十年後 序幕

第2話 足音

 出逢ってから死別するまでの期間よりも、それから現在に至るまでの期間の方が今年で長くなる。


 一月も経過すれば二十九歳にもなる僕はそれまでに、四年制大学の社会学部に通い、三十二社目に受けた面接先の営業職に内定をもらい就職。

 そこがしばらくして倒産。それからフリーターの時期を挟んで契約社員になったが、任期満了で退社をして、職にあぶれたままの膠着状態が続き、その春期を終えようとしていた。


 現状、貯金を切り崩しながらの生活を送っている。

 

 空いた時間に個人活動の下準備こそ行っているが、側からみれば浮浪者と大差ない、しがない三十路みそじだ。


 縞鋼板しまこうはんのアルミ製階段が、僕が一段ずつ上るたびに軋んでいる。


 築三十年と僕の年齢を超える、木造アパート二階の質素倹約の四畳半。


 そこに向かうための階段を伝い、手前にある二○二号室が僕の暮らしている部屋だ。


 翻る寝癖を直さないまま、黒のスウェットシャツとパンツ姿で向かったコンビニで、豚丼と保存用のカップ焼きそばに安価の野菜を適当に籠の中に入れてレジを通し、それを自前の手提げ袋に詰め替えて帰路に就く。


 アルミ製階段を上り切って一息吐いたときにふと、そんな恒常的な日々を嘆いていた。


「あのまま、僕と一緒に居続けていたら苦労を掛けただろうな」


 自虐的に苦笑しながら、スウェットパンツのポケットから家鍵を手繰り出して、鍵穴に挿し込もうとする。


 すると突然、僕の左隣から気配を感じた。

 隣室に住んでいる人だろうかと、僕はそちらに少しだけ身体を傾けて社交辞令の体勢をとる。


「……」


 けれどそんな愛想は、ただの一言も出なかった。代わりにその佳麗な立ち振る舞いに霧散していく。


 僕は眼前の光景が信じられなくて、ただ立ち尽くすばかりでいた。


「あ、皆本。良かったー、会えた逢えた!」


 そう言って僕に歩み寄って来たのは、紺色のブレザーの制服姿をしたロングヘアの少女だった。

 いや、それだけなら僕が戸惑うことはなかった。


 現在進行形で制服を着ている知り合いに心当たりがない旨を、正直に伝える事くらいは出来たように思う。


 けれど少女の容姿、口調、歩行姿勢、その全てが僕が良く知る人物と重なり合う。

「シ……ズ?」


 まるで高校生になれたシズが、十年以上の年月を経て、僕の前に現れたようだった。


 僕は窺うようにして訊ねる。

 それにシズに酷似している少女が明朗に答えてくれる。


「意外と変わらないね、元気そうでなによりだよ」


 前髪が揺れ、制服のブレザーが隙間から空気を含んで少し膨張していて、膝丈までのスカートがせわしなくなびいている。


 そうして今のどうしようもない僕には不相応な、少女の純粋無垢のまなこが襲う。


 まるで筋書きのあるドラマの奇跡的な再会シーンのようなエフェクトが、そのシズのような少女に爛々らんらんと降りかかっている。


「……あれ? どうしたの皆本。他人ひとのことをまるで幽霊のように眺めて」

「いやだって——」

「だって?」

「——シズは、もう……」


 そのあとの台詞が僕の中で憚られていて、口にすることができなかった。


 それを察した様子のシズのような少女は唐突に手を叩き、有耶無耶にしようと別の提案をする。


「さてと。私のことも覚えていてくれたようだし、じゃあ取り敢えず、皆本が住んでる部屋にお邪魔しようかな」

「え、いやそれは……」


 僕が住んでいる部屋扉の前に立とうとするシズのような少女は、首を傾げながら訊く。


「あれ、ダメなの?」

「だってまだキミがそうだって確証がないし。それに、平日の昼間から三十路の……らしくはないけど僕だって男なわけで。

 そこに制服のを招き入れるのは倫理的にもいかがなものかと僕は思うというか、なんというか……」


 僕が淀みながらも伝えると、少女は納得したように頷いて、即座にブレザーのボタンに手を掛ける。


「でもなんか、私が高校の制服を着ている姿を熱望するって皆本言ってたよ?」

「絶対人違いだから! 僕がそんなことを言うはずも望むはずもないよ」


