第二章 四夜~役者という芸者~

次の日の朝。

高窓から見える空は薄藍色をしており、まだ日の出前だ。

隣に寝ているはずの青藍の布団は畳まれており、本人もいない。

何も言わず、もう帰ってしまったのかと思った八広は少し寂しさを感じたが、日の出が早くなった今の季節でこの明るさならまだ七つ頃だろう。

まだ木戸も開いておらず、町の外に出るのは難儀のはずだ。

家の障子戸と雨戸を開けて外に出ると、長屋の広場に青藍がいるのが見えた。

声をかけようと広場に向かった八広は、青藍の表情が見える位置まで来ると立ち止まった。

青藍は舞っていた。自らを妖と言った青藍を裏付けるような清冽な気に八広は息を飲んだ。

真剣な眼差しで前を見据え、背筋を伸ばして型を踏んでいく。手にした扇の軌跡を八広は目で追い続けた。

東の空が藍色から白へと変り、さらに朱に染まると青藍は動きを止めた。八広に気が付くと、扇を閉じてそばにやってきた。

「なんだ、早いな。」

「ええ、青藍さんこそ。目が覚めたら木戸が空く前だってのに部屋にいないから探しに来たんです。」

青藍は少し笑って扇を懐にしまった。

「毎日のことだからな。自然とこの時間に目が覚めるんだ。今なら広い場所を確保できるし、人に見られても騒がれることもない。存分に稽古ができる。」

「でも、今日は休みなんじゃ…」

「ああ。舞台は、ね。今日は大部屋の連中が舞台を仕切る日だから、オレの出番は無いんだ。けど、いくら休みでも稽古を怠ればその分鈍る。…芸を売る以上、下手なものは絶対に見せられないからな。必ず稽古はする。オレの誇りだ。」

青藍の言葉に八広は感心してじっと聞いていた。

「オレが舞を習った師匠は、いつもこう言ってた。舞の神様は毎日舞を舞うからどこの誰よりも舞が巧い。神様じゃない我々はなおさら毎日精進しなければ神様の目に止まることもない、ってね。芸事はなんでもそうなんだろうな。」

