第20話 二人きりでお昼寝を
静かな病室では、時計が刻む秒針の音がやけに大きく聞こえた。
俺は凪沙の手を握りながら、悔恨と懺悔の言葉をひたすらに頭の中で唱えていた。
医者にも昌兄にも休んだ方がいいと言われたが、頭はやけに冴えていて眠れそうな気がしない。
わずかに安らぎを覚えるとすれば、凪沙の呼吸が安定していることだけだった。
「ごめんな」
何度繰り返したかわからない謝罪を壊れたオルゴールのように漏らす。たった一度、約束を破った。凪沙が今日倒れてしまったのはきっと不運が重なったせいだ。それでもそれがこんな大きな失敗に繋がるなんて考えにもなかったことが悔しかった。
時計はいつの間にか零時を回っていた。不意に握っていた凪沙の手が弱々しく握り返される。
「おにーたん?」
「凪沙、気がついたか」
弱々しい声だが、はっきりとしている。一気に心が満たされるような気がする。握っている手に左手を重ねて、ぎゅっと強く握りしめる。
「ごめんな、お兄ちゃん約束を破っちゃったな」
「ううん。おにーたんやくそくやぶってないよ。ちゃんとなぎさのところにかえってきてくれたんだもん」
まだ苦しいだろうに、優しい声に涙があふれた。なんでそんなことが言えるんだ。今は我慢なんてしなくていいのに。
「おにーたん、おしごといそがしいのにがっこうにもきてくれたもん。だから、なぎさぜんぜんおこってないよ」
凪沙は自分の辛い思いを飲み込んで、俺に向かって無理をして笑顔を作っている。その優しさが俺の心臓に刺すような痛みを走らせる。
約束を破ったと怒っていいんだ。
待っていて寂しかったと泣いていいんだ。
ずっと一緒にいてほしいとわがままを言っていいんだ。
俺に気を遣って、弱々しく笑顔を作らなくていいんだ。
「凪沙、俺には我慢なんてしなくていいんだ。お願いがあったら何でも言っていいんだ。俺は、お前のお兄ちゃんなんだからな」
「おにーたんにはおねがいしてもいいの?」
「あぁ、そうだよ。お兄ちゃんは凪沙のために何をしてあげたらいいか知りたいんだ。だから凪沙はお兄ちゃんにお願いがあったら言ってくれた方が嬉しいんだ」
凪沙は俺の話を聞きながら、少し困ったような顔をした。この子は本当に甘えたりお願いをしたりするのが苦手なんだ。
俺が帰ってきてから身体をくっつけてしがみつくのが、精一杯の甘える表現だった。俺はそんな凪沙に気付かず、俺たちはうまく一緒に生活できていると勘違いしていた。本当は仕事に追われて凪沙にきちんと向き合えていなかったんだ。
「じゃあね、なぎさ、あしたはおにーたんといっしょにいたい。げんきになるまでいっしょにいて」
「あぁ。もちろんだ。明日は一日、凪沙と一緒にいるよ。約束だ」
「じゃあ、やくそくねー」
凪沙は花が咲くように笑うと、安心したようにまたゆっくりと目を閉じた。ようやく凪沙の本当の笑顔を見たような気がした。
翌朝、検診を受けた凪沙は予定通り退院できることになった。迎えはいらないと言っておいたのに、昌兄はしっかりと車で迎えに来てくれていた。
「すみません、古見さんよろしいですか?」
昨日の救急外来の先生に呼び止められる。なんとなく雰囲気を察して、凪沙を昌兄に預けた。
待合室に二人を残し、診察室に入る。いったい何を言われたものか。覚悟するために一つ息を飲んだ。
「凪沙の病状、悪いんですか?」
「いえ、肺炎の方は問題ありません。一日ゆっくりと休ませてあげてください。
ただ、今日検診をしていて、少し喋り方が年齢より幼い印象を受けるかなと思いまして。もちろん個人差はありますが、社会性が育ちにくい環境にいると、話し言葉が幼い期間が長くなりますから。学校のことも少し聞いてみてあげてください」
「わかりました。ありがとうございます」
医者の話を聞いて、逃げるように診察室を出た。昨夜、ようやく気がついた自分の情けなさを見透かされているようでいたたまれなくなった。自分のことは自分が一番よくわかっているつもりで、一番甘い採点をしていたのだ。
待合室で待っていた凪沙が走ってくるのを抱え上げ、昌兄の車で家に戻る。凪沙はときどき小さく咳を漏らしたが、意識も絶え絶えだった昨日と比べればすっかりよくなったと言ってもいい。昌兄は俺が疲れていると思っているようで、移動中にいつもの軽口はなく、凪沙の笑い声が一人聞こえていた。
