アカリ
「秀人さん」
思い切って相談することにした。
「私、アルバイトしてみようと思って」
「なに?欲しいものでもあるの?」
秀人さんが甘く微笑む。
「ううん、お金が欲しいんじゃないの。ボランティアでもいいんだけど」
秀人さんが、じっと見ている。
「やっぱり、変わったな」
「そ、そう?」
「うん」
ちゃんと話さなければ。
「あのね」
「うん、話してごらん」
「世の中には困っている女の人がいっぱいいると思うの」
「そうだね」
「ね、将来そんな人たちの力になれるような仕事がしたくなったの」
「ふうん……」
秀人さんが、かすかに笑った。
「お、おかしい?」
「いや、ちっとも」
秀人さんがふっと息をつく。
「ただ似ているな、と思ってね……」
元旦は二人で明治神宮に行った。長い長い列に並んで参拝した後、おみくじをひいたら「吉」だった。
「恋愛は?あ、願いかなうべし、だって」
「やったね!」
「うれしい」
秀人さんと実家に行くのが待ち遠しい。親は驚くだろうな。母は喜んでくれるかもしれないけど、父はなんというだろう。
秀人さんはどう話すのかな。
正月休み、秀人さんの部屋にお客が来ると言う。私にも紹介したいというので、実家から送ってもらった特上のおせち料理をテーブルの上に出して待っていた。昼ごろコンシェルジュから来客の知らせがあった。秀人さんが話をしている。
「はい、私の姉です。通してください」
「お姉さん?」
「うん、僕が呼んだんだ。もしかしたら愛由美にもヒントをくれるんじゃないかと思ってね」
「ふうん。でも私もお会いしたかった」
私は新しい取り皿と箸を準備した。ほどなく玄関のチャイムが鳴る。鍵はもう開けてある。
「こんにちは、お邪魔します」
「どうぞ」
「あなたが愛由美さんね。初めまして、秀人の姉の柿沢あかりです。秀人、やったじゃない。こんな可愛らしい彼女さんを捕まえて。十歳も年下なんて、犯罪じゃないの?」
「初めまして、本城愛由美です。お会いできてうれしいです」
「ほんとはもっと早く会いたかったけど。この弟、恥ずかしがってなかなか会わせてくれなかったのよ」
いきなり振られて、秀人さんが慌てる。
「そ、そんなことはないよ」
五歳くらいの女の子が、あかりさんの後ろに隠れるように立っていた。真っ白な、フワフワした服を着て、柔らかそうな頬を赤くしている。
(かわいい。この子がいつか言ってた姪っこさんね)
「由貴、叔父さんと彼女さんに挨拶しなさい」
「こんにちは」
「こんにちは、はじめまして。アユミです。由貴ちゃんはいくつ?」
「五さい」
秀人さんが、あかりさんに席に着くよう勧める。
「愛由美の実家は料亭で、超豪華なおせちを送ってくれたんだ。食べていきなよ」
「あ、ぜひ召し上がってください。関東と北陸ではちょっと味が違いますけど、鰤とかノドグロとか、変わった食材も入ってるんですよ」
「由貴、ご馳走になる?」
「たべたーい」
「どうぞどうぞ。由貴ちゃん、いっぱい食べてね」
「ありがとう」
純真な由貴ちゃんを見ていると心が和む。あかりさんと仲が良く、本当に幸せそうだった。
「由貴ちゃん、おいしい?」
「おいしいー」
「良かった」
あかりさんは秀人さんより五歳年上だそうだ。気さくな女性で、話が弾んだ。秀人さんの子供の頃の話をいろいろ聞けた。
「秀人は意外と甘えん坊で、二十歳になっても私に電話してピィピィ言ってたのよ。愛由美さんの方がよっぽど落ち着いてるわ」
「へぇー、信じられない」
秀人さん、もしかしてシスコンなの?
