安定動作を達成。200MHzクロックを上げても電源が耐えられるくらいに、高い周波数の時の消費電力を削減したということだ。

 あらかじめ手元で本番と同じLINPACKを使って測定した性能値は約1.78GFLOPS。去年優勝チームが約550MFLOPSだったと言うから、その性能は約三・二倍にもなる。

「CPU甲子園に出てもおかしくないくらいの高性能なチップに仕上がったわね」

 蒼も、最終的なチップの成果にはご満悦だった。

 そうして迎えた五月二十六日の日曜日、IP大会の本番当日の午前十時半。

 朝イチの電車と新幹線、それに地下鉄を乗り継いだ僕たちは、東京の海沿いにある大きな建物へとやって来ていた。

「ここが、会場……」

「ええ、JCRAの東京第一データセンターね」

「はえー、でっかいですねぇー……」

 初めてやってくる僕と道香ちゃんは見上げて情けない声を上げる。

 目の前に建っているのは、コンクリート造りの無骨で巨大な建物。コン部の部室も相当大きいと思っていたけど、若松科技の敷地全部が一つの大きな建物になっているくらいの規模だ。

「桜桃ちゃんなんて、アメリカでもっと大きい建物見てるんじゃないの?」

「そうなんですけどね、日本は周りの建物もあるのでやっぱり大きく見える気がしますっ」

 この体育館を何十倍にも大きくしたような建物は、データセンター。インターネットの先に繋がっているサーバーと呼ばれる大きなコンピューターや、色々な会社で使われる大きなコンピューターをまとめて管理している場所だ。

「何でここなんだ?」

「多分冷房と電気代だと思うよ。中に入ればわかると思う」

「そろそろ行かないと、受付が始まる」

「おっと、遅れたらいけないわ。行きましょう」

 大きな建物の相対的に小さな入り口から入ると、受付へ。

「いらっしゃいませ、IP大会参加の学生さんですね。学生証をお願いします」

 笑顔で対応してくれている受付の人に学生証を全員見せると、すぐに確認が取れたようだ。

「確認しました。若松科技高、電子計算機技術部のみなさんですね」

「はい、その通りです」

「では、会場に入るためのICカードをお渡しします。会場の出入りに絶対必要になりますので、無くさないよう退館まで首に掛けておいてくださいね」

 首掛けのホルダーに入ったICカードを渡される。いよいよ本番なのだと思うと、否が応でも緊張が高まってきた。

「それでは、会場は二階の電子計算機センターAです。事前にお送りいただいた荷物も搬入してありますのでご確認ください」

「はい、ありがとうございます」

 今回使うボードや電源といった、かさばって重い荷物は既に発送してあったし、今手元の鞄の中に入っているのは直前に完成したCPUだけ。みんな身軽だ。

 早速、エントランスから大きな階段で二階へと向かう。

「氷湖、緊張しないの? さすがだねえ」

 相変わらず無口にすいすいと歩いていく狼谷さんに砂橋さんが声をかける。

 その言葉に立ち止まって振り返った狼谷さんは、びっくりするくらい青い顔をしていた。止まったところでよく見ると足も震えているように見える。

「緊張してないように、見える?」

「……あーいや、アタシが悪かった。そら緊張するよね」

「本番は、やっぱり怖い」

 どうやら狼谷さんは緊張しいらしい。普段飄々としている姿とのギャップが激しすぎて、なんだか新鮮だ。

「わ、わかります……もう心臓が止まりそうです」

 そして、道香ちゃんも建物に入ると雰囲気に当てられたのかガチガチになっていた。どちらかというと、蒼と砂橋さんの緊張していなさが面白いくらいだ。

 階段を上り切ると、電子計算機センターAと呼ばれる部屋へと向かう。長い廊下を歩いていると、先頭を歩いていた狼谷さんが突然歩みを止めた。

「っ、どうして……」

「どうしたの、氷湖――」

 狼谷さんが指さした先。そこには、同じ制服を着ている連中の姿があった。ウチの学校と考えると、選択肢は一つ。

「なんだ、電工研の連中か? でも一軍は参加しないんだろ?」

 前の話だと、そういう話だったはずだ。でも、狼谷さんが指さした先を見た蒼と砂橋さんも言葉を失っている。

「先輩、だ、大丈夫ですか?」

「……あいつ、確か電工研の開発主任級のPEよ。一軍設計チームの」

「それ、どういうことだよ」

 電工研は、通例では参加しないはず。それなのに、どうして――

「電工研が、この大会に、参加している」

「しかも一軍が、ね。……いいじゃん、良いライバルがいた方が張り合いが出るってことで」

 砂橋さんはさっそく気持ちを切り替えたらしい。

 ……それもそうだ。今からCPUの中を変えることは当然出来ないし、やれることは限られている。それに、電工研のチップだってウチのチップに勝てるものとは限らない。何しろ、前年の優勝校と比べて三倍以上の性能が出るチップを持ってきているんだ。