 他人からは無趣味だと揶揄されることが多い僕だけど、この一瞬だけはそれを殊更ことさらに主張したい。


 シズのような少女は眉をひそめると、一度だけ頷き、ブレザーのボタンを外し始めた。


「要約するに、今は制服じゃなければいいと。なら脱ぐしかないか」

「まって待って! そういう問題でもなくて。いやそもそも、こんなところで服を脱がしている人も、了承して脱いでる人もどうかしてるから」


僕は何とかして制止を試みる。


「大丈夫だよ皆本。この下に私の好きなキャラクターがプリントされてる半袖シャツ着てるし、スカートの下もショートデニム履いてるから」

「だからそうじゃなくて……」


 僕が比喩的に頭を抱えていると、不満気なシズのような少女は、僕の右手にあるエコバッグに着目する。

 まるで異常の発生を指摘する様な仕草だ。


「長ネギ」

「はい?」

「そのバッグからはみ出てる長ネギ。早く冷蔵庫に入れないと腐っちゃうんじゃないかなーって」

「ああ」


 適当に購入した野菜の中に、どうやら長ネギがあったらしい。無感情に籠へと入れたせいか、あまり印象になくて失念していた。


 そして不自然に、わざわざ強引に話を変えた魂胆も見え透けていて、僕は少々警戒しながら反論する。


「どうせ、そうやって鍵を開けた途端に押入るつもりなんでしょ。その手にみすみす乗るわけがない」

「違うよ、本当にそう思っただけだもん」


 シズのような少女はいじけて唇を結んでいる。僕は溜息を吐いてからその少女に向けて意見を述べた。


 僕も意見を曲げるつもりは毛頭ない。


「悪いけどキミを部屋に招くことはできない。それにここで立ち往生していると他の住人に迷惑が掛かるかもしれない。

 でも……僕だって……キミの存在について色々と訊ねたいことがある。

 だから一旦解散して、どこか公的なところで落ち合おう。そうすれば互いにやましいことは何もない、身の潔白を証明するのも容易だと思うんだけどどうかな?」

「……」


 僕が長々と提案すると、少女は瞳を閉じて唸りながら思案したのち、やがて諦めたように肩を落とす。


「はあ、本当に頑固なんだよね皆本は。まあ昔からそんな感じではあったけどね」


 ブレザーに隠れていた右手首に巻かれた腕時計を見て、現時刻を確認してから、シズに似た少女は僕に約束の内容を口にする。


「今日の十七時五十七分。ここから近くファミレスは……ヨミゼリヤかな? そこでどうかな?」

「なんか随分と遅い気がするけど。あとすごく中途半端な時間なのは——」

「——ダメかな?」

「……いや。いいよ、わかった」


 僕は渋々と首肯して応える。

 それと同時に、このようなやり取りが懐かしくて、返事の抑揚がいつもより振り幅があるように僕自身で感じる。


 我ながら随分と振り回されたものだ。


「じゃあ、あとでね」

「……うん」


 微笑しながら手を振る。


 そうして僕とすれ違い、階段を下ろうとするシズのような少女は、定めた時間まで一体何処に居て、何処に向かうのだろうか。

 無言だと当然、返答はない。


 それを解っていて僕は、疑問を言葉で表すことはなく、ただ振り返るだけになった。

 そのシズのような少女が階段を降りていく背面と、シズの去り際を重ねてしまう僕がいた。


 僕とシズが別れるときには、次に逢う日付もしくは時間を設定することがよくあった。


 そして必ず、あとで、またね、そのようないつかに繋がる言葉を交わしていた。


「あとで、か」


 僕はそう呟いて、内心がくすぐったくなる。

 どちらかというとうずくと表現した方が適当かも知れないけど、ちょっとだけ幼い感覚の言葉にしたかったから、そうする。


 やがてそんな感情を押し殺して、部屋の鍵を鍵穴に挿入して一回転させる。

 ドアノブを下げて引くと、部屋の中へと入り、扉を閉めて即座に鍵を掛ける。


「一応、言われた通りにしようかな」


 僕は冷蔵庫の前に行ってしゃがむ。

 エコバッグの中から長ネギを含めた野菜を順に入れていった。

