2.掃き溜めに鶴

「何笑ってんだ!」


 男のひとりが脅しをかけようと鉄パイプを地面に叩きつけた。痛々しい金属音が倉庫の中をこだましても、朔月はびくともせずに平静を保っている。


「さすが噂に聞いた冷静沈着な弁護士、鳴島望。こんなことじゃビビらねぇか」


 金槌を自身の掌に柔く打ち付けながら、ひとりの男が朔月の周りを舐めるように一周する。どうやら、男達は朔月のことを望だと勘違いをしているようだ。

 恐らく、男達は望に面識がなく、銀縁眼鏡をかけた弁護士という情報だけで朔月を攫ったらしい。

 どんなトラブルに見舞われても乗り切らなければ、と今朝方の決意が蘇る。この窮地を脱する術を画策しつつ、何故男達は望を誘拐しようとしていたのかが気になって仕方がなかった。


「何故私を誘拐したのか、教えてくれますか?」


 できるだけ低い声音で望の口調を真似て男達に尋ねる。今自分は敏腕弁護士である鳴島望の役を演じているのだと言い聞かせ、時間を引き伸ばして脱出する機会を伺った。

 周りを回っていた金槌を持った男が、朔月と目線を合わせるように腰をかがめた。


「柴崎道仁どうじんから、遺言書預かってんだろ?」


 記憶の中から、柴崎道仁の名を探り当てる。

 あれは二週間前。事務所にかかってきた電話をとった時、相手は柴崎と名乗った。年齢を重ねた物腰柔らかな声音から上品な老人であると印象を受けた。望に用があったらしくすぐに取り継いだ為に朔月は柴崎という老人と会ったことはない。

 その後、望が柴崎氏の自宅へ赴いたが仕事の詳細は語られない為に朔月は遺言書を預かっている事など知らなかった。

 だが、この男達は遺言書を預かっている事は把握済みらしい。白々しく知らないなどと言えばたちまち鉄パイプが襲ってくるだろう。


「……それがどうかしましたか?」


 知らない、とも、知っているとも言わずにうまく濁しつつ、相手の要求を聞くことに徹した。


「遺言書の中身を確認させろ」

「確認してどうするのですか?」

「書き換えるんだよ」

「偽造、するんですか。一体何故……」

「決まってんだろ。爺さんの財産を全部俺達が頂く為さ」

「爺さん……ということは、お孫さんですか?」

「あのじじい、素行が悪いだのなんだの文句つけやがって、家を追い出しやがったんだ。そんなんで遺産はもらえねぇだろ? もし協力してくれたら、あんたにも分けてやる。そうだな……これでどうだ」


 男が指を三本立てて見せた。


「三円?」

「違ぇよ、三百万だ」

「さ、ささささ三百万!?」


 生まれてこの方、通帳で三百万円という数字を見たことがない。朔月は思わず生唾を飲んでしまった。


「足りなければもっと出すぜ? なんたって、爺さんは五十億持ってんだからな」

「ゴジュウオク……」


 気の遠くなる数字に敏腕弁護士を演じていることを忘れかけた。男は目出し帽越しにニヤリと笑うと、朔月の肩をぽん、と叩いた。


「協力してくれたら悪いようにはしねぇよ。な? 綺麗な顔に傷つけられんの、嫌だろ?」


 すうっ、と金槌が朔月の色白の頬を怪しく撫でると、その冷たさにぞくりと背筋が凍る。思わず身じろぐと、ようやく反応を示したのが余程面白いのか、もう一度顎から頬へと金槌を擦り付けた。

 倉庫の重い扉が音を立てて開いたのは、その時だった。真昼間の太陽を背に仁王像のように立つシルエットに覚えがある。間違えようもない、仕事中でも私生活でも毎日目にしているのだから。