「とりあえず行きましょ。準備しないと」

 複雑そうな表情で、今度は蒼が先頭になって部屋へと向かう。

 ICカードをかざして電子計算機センターに入った瞬間、感じたのは肌寒さだった。

「うおっ、冷房強いんだな」

「これがこの会場で開催する理由だよ、わかったっしょ?」

 にひひ、と砂橋さんが笑う。確かに言った通り、この冷房の強さはなかなかだ。風の流れがあるからか外と気温差があるからか、余計に寒く感じる。寒いところから来ているのに。

「ああ、わかったよ。こんなに冷房掛けるんだな」

「今日はこの中で何千ワットって電力を使って計算するわけだからね。今日はまだ弱い方だよ、CPU甲子園の日なんかは風邪引きそうなくらいだもん」

 そう言われてみるとその通りだ。

 当然のことではあるが、電子計算機は計算するときに熱を発生させる。その熱をなんとかするための冷房設備が無いと、室温は徐々に上がって最終的には灼熱地獄になってしまうだろう。

 それを避けるために、これだけ強く冷房を掛けてるってことなんだろうな。

 それから、学校の体育館一面くらいはある室内を歩いて指定されたテーブルへと向かう。

「場所はここね……」

 何台か設置されている巨大なスクリーンに書かれていた場所は、ある意味当然ではあるけど……電工研の隣だった。

 出来るだけ相手を見ないようにしながら、昼休みを挟んでもくもくと開梱作業を行い部品たちを並べていく。

 お昼休みから戻ってくるころには、送った物の取り出しと設営は大体済んでいた。

「ボード、OKですっ」

「液晶出したよー」

「OSが入ったストレージとメモリ、問題なし」

「電源も大丈夫そうね。チップはどうかしら、シュウ?」

「見た感じ大丈夫そうだ。予備含めピン折れ、曲がり無し」

 CPUの裏から生えているピンは、細いから簡単に折れたり曲がったりする。取りつける前に、運んでいる間におかしくなっていないかの確認は不可欠だ――と、道香ちゃんから事前に教わっている。

 幸い、気を付けて持ってきたからおかしくなっている場所はない。

「ん、じゃあOKね。動作確認を始めましょうか」

 IP大会の本番では、不正防止のために大会の運営が準備したIPのボードを使って動かすことになる。だけど、動作確認の最初は自分たちが持ち込んだボードを使うのが鉄板なのだという。何でも、ごく希に大会のボードだけで動かないとかいう事例があるんだとか。

