第21話 家族を待ちながら

「なぎさのぱぱはね、あんまりおうちにかえってこなかったの」


 いつものように舌ったらずな声で、凪沙はそう語り始めた。子どもらしいかわいらしく、でもどこか暗さを落とした声で。


「たまにかえってくるとね、おさけとたばこのにおいがしたの。ましゃのくるまみたいなにおい。それでね、なぎさのことたたくの。なまいきだって。

 なぎさ、いいこにしてるのに、ぱぱはいっつもそういってたたくの。

 それでね、やめてっていったらままがきて、なぎさのかわりにままをたたくの」


 そこまで聞いて、もう朝食が逆流しそうになった。そういうことがこの世界で起きていることはわかっていた。でもそれはどこか自分とは関係のない遠い話だと思っていた。

 今目の前の少女がそんな想像でしかなかった話を淡々と語ることが怖かった。


「なぎさがね、なんどもやめて、っていってもぱぱはなぎさをたたくの。

 それでね、おうちにおまわりさんがきてね。ぱぱをつれていったの。ぱぱはそれからおうちにかえってこなかったの」


 繋がれた凪沙の手に俺の左手を重ねた。そうしないと、凪沙がどこか遠くへ消えてしまいそうな錯覚がした。


「ぱぱがいなくなったらね、こんどはままがあんまりおうちにかえってこなくなったの。

 いそがしいって、おにーたんみたいにいつもいってた。それでね、ときどきぱぱじゃないおとこのひとがきてね、けんかしてたの」


 握っていた手を凪沙の腕に寄せた。離したくない。放っておいたら過去の世界に凪沙の記憶が巻き戻ってしまう気がする。ここに俺がいることを、証明しなきゃいけない気がする。


「それでね、ままがね、なぎさにきいたの。ままのことすき、って。

 うん、ってこたえたらね。ままがなぎさのくびをぎゅってしたの。くるしいからやめて、っていったら、ままがおこっておうちからでていって、こんどはままがかえってこなくなったの。

 そしたらおばたんがきてね、ままはとおいところにいっちゃったからいっしょにくらしましょ、っていってくれたの」


 凪沙の体を強く引き寄せる。自分の布団の中に引きずり込んで、強く抱きしめていた。


「おにーたん?」


 不思議そうに俺に問いかける。でも確かにその目には涙が流れていた。俺は凪沙とは比べ物にならないくらいの涙を流して、凪沙の頭を何度も何度も撫でていた。


「凪沙、教えてくれてありがとう」


「おばたんがね、ほかのひとにはいっちゃだめだけど、おにーたんにきかれたらいってもいいよ、っていってたの。だからね、なぎさぜんぜんかなしくないよ。おにーたんがきいてくれたから」


「聞くの遅くなってごめんな。お兄ちゃん、凪沙との約束絶対守るからな」


 凪沙はずっと俺にサインを送っていたんだ。ありとあらゆる行動が凪沙の過去と結びついている。


 俺に毎日帰ってくるように約束したのは、両親が帰ってこなくなったから。

 暗い部屋でじっと待っているのは、誰もいない部屋に耐えられないから。

 外食が嫌いなのは、母との生活で手料理を食べられなかったから。

 そして何事も我慢してしまうのは、自分が拒絶すれば相手がどこかに消えてしまうからだ。


 凪沙の中の苦い苦い記憶が、幼い彼女の心を縛りつけている。


 俺が凪沙にとってどれほどの助けになっているかはわからない。だから今はただ、震える凪沙の体を抱きしめながら、一緒に眠ってやることしかできなかった。

 心の中に淀んでいた膿が涙とともに流れ出て、凪沙はきっといつ振りかわからない安眠を得ていることだろう。それは俺も同じだった。


 どれほど眠っていただろう。目を覚ますと、凪沙は俺の胸の中で小さな寝息を立てていた。ほんのりと温かいその体は熱を持っているというわけではなさそうだ。ゆっくりと額に手のひらを当てると、昨日のように熱いという感覚はない。俺の胸の中にすっぽりと収まった凪沙は胎児のように体を丸め、両手で俺の腕を大切に抱きしめるように握っていた。


「そろそろお昼ご飯の時間か」


 朝ごはんを食べて、眠って、起きて、昼ごはん食べて。

 こんな自堕落な生活はいつ振りだろう。大学の長期休暇のときだろうか。あの頃も暇さえあればリアルダンジョンゲームを求めて日本中を回っていたから、こうして一日家で寝ていることなんてなかった。そうなると、本当に子どもの頃にインフルエンザで寝込んだときじゃないだろうか。さすがにあのときは動くこともできなくて、軽い風邪なら午後には元気になって遊ぼうと思っていたのに、あのときばかりは完全に一日中布団の中でおとなしくしていた。


