第7章(その2)

「――――!!」

 恐ろしさのあまり、もはや声も出なくなってしまったアルサスの前に、その少女はゆっくりと進み出てきた。暗闇をその身にまとうようにして暗がりに潜んでいた彼女は、その闇を脱ぎ捨てるかのように揺れる火の元に姿を晒したのだった。

 果たしてそれをどのように形容すればよかったのか……漆黒の闇から浮かび上がってきた真っ白い顔、仮にそれが人であれば年の頃は十五、六といったところか。整った端正な目鼻立ち、黒い薄衣をまとった細くしなやかな肢体にアルサスはただただ見とれるばかりだった。彼女こそが、今しがたのナイゼルの話に出てきた贄の媛であると、何も説明されなくてもアルサスにはすぐに分かった。

「アルサス殿。もし貴殿にこの娘の姿が見えているのだとしたら、そろそろ刻限の時が訪れようとしているということだな」

 それとも、とナイゼルは自嘲する。

「ことの最初から、私は何やらたちの悪い妄想にでも取り付かれているのかも知れないな」

「……だとしたら、僕も同じ幻を見ている、ということになりますね」

 唖然としながらそう呟いたアルサスをよそに、ナイゼルはその場に転がっている生首を一瞥しつつ呟いた。

「捨て置け、と言ったのに。わざわざ追いかけて捕らえたのか」

 その一言で、アルサスはその生首の持ち主が、先ほど彼の命を狙ってやってきた賊のうちの、逃げた一人であるということに気付いた。

「放っておくわけにもいかぬ」

 アルサスの前で……贄の媛が、口を開いた。

「万が一、戻ってきてそなたに害をなしては大変だ」

「その時はその時だ」

「だがさっきも、私がいなければそなたは死んでいた」

「あれはお前があの位置にいると分かっていたから、敢えてお前に任せたのだ。……そもそもお前もそうやって助力するつもりで、闇から出てきてあの場にいたのであろう」

 そのやりとりで、アルサスは先の賊との一件で、一人不自然に倒れた者があったのを思い出した。それにナイゼルは今しがた、刻限が近づいているからこそアルサスにも見えているのだ、と語ったから、普段はナイゼルにしかその姿は見えないということなのだろう。

 そこでアルサスは、あることに思い至ってあっと声を上げた。

「もしかして……僕がここに来るまで何かに追いかけられていたのも、賊や獣ではなく、彼女だったのではないですか?」

「ほほう。どうしてそう思う?」

「だ、だって。獣はともかくとして、あれがもし賊だったら、暗がりの中で追いかけ回さずとも、もっと早くに僕に手をかけていても良かったわけですし」

「……そうだな」

 まさにその通り、とナイゼルは語った。

「旅回りの僧侶がこの森に迷い込んできていると、この娘が私に教えてくれたのだ。そのまま無視してもよかったのだが、御身の安全を図るため、念のためこの娘に言いつけて、ここまで連れてこさせたのだ」

 つまり、往来でたまたま行き合った招かれざる客……というわけでもなく、ナイゼルは事の最初から、アルサスがこの場に姿を見せる事を承知していたのだ。

「……彼女はあなたの言うことなら何でも聞いてくれるんですか?」

「よほどの無理でなければな」

 ナイゼルの言葉を補足するように、少女は言う。

「儀式の勝者だ。〈契約〉を交わしてしまえば、私のあるじとなる者だからな。あるじともなればこの者を私は受け入れねばならぬ。それに、この者に限って言えば脆弱な人間だからな。せいぜい、私の力で守ってでもやらねば、私は受け入れるべきあるじを失ってしまう事になる」

「はあ……」

 彼女のいう、あるじ、というのがアルサスには漠然としか捉えられなかったのだが、儀式や契約の成り立ちを詳しく聞き出したところで、『脆弱な人間』であるところのアルサスには関係のない話だったかも知れない。実際、彼女の存在自体が、それこそ幻ではないかという思いがどうしても拭い去れない。

「今、僕の身の安全を図るため、とおっしゃいましたけど……僕がアルサス・フーケンハイムだったから、というわけじゃないですよね。顔を合わせるまでは、僕だと分かっていたわけでもないですし」