 組み上げをやろうとボードの方に向かうと、狼谷さんが静かに手を上げた。

「私にやらせてもらっても、いい?」

「いいけど……大丈夫?」

「ん。作業して、ちょっとでも気を紛らわせたい」

 気を紛らわせたいのは緊張しているのだけじゃなくて、電工研の連中が近くにいるってのもあるんだろう。

 何より、僕より扱いは手慣れている。それなら任せない理由はないよな。

「じゃ、頼んだ」

「任せて」

 いまいち安心しきれない、震えた声で頷く狼谷さん。その間に、僕たちは荷物の片づけをしながら動作確認に使う自分たちのパソコンを準備していく。

「シュウ、ボードにシリアル繋いでもらえるかしら」

「はいよ」

 かく言う僕も、一か月みっちりチップの動作検証を手伝ったからこの立ち上げの準備にもかなり慣れてきていた。もちろん、このIPのボード限定だけど。

 そんな風にみんなで協力して準備をしていると。

「やあコン部の諸君。ご機嫌はいかがかな?」

 知らない男の、やけにもったいぶったような声が響く。そいつは、同じ制服を着て隣のデスクからやって来ていた。

「……何しに来たのよ」

 蒼が不機嫌そうに答える。ウチの制服を着ているから電工研の奴なのは間違いないけど……こいつも大概変な奴っぽいぞ。

「なあ、あの変な奴誰だ?」

「アレ? ああ、アレは電工研の部長で平原っていうんだ。平原 崇文」

 隣で椅子にちょこんと腰掛けていた砂橋さんに小声で聞くと、その返事で納得した。ライバル部活の部長なら、しれっとアレ扱いされているのも納得だ。

「なるほどな、だから蒼はあんなに不機嫌なのか」

 敵対相手の電工研の部長にこの大会直前に声を掛けられてはいい気分はしないだろう。しかも、ただでさえ居るとは思っていなかった相手だ。

「それだけじゃないよ……ああ、また始まった。見てて」

 そう言われて、意識を蒼の方へ戻す。蒼の表情は早速うんざりしたものに変わっている。普段はわりと人受けする表情を崩さないのに、珍しいな。

「早瀬クン、君はまだこんな消滅寸前の部活で消耗しているのか。砂橋クン共々、どうしてウチの部活に来ないんだい?」

「だから何回も言ってるでしょ、アンタの所には絶対に行かないわよ」

「そんなに頑なになるのはどうしてだい? ウチの部活とコン部が合併すれば、君たちからすれば使えるプロセスの技術の幅は広がる。装置だっていいものが買えるだろう」

「あんたはウチの製造設備が目的でしょう。それに、私は今この部活でやりたいことをやれているわ」

 その言葉を受けて、電工研の部長は僕たちの事を一通り値踏みするように見た。道香ちゃんも小さくすくみ上がっている。

 それから、まるで嘲笑するように鼻で笑う。お、確かに何だかムカっと来たぞ。

「そこの彼は普通科だろう? 人数合わせで素人まで入れなきゃいけないとは……キミの才能を思うと嘆かわしくて仕方ないよ」

 だが、その後の発言は否定しきれないところがあった。

 確かに、これだけの才能が集まっている中で僕だけが素人なのは、足を引っ張っているところが無い……とはいえないよなあ。

「そうは思わないか? そこのキミ」

 そして、その無差別勧誘の目は道香ちゃんへと飛んだ。

「……わ、わたしですか?」

 こっちも珍しく、いつものパワフルさは鳴りを潜めている道香ちゃん。警戒している……というよりも、ねちねちしてそうなこういうタイプの人が単純に苦手なようだ。

「そうだ。君は確か今年の新入生の主席だったな?」

「そ、そうですが」

 下調べも万全らしい。もしかしたら、この部長は電子工学科の人たちのことを一通り把握してるのかもな。だから、僕を見て一目で普通科の人間だと判ったんだろう。

 そういう意味では出来る人ではあるんだろうなあ、変な人であることもほぼ間違いないと思っているけど。

「キミもそんなところで貴重な時間を使ってないで、僕たちと一緒に開発をしようじゃないか。環境も人材も、全てが揃っているよ」

「いえ、お断りさせていただきます。わたしはここで、できるところまでやろうと思っていますから」

 だけど、道香ちゃんは肝心なところではNOと言える子だった。

 さすがアメリカ帰りだ、と僕が心の中で拍手を送っていると、面白くなさそうに電工研の部長は鼻で笑って見せる。

「ふん、そうか……まあいい、後期からはどうせ同じ部活になるんだからな」

「あら、そんな決まったように言わないでくれるかしら?」

 それに対して蒼が言い返して、舌戦が始まる。その蒼の表情は心底うんざりしていると同時、何だか切実なものがあるように感じた。

「決まったも同然だろう。電子計算機工学は優秀な技術者が一人だけで何とかなるようなものではない、ということを知っているのはキミの方じゃないのか?」

「一人じゃない、部員が居るのが見えないのかしら?」

「そんな人数では出来ることもたかが知れているだろう。知的資源は人から来るものだ」

「数が多いだけじゃどうにもならないってことを教えてあげるわ」

「ふーん、本当に出来ると思ってる?」

「……っ!」

 電工研の部長と蒼の鋭い言い合い。その炎を一気に吹き飛ばすように、突然女子の声が響いた。それを聞いた蒼の動きが固まる。

