小学生編

第3話 挙手

 僕はちゃんと青信号で渡った筈だと内心で訴えながら、十八インチのくの字にひんがった自転車と共に空中を舞った。


 そのまま地面に叩きつけられたというのに、不思議と身体の痛みはなかった。


 歳を重ねた後からその場面を回顧すれば、このときだけ神経が麻痺していたんだと思う。


 視野が霞んでいく最中、おもむろに俯いて視界に現れた僕の左膝の映像は、生涯忘れることは叶わない。


 膝蓋骨しつがいこつのある辺りから、主に脛骨けいこつの一部と肉が剥き出しになっていて大量出血もしていた。


 その光景を見た瞬間、僕の意識は吹き飛んで、次に気付いたときには病院のベッドの上で身体中を包帯とコルセットで厳重に固定されていて、自由を消失している。


 大型トラックが絡んだ交通事故が起こり、自転車に乗る僕がそれに巻き込まれた。


 すぐに近くの総合病院に運ばれて緊急手術を受けたと、意識を取り戻したその日に涙目になって今にも僕を抱きしめたい気持ちを抑えているらしい両親と、執刀した医師から聞かされた。


 非常に厄介な患部として、左膝辺りの下腿骨かたいこつ粉砕複雑骨折、腓骨筋腱が外踝がいかを乗り上げている右足首の腓骨筋腱脱臼ひこつきんけんだっきゅうに右腕の上腕骨顆上骨折じょうわんこつかじょうこっせつ


 他にも突き指や関節炎、挫傷の跡が身体中に張り巡らせたように点在しているが、脳の異常や臓器の大きな損傷もなかったのが不幸中の幸いだったらしい。


 いずれも順調にいけば完治するが、稀に神経痛などの後遺障害がみられることがある。


 当然そんな身体の僕に安易に触れることは厳禁で、ましてや抱擁なんてもってのほかだと、僕の両親は医師に釘を刺されたらしい。


 取り敢えず入院期間は最低でも三ヶ月。

 治癒の具合によっては一年以上掛かることも想定に入れておいてほしいとのことだった。


 入院期間に長さ関しては、僕がまだ九歳だったことに起因しているらしい。


 そのよわいの男の子は活発な行動をとることが多く、友達と遊んだりしたときに誤って転倒したりぶつけたりして患部を悪化させることがよくあるとの理由で大事をとった期間だと、これは母さんから苦笑しながら聞かされる。


