第19話 暗転する世界
コーヒーを傾けながら、ほとんど真っ白な企画書に目を落とした。
さっきから書いては消してを繰り返して、作業はまったく進んでいない。もう会議から一週間が経とうとしているのに、状況はまったく変わっていない。
「ドロップアイテムとそれによるプレイングの変化」
昌兄に話したアイデアをうわ言のように何度もつぶやいた。方向性はきっと間違っていない。何度も何度もプレイしたくなるようなどんな方法でクリアするか、という考えを刺激するようなゲームはできないか。
あの段ボールレースで何を転がすのが一番速いのかをみんなで試したときのように。思考錯誤をしたくなるようなしかけはないか。
事務所はしんとして静まり返っていた。ダンジョンの方は俺の予想通り少しずつ暇になってきて、管理に来ていた役所の臨時職員も休日にしか来なくなっている。今日は麻耶が受付に出ているが、たぶん今も暇を持て余しているだろう。昌兄は今日は役所の会議に出ると言ってこっちには来ていない。
視界がぼんやりとして、焦点がはっきりしない。疲れているのか、そんなことはない。前の会社では昼夜もなく働き続けてきた。ここまで大変ではあったが、凪沙との約束を守るために仕事の時間は短くなっている。
大丈夫だ。自分に言い聞かせながら文字を打ち込む。しかし、打ち込んだ文字は意味をなさない羅列にしかならない。
「大丈夫、大丈夫」
口に出してみても状況は一向によくならない。それでも俺は、前に、進むしか。
「こういうときってゲームなら前に倒した敵が助けに来てくれたりするんだよな」
今の俺だったら誰が助けに来てくれるだろうか。浩一はまさに対決中。落合も倒しきってはいない。昨日の敵はまだ敵のままだ。
「敵が仲間になる、か」
自分の呟いた言葉にはっとして顔を上げた。倒した敵が仲間になって、アイテムになる。こうすれば倒す敵を選んでいけば運ゲー感は下がる。いけそうだ。
さぁ、書け、と体に命じる。しかし思ったように動いてくれない。白紙の企画書に文字が打ち込まれる。それが正しいのかは、読み取れない。
かすむ目、震える手、思考がぷつりと途切れる。
気がつくと、机に突っ伏していた。パソコンの画面はオートでスリープになって、真っ暗になっていた。肩には仮眠用の毛布がかけられている。麻耶が帰る前にかけていってくれたのか。
「今何時だ?」
窓から見える外の景色は真っ暗。時計を見ると八時を回っていた。
「約束、凪沙!」
一気に脳がはっきりする。目的が仕事から凪沙に切り替わる。俺はすぐに片づけを済ませ、自転車に飛び乗った。
「ただいま、凪沙! 遅くなってごめん!」
玄関を乱暴に開けて叫ぶ。電気を消したまま凪沙が待っている真っ暗な部屋は、時間が遅いこともあっていつも以上に暗い。俺の声を聞くと玄関まで迎えに来る凪沙が今日は出てこない。
怒っているんだろうか。俺はすぐに凪沙の子ども部屋へと向かった。
「凪沙? 遅くなってごめんな」
謝りながら部屋の明かりをつける。部屋の真ん中でぼうっとしているはずの凪沙の姿がない。家中の明かりをつけながら凪沙を探す。
「凪沙ー! どこだー!」
こういうときは無駄に広い田舎の家が恨めしい。玄関から一番遠いリビングに辿り着いて明かりをつける。食卓のテーブルの脚の脇。苦しそうな顔で凪沙が倒れていた。
「凪沙! 大丈夫か?」
抱きかかえる。顔が熱い。小刻みに体が震えて咳をしている。返事はない。いつからこうだった。そんな予兆はあったのか。自分の仕事ばかり気にして、凪沙のことを見てやれなかった。
「とにかく病院に」
足がない。すぐに昌兄に電話をかけていた。
「昌兄! 凪沙が、車を」
そこまで言って気付く。今日は役所の会議に出ていた。それなら仕事終わりに酒を飲みに行っていてもおかしくない。
「すまん、やっぱいい」
電話を切って、次の相手を考える。おじさんか。それとも隣に聞いてみるか。
それよりまずは凪沙を。震えているから毛布を出してやればいいのか。
抱きかかえた凪沙を連れて、部屋に向かう。押し入れから冬用にしまってある毛布を引っ張り出して凪沙の体を包んでやった。
「あとは、頭を冷やしてやればいいのか?」
病気になっている暇がなかったから、何をしてやればいいのかわからない。俺はダメな大人だ、と自分を罵っても、何もいい方法は思いつかない。