 いや、固まったのは蒼だけじゃない。砂橋さんも、そして狼谷さんも。

 声の方を向くと、ウチの制服を着た女子がにっこりと笑って立っていた。その表情は、さっき剣呑な言葉を吐いたとは思えない。

 その後に蒼が吐いた言葉は、殴られたかのような衝撃を与えるのには十分だった。

「……お久しぶりです、星野先輩」

「ん、久しぶり早瀬ちゃん。まだコン部で頑張ってたんだ?」

「……はい、もちろんです」

 蒼は、彼女のことを先輩と呼んだ。つまり、去年の魔の八月以降にコン部から電工研に移った人の一人なんだろう。

 直接的か間接的かはともかく、この状況を生み出した一人ということになる。

「砂橋ちゃんも。どう? 電工研でまた一緒に部活しない?」

「どの面下げて言いに来たんですか、こちらから願い下げです」

 砂橋さんは鋭い言葉を吐き捨てていた。何だかんだで温厚な砂橋さんがここまで威嚇するのも珍しいけど、逆に言えばそれだけの相手ということになる。

 つまりは……二人とも、何か思うところがあるんだろう。

「わーお、おねーさん悲しい。じゃあ、可愛い後輩のために一つだけ良いことを教えてあげるね」

「何でしょうか?」

 その笑顔は変わらない。でもその視線は、まるで僕たちを射すくめるような、鋭いものに変わった。

「この大会で、キミたちはあたし達に勝てない」

 それから、今までとは違う、先輩と後輩のやり取りではない冷たい言葉で言い放つ。

「なっ、何を――」

「WTMP864。これだけ聞けばわかるでしょう? 狼谷ちゃん」

 それから、二人の先輩方をもあえて無視していたように感じる狼谷さんに話が振られた。

 そのよくわからない羅列を聞いて、普段は機微をあまり見せない狼谷さんが大きく目を見開いた。

「それに、早瀬ちゃん。『Light Burst』でしょう? それ。あなたがイチからコアを作って間に合うとは到底思えない」

「くっ……」

 さらに畳みかけるように蒼へ投げかけられた言葉に、蒼が下唇を噛む。

 また暗号のような名前なせいで具体的なことがわからない。それでも、蒼にとって的確に痛いところを突かれているというのは間違いじゃないんだろう。

「わたしが言いたかったのはこれだけだから。じゃねー」

 それから、星野という先輩はさっきの冷たい視線が嘘だったかのように雰囲気を緩ませると、電工研の机の方へ去っていった。

「そうだ、早瀬クン。どうして我々がこの大会に来たのかと聞いていたね?」

 まだ残っていた電工研の平原部長が、おまけのように蒼に向く。

「ええ、そうよ」

「簡単さ。電工研の革新的で素晴らしい半導体製造技術、そして新しいCPUのコア……『Wheel Loader』の動作チェックのためだ。そしてそれを、君たちにも見てもらおうと思ってね。それだけだ。君たちの健闘を祈るよ」

 最後の最後に鋭く自慢げに、まるで格の違いを見せつけるように言い残すと、彼も電工研の机へと戻っていった。

 コン部のデスクには、重たい空気だけが残される。

「動作チェックなら部内でやればいいだけだし、完全にウチの事情を把握したうえでこの大会で潰しに来たね、アイツら」

「ええ、まったくよ……ほんっとうに、嫌な奴」

 蒼と砂橋さんですら、まだ始まる前なのに暗い表情を浮かべてしまっていた。

 僕は、その重い空気の、沈んだ表情の意味も解らず――それに、解りたくも無い。

「面倒な敵襲も終わったことだし準備に戻ろうぜ、蒼も砂橋さんも狼谷さんも。大会だってまだ始まってないんだし、諦めるにはまだ早いぞ」

 だから、努めて明るく言い放った。この役割は、過去のこの部活に対してしがらみがないし、同級生だから気を使わせなくて済む僕の仕事だ。

「そ、そうですっ! まだ戦ってもいない敵に負けた気になるのは良くないですよっ」

 戸惑ったような表情をしていた道香ちゃんも、意図を察してくれたのか笑顔で続く。そのひまわりみたいな笑顔を見て、三人もゆっくりと動き出した。

「そうね、まだ負けが決まった訳じゃない。もうちょっと、最後まであがいてみましょう」

 こうして、何とか強引にだが全員を復活させると、最後の最後まで調整をしながら本番に向けた準備と手続きを進めていく。

 動作確認用の持ち込んだボードから大会本番用のボードにCPUを載せ替えて、観測用のケーブルを繋ぎ変えると起動確認。

 それから、砂橋さんと狼谷さん、ときどき蒼も混じってさらにチューニングを進めていく。

「電圧変えてクロック見てみる?」

「電源回路がシビアかもしれません。100MHzくらいならなんとかなるかもしれませんが……」

「あーそうだった、うーん……あとは最適化?」

「でも、そんなに設定できるところ準備してないわよ」

「だよねえ。アタシもそんなオプション実装してないし」

 でも、議論はされども具体的な策はどれも難しい。この一か月で、やれることは大体やりきってしまっているからだ。

 その間に、僕は着々と準備を進めていく。会場のネットワークへ本番用のマシンを繋ぎ、大会の運営に必要な各種情報を送信。専用のプログラムを走らせる機能予備検査も無事通過し、規定のボードに改造が無いかの装置予備検査を受けた。