 母さんが苦笑したのは、僕が積極的に友達と遊んだり、活動的でないことをよく知っているからだ。


 事故当日もおつかいを頼まれて、近所のスーパーに向かう途中だった。


笹伸ささのぶくん、お昼ご飯の時間だよ」


 僕の担当らしい看護師さんがトレイに乗せた昼食を持ってきて、ベッドのテーブルに置き、ベッドの上体を自動で起こす。


 利き腕の骨折、もう片方の手首も捻挫していて、共に微動するだけで苦痛が伴うため、暫くは食事の補助をお願いしていた。


「笹伸くんの食事を担当します、田宮です」


 看護師の田宮さんは一礼する。

 僕も心の中でそれに倣う。


「笹伸くんはあんまり好き嫌いがないってご両親から聞いたけど、もしあったら遠慮なく言ってね。気分じゃないとかでも全然いいから」

「はい」


 僕のことを笹伸と呼ぶのが、両親や親戚関係の人に限られているから、どうにも慣れそうにない。


「何から食べる?」

「じゃあ、野菜から……」

「おー。あ、ごめん。いきなり野菜から食べる子ってあんまりいないから」

「そうなんですか?」

「うん。なるほどね、好き嫌いがないってご両親が豪語するのも肯ける」


 それから田宮さんは、昼食を僕の指定にした順番に手際よく僕の口に運んでくれた。


 野菜はキャベツの千切りに胡瓜きゅうりの輪切り、二等分したミニトマトにブロッコリー。小皿にほうれん草の漬物もある。

 主食は白米で、主菜に鮭の素焼き。


 病院食は食欲が失せるほど退屈なものばかりだと訊いていたけど、僕個人の感想は色彩があって栄養バランスが良さそうな、非常に効率の良い食事だと思った。


「完食だね。あ、無理して食べたりしてないよね?」

「それは、ないです。病院食ってなんか新鮮で、不思議な感じです」

「そっか、もしかして笹伸くんは入院すること自体初めて?」

「そうですね」


 発声するための筋力を上手く扱えず、掠れてすぐに霧散しそうな声を田宮さんは拾ってくれている。


 ベッドを元に戻される。

 そして時間に余裕があるのか、僕と田宮さんは少し雑談をしていた。


「笹伸くんはアニメとか観るの?」

「なんだろう? ポチモンとか?」

「やっぱり一度は通る道よねポチモン」

「田宮……さんも観てたんですか?」

「うん、子供の頃にゲームからアニメ入って、離れた時期もあったけどまた観るようになったって感じかな」


 田宮さんは何処か懐かしむように答えた。


「今も観てるんですか?」

「うーん、どちらかというと子どもたちに連れ添って観ることが多いけど」

「子どもがいるんですね」

「えっ? あ、ちがう違う。その私、普段は小児科の担当だからそれで……」


 田宮さんが手を左右に振って否定している。

 僕は余計なことを話してしまったと少し後悔する。

 それと同時に訊ねてみたいこともあった。


「えっと、ここって小児科じゃないですよね?」

「うん。笹伸くんは九歳だけど、小児科じゃなくて整形外科になってるね。この辺はちょっとややこしいけど、普通は別の担当科に行くことは殆どないね。でも今回の笹伸くんの入院が予定外でね、九歳ってことで小児科担当の私が急遽助っ人としてきたって感じかな?」


 僕が話を聞いた限りでも、緊急手術即日入院。しかも本来なら県内最大級の病院へと救急車で運ばれる予定が、こちらの総合病院の方が圧倒的に近く、施設や医療体制にも問題がなかったため変更したとも、両親と医師が話してたのを微かに記憶している。


「でもね、私さっき予定外って言ったけど、これはあくまで病院としてだからね。

 私個人の信条としては、いつどの子がやってきても、最大限のサポートをしたいって思ってるから。正直、担当科が違うとか全く関係ないかな」


 長々と話したことを気にしている様子の田宮さんだったけど、初対面で完全に異分子の僕にも対応してくれたことに感謝しかなくて、でも最適な単語がわからなくて、結局混乱したま率直に伝えた。 


「……すみません」


 すると田宮さんは首を傾げる。


「何で? 別に謝られるようなことなんて笹伸くんは何一つしてないでしょ?」

「そうですかね?」

「そうだよ」


 そのまま田宮さんはベッドのテーブルの上にあるトレイを持って、僕に断りを入れる。


「じゃあそろそろ検査の子の時間だから。あ、そうだ。笹伸くんが車椅子を自由に乗れるようになったら小児科棟にある憩いの場においでよ。同じ年頃の子もいるしポチモンの上映会もたまにやってるから」

