殺戮猩々ニ関スル件

春海水亭

殺戮/殺戮/・猩々/猩々

***


さつ‐りく【殺戮】

〘名〙 (「戮」は罪人を殺す意) 刑罰として殺すこと。現代では、刑罰とは関係なく単に、多くの人を殺すこと。


しょう‐じょう〔シヤウジヤウ〕【×猩×猩】

1 オランウータンの別名。

2 想像上の動物。オランウータンに似るが、顔と足は人に似て髪は赤く長く垂れ、よく酒を飲むという。

3 酒の好きな人。大酒飲み。


***


 ブランコの軋む音、ぎいぎい。

 夕暮れ時の公園は人気もなくて、その音だけがやけにうるさく聞こえました。

 友達はみんなとっくの昔に帰ってしまって、芳雄くんだけがブランコに乗っています。

 芳雄くんは十歳の少年で、夏だというのに長袖長裾を着ています。

 そして、上着の裾が出ないように、しっかりと下穿きに収めているのです。


 ぎいぎい、ぎいぎい、ぎいぎい。

 勢いよく動くブランコとは正反対に芳雄くんの表情は沈んでいます。

 はぁ、と思わずため息が漏れました。


「どうしたんだい、きみ」

「えっ」

 そんな、芳雄くんに声をかける男の人がいました。

 青い軍衣を着た憲兵さんです。

 声を掛けられた芳雄くんはずりずりと靴を地面に擦らせて、ブランコの動きを止めていきます。


「どうしたってなにがですか?」

「顔はしょげているのに、ブランコを漕ぐ力は男子おのこらしく勢いが良い、どうにも心と身体の均衡が取れていないように思えてね」

「いや、そんなことは……」

「……それに、今ちょっとした事件が起こっていてね。なに、恐ろしいことはなにもないのだけれど、きみ、早く帰ったほうがいいよ」

 憲兵さんは、芳雄くんの隣のブランコに座り、上背のある身体をさらに屈めて芳雄くんに目線を合わせるようにして言いました。


「事件ですか?」

「うん、猩々を知っているかい?」

「……知りません」

 芳雄くんは何かを恐れるように目を伏せて言いました。


「そうかい」

 憲兵さんはそんな芳雄くんの様子を気づいているのか気づいていないのか、朗々と言葉を続けます。

「猩々というのは、外国の獣のことだよ。猿よりも大きくて、赤くて長い毛をしている」

「……その猩々がどうかしたんですか?」

「見世物になるというので、サアカス団がその猩々を仕入れたんだ。想像もしたくないような旅だね。狭い檻に入れられ、馬車に揺られ、船に揺られ、そして汽車に乗り……とうとう我が神都へと訪れた。しかし、しかしだよ」

 まるで舞台に上がった役者のような迫真の語り口で憲兵さんが言うので、思わず芳雄くんは息を呑みました。


「檻の中の猩々は消えていた。そして、サアカス団の面々が何者かによって殺されてしまったのだよ」

「……猩々が殺したんですか?」

「さて、どうだろうね……まぁ、そんなわけで我々は重要参考の獣として、三日前から猩々の行方を探しているわけだよ」

「大変ですね、憲兵さん」

「なに、檻から出たばっかりの時は気が立っていたんだろうが猩々は本来ならば温厚な獣さ。それに簡単に捕まえる方法もあるんだよ。まぁ、それでも出歩かない方がいいから、こうして警告して回っているわけなんだがね」