「っし、これで走らせる準備はOKだな?」

「ええ、大丈夫よ。あとは規定時間までにプログラムを走らせ始めるだけ。あとは自動で記録まで取って送信してくれるわ」

 これで、ついに準備は完了。あとは、決まった時間の間にプログラムを開始すればオッケーだ。

「いよいよ、ですね」

 道香ちゃんの言葉にごくり、とつばを飲み込む。本番前はやっぱり緊張するもんだ。

 机を囲むみんなも、やはり緊張しているようで固くなっているように見えた。

 耳をすますと、周りのチームから聞こえてくるファンの音も大きくなってきている。他のチームも本番を開始した証拠だ。

「スタートあいぴーこんてすと、どっとえすえいち……と。あとはエンター押すだけだよ」

 最後に、専用のプログラムを走らせる準備をしていた砂橋さんが立ち上がった。

 ここまで来たら、後は蒼の出番だろう。

 そんな蒼は、隣でこの世の終わりみたいな表情をして立ち尽くしている。

 ……本当に、らしくないな。

 だから、ぱしっ、と背中を軽く叩く。

「った……何すんのよ、もう」

「部長、頼むぜ」

 これだけで、伝わるだろう。

 去年何があったかは、僕も完全に把握してるわけじゃない。

 でも、少なくとも今年僕たちがここまで来ているのは、蒼が頑張ったからだ。

 その全幅の信頼と、感謝を込めて。

「……あんたに背中を押される日が来るなんてね」

 素直じゃない蒼はそう言うと、さっきまでとは一転、笑顔で一歩システムに近づいた。

「よし、電工研はあんなこと言ってきたけど……私たちの力、見せてやりましょ」

 その言葉に、全員が静かに頷いた。

 そして、道香ちゃんはボードの温度や電源を監視している回路の近くへ、砂橋さんはCPUの状況を監視するプログラムが映し出されているパソコンの画面の前へ移動する。

 残りの蒼と僕、狼谷さんはシステムに直接接続された画面とキーボードの前へ。

 再度、蒼が砂橋さんと道香ちゃんへ目線を送った。

 ボード電源、温度、Go。

 CPU電圧、電流、温度、周波数、Go。

 そして、ゆっくりとひとつ息をついてから。

 蒼は、キーボードのエンターキーを押した。

「プログラム開始っ、最初のスパイク来るわよっ」

 蒼の鋭い声の数秒後、CPUクーラーに付いているファンの音が一気に大きくなった。本番用のプログラムが走り始めて、CPUが大きく発熱を始めた証拠だ。

 非常に負荷が高いプログラムが走り始めるときは、急にCPUの消費電力が跳ね上がる。システム全体の電源供給に問題が起きやすい最初の魔のポイントだ。

「電源系オールグリーンですっ」

「CPU電圧も大丈夫っ、これならなんとか仕様内で耐えられるはず」

「まだ、ぎりぎり定格。電圧がぶれたら危ないけど」

「このIPのボードなら大丈夫でしょ。電流は?」

「最大常用定格の九割と少しです、何とか耐えるかと」

「負荷は百パーセント?」

「おう、百パーセントに張り付いた」

 僕も、プログラムの実行状況を監視する重要な任務がある。張り詰めた空気の中、全員で監視を続けていく。

 画面には、カウントダウンタイマーが本番終了までの時間を秒刻みで刻んでいた。

「百二十秒」

 その値が五十八分を切ったころ、皆に声をかけた。ここまでは予定通りだ、すぐに蒼が指示を飛ばす。

「温度状況!」

「電源ユニット温度、出力グリーンですっ!」

「VR温度、出力共にグリーン!」

「CPU温度グリーン、温度上昇は停止」

 それぞれの温度を見守っていた三人からの返事は、全部グリーンだ。

 莫大な量の計算をすることで、電源もボード上の電源回路もCPUも大量の熱を発する。

 その熱を処理しきれずに温度が上がりすぎると、半導体は故障してしまう。だから冷却が十分かどうか、温度の上昇具合を監視する必要があるのだという。

 さっきの二分は一つの基準点で、今までのテストから大体このあたりで放熱と発熱が均衡することがわかっている。グリーンということは温度上昇が安全圏内で概ね停止したことを意味する。つまりは、ひとまず安定した状態へと落ち着いた、ということ。

「ふぅー……とりあえずひと段落、ですね」

 道香ちゃんのその一言をきっかけにして、張り詰めていた緊張の糸が少し緩んだ。

 ここからは、何か問題が発生したアラートが出ない限り僕たちの出番はない。

「後は、祈るだけ」

 狼谷さんですら、冗談(なのだろう)を言えるくらいに落ち着いていた。

 CPUクーラーが立てる音を聞きながら、さっきより少し気持ちに余裕を持ちながら監視を続ける。

 集中しているからだろうか。時間は思ったよりも早く経過して、うちのチームの残り時間が三十分を切るころ。

 画面を監視する僕のところにどこからか、何とも言えない……強いて言うならプラスチックが焼けたような、明らかに体に悪そうな焦げくさい臭いが漂ってきた。

「あっちゃー……これ、どこか焼いちゃいましたね」

「げ、最悪だね。VRかな?」

「どうでしょう、この臭いはシリコン本体じゃないですか?」

「まさかウチじゃないわよね?」

「大丈夫だよ。ウチじゃない」

 蒼と道香ちゃん、それに砂橋さんが嫌そうな顔をしながら顔を見合わせる。

「何の臭いだ、これ?」

「この臭いは、半導体の焼けた臭い」

 その匂いの源を教えてくれたのは、狼谷さんだった。なるほど、今嗅ぎたくない臭いなのは間違いないけど、イマイチはっきりと要領を得ない。

「半導体が焼けた? 確かに温度は上がるけど、そんなに焼けるほどに温度が上がるのか?」

 確かに、発熱しすぎると故障してしまうとは聞いた。でも、こんなプラスチックが燃えるくらいの温度にまでなるもんなのか?