「彼に汚らしい物で触らないでいただけますか?」


 丁寧な口調で要求しているが、望の声は怒りで震えていた。怒鳴り散らすわけでなく、静かに怒りの炎を燃やしている方が恐ろしく感じる。


「誰だ? お前」


 取り巻きの男ふたりが手にしていた鉄パイプを地面に擦り付けながら、望と距離を詰めていく。相手は丸腰、怯むことなどないと既に勝ち誇った笑みを浮かべて鉄パイプを振り上げた。


「危な……!」


 朔月の悲鳴は「突入!!」という威勢の良い声によってかき消された。途端に、ヘルメットを装着した防弾服姿の人々が一斉に倉庫内に走り込んでくる。突然のことに腰が引けてしまっている目出し帽の男達に飛び掛かってあっさりと確保した。


「大丈夫でしたか?」


 確保された男達が連行されていく様を唖然と見送っていた朔月の傍に、涼しげな顔をした望が立っていた。背後に回って朔月と椅子を縛り付けていたロープを、手にしていたハサミで切っていく。


「どうしてここが? あの武装した人達ってもしかして……」

「ええ。SIT(刑事部捜査一課特殊犯捜査班)です」


 ふたりの所へSITのひとりが駆け寄ってくると、ヘルメットを脱ぎ捨てた。髪を縛っていた髪ゴムを解いて顔にかかった黒髪をかき上げると、ほんのりシャンプーの匂いが漂う。切れ長の瞳が望を鬼の形相で睨みつけていた。


「これ、ありがとうございました」


 一方の望は、睨みつけられていても平然として、持っていたハサミをSITの女性に手渡している。女性は鼻をならしてハサミをぶん取ると後ろのポケットに無造作に突っ込んだ。


「ちょっと兄貴。なんで勝手に中に入っちゃったのよ。危うく鉄パイプで木っ端微塵にされるところだったじゃない! 隊長が慌てて突入許可出してくれたから助かったものの!」


 望の妹、まどかはひどく憤慨して鼻の穴を膨らませている。そのせいで、SIT一の美人隊員と言われている美貌が台無しだった。


「誰も怪我をしなかったではありませんか。結果オーライです」

「まったく……兄貴は朔月君のことになると後先考えずに突っ走っちゃうんだから」

「そちらがいつまでも突入しないのがいけないのです」

「人質がいるのにむやみに入れるわけないでしょ!? 人質の命最優先、まず交渉班が犯人を説得して――」

「待っていたら日が暮れます」

「でも……ああ、もういいや。兄貴に何を言っても無駄ね」


 頭を抱えて諦めのため息をついた円は、朔月に「ごめんね、こんな兄貴で」と力なく笑うと他の隊員とともに撤収作業に戻っていった。

 拘束が取れた朔月は椅子に横向きに座って望と対峙する。望の、銀縁眼鏡の奥から覗く切れ長の瞳は、まだ怒っているのか鋭利に光っている。


「君、私の本体を盗るからこんな目に遭うのですよ」

「本体?」

「君が今かけている眼鏡のことです」


 大きくて節の立った指が、朔月がかけていた銀縁眼鏡を奪い取っていく。遠足から帰ってきた子供を抱きしめるように、愛おしそうに銀縁眼鏡のフレームを撫でた。


「眼鏡をかけていなければ私だと認識できないので、もはやこちらが本体と言っても過言ではありません」

「そう? 俺はシルエットだけで望さんだってすぐ分かったよ」


 助けに来てくれた時のことを話せば、望はきょとんとした顔をしてしまった。いつも隙など一切見せないからか、抜けている表情は新鮮だった。


「でも、不幸中の幸いでした。君が盗ったのが銀ちゃん二号で良かったです」

「銀ちゃん、って、眼鏡に名前つけてるの?」

「視力を補ってくれる体の一部ですから。愛着だってわくでしょう」

「そうだけど……」

「何か」

「いや。ただ、ネーミングセンスがなさすぎじゃないかと」

「では、君なら何と名付けますか?」


 ぐい、とさっきまでかけていた銀縁眼鏡を鼻先に押し付けられる。朔月にとって眼鏡の名前などどうでもよいことなのだが、望の真剣な眼差しに逆らえずに思いついた言葉を口にした。