実家に着いて車から降りようとしたとき、昌兄が運転席から顔を出した。
「祐雅。社用携帯は今ここで電源を切れ」
「なんでだよ。責任者と連絡つかなかったらどうするんだ」
「そん時は俺が首でもなんでもかけてやる。いいから切れ」
俺がポケットから取り出したスマホをふんだくると、昌兄は乱暴に電源を落とす。いっそ壊してえ、という恐ろしい声も聞こえたが、なんとか大人の理性で押しとどめたらしい。
「今日から三日。連絡禁止。お前個人の頼みだったら私用のスマホで聞く。仕事の話だったら切るからな」
「そこまで言うか?」
「当たり前だ。お前、昨日もろくに寝てないんだろ。倒れるまで働くやつは二流だ。倒れるやつは三流だ。体に余裕をもって働くやつが一番賢くて優秀なんだよ」
昌兄の言葉は耳に痛かった。
昨日、自分の愚かさに気付いた瞬間から、何かが弾けたように体が重いのは事実だった。そもそも事務所で居眠りするくらいだったんだから当たり前か。凪沙が出かけたいと言えば、どこへでも連れていってやるつもりだったが、今日は元気になるまで一緒にいるという約束しかしていない。
「いいか、電源入れるなよ」
去り際にもう一度念押しして、昌兄は仕事に出ていった。あそこまで心配かけてたら世話ないな。画面が真っ暗になったスマホを握り締め、凪沙と朝食を食べるためにダイニングへと向かった。
「おにーたんのおふとんもってきて」
朝食を済ませ、薬をなんとか飲ませ、凪沙を部屋に連れてくると、布団の隣を指差してそう言った。
「どうして?」
「おにーたん、きょうはずっとなぎさといっしょにいるから、おにーたんもおやすみするの」
さも当然、という顔で凪沙はもう一度、部屋の畳を指差す。有無を言わさぬお願いだった。
「わかったよ。ちょっと待っててな」
本当は凪沙が寝たら昌兄との約束を破って、企画書の続きでもやろうかと思っていたんだが、凪沙にまで見透かされているようだった。つくづく俺は反省ができない男だ。
言われるままに布団を凪沙の隣に敷き、せーののかけ声で同時に布団の中に潜り込む。すると、凪沙が俺の布団の中に手を伸ばし、逃がさないようにしっかりと手を握った。
「おにーたんとおひるねだよ。はじめてー」
「あぁ、そうだな」
休みの日に凪沙がお昼寝をすることはあっても、その間俺は自室で持ち帰った仕事をしていることが多かった。こうして布団を敷いて隣で寝ることなんて一度もなかった。
「なぎさがねるから、おにーたんもねるの。おねがいね」
「わかってる」
凪沙のお願いは少しずつ積極的になっている。不思議と手間がかかるという感覚はなかった。ようやく、凪沙と家族になり始めたような誇らしさばかりが俺の胸を埋めていた。
「あのね、いっしょにおひるねするの、ずっとしてみたかったの」
握られた手に力がこもった。俺がどこにもいかないように、離れないように。ずっと憧れていたという家族で一緒にお昼寝なんて、簡単なことを凪沙はどうしてそこまで。
聞いておくべきだった。今まで聞こうとしてできていなかった。
仕事が忙しいとか、うまくやれているからとか。そんな適当な理由をつけてずっと後回しにしてきたこと。
まだ小学一年生の凪沙が親元から離れて、ほとんど血の繋がらない俺の家に預けられていること。家族になるためにはきっと知っておかなければならないこと。俺が知らず知らずに目を逸らしていた事実と向き合わなければならない時が眼前に迫っている。
「なぁ、凪沙」
名前を呼んだだけで声が震えた。今聞くべきか、弱っている凪沙に。まだ休みはある。もう少し元気になってからでも遅くないんじゃないか。俺が言葉をためらっている理由を、凪沙はしっかりと理解していた。少し体を寄せて、俺に顔を近づけてくる。
「なぎさのおはなし、きいてくれる?」
「あぁ、ちゃんと聞くよ」
動揺を見せないように言ったつもりが、まだ声は震えていた。情けない、と思う。俺の心を知ってか知らずか、凪沙は俺の目をしっかりと見て、しかしどこか他人事のように淡々と語り始めた。
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