「上がる。対策なしで何も放熱をしないと、簡単に中の配線を焼き切ってしまうくらいには」

「そうなのか」

 見ると、奥の方の机に運営委員の人が集まっていた。チームの人は泣いているように見える。きっとこの臭いの元はあそこだろう。

「でもこの時間まで持ったということは、冷却不足ではなさそう」

「というと、冷却不足以外にも熱を持つ理由があるのか?」

「簡単に言えば、半導体の故障。内部でショートしてしまう」

「あれか、プラスとマイナスが繋がっちゃう奴か」

 狼谷さんはこくり、と頷いた。

「半導体の故障は星の数ほどパターンがある。その中でも様々な原因で起きるのはオープンとショートの二種類。オープンはその名の通り、内部の配線が切れて通電しなくなる。ショートはその名前の通り、本来なら繋がらない場所が繋がってしまう」

 故障というとただ動かなくなるだけという印象があるけど、それだけではなく中の回路的にも何かが起きている、という訳だ。ショートという響きで、もう良くないことがわかる。

「そのショートの故障が運悪く起きて、何かが燃えたってことか」

 どうやらあのチームは運悪く故障してしまい、さらにそれがショートの形だったために焦げてしまうほどの熱が出てしまったのだろう。

「多分そう。でも、運悪くじゃないと思う。……想像だけど、精度がいまいちな製造プロセスで作ったチップに、クロックを上げるために電圧をぎりぎりまで掛けてた。過電圧は、寿命に直結」