青藍はそういって井戸に行き、水を汲んで顔と手足を清めると、昨日会った、あのやんちゃな青藍の顔になった。

「まだ朝も早いし。寝なおそうぜ。」

青藍は八広の首に腕を回し、やっぱり八広を引き摺って部屋へと戻った。

部屋の戸を閉めると、畳んであった布団を引き直し、潜り込んでしまった。

しばらくすると、青藍は寝息を立てていた。

あの青藍の真剣な顔を思い出し、絵にしたい、とは思ったもののこの部屋は暗すぎて手先が見えない。

もう少し明るくなってから、と思っているうちに八広も眠気に負けて、布団に潜ると、そのまま眠り込んでしまった。

八広が布団から顔を出しうっすら目を開けると雨戸をあけたままにした障子戸が白くなっており、だいぶ日が高くなってきている。「うわぁ」と声をあげてがばっと跳ね起きた。

まだ青藍は布団に潜り込んだままだ。

八広はあわてて井戸に水を汲みに行き、朝食の支度を始めた。

釜の飯が炊き上がる頃になり、青藍に声をかけると、むにゃむにゃ言いながら布団から這い出してきた。

八広は自分と同じ種類のだらしなさをもつ青藍がなぜか好ましかった。早朝、舞を舞う青藍は妖、いや、舞の神様が乗り移ったような姿は少々怖かったのだ。

青藍の前に炊きたての飯と隣家からもらったネギの味噌汁と漬物を載せた膳を置くと、あくびを噛み殺しながら食べ始めた。

八広は青藍に仕事に行く、と伝えた。まだ絵師としては半人前の八広はからキセルやタバコ入れといった小物に描く絵図案を描く仕事を蒔絵師らから請け負っている。

昨日、注文のあったタバコ入れに描く図案を蒔絵師の親方に見せたばかりだった。

客先からの反応を親方に聞きにいく、と青藍に告げると、いつ帰ってくるんだ?と答が帰って来た。

昼頃までには戻れそうだ、と言うと、青藍はまた布団に潜ってしまった。八広の帰りを寝て待つつもりらしい。

八広は苦笑いを浮かべると、茶碗を軽く洗い、青藍をそのままにして家を出た。

親方のところに顔を出すと、頼まれた図案は客先の評判も上々。新たな仕事ももらった八広は早めに家に戻ることが出来た。

部屋の引き戸を開けると、案の定、青藍はまだ布団に潜り込んで寝ていた。

声をかけると、今度はちゃんと起き出し、着物を整えた。

これからどうするつもりか青藍に聞くと、今日の大部屋住みが仕切る野郎芝居の最後の演目だけを見に行くつもりだと、と言う。

「座頭の舞の試験を兼ねた演目をやるのさ。それを見たい。一緒に来るか?」

八広も新たな仕事場になる小屋の下見も兼ね、付いて行くことにした。

今日の青藍は八広の笠を借り、顔を隠して、外に出た。

「なぁ。確か今日の芝居、朝からやっているんだろ?。芝居の最初から見る気は無かったのかい?」

と青藍に聞いてみると、あっさり、「まったく無い。」と返ってきた。

「今日のあいつらの興行は、芝居というより、だたの顔見世だからな。それも陰間(男娼)としての。そんな下らねぇもの、見る気はねぇよ。」

「え、え、陰間の顔見世?」

八広は間抜けな返事をした。

「そ。それが、歌舞伎小屋の伝統といえば伝統だな。今に始まった話じゃないよ。

芝居も芸事ももともと遊里で披露されてきたものだからな。遊里ってとこは芸妓も役者も芸だけじゃなくて身体も売ってるんだ、男も女も。

その伝統は遊里を出ても変らず引き継がれてる、ってことだ。

まぁ、役者についちゃ、江戸と京は女歌舞妓は禁止されてるから男だけだけど。」

「え、えと、じゃ…青藍も…??」

「オレはある人との約束で芸以外を売るつもりはない。なら一流の芸で魅せるしかないだろ。精進してるつもりだよ。」

「そうか…。」

「で、話を戻すと。その若手連中なんだけどなぁ。座頭に頼まれて女形の何人かに舞を教えたんだが、興行が近いというのに形にならなくてな。舞の振りを優しいものに変えて、やっと何とかしたんだ。」

青藍は溜息を付いた。芸に厳しい青藍にとっては苦肉の策だったのはありありだ。

「座頭に舞の振りを変えると話をしたら、激怒した。舞の振りが入らない理由が判ったんだろうな。それで、最後に舞の試験を兼ねた演目を追加し、合格できなかった者は舞台後の外出を禁止にした。そうしたら、若手芝居を仕切る座長が必死になった。そりゃそうだろうな。オレとしてはお手並み拝見、ってとこだ。」

「…。」

八広は青藍を見て無言の返事をし、二人は大川の堤防をずっと黙って歩いた。

しばらく歩けば、両国橋近くに着く。そこからすぐの小屋が見えてくると、今日の興行は盛況であるように見える。幕間なのだろう、小屋回りでは若い役者たちが客に声をかけているのが見えた。

青藍は若手たちの間を笠を深く被ったまますり抜け、小屋の裏口から中に入った。

笠を取ると、そのまま急な階段を上がり、中二階の自分の楽屋に寄った。

今よりさらに地味な着物に着替え、垂らしていた髪をまとめると、八広を伴って本二階の座頭の部屋へと向かった。

座頭の部屋の暖簾の前で青藍が声をかけると、傾城君か、と返事があった。部屋には座頭と本興行の座長が話をしていた。

「ちょうど今、次の次の興行の話をしていたところだ。」

八広は遠慮して部屋の外へ出ようとすると、青藍が引き留めた。青藍と座長が八広を座頭に紹介してくれた。頭を下げた八広の目の前で、座長は今回の役者絵と、役者の絵目録を次々回の演目に合わせて描かせ、宣伝を兼ねてはどうか、という話を座頭にし、青藍もこくこくと頷いて、同意を示していた。

八広は思わぬ展開に驚きながら、頭を下げたまま聞いていた。

まだ八広の絵が売れると決まったわけではないというのに…気が早い。

水を向けられた八広が素直にそう答えると、青藍と座長は笑い出した。それは浮世絵という版画の向き不向きはそうかも知れないが、肉筆画の腕は確かだと自分たちが保障する、と返事が返ってきた。座長も青藍から八広の描いた遊女絵を見せてもらっていたという。

今まで入口の看板絵は舞台道具と同じ職人に描かせていたが、八広にを描いてもらった方が客の入りがよさそうだ、と座長は付け加えた。

八広は恐縮して縮こまったままでいると、目の前の三人は謙遜がすぎる、と声を出して笑った。一瞬顔を上げた八広が顔を真っ赤にして再び下を向いてしまうとさらに笑った。

すると、座頭は笑いを引っ込めると溜息をついた。

「あの若手達も絵師殿と同じくらい謙虚になってくれるといいんだが…。みな、楽な方に流れ過ぎている。」

青藍と座長は顔を見合わせた。

「誰もが芸を極められるというわけではありません。人には分というものがあります。辛いものには辛いでしょう。」

青藍がそう言うと、座長は首を横に振った。

「とは言え、なんの手も尽くさず、というのはあり得んだろう。芝居は芸である以上な。」

「はい。」

青藍は真剣な顔をしていた。座長も付け加えた。

「それに最近、何かとお上も厳しくなってきた。芸だけを売れ、というお達しもある…。いつ手入れがあるか判らんしなぁ。気を付けろ、と言ってはいるんですが。」

「確かに、ウチに限らず少々目に余るところはあるからなぁ。とはいえ、お上に逆らっては芸も立ち行かなくなる。難しいところだよ。さぁて、と。見に行くか。」

座頭は芝居さながらの大きな仕草で立ち上がった。

「あ…そうそう。傾城君、次々回の興行の話をしたい。後で寄ってくれ。」

青藍は少々渋い顔をして頷いた。

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