 ただ、長ネギのサイズが僕の家にある冷蔵庫の幅よりも若干細長くて、弓のような形状になりながらも強引に押し込む。


 なんだか食材を虐げているようで申し訳ない気持ちになるけど、そうしないと腐敗の進行が促されて食べられなくなってしまうから仕方ないと言い聞かせて詰めた。


「よし。意外なんとかなるモノだね」

「ホントだねー」


 僕と同じ目線の柔和な声が呼応する。


「……っ!」

「へーここが皆本の部屋なんだ。

 でも……んー、もうちょっと散らかってて欲しかったなー。あんまり几帳面過ぎると身体に毒だよ」


 僕はあまりの衝撃に、開いた口が塞がらないまま呆然とする。


どうしてかそこにいる、シズのような少女は部屋の中を見回しながらつらつらと感想を並べていた。


「あっ皆本、お邪魔してます」

「ど、どうして部屋の中に?」


 するとシズような少女は迷わず、部屋の扉を指差す。


「だって普通に開いてたから?」

「い、いやそんなはずは——」


 確かに鍵は掛けた筈だと思い返しながらも、僕は指差す方向に倣い、扉を見ると施錠はされていないどころか扉そのものが全開している。


「ほらね?」

「——……どう、なってるの?」


 そもそもシズのような少女が、僕の隣にしゃがんで声を発するまで全く気が付かなかった。


 それに加え、扉を引くときに必然的に出る摩擦音や足音の一つもなくて、違和感を持つくらいあっても不思議はないはずだ。なのにそんなことも一切なかった。


「大丈夫だよ皆本、何も悪さなんてしないからさ。私は泥棒さんじゃなくて、ただ皆本の近くに居て、もっとお話ししたいだけだから」

「……うん」

「そういえばこの部屋二階にあるけど、その……膝は大丈夫なの?」

「あ、ああ」


 僕は左膝を撫でる。

 昔は述懐するだびに患部を掻《か》きむしっていたが、着実に耐性を身につけて、中学生の頃には他の子にも負けないくらい丈夫な脚膝になった。


「もう、昔のことだよ」

「うん知ってる。でも、一応訊いておきたかったから」

「……」


 シズのような少女も、僕の過去に関係がある人物だと思わず唸ってしまう。


 同じ小学校の児童に伝えた内容は膝ではなく脚が良くないと説明していたから、特に膝が最悪な状態だと知る同年代の親しい人物はシズに限られる。


 だからますます混乱する。

 乗じて僕は、不謹慎だと理解しつつもシズのような少女にその質問をする。


 それ自体を慎んでいたかったけど、やはり触れなければ後悔しそうな気がしたからだ。


 自然と僕の拳が握られている。


「もしかしてキミは……………………亡霊とかしゃないよね?」

「……」


 僕の視線と少女の視線が交錯する。

 暫く相対している状況が続くと、シズのような少女が先に外して、なぞるように自身の脚元に触れて見せた。


 もはや迷信めいているけど、幽霊には脚がないらしい。


「脚が無くなったりはしてないんだけどね」

「……まさか本当に?」

「でも私、ここにこうして皆本と話せてるんだから生きてると思うよ?」

「……だからおかしいんだよ」


 珍しく荒ぶった声が出る。

 やり過ごすつもりだったけど、未だに全て受け入れられない現実がある。


 こうも容易く覆る現象も、またそれ以上に僕の心が受け入れてくれない。


 そんな困惑が伝導したかように、シズのような少女は少し俯いている。

 

「よいしょと」


 しかし直ぐに起立して、僕を俯瞰して戯けて微笑んでみせると、たちまちその事象を曖昧にする。


「さっきと問いだけどさ……やっぱり私もよく分からないかな? さてさて、どうだろうね?」

「どうだろうねって……」

「あ、扉閉じてくるね」

「まっ……」


 僕は反射的に手を伸ばすが、残念ながら気付いてはもらえなかった。


 そうして僕は、全開している扉へと歩んでいくシズのような少女の背面を再び眺めながら、いつかのシズの幻影を追いすがった。


 僕とシズが出逢ったのはお互いに小学生のとき、僕が入院していた先の病室だった。

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