その時、玄関が開く音がして、昌兄の声が届いた。
「祐雅! 凪沙ちゃんどうした!?」
「昌兄! 熱が出てて。病院に」
「わかったから早く連れて来い! 赤十字なら夜でも緊急外来やってるはずだ!」
昌兄に言われるままに凪沙を抱いて、玄関を飛び出した。
後部座席に凪沙を寝かせ、頭を膝に乗せた。やっぱり返事はないが、体が震えて息も荒い。
「飛ばすからな。しっかり支えてろよ」
ふかしたエンジン音で、昔バイクの後ろに乗せてもらったときのことを思い出す。暴走族だった昌兄はバカみたいな運転を繰り返していた。それでも俺が後ろに乗っているときだけは安全運転で無茶なことは一度だってしたことがない。
「昌兄、今日役所の人と酒飲まなかったのか」
「あぁ、今日は休肝日で断ってきた。祐雅、運がよかったな」
車が国道に入って速度が上がる。昌兄は薄く笑っているが、顔は
俺は何も考えていなかったのに、昌兄はきちんとこういう事態を考えていたのだ。
「悪いな、俺のために」
「弟分に頼りにされて、気分が悪くなるやつがあるかよ。お前、救急車呼べばいいのに、それより先に俺に電話したんだろ。兄貴としては誇らしいもんだな」
昌兄はバックミラー越しに俺の顔を見ている。一緒にバカな話をしたり、精一杯仕事に取り組んでいたりする仲間だと思っていた。でも昌兄はやっぱり兄貴なんだな、と思わされることになった。
緊急外来に駆け込んで、凪沙の病状を医者に伝えた。俺の焦りとは対照的に医者は落ち着いた様子で凪沙を診断すると、看護師さんにベッドの準備をさせて凪沙を連れていかせた。
「肺炎を起こしているようですが、ひどくはなっていませんよ。今日はベッドもありますので、点滴と抗生物質を投与するので入院しましょう。様子は見ますが、明日には帰れると思いますよ」
医者の話を聞いて、ようやくほっとした。肺炎になるくらいなら風邪の症状が出ていたはずだったのに、俺はいつから見逃していたんだろうか。
「それより古見さん。あなたもずいぶんと顔色が悪く見えますよ。凪沙ちゃんが心配なのはわかりますが、近くにいる大人が体調を悪くしていると子どもは自分のことを言い出しにくくなりますから」
それで凪沙は俺に言い出せなかったんだろうか。表面上は凪沙のためにと言っていても、本当に必要なことは何もできていなかったのか。
診察室を出ると、待合室で昌兄が待っていた。薄暗い部屋に一人座っている姿が凪沙を思い起こさせる。俺の姿に気付くと、立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。
「どうだって?」
「肺炎になってるけど、大丈夫だって。一応今日は入院して様子を見るって」
「そうか。大事じゃなくてよかったな」
昌兄は大きく息を吐いて、また座席に身体を預ける。本当に心の底から心配してくれている。俺のことも凪沙のことも。
「俺は今日はここに残るよ。凪沙が起きたときに俺がいないとかわいそうだ」
昌兄は少し口を尖らせて、俺を見ながら煙草の煙を吐くように長い息を吹きかけた。ここまで届くはずがないのに、妙に吸い込む息が重く感じる。
「祐雅、お前も休め。明日から、三日くらいな」
「そんな余裕はねえよ。やっと企画書に手がつけられたっていうのに」
俺の反論を遮るように、昌兄は俺の脚を叩く。
「じゃあ俺がそれ読んでおいてやるから。お前がいなくなったら本当に十二月で追い出されるかもしれないんだ。お前の替えは利かねえんだ。凪沙ちゃんにとっても、俺たちにとってもな」
昌兄が立ち上がって、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。本当は俺がこうして凪沙を撫でてやらなきゃならないのに。その時間を誰かに作ってもらわなければ忘れてしまうのだ。
「わかった。凪沙にちゃんと謝って埋め合わせしないとな」
俺の答えに満足すると、昌兄は病院から一人帰っていった。
凪沙の病室に向かう。静かに扉を開いてベッドの側に座る。抗生物質が効いているのか、寝息は穏やかなものになっていた。
「ごめんな。明日はずっと一緒にいてやるから」
凪沙の右手を優しく握る。温かく柔らかいこの感触を手放してはいけない、と改めて思った。
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