第5話 勝者は誰か


 膠着し始めた戦線を、楕円の中央で政虎は冷静に見つめていた。

 両翼の将はよく戦い、車の回転に歪みを持たせている。

 しかし膠着の主原因はそれではない。

 中央で皆を鼓舞し、粘り強く上杉軍の攻撃を凌いでいる典厩信繁だ。

 奴を仕留めれば武田軍は瓦解する。


「要を崩しに参る」

 全軍指揮を傍に控える宇佐美定満に任せ、騎馬百を引き連れ政虎は円の外に飛び出して行った。

 そのまま信繁の前に馬を走らせ、名刀小豆長光あずきながみつを振り下ろす。

 信繁は首筋を切り下げられ、大量の出血を政虎に浴びせながら馬から落ちた。

 返り血を浴びて、政虎の白頭巾と顔が赤く染まる。


 更に政虎が前を向くと、前方三十歩先で胡床に座っている信玄と目が合った。

 政虎は愛馬放生月毛の腹を蹴り、信玄目指して再び突進を開始した。

 護衛の兵が横槍を入れるが、毘沙門天が神降ろしされた政虎の人馬に触れることなく、ついに信玄の目前に達し、再び小豆長光を振り下ろした。


 信玄を一刀両断かと思いきや、武気を籠めた軍配で見事に受け止められた。

「見事だ」

 政虎はニヤリと笑って、旗下の百騎と合流し、悠々と自陣に戻って行く。


 政虎は自陣に着くと、返り血を浴びた顔を拭き、真っ赤に染まった頭巾を新しいものに取り換えようとした。

「ズゴーン」

 上杉軍の囲みを破り、武気で赤く染まった騎馬二十騎が政虎目掛けて突進して来た。

 政虎旗下の騎馬兵が近づけまいと前に立ち塞がるが、悉くなぎ倒されどんどん迫って来る。囲みを破ったのは太郎義信の騎馬隊だった。

 誰よりも信繁を敬愛し、尊敬していた義信は、信繁の死と共に心の奥底に眠る闘争心が解き放たれ、凄まじい怒りを赤い武気に変えた。頭の中は何も考えることなく、政虎目掛けて突撃を始めた。


「お逃げください」

 旗本の一人が叫んだが、政虎は嬉しそうに向かって来る騎馬隊を見つめた。

き敵」

 政虎は傍の小豆長光を引き抜き、徒歩で義信を待ち構える。

 政虎目掛けて突かれた義信の槍を紙一重で避け、小豆長光を下から切り上げる。

 義信は間一髪馬を棹立ちにしてこれを交わし、そのまま政虎を踏みつぶそうとする。


 政虎は回転しながらこれを交わすと、宇佐美定満が騎馬隊四百で間に入り、政虎との距離を遮断した。

 もはやこれまでと、義信以下二十騎は円の外目掛けて駆け抜けてゆく。


「凄まじいですな」

 主君の危機にも関わらず、定満がニコニコしながら囁いてくる。

「うむ、武田との戦は心が躍る」

 政虎も負けない笑顔で定満に返す。

 周囲の旗本も満足そうな笑みを浮かべた。


「でも、もう終わりです」

 定満は信繁が討たれ、崩壊目前の武田の本陣を見ながら、残念そうにつぶやく。

 そのとき、後方から鬨の声が聞こえた。


 妻女山別動隊の騎馬隊が後方に迫って来る。

「時間切れか」

 政虎はあと一歩で大魚を逃したにも関わらず、満足そうな顔でつぶやいた。

「武田信玄また会おう。全軍退却じゃ」


 政虎は越後方面目指して、一直線に馬を走らす。

 上杉の諸将もこれに続く。

 最前線にいた上杉兵が、別動隊に捕まる。やがて歩兵も追いつき始め、ここぞとばかりに上杉兵を虐殺し始めた。

 このままでは前線部隊全滅と思われたとき、二千の騎馬隊が援軍に現れた。

殿しんがりは引き受ける。速やかに越後に退かれよ」


 殿を買って出たのは甘粕景持だった。

 得意の矢を射かけながら、追撃する武田兵を次々に撃ち抜いて行く。


「深追いするな」

 高坂昌信は政虎が去った以上、意味のない犠牲を惜しんで追撃を中止した。

 景持も武田軍の意志を確認して、悠々と去って行った。




「ついにったか! して結果は?」

 北条氏康は小田原城で、川中島の速報を知らせる風魔の使者と対面した。

 逸る気持ちを抑えながら、使者の報告を待つ。

「両軍とも大将は無事。武田の死者は四千、上杉は二千五百と見受けられます。主な戦死した将は武田が武田信繁、諸角虎定、山本勘助――」


 信繁が戦死した――。

 氏康は強いショックを感じて、その後の報告が耳に入らなくなった。

 これで信玄の駿河侵攻を止められる人間はいなくなった。

 それはすなわち、三国同盟の崩壊と武田との交戦を意味する。


 だがそんなことはどうでも良かった。

 氏真に嫁いだ、目の中に入れても痛くない可愛い孫娘早川殿が不幸になる。

 耐え切れない痛みが心を突き刺す。


 興味深そうに使者の報告を聞く氏政、氏照の姿が目に入った。

 他人事として呑気に構えるその姿に氏康は軽い失望を覚える。

 こうなったら、一日でも長く自分が生きるしかない。

 娘を助け、北条の家を支えるためには、自分が寿命と戦うしかない。


 いずれにしても、今後両家の発展はこれで止まるだろう。

 いつの日かやって来る西の覇者の大軍を連想した。

 氏康は気づいた。

 この戦いの本当の勝者は、その西の覇者だと。

 氏康のつく虚しいため息が、小田原城の行く末を暗示するように城内に広がった。

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戦国伏龍伝外伝 川中島の戦い ヨーイチロー @oldlinus

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