第10話 保健室にいたのは

「失礼します」


 保健室の扉を開けると、中は僕が知っている小学校の保健室よりも広かった。

入ってすぐ側にソファーがあり、正面には診察用の机と椅子、薬品棚がある。


 彼女をソファーに座らせ、僕は保健の先生を探して部屋を見渡す。


「少し待っててください」


 部屋の奥から男性の低い声がした。声のする方に行ってみると、カーテンがかかったベッドが3台並んでいる。

 先客で埋まっているのだろうか?そのうちの1つの向こうには立っている人間のシルエットが見えた。


「どうしましたか?」

「オリエンテーション中に気持ち悪くなってしまった女子を連れてきました」

「ありがとう。今ここのベッドが空いたので、休ませて様子を見ましょうか」


 カーテンが開く。白衣よりもなお白い髪色にまず目が惹かれる。

 髪と少し枯れた雰囲気の声から、老いた印象を一瞬受けたが、顔を見れば違う事が分かった。僕の父と同じくらいの年齢かもしれない。


 白い髪の保健の先生は、ソファーの彼女に体温計を渡して体調について尋ねたが、彼女はいよいよ悪化してうまく話せないようだった。まずベッドに寝かし、代わりに僕が気づけた分だけ彼女の朝からの様子について答えた。


「…38.3度、親御さんに迎えに来てもらいましょう」

「そんなに熱が…。もっと早く連れてくればよかった…」

「いえ、君は本当によくやってくれた。新入生代表は伊達ではありませんね」


 保健の先生は穏やかな笑顔で言った。

少し恥ずかしい。挨拶で顔を覚えられていた事と、こうして褒められたことが。


「担任に連絡してきます。ところで君は紅茶とコーヒーはどちらが好みですか?」

「え、何で…?」


「明らかに顔に疲れが出ている。君もここで休んで行きなさい」


 勧めているというよりは、警告している。少し強めの語気としかめた眉間が、そうしないとどうなるかを物語っていた。

 確かに入学式のリハーサルから参加していて朝が早かったし、僕は自分で思っているよりも疲れていたのかもしれない…。


「コーヒー、砂糖とミルクありで頂けますか?」

「勿論。すぐに戻ってきます」


 先生が部屋を出ていく。僕は部屋の中ほどにあった丸テーブルに座って待つことにした。複数の椅子があり、相談室のような役割で使われるのだろう。


 ぼーっと窓の外を眺める。大きい窓は晴れていれば陽光をよく取り込み、心地よい空気を作ってくれるのだろうが、今は灰色の嵐の最中だ。これほど雨足が強いと警報が出ているかもしれない。




「お待たせしました」


 数分後に戻ってきた先生は、テーブルに紙コップのコーヒーを置き、ベッドで寝ている生徒の様子を見た後、僕の向かいに座った。


「ではあらためて、堰根せきねと申します」

「1年3組の都築正城です。あの、コーヒーありがとうございます。頂きます」


 一口目から香りと甘さが染み渡り、心が落ち着く。


「これからも保健室には気軽に来てください。体調が悪い時は無理をしないように」

「分かりました。でも今日はベッドが埋まってて、混んでる感じですね」


 ベッドで寝ている人たちを起こさないように、僕は小声で話した。ただ、雨音のほうがよほど大きいので問題ないとは思う。


「そうですね。普段よりも体調を崩す人が多かった。新生活のはじまり、環境の変化が原因でしょう。それと今日の天気です」


 天気。雨。春の嵐が人に何を及ぼすのだろうか。

 あの人には何が起きているのだろうか。


「先生、雨で不調になるのは何故でしょうか。僕の知り合いにもいるんです。気持ち悪くなって、気を失うこともあるらしくて…」

「気圧、湿度、気温の変化による自律神経の乱れ…と言われていますが、実のところ現代医学でもよく分かっていません。関連性はあると思っていますが、人それぞれ雨の日の何が原因になっているのかは違うので難しい。その方はかなり深刻ですね…」


 堰根先生から見てもそうなのか。解決策の無さに少し落ち込む。そもそも会う手段も無いのだが。

 先生はベッドの方を見ながら話を続けた。


「君達が来る少し前に下校した子がいるんですが、彼も天候による不調が深刻でした。彼に相談されて医者を数人紹介もしたのですが、原因究明には至らず。人体とは難しいものです。非常に心苦しいですが」

「そうですか…。ありがとうございます」


 その学生の事も少し気になったが、詮索するのは良くないだろう。僕は教えてくれた事に礼を言い、ここまでにした。


 下校、そういえばもう帰りのホームルームの時刻だ。とはいえ急いで参加することもないはずだ。僕は飲み頃の熱さになったコーヒーに口をつけた。


 それからは堰根先生と学校の事や保健室の事などを穏やかに雑談した。生徒の相談役になっているだけあり、とても話しやすい人だ。白い髪と白衣、深い黒の瞳と黒の装い、モノトーンでまとめられた姿からは知的で芯のある雰囲気を感じる。


 コーヒーを飲み干した頃、親御さんが保健室に到着した。先生は対応に席を立つので、僕はお礼をして、入れ替わりで帰ることにした。


 下校する同級生とすれ違いながら、教室に鞄を取りに戻る。廊下の窓から外を見ると、雨は先ほどよりは大人しくなっていた。もう少し待てばもっと帰りやすくなるかもしれない。


 そう考えた奴がわりといるようで、教室にはまだクラスメートが残っていた。


「おっ、戻ってきた。もう帰ったと思ってたわ。大丈夫?」

「まぁ平気かな。ホームルームで何か大事なこと言ってた?」

「特に無いな。山の方は警報出てるから気をつけて帰れってさ」


 そこで彼は、大事なことを思い出したようにハッとした。


「そうだ、高等部の先輩が都築のこと探してた」

「先輩?女子?」


 梢さんだろうか。他に心当たりはない。


「男子。なんかイケメンだけどめちゃくちゃ顔色悪くてさ。土気色ってああいうのを言うんだな…。あー、悪い。都築ならこの組ですけどもう居ないって言っちゃったわ。保健室にいるって言っとけば良かったな」


「いや…ありがとう…」


 胸騒ぎがする。

 高等部は係の人以外は先に帰っていたはずだ。体調不良の生徒に仕事がふられる事はないだろう。ではなぜこの時間までいたのか。新入生オリエンテーション終了の時間まで、「顔色の悪い男子の先輩」はどこにいたのか。


「その人って、他に何か言ってた?」

「何の用かは言われなかった。名前も聞いとけばよかったなぁ」


「分かった。じゃあ、また明日!」


 僕は挨拶の返事を聞くより早く、教室を飛び出した。

 急ぎ足が一直線に向かう先は保健室だ。確かめなければならない事がある。

次第に速度を上げ、廊下を走り抜け、階段を駆け下りる。



「堰根先生!!」


 突然勢いよく扉が開き、大声で呼ばれた先生は、驚いて僕を見た。

 保健室には先生以外の人はもう居ないようだ。


 弾む息を抑えながら僕は胸騒ぎの核心に迫った。


「僕が来る前にいた人、雨の日に弱い生徒の名前なんですけど、

 もしかして、迫水さんって方ですか?」



「知り合いだったんですね。はい、迫水辰くんです」





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