 今日凪沙から聞いた衝撃は、そんな高熱に浮かされるような衝撃だった。凪沙はまだ眠っているが、起こしてご飯を食べさせないともらってきた薬が飲めないな。


「凪沙、お昼だぞ」


「おひるー?」


 少し申し訳なかったが、せっかく治ってきた病気がぶり返してきたら元も子もない。少し揺すってやると、凪沙は思った以上に寝起きよく、目を擦って俺の顔を見上げた。


「お昼ご飯食べないとな。何にしようか?」


「やしゃいいためー」


 結局いつものか、と言っても俺の野菜炒めレパートリーもだいぶ増えた。今日は胃に優しい方がいいから、簡単にホワイトソースを作ってクリームあえにしてみようか。


 ほうれん草とベーコンにホワイトソースが絡んでいる。簡単だけど塩コショウや焼き肉のたれと違った味になるから、味を変えたいときに助かるのだ。


 凪沙は食欲も戻ってきたみたいで、クリームを口の周りにつけながら手を止めずに食べ続けている。皿がきれいになるまで丁寧にすくって満足したらしい凪沙は、お皿をシンクに持っていこうとしてこちらを向いた。


「おにーたんはおばたんいなくてだいじょうぶなの?」


「お袋か。まぁ、うちの場合は絶対帰ってくるからな」


 凪沙の両親とは本当に反対の人間だと思う。俺が子どもの頃なんて辛いことはいくらでもあったろう。それなのにどんなに遅くなっても必ず帰ってきて、家と仕事を完璧に両立していた。俺も凪沙との生活が両立できていると思っていたのはお袋にできていたことだから、と甘く見ていたからかもしれない。


「お袋は絶対帰ってくるよ。お兄ちゃんだって毎日帰ってきてるだろ。そのお兄ちゃんのママだからもっとちゃんと約束を守れるんだ」


「おばたんすごーい。なぎさもおばたんみたいにすごくなれる?」


「んんー、じゃあまずちゃんとお薬飲もうな」


「おくすりにがいからきらーい」


 そう言いながらも、凪沙はためらうことなく粉薬を口に入れると、急いで水で流し込んだ。苦いからと子どもが嫌いなピーマンやゴーヤなんかは野菜炒めに入れても平気で食べるのに、ちょっと不思議だ。


 凪沙にとっての野菜は、お袋が育てた愛情そのものだからなのかもしれない。

 もう凪沙の顔色はよくなっていたが、今日は一日一緒にお昼寝をする約束だった。凪沙が布団に入って横になると、俺も約束通り隣の布団に入らなきゃいけない。朝から寝たおかげで頭はずいぶんとはっきりしている。このまま一日寝ているのは暇になりそうだ。


「凪沙」


「だめ。おにーたん、ここにいるからおしごとするっていうもん。なぎさがおねがいしたから、きょうはだめ」


「そうだったな」


 先読みされた上にはっきりと拒否されてしまった。昌兄といい、どうやら俺が仕事をすると心配する人は大勢いるらしい。俺は諦めて布団に入るが、やっぱり眠気はまったくない。


 凪沙のことを聞けたおかげで、心の奥に知らず知らずに落ち込んでいた何かがきれいさっぱりなくなったような安心感がある。そうすると今度はダンジョンをなんとかしないと潰されてしまうという不安が首をもたげてくるのだ。


「でも昌兄にも休めって言われたんだっけ」


「おにーたん、おしごとたいへんなの?」


 起こしてしまったか、と凪沙を見る。凪沙の方もあまり眠くないらしく、顔はすっきりとしているようだった。


「大変っていうか追い詰められているというか。いいアイデアが浮かばないんだよ」


「じゃあおふろいって、ごはんたべて、おさんぽしないとだめなんだよ。おにーたん、いわやまにそういってた」


「そういや、そんなことも言ったな」


 我ながらあれはちょっとカッコつけすぎたかもしれない。岩山が泣いていたせいで、それに気付かない振りをしようとしてあんなことを言ってしまった。それにしてもそんなことは覚えておいてくれなくていいというのに、凪沙はいいことを言った、みたいな得意げな顔をしているし。


「どこかおでかけするー?」


「今日は寝てなきゃダメだ。でも明日元気だったら、どこか行こうか。どこ行きたい?」


「じゃあねー、なぎさまたおねがいするね。あしたはびじゅちゅかんにいきたいの」


「美術館? どこかにあったかな」


 凪沙が提案したのは意外な場所だった。美術館か。そういう場所には縁がなかったからな。インスピレーションを求めていくにはいい場所かもしれない。


「美術館、好きなのか?」


「ままがね、ときどきつれていってくれたの。こどもはおかねがかからないんだっていってた」


「そっか。思い出の場所なんだな」


 小学生や未就学児が無料になる美術館は結構あるらしい。凪沙の楽しい思い出が思い起こされるなら連れていってあげる価値はある。


「わかった。でも元気になってないとダメだからな。今日はゆっくり休もうな」


「おにーたんもおやすみしなきゃだめー」


 凪沙に手を引っ張られる。どうやら本当に今日はここから動かせてもらえないらしい。明日の楽しみのために、今日はここでゆっくりと体を休めるのだ。そう思って、俺は凪沙の手を握ったまま、目を閉じた。

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