「確かに、髪の毛より細いとこに何ボルトも掛けたら焼けちまうよな」

「うちは、あんなに燃えるところまで電圧を盛る無謀はしていない」

「ある意味戦略負け、か」

 そう呟くと、狼谷さんはもう一度頷く。

 ……それでも。

 普段は表情もあまり変えない狼谷さんのやるせないような辛そうな表情を見ると、そのきっぱりとした意見は、逆に相手への敬意なのだと感じた。

 他のチームのように故障が起きてしまえば、僕たちに成すすべはない。今出来ることは、仲間が作ったチップを信じて、終わる時まで何か変な挙動が無いか確認するだけ。

 その間にも、いくつかのチームから悲鳴が聞こえてきた。泣き声も聞こえてくる。

 幸いにも、僕たちが作ったSand Rapidsは順調に動作を続けてくれて。

「残り三十秒!」

 ついに、ここまで辿り着いた。画面の数字は変わらないペースで減っていく。

「よっし、頼むわよっ……!」

「お願いしますっ」

「お願いしますお願いします何とかあと三十秒……!」

 砂橋さんは呪文を唱えながら手を合わせている。狼谷さんも無言で手を合わせていた。

 その間にも、快調に残り時間は減っていく。

「十五……十、九、八、七……」

 カウントダウンを読み上げる声にも力が入る。頼む。あと少し。

「五、四、三、二、一、〇」

 数字が〇になる。だが安心はできない。スコアが正常であることを確認し、結果を集計しているコンピューターに送信しないといけない。

 処理中、と表示された画面を前に、とにかく待つ。

 多分、時間としては数十秒。でも、その時間はまるで数時間のようにさえ感じた。

 そして、画面に追加の一文が表示される。

「正常終了、データ送信完了っ!」

「よしっ」

 僕の言葉を聞いて、蒼は満足げに小さくガッツポーズをした。

「ふはぇ……」

 砂橋さんは、気が抜けたような声を出してへたり込む。

「ふう……」

 狼谷さんは、今まで見たことが無いくらい安心した表情をして大きく息をついている。三者三様に、緊張が抜けたのが伝わってくるな。

「やりましたね、センパイっ」

「うおっ、道香ちゃん!?」

 そして、道香ちゃんは手を取ってぶんぶんと振り回した。その手のひらは冷たくて、どれだけ道香ちゃんが緊張していたかを感じさせるには十分すぎるほど。

 そして、僕自身も。

「センパイ、手、震えてますよ」

 道香ちゃんに言われて初めて気が付いた。

 そうか。僕も、手が震えるほど。

 何かの結果に対して緊張することが出来たのだ。

 これが、本気で何かに向かうということ。体育祭で思い出したあの感覚は、いつの間にか無自覚のうちに発動するほど馴染んでしまったということなんだろう。

 数年ぶりの慣れない緊張を自覚してしまうと、急に怖くなる。

「……センパイ、大丈夫です。わたしはここに居ますよ?」

 いつの間にか、強く道香ちゃんの手を握っていたらしい。道香ちゃんの優しい声で慌てて離すと、少しいたずらっぽく笑った。

「残念、もっとわたしの手を握っててくれてもよかったんですけど」

「それはまたの時に、な」

「また、してくれるんですね」

「あーいや、言葉の綾だよ」

「ふふっ」

 なんだか気恥ずかしくて、ぶっきらぼうにみんなの方へ向かう。後ろから付いてくる道香ちゃんは、やっぱり笑顔だった。

 とりあえず完走したとはいえ、結果はまだわからない。僕たちのチームの送信した最終的な性能情報は、公正のために結果発表まで開示されないからだ。

 でも、手ごたえはある。

 完全に予定通りの性能を維持して、Sand Rapidsは動き続けてくれたからだ。あの性能をこの大会で出せるチームは居ないはず。

「さ、引き上げの準備をしましょう。結果発表まで一時間はあるわ」

 蒼がぱんぱん、と手を叩きながら言った。

 結果送信の締め切りまであと三十分弱、それにプラスして集計時間等々で三十分。蒼の言った通り、結果発表まで約一時間はある。

 その間に持ってきたものを片付けて、学校へと送り返す準備を進めなくてはいけない。

「うっし、じゃーやりますか。かったるいけど」

 砂橋さんが腰に手を当てて言い放ったのを合図に、みんなで手分けをしながら、運営側とのやり取りを進めつつ片づけを始めた。

 僕はボード周りの撤収を担うことになった。電源ユニットを外したIPのボードからCPUクーラーを取り外し、Sand Rapidsをソケットから取り外す。

「お前も頑張ったんだな」

 物言わぬチップを持ち上げたときに何となく声を掛けてしまったけど、不思議としっくり来た気がした。

 きちんとトレーにSand Rapidsを戻すと箱に入れ、ボードは大会運営へと返却。

 それから持ってきた工具や動作確認用の道具などを片付けて、その間に蒼はデータが正常に送信されていることの確認等々を済ませていると、時間はあっという間だった。

「それでは、あと五分後より結果発表および表彰式を行います。各チームは十六時までに所定の机に戻ってください」

 会場にアナウンスが入り、他のチームもどんどん机へ戻る。

 本番中はファンの音でかき消えて聞こえづらかった放送。それが今やこの広い電子計算機センターのどこに居ても聞こえそうなほど、ファンの音がしない会場は静かに感じた。

「っと、発送は着払いでいいんだよな?」

「そうよ、伝票はこれを使って」

「ありがと、これで良しっと」

 会場の隅の特設配送センターに荷物を預けて戻ると、ちょうど結果発表が始まろうかという時間。慌てて席に戻ると、改めて心臓が縮みあがるような不安を感じた。

 そう、今日のこの大会で、僕たちは性能評価を完走することが目的ではない。

 優勝。または、電工研の性能を上回る結果を出す必要がある。

 なんとなく落ち着かなくてみんなの方を見ると、みんなも落ち着かないようにどこかそわそわしているようだ。

 そんな中で、頭の中には一つの言葉が浮かんでくる。

 始まる前の「あんたたちは、この大会でウチには勝てない」という、元コン部の先輩の言葉。

 あの全てを見透かして言い放ったような冷たい言葉と視線が、なぜか不安を掻き立てて止まない。

「お待たせしました、それでは只今より第十九回日本学生プロセッサIP技術大会の結果発表を開始します。参加いただいた四十九チーム中、完走したのは三十七チームでした。では初めに、表彰となります上位三チームの発表を致します」