「シルバー、とか?」

「私とどっこいどっこいです」

「そんなことより、どうして俺が誘拐されてるって分かったのか教えてよ」

「簡単なことですよ」


 中指で銀縁眼鏡を押し上げる。手慣れた仕草は普段から見慣れているはずなのだが、朔月はふっと安心してしまう。パッドが鼻に当たるカチャリという聞き慣れた音は、望の傍に戻ってこられたことを意味していたから。


「クライアントの元から事務所に向かっていた私に、所長から君が出勤していないと連絡が入りました。てっきり二度寝してしまっているのではとマンションに戻ってみると、私の部屋の扉が五ミリ程開いていました。中に入ってみたところ、私の眼鏡収納ケースが朝見た場所よりも三ミリ左に移動しており、微かに君のつけている香水の香りがしました。泥棒ではなく君が何らかの理由で私の眼鏡を拝借したと即座に分かりました」

「五ミリ、それに三ミリって」

「私のテリトリーです。それくらいの誤差すぐに分かります。君が着ていたパジャマ兼部屋着が脱ぎ捨てられ、部屋に特段不審なものはないことから君はいつもの時間に出社した、ところがその道中でトラブルに巻き込まれたのではないかと思い立ち、これを起動しました」


 望のスマートフォンの画面には、地図のアプリと現在地を知らせるアイコンが点滅していた。


「実は、君のスーツにGPSを仕込んでおきました。万が一の時に君を見つけられるように」

「嘘! いつの間に!」

「それと」


 望が銀ちゃん二号の黒い先セルを取り外した。先セルに隠されていたテンプルの先が平べったく、小型のUSBコネクタになっている。


「この銀ちゃん二号は超小型のICレコーダーで遠隔地からでもその音声を確認できます」

「つまり盗聴器?」

「いえ、ICレコーダーです」

「離れたところからでも音声が聞けるんでしょ? だから盗聴――」

「ICレコーダー、です」


 語気を強めて強調し、頑として盗聴器と認めないので朔月の方が折れた。


「犯人と君の会話を聞いて、やはり君がトラブルに見舞われていることを知って円を介してSITの派遣要請をしたのです」

「なるほど。それにしても、久しぶりだなぁ。割と大層なトラブルに遭うの。でも案外体は覚えてるもんだね。慣れ、みたいな」

「慣れるものではありません。君はまた昔のように――」

「昔とは違うよ」


 説教をしようと口を開いた望を遮った朔月の中性的な声は、普段の柔らかさはなく凛とした響きを持っている。埃が舞う薄汚い倉庫の中で、その声だけが澄んでいて美しかった。掃き溜めの鶴、ということわざのように。


「どうにか脱出しようってずっと考えてた。生き抜こうとしたんだ。ね? 昔の俺だったら考えられないでしょ。全部望さんのおかげ。ほんとにありがとう」


 曇りのない満面の笑顔は、望の怒りも説教しようとしていた気持ちも全て洗い流してしまうほど純粋だった。この笑顔に昔から弱くて尚且つ救われたのだと望は暫し惚けてしまう。


「どうかした?」

「何でもありません。行きますよ。こんな場所は君には似合いません」

「……帰りますよ、じゃなくて?」


 社会人として自立する為にひとり暮らしをするのは、まだ先のことでいいと思った。トラブルに遭っても冷静でいられたのは慣れのせいだけではなく、望という存在がいたから生きなければと思えたのだ。だから今はもう少しだけ、堅物な銀縁眼鏡の傍にいたかった。望の家に行きますよ、ではなく、ふたりの家に帰りますよ、と言ってほしかった。

 感情の揺らぎなどほとんど表さない望の、銀縁眼鏡の奥の瞳が見開かれて、そして緩やかな弧が描かれていく。


「では……帰りますよ。私達の家に」



(おわり)

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