将来の夢の世界にて

 鳳先生と吹奏楽部の不仲騒動が、先生の尽力で去ったある日……からだろう。

 俺は、また十年後の将来の夢を見ていた。


 倉橋や綾部との宅飲み鍋パーティーを一日前倒ししてもらい、俺は悴む手をポケットに突っ込みながら、ある居酒屋に向かっていた。


「寒い」


 思わず呟くくらい、寒い夜だった。

 それでも待ち人を待たさぬように、何とか賢明に足を進ませて道を進んだ。何せあの人、教師だからか遅刻にはやたら厳しい。


 そんなこんなで辿り着いた居酒屋は、どうやらイベント事が続く時期も相まって結構繁盛しているようだった。


「いらっしゃいませー」


「すみません。待ち合わせしているんですが」


「予約の人の名前、伺えますか?」


「鳳です」


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 店員に連れられた先は、襖のある個室になっていた。


「ごめんなさい。遅くなりました」


「いいえ、時間三分前です。遂に遅刻しなくなりましたね、古田君」


 襖の先にいた鳳先生は、相変わらずイケメンだった。

 ここは地元でなく東京の居酒屋。

 俺は、いつか見た将来の夢と同様に、色々と綾部に仲介してもらって今の就職先に勤めていた。


 そして鳳は、五年くらい前から色々な都合で東京の学校の教師として教鞭を振るう日々を送るようになっていた。


 そんな俺達の再会はいつ頃だったか。


 確か、そろそろ大学を卒業しようって頃のある日、運悪く俺が寝坊をした日の出来事だったかな。

 慌てて朝食であるパンを加えながら登校していると、曲がり角から飛び出してきた鳳先生に激突したんだよなあ。

 

 ……正確には、鳳先生のスポーツカー、か。


 いや本当、男と女の出会いなら一恋愛小説くらいにはなりそうなのに、男同士なら一歩間違えば追突事故だもんなー。

 世の中おかしいよなあ。


 まあ、幸いにもかすり傷で済んで助かったのだが。


 あの後、俺は倉橋と綾部からこっぴどく叱られた。


 そんな再会を経て、俺達は丁度俺が成人したことも相まって、度々こうして居酒屋で互いの近況報告、ついでに仕事の愚痴とか楽しいこととか、そんなことを話す間柄になっていた。


「先生、いつかにまして笑顔が増えたな」


 ビールも三杯目になろう頃、俺は鳳先生に向けて言った。


「わかりますか?」


「わかるよ。あれだろ。恋」


「アハハ。惜しいです」


「えっ、じゃあほぼ恋しているの? 遂にですかー。こりゃあ、明日の一面だわ」


 この人、もう四十近いというのに、こうして近況報告の飲み会を開いては女のおの字もないから凄い不安だったんだよな。


「残念ながら恋ではないです。私が最近楽しませてもらっている相手は、何せ男子ですから」


 ビールのジョッキが手から滑り落ちた。


「ちょっと古田君。何やってるんですか」


「いや、あんたのせいだろう」


 ガラスが割れる音で駆けつけた店員に謝罪しながら、俺は店員と二人でガラスの破片を片付けて、替えのビールを注文した。


「で、男に恋した鳳先生。いくら最近がLGBTに寛容的な時代柄であるとは言え、四十のおっさんが男子高校生と一線を越えるのは事案だし最早薄い本なので警察を呼んでもいいですか?」


「古田君。すっかり出来上がってますね」


「そんなことねーよー。酒が足らん足らん。もっともってこーい」


 気持ちがどんどん朗らかになっていく中、俺はビールを持ってきた店員を困らせていた。鳳先生は、店員に爽やかスマイルで謝罪して彼を帰した。

 ……しかし、あれだな。


 鳳先生の隠れた性癖を知った今、あの男性に向ける爽やかスマイルも、ただの毒牙を隠す魅惑な花弁としか見れなくなるな。


「古田君。いい加減怒りますよ?」


「ごめんごめん。で、その男子、何がそんなに面白いんだい」


「えぇ、その子、どこか昔の君と似ているんです」


 遠い目で語る鳳先生に、俺は少し肝を冷やしていた。毒牙にかけられそうだったのは、俺だった……?