「あ、はい」

「あとその検査予定の子……女の子で笹伸くんと同い年なんだけど、その子元気だと何処にいるかわからないから、もし見かけたら覚えてていてくれると嬉しいな」

「は、はあ」


 僕はあやふやのまま生返事をした。

 田宮さんがトレイを持って去っていく。


 無地の天井を眺めるにも飽きたので、瞳を閉じて眠りにつく。

 けれどその瞳を閉じることに僅かながらに恐怖心が芽生えている。


 意識を失くしたときとの差異がなくて、自然と呼吸が乱れ、心拍が上昇して、身体が真夏日のように熱くなる。


「……」


 不快なまま一度、目を開ける。


「……」

「誰?」


 無地の天井が視界に入ると僕は思っていた。

 けれど実際、僕の目の前には病院案内のパンフレットが誰かの手によって掲げられていた。


「どういうこと?」

「ねえ!」


 耳をつんざくような声だった。

 ここが本当に病院なのかどうかを疑った。

 僕とは違い快活な存在であろうそれは、パンフレットを退けて、自身の顔を覗かせてきた。


「なに?」

「名前、なんていうの?」


 僕の左隣から視界に入る容姿から察するに、僕と同年代あたりの女の子だと理解する。

 ついでに先程、田宮さんが話題に挙げていた女の子だとすれば同い年の子らしい。


 それよりもまずは名前だ。


「皆本……」

「ミナモトね。じゃあミナモト、欲しいものない? あ、三百円以内で」


 そう言うと女の子は百円玉を見せつけてくる。


「どう?」

「いやどうって聞かれても百円玉だなーって感じ」

「違うよ欲しいもの。なにもない?」

「欲しいもの、ねえ」


 朧げなまま、なおざりに思考を巡らせる。

 だけど特にこれといったモノが想像出来ず、寧ろそのまま眠ってしまいそうなまであった。

 だから今迄で一番食べてきた料理名を出した。


「……卵焼き」

「卵焼きか、それなら確かコンビニとかで売って——」

「——母さんが作った、卵焼き」

「……」


 そこから無言の時間が続いた。

 急に押し黙ると逆に気になってしまい、僕は瞳を開ける。


 そのときに丁度両手を叩いていたので、結果的に猫騙しをくらったように怯んでしまう。


「よしっ、わかった! ミナモトのお母さんに三百円で卵焼きを作って貰えないか契約交渉してくる!」

「……おねがい」


 まず僕の母親を知っているのかとか、契約交渉の使い方がそれであっているのかとか、そもそも三百円の卵焼きって微妙にお高いとか、色々と突っ込みたいところがあって、それが面倒くさくなる。

 結局、簡潔な四文字だけに収まった。


 その刹那、呼吸が荒れている田宮さんが僕のいる病室に帰ってきた。


「いたっ!」


 ただし目的の人物は僕ではなく、僕の左隣で会話劇を繰り広げていた女の子の方だ。


「シズっ!」

「はいっ!」


 シズと呼ばれた女の子は左手を挙げて応え、それがちょうど寝そべっている僕だからこその角度で鮮烈な印象を植え付けた。


 それに気付いたようで、一瞬僕の方を向いてその女の子は微笑んでいる。


「検査の時間だよね?」

「もうかなり過ぎてるけどね」

「まだミナモトと全然お話してないよ」

「あ……いや、取り敢えず検査を先でお願い。そのあとなら……も、これもダメだ。今日のはかなり長くなるから」


 田宮さんが逡巡としている。

 シズと呼ばれる女の子は澄ました表情で待っている。


「……じゃあ明日、明日のお昼に私と一緒にここに来る。それでどうシズ?」

「何時?」

「んー、十二時半頃かな?」

「だってミナモト!」


 突然僕の名前を呼ばれて困惑する。

 田宮さんの提案は恐らく、僕の昼食時に一緒に連れてくること言うことだろう。

 今日は雑談が出来る時間もあったから、明日もそのゆとりはあると判断したみたいだ。


「調子が悪かったら断ってもいいからね?」


 田宮さんが僕がどちらの選択もしやすいように補足する。


 そういえば、田宮さんは僕とシズと呼ばれる女の子を理由まではわからないが、何処かで逢わせる予定だったと推測できる旨を話していた。


 シズと呼ばれる女の子は僕のおねがいを叶えようと約束をした子だ。

 なら僕も同じように約束を果たしたいと切に思う。ただの退屈凌ぎなのかもしれないけど。


「うん、明日」

「決まり! 明日十二時半、ミナモトの部屋にて」

「わかった……」


 なんだか悪者が潜んでいそうな名称だと失笑する。


「そういえばミナモトってどんな漢字?」

「皆さんの皆にほんで皆本」

「皆さんのほんで皆本。了解!」



 そう言ってポケットにパンフレットを押し込んでから、田宮さんの後を追い、僕のいる病室から出て行くときに踵を返して、もう一言だけ、一方的に残していった。


「皆本、またね」


 見切れながらも左手で大袈裟に手を振りながら去っていく。


 病室が途端に侘しくなる。

 そうして僕は無地の天井に想いを馳せる。

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