 憲兵さんはブランコの後ろにひょいと飛び降りました。

 そして、芳雄くんの両肩をがっしりと掴んで、耳元で囁くように言うのです。


「きみ、なにか知っているんじゃないかなぁ」

「な、なにか?」

「……猩々について、だよ」

 自分の心臓が薄い皮膚を突き破って外に出るのではないかと思うほどに、芳雄くんは驚きました。

 憲兵さんはもっと芳雄くんに顔を近づけて、その匂いを嗅ぎます。

 芳雄くんからは強いアルコホルの匂いがしました。

「猩々という獣はね、畜生の分際で酒が好きなんだよ」

「そ、そうなんですか……」

「きみ、その年齢で酒を嗜むのかな?良くないぞぉ……」

「ち、違います……僕、お酒を飲んだりなんか」

「そうだよねぇ、きみ。信じる……信じるとも。しかし未来ある少年がなぜ、アルコホルの匂いを漂わせているのだろうね……」

 蝉がぜいぜいと鳴いています。

 日が落ちても夏の太陽は暑さを緩める気配はありません。

 だというのに、芳雄くんは寒くて寒くてしょうがありませんでした。


「きみ、酒で猩々を捕まえようとした……いや、もうとっくに捕まえている……どうかなぁ?なにせ猩々の毛皮は高く売れるからね。それこそ、子どもが猩々狩りを試みて見ようという気になるぐらいにねぇ……猩々を酔わせて、何度も何度も殴るんだ、どうだい?」

「そ、そんな馬鹿なこと」

「勿論、馬鹿なことだよ……けどねぇ、馬鹿なことと言ったら、一人でブランコを漕いでいるきみの方がよっぽどじゃないか。猩々が逃げ出してから三日も経っているのだよ?浮浪者だって、この事件を知るには十分な時間だ。どれだけの号外が出たと思っているんだい?尋常小学校にだって通知は出している。ねぇ、きみ。なんで猩々のことを知らないだなんて言ったんだい?危険な猩々が潜む神都で一人遊ぼうと思うんだい?知っているんじゃないかい?もう猩々の危険はないなんてことをさぁ」

 獣の吐くような荒くて生暖かい息が、芳雄くんの肌を撫ぜます。

 獣の口の中にいるような状況で、芳雄くんが言葉を吐き出しました。


「い、家に帰りたくないんです……」

「ふむ?」

「二人暮らしのお父さんがお酒を飲んで暴れるので……それで、なるべく外にいようと思って」


 しばらく憲兵さんは考え込むように黙り込んで、そして芳雄くんの上着の袖をめくりあげました。

 芳雄くんが長袖で隠した白くて薄い肌には、いくつもの痣があったのです。

 憲兵さんはしばらくその痣を眺めた後、何かを言おうとしました。


「おい、猩々が見つかったぞ!!早く来い!!」

 しかし、憲兵さんが口を開くよりも早く、公園に来た新しい憲兵さんが大声で叫んだのです。

「なんですって!?」

「そんな餓鬼にかまっている場合か!凶暴化した猩々が街中で大量の殺人を行っているんだ!!ありったけのアルコホルをかき集めて応援に行くぞ!」

「……わかりました、今すぐに!」

 確かに、殺戮猩々の問題はこれで解決しました。

 しかし、憲兵さんの心は晴れません。

 なにか秘密は隠されたまま――そうとしか思えなかったのです。

 しかし、考えている余裕はありません。

 憲兵さんが、新しい憲兵さんを追って駆け出します。

 後に残されたのは、芳雄くんだけです。

 芳雄くんの隣のブランコが風に揺られて、ゆやんよよんと揺れました。


 芳雄くんはため息をついて、自宅へと歩き始めました。

 あまり大きくはない木造の一軒家です

 玄関の扉を開けた瞬間、むわっとしたアルコホルの匂いが漂ってきます。


「ただいま」

 芳雄くんの挨拶に返事はありません。

 芳雄くんは一目散に自分の部屋に向かい、服を脱ぎます。

 服の下はどこもかしこも痣だらけです。

 そして、仏間に向かうとショウジョウバエの集る何重もの殴打の後がある死体に向かって、死臭を隠すかのように、アルコホルをぶちまけました。


***


さつ‐りく【殺戮】

〘名〙 (「戮」は罪人を殺す意) 刑罰として殺すこと。


しょう‐じょう〔シヤウジヤウ〕【×猩×猩】

3 酒の好きな人。大酒飲み。

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殺戮猩々ニ関スル件 春海水亭 @teasugar3g

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