第4話 車掛の怪


 政虎を囲む方円は、九千の歩兵が七五人ずつ百二十の小隊に分かれて円形の陣を成している。方円の内側に政虎旗下の騎馬隊が五百騎と、景家が指揮する五百騎がいた。


 方円は円形を保ったまま、武田軍に向かって一定のスピードで迫って来る。

 いよいよ武田の鶴翼の陣の中央に、方円の先頭が近づいたとき、歩兵が縦に割れてその間から景家の騎馬隊が飛び出してきた。

 これを武田の先鋒、諸角虎貞が迎え撃つ。


「ギャハッハッハ」

 不気味な笑い声を立てながら、景家が先頭の歩兵に突っ込む。

 数人の槍兵を跳ね飛ばしながら、馬上の虎貞に近づいた。

 虎貞は大刀を手に景家を返り討ちにしようと構えた。


「良き敵かな」

 景家の槍が振り下ろされ、受け止めようとした虎貞の大刀を真っ二つにへし折り、そのまま甲冑ごと一刀両断にした。


「ウォオオオオー」

 雄たけびを上げながら、景家が右に抜け反転すると、五百騎の騎馬隊もそれに続く。

 残った空間に上杉歩兵がなだれ込んだ。


「諸角隊の兵は後ろに下がり、補給兵として待機しろ。前線は私に任せろ」

 声の主は典厩信繁。信玄が最も信頼する武田軍の要だ。

 これぞ、手柄首とばかりに政虎の感状欲しさに、上杉兵が群がる。

 どの兵も笑顔で槍を振るって来る。

 その不気味さは武田兵の不安を掻き立てる。


「怯むな、不気味であっても鬼ではない」

 信繁が兵を叱咤し、応戦する。

「父上を討たすな」

 信繁の嫡男義勝の激に応え、武田信廉、内藤昌豊、穴山信君が前線に加勢し、上杉兵の猛攻から本陣を支える。


 上杉兵は七十五人の小隊が一度に十六隊前線に立ち、太鼓の音に合わせて横にスライドしながら、一隊が抜け新しい一隊が先頭に加わる。

 政虎の武気と融合する時間を少しでも減らすために、政虎自身が考案した戦法だ。


 上杉軍の小隊は、率いる將と兵の区別がなく、全員が前線に立つたびに何も考えず、ひたすら敵兵の殺傷のみを考えて戦う。

 それにも増して厄介なのが、時折中心から飛び出して武田軍に痛撃を与える景家の騎馬隊だ。

 武田の歩兵隊は時間と共に一方的に削られて行く。


「これはいかん」

 鶴翼の陣の左翼を担う飯富政景は、抜け出る瞬間の歩兵隊目掛けて、一斉射撃を指示した。千騎の騎馬兵から放たれた矢は、抜け出る七五人の上杉兵の頭上に降り注ぐ。

 ところが、千本の矢は一本として敵兵に当たらない。

 これぞ、政虎の武気の特殊能力絶対防御だった。


 政虎は小田原城を包囲した際も、六人で城からの射程範囲まで近寄り、悠々と酒を飲んで挑発したことがある。

 このときも城からは雨のように矢が放たれたが、一本たりとも六人に掠りもしなかった。


「人ではない」

 政景は目の前の奇跡に飲まれ呆然とした。

 こんな敵にどうしたら勝てるというのか。


「者ども恐れるな! 我も人なら、敵も人なり」

 反対側で右翼の太郎義信が千騎で前線の歩兵に突っ込んだ。

 もはや包囲に拘るときではない。今突っ込まねば前線が崩壊する。

「我らも続け」

 さすがに政景、気を取り直して義信に合わせて前線に突っ込んだ。


 このとき上杉の方陣は平べったい楕円に形を変え、新たに十隊が両翼の騎馬隊に対応する。両翼の騎馬隊は、足を止められ、消耗戦に持ち込まれた。




 一方、妻女山に向かった武田別動隊は、気づかれぬよう慎重に山を登り、上杉本陣を急襲したが、そこには人一人馬一頭いなかった。

「さては、政虎も決戦を望んで山を下りたか」

 馬場信房が地団太踏んで悔しがる。

「すぐに下山せねばお館様が危ない」

 高坂昌信は信玄の安否を気遣い、全軍に下山を指示した。


 騎馬隊だけでも間に合わせねばと、高坂、馬場、飯富虎昌の三隊三千が、逆落としに下山する。歩兵も全速力でそれに続く。

 全速で下山する三将は、雨宮の渡しに達した。ここで千曲川を渡河すれば、八幡原まで後僅かだ。

 逸る気持ちを抑えきれずに、渡河に取り掛かったとき対岸に騎馬の一隊を見つけた。

 数は約二千。旗に記された丸に万時の家紋は、上杉軍の勇将として名高い甘粕景持のものだ。


 景持は渡河しようとする武田軍を弓で一斉射撃するつもりだ。

 歩兵を待つべきか、犠牲を覚悟で渡河するか、昌信の脳裏に迷いが生じた。

「おお、あれを見ろ」

 対岸で百騎ばかりの武田騎馬隊が、甘粕隊に突撃をかけていた。

「今が好機ぞ! 全軍進め!」

 昌信の号令一下、三千の騎馬隊が渡河を始めた。


 甘粕隊に突撃したのは山本勘助だった。

 政虎ならば別動隊の着陣を少しでも遅らすために、渡河地点に兵をおくはず。

 渡河を支援するために、初鹿野忠次と二人、騎馬隊を率いて急行したのだ。


「小癪な」

 景持は自慢の弓で、将の一人に狙いをつけ、武気を籠めた矢を放った。

 矢は音速で一直線に飛び、初鹿野忠次の額を撃ち抜き、後ろに続く騎馬兵も撃ち抜き、更にその後ろの騎馬兵の首に突き刺さった。

 三人の身体が馬上からゆっくりと崩れ落ちる。


 勘助はかまわず突進を続け、甘粕景持に斬りかかった。

 景持はこの刃をかわし、必殺の斬撃を勘助の肩口に放つ。

 勘助の身体が斜めに斬り下げられ、地上に落ちた。


「かかれー」

 この間に渡河を終えた高坂隊の騎馬が、一斉に景持隊に襲い掛かる。

「退くぞ」

 政虎不在の白兵戦は不利と見て、景持は兵をまとめて北に走り去った。


「追うな、お館様のもとに急行するぞ」

 昌信は追撃を禁じて、八幡原に急ぐ。

 間に合わなければ全てが終わる。

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