 ついに、司会の人の声が会場に響く。いくつか同じ内容を投影しているプロジェクターに、上位三チーム、という文字が表示された。

「まずは、第三位――」

 スライドが変わる。僕よりスクリーン側に座っている蒼は、手を合わせて真剣な顔でスクリーンを見つめていた。そこに表示されていたのは、

「国立北上北科学技術高等学校半導体工学部、記録970MFLOPS!」

 僕たちではなかった。会場をその部活の人たちの歓声と、拍手が包む。

 小さな安堵と共に、これ以下だったらどうしよう、という心配が鎌首をもたげた。

 三位ですら去年の記録を何倍も上回る好成績だ。

 だが、僕たちのチームは試験でもこれ以上の結果が出ている。問題ないはず。

 そう自分に言い聞かせはするが、緊張で心臓が暴れ出しそうになるのは止まらない。

「続いて、第二位」

 会場が再び静まり返った。

「国立若松科学技術高等学校――」

 そして、スライドが変わる。

「電子計算機技術部、記録1.76GFLOPS!」

 そこに表示されている文字が何を意味しているか、理解出来なかった。

「嘘、でしょ……?」

 割れるような拍手の中、小さな蒼の声がかろうじて届く。

 砂橋さんも、狼谷さんも、そして道香ちゃんも言葉を失っている。

 決して悪くない成績だ。去年の優勝チームどころか、今年の三位のチームにだってダブルスコアに近い数字が踊っている。

 そう、僕たちは最善を尽くしてきた、はずだった。

「第一位」

 だけど。

「国立若松科学技術高等学校微細電子工学研究部、記録3.91GFLOPS!」

 電工研には、全く。

 手が届かなかった。



 僕たちは、いつの間にか最寄り駅へと帰ってきていた。

 会場を出るときも、東京の電車に乗った後も、新幹線に乗った後も、住んでいる街へ向かう在来線の電車に乗ってからも。

 何を話したのか、もしくは何も話さなかったのか。それすら、覚えていない。

 乗り継ぎを重ねて、ようやく会津若松駅のホームに降り立つ。

 改札を出ても、僕たちは地面に縫い合わされたかのように動けなかった。

 別れることすらできなくて、死んでしまったかのように静かな駅前で立ち尽くしている。

「……、うっ、うえええええっ」

 その沈黙を破ったのは、狼谷さんの泣き声だった。

「ごめんなさいっ、わたしが、わたしがっ、うあああああああっ!」

 普段の冷静さは見る影もない。まるで幼子のように声を上げて涙を流しているその姿を見て。

「ちょっと氷湖、そんなに泣かないでよ……アタシだって、アタシだって……っ!」

「やっぱり、悔しい、です、よ……っ!」

 つられるように、砂橋さんと道香ちゃんも涙を流し始めた。

「……悔しいわね、今日は一杯泣きましょう。少しは……楽になると思うわ」

 蒼は、優しい言葉と共にそんな三人を優しく抱きとめる。

 それからしばらく、静かな駅前には三人分の泣き声が響いていた。

 僕は、何とも言えない……悲しみと、無力感と、困惑と。そんな色々な感情が渦巻いて動くことができない。

「……みんな今日は一日お疲れさま、反省会は明日の放課後にするわ。明日の朝の部活は無し、今日は帰って、ゆっくり休みましょう」

 三人が落ち着いてきた頃、蒼は部長として優しく声を掛けた。

 その声を受けて、顔を上げる三人。少し名残惜しげに蒼から離れると、改めて荷物を持ち直した。

「お疲れさま、です」

「……アタシは自転車だけど、みんなは?」

「わたしはここから歩いて帰れるので大丈夫です。お疲れさまでした、蒼先輩、センパイっ」

「寮母さんが、迎えにきて、くれてる。……二人とも、また、明日」

「お疲れさま、蒼、鷲流くん」

 みんなの声にはまだ涙が少し残っている。それでも、笑顔とはいかないけれど、少しだけすっきりしたような表情で帰っていく三人。

 その背中が見えなくなってから、凍り付いていた喉を無理やり動かすことに成功した。

「僕たちも、帰ろうぜ」

「ん……そうね」

 三人の方から、僕へと向き直る蒼。その表情は、感情を伺いしれないほど暗いものだった。

 もう、僕たちの家の最寄り駅まで走っている列車はない。

 歩いている人が居ない、明かりだけが灯っている大通りを歩いていく。もう五月とはいえ、夜は少し肌寒く感じる。

 普段帰る時の沈黙は、全く気にならない。だけど、今日の沈黙は……まるで世界から取り残されてしまったような街の静けさと相まって、何だか辛かった。

「今日は、残念だったな」

 その沈黙を破るようにぽつり、と声をかける。

「そうね……あそこまでやるとは思わなかったわ」

 その声は、少しだけ震えていた。

「なあ、蒼」

 改めて声をかける。いや、声を掛けない訳には、いかなかった。

「何? シュウ」

 立ち止まる蒼。

 数秒たっぷりかけて言葉を選ぶと、言葉を投げかけた。

「もう、他の部員はいないぜ?」

「何の事よ」

「もう、強がらなくてもいいんだぞ? というか、強がらないで欲しい」

「……やっぱりシュウに、隠し事は出来ないのね」

 振り返ってたはは、と笑う蒼。でも、耐えられないというように走ってきて。

 そのままぽすん、と胸元に収まった。

「しばらく、胸貸して……」

 みんなの前ではなんとか泣かないように、ずっと強がっていた蒼。

 部長だからと、みんなをまとめてここまで連れ帰ってきた蒼。

 部長だからと、みんなの涙を優しく受け止めた蒼。

 でも。

 この部活で、ここまで来るまでに一番傷ついて。

 この部活で、ここまで来るまでに一番葛藤して。

 そして、ここまで一番頑張ったのも、蒼だから。

「……くっ、うっ、……うっ……!」

 一番悔しいのも……蒼だ。

 縋りつくように、声を殺して涙を流す蒼。

 今までずっと重荷を背負って駆け抜けてきたその小さな背中を、あやすように優しくさすってやる。

「悔しい……くやしいよっ、シュウ……! うう、ああああっ……!」

 その葛藤させて、傷つけて、頑張らせてしまったのは、僕にも一端がある。

 あの日から立ち上がりきれていない、僕自身が――

「ああ、悔しい……な」

 そう。あの何とも言えない感情は、悔しさなんだ。

 僕は、悔しいんだ。この大会で勝てなかったことが。

 この感情を、今まで忘れてしまっていたことが。

 蒼に助けてもらってばかりで、何も返してあげられていない自分自身が。

「……ふえっ、……うううっ、ううっ……!」

 そして、逆に少し安心した。僕にもまだ、悔しく思えるほど……何かを大切に思うことが出来たんだ。

 だからこそ、泣いてしまうわけにはいかない。

 気付かせてくれたことと今までの感謝を込めて。

 しばらく蒼の静かな泣き声と共に、彼女の涙を受け止め続けた。



――――[To be continued in “Over the ClockSpeed!” A‒1 Stepping]――――

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