「お、おい、やめろよ」
普段はしっかり者の秀人さんも、あかりさんには全く勝てない。楽しくおしゃべりして、そろそろ食事も終わるという時、秀人さんが言った。
「姉貴は弁護士なんだ。たしか、困っている女性の相談に乗ってるんだよな?」
「そうなの。あんまりお金にはならないんだけど」
あかりさんは苦笑した。
「でも、弁護士になったきっかけがそれだったから」
私は思わず身を乗り出した。
「あ、あの」
「由貴、叔父さんとあっちの部屋で遊ぼうか」
「うん、いいよ」
「よーし、お絵描きだ」
秀人さんは由貴ちゃんと隣の部屋に入って行った。私とあかりさんの間に、一瞬の沈黙が流れた。
「秀人も気を遣ってるね。うーん、何から話せばいいかな……。アルバイトがしたいって聞いたけど?」
「は、はい。将来困っている女の人のために仕事がしたいと思って。実際に見てみたいんです」
「そう。じゃ、うちの事務所なんかピッタリだね。やってみる?」
「は、はいっ」
願ってもない話だった。
「ただバイト代は安いし、忙しい時は由貴の相手をしてもらうかもしれないけど」
「全然大丈夫です、ぜひ」
「あの子はお絵描きが好きで、スケッチブックとクレヨンがあればご機嫌。そういう意味では手が掛からないわ。猫が好きで、いつも子猫の絵を描いてるの」
子猫?
「ね、どうして女性のために働く気になったの?」
「いえ……」
「間違ってたらごめんね。愛由美さんも、あの不思議な夢を見たんじゃない?」
え?
「弟から聞いたの。愛由美さんが夢から覚めた後、急に変わったって。私の時とそっくりだって」
「そっくり?」
「そう、長い長い夢を見てね、と言っても目が覚めてみれば、ほんの数時間だったけど。私はその夢の中で≪ウサギ≫と名乗る男と暮らしていた」
「じゃあ、あかりさんも≪アリス≫だったんですか?]
「あの男には、そう呼ばれていたわ。私がそこで見たのは、ホントに酷い世界だった。弱者はいつも切り捨てられる」
「そうです」
「あなたも、それを見て考えが変わったのね」
「はい」
「夢から覚めた後、家族や彼氏もびっくりしたんだけど、私、猛勉強を始めたの。どうしても弁護士になりたいと思った。あの夢の出来事は、きっと世界のどこかで起こっているのだろう。それを放っておくわけにはいかないと思った。あなたもそうなんでしょ?」
「はい。私にできることなんて小さいと思いますけど」
「それでいいのよ。行動することが大事」
「そうですね」
「でも不思議。後から考えると、あの男は当時の彼氏と、まあ、今のダンナなんだけど、まったく同じ顔をしていたのよね」
「私もそうでした」
「顔は同じなんだけど、彼氏より上手くて……。なんか溺れそうになっちゃったわ」
「あ、あかりさん!」
「冗談よ。でもあの男は、決して最後の一線を越えようとしなかった。最初から、私を元の世界へ戻すことが前提だったのだと思う、何らかの意思を持って」
「私もそう思います。でも、もし超えていたらどうなっていたんでしょう?」
「さあ、それも一つのテストだったんじゃないのかな?」
「そうか……」
あかりさんは、ふっと息をついた。
「私≪ウサギ≫から聞いたのよ。実家が破産して借金を背負った女子大生がいたと。いつか俺を破滅させるそうだ、楽しみだと」
「私も聞きました。俺を倒すために弁護士になる女子学生がいる」
「時系列は違っているけれど、同じ世界に行ったということね」
「あと、仔猫の絵を書いていた小さな女の子がいたことも」
そうなんだ、あかりさんがつぶやく。
「由貴は、本当の娘じゃないの」
え、あんなに仲がいいのに。
「弁護士になってすぐ、借金で困ってるシングルマザーに出会ったの。相談に乗っていたんだけど、彼女、体を壊してしまって……。行政とかにも掛け合って、やっと入院したけど、もう遅かった」
あかりさんは悔しそうに唇を嚙んだ。
「彼女は娘を残して亡くなってしまった。すごく気になって、児童相談所に預けられた女の子に会いに行くと、こっちを見て嬉しそうに笑ってくれた。帰るときにはすごく寂しそうで、心が痛んだわ。きっと私が母親と話しているのを見て親近感があったと思う。ずいぶん悩んだけど、ダンナと相談して引き取ることにしたの。私が妊娠しにくい体質ということもあるんだけど。ママになりたいってあの子に言ったら、花が咲くように笑って飛びついて来た。運命を感じたわ」
隣の部屋から、秀人さんと由貴ちゃんが出てきた。
「ほら、二人に見せてあげて」
「うん」
由貴ちゃんが得意げに見せたのは、雪のように真っ白な仔猫の、汚れなき笑みだった。
白夜の国のアリス 芦屋 道庵 @kirorokiroro
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