「妙に落ち着いているし、何よりまるで中身がサラリーマンみたいなんですよね。成績も確かに良いですし、何かおかしいかと言えば、何もおかしくなくただの高校生なのですが……。どうも不思議でね」


 そりゃああれだな。

 十歳くらい若返ったんだよ。

 ほら、国民的ミステリーアニメの主人公も、薬で幼児化してただろ。


 まあ、俺は薬を使わず幼児化したけどな。つまり俺、コナ〇よりも凄いってことだ。ああ、コとナの間には伸ばし棒は入らないぞ? それ入れたら、ホームセンターだからな。


「いつかの君との間柄も、高校教師と言う立場から考えれば体験出来ないような楽しさがありましたが……十年経って、教師としてある程度成熟した今、再び君みたいな子と相対するとね。中々面白いですよ」


 ククク、と笑いながらビールを煽る鳳先生は、確かに楽しそうに見えた。


「君は相変わらず、いつもの彼女達とよく遊んでいるんですか?」


「ああ。そうだよ」


「仕事にも、もう慣れましたか?」


「うん。ほどほどにね」


「健康診断とか大丈夫ですか? 私、今まで一度も産業医に呼ばれたことないんですよ」


「そりゃあ凄い。俺は今回、初めて呼ばれた」


「ほう。どこが引っかかったんですか?」


「肝機能。酒の飲みすぎだと言われた」


 労わるように腹をさすると、鳳は今度は高笑いをしていた。


「そんなにしょっちゅうお酒を?」


「呼びつける奴らがいるんだ。終電まで飲ませるし、何ならしょっちゅう終電逃すし、たまったもんじゃない」


 脳裏に浮かぶのは、彼女らの微笑みだった。


「……彼女達も、報われませんね」


「何か言った?」


 鳳先生の呟く声は聞こえず、俺は耳を寄せて再度言うように促した。


「近寄らないでください。スケコマシが移ります」


「いてぇっ」


 押し返す鳳先生の力は強く、俺は少しだけ酒が抜けた気がした。


「古田君。君は今、自分の人生に不満や後悔はありますか?」


 そして、鳳の何気ない一言で、もっと酒は抜けていった。


「……ないよ。幸せすぎて、たまらない。この時間がいつまでも続けばいいのにって思ってる」


「でも、そうもいかないのが人生です。君はこれから、選ばなければならない。何かは敢えて言いません。それは自分で気付かなければならない。

 そして多分、それを選んだ時君は、今より少し不満を覚えるかもしれない。後悔を覚えるかもしれない。

 だけど、君なら多分、それも乗り越えられるでしょう」


「さすがアラフォー。語るねえ」


 おどけて笑うと、鳳先生は少しだけ眉をひそめた。真面目に言ったのに俺が無下にしたことが、多分少しだけ気に食わなかったのだろう。


「……君が、私が楽しそうなことがある時の顔がふとわかるように、私も君との付き合いが長くなったからか、君が一番幸せそうにしている時の顔をわかるようになってしまいましたよ」


「へえ、それはどんな時?」


 再び酔いに身を沈めようと、ビールを煽った。


「三人の女性を思っている時や、語っている時です」


「……へえ」

 

 ひんやりとした喉越しに酔い痴れる内に、少しずつ気が遠くなっていくのがわかった。


「最近だと……まずは綾部さんとの他愛もない話。この前手料理を振舞ってくれたけど、味がイマイチで、でも当人の前だから言えなくて、と愚痴っていた時。あの時の君は、愚痴っぽく喋る割に楽しそうだった」


「そんなこと、あったなあ」


「次は、倉橋さんとの最近の話ですね。時に最近は、上京してきた弟さんの愚痴を聞かされて面倒だと喚いている時が、特に嬉しそうだった。あまのじゃくな男と思ったものです」


「……うん」


「そして……」


 ビールを少し煽って、鳳は続けた。






「七瀬さんとの、昔話」






 アルコールの酔いが一気に覚めたことがわかった。


 いつか胸にチクリと感じた違和感の正体を、俺はこの鳳との些細なやり取りで急に気付かされることになった。




 そうだ。


 そうだった。


 一度目の将来の夢では、気付けば疎遠になっていた。

 二度目の将来の夢では、倉橋とは良好な関係が続いたのに、気付けば疎遠になっていた。

 三度目の将来の夢でも、綾部や倉橋と仲良くなったのに、彼女らとも仲の良かった彼女とは、気付けば疎遠になっていた。



 タイムスリップした時、一番学生生活で時間を共に過ごした少女は……七瀬さんは、気付けば俺の傍からいつも姿を消していた。


 大学は別々だった。

 だけど、初めのほうは連絡を取り合った記憶があった。

 今度いつ会える。どこか行きたい場所はある。また今度会おうね。


 そんな会話を、俺はもう何年七瀬さんとしていないのだろう。



 まるで気付きもしなかった。

 

 目まぐるしく変わっていく景色に、世界に、時間に。


 俺は気付けば、かつての旧友の存在をいなくて当然のものと受け止めてしまうようになっていた。



 だから、こうして鳳先生に言われるまでまるで気付かなかった。


 気付けば七瀬さんともう三、四年会っていないことに、そんな疎遠になっていく夢を何度も見続けたのに。


 俺は、まるでそんなことに気付きはしなかった。


 そのことが悔しくて寂しくて驚いて。


 意識が混濁としていく中、俺は最後に見た彼女の顔を思い出そうと試みていた。


 しかし、不鮮明な記憶は夢となり……。




 俺は、また高校生活に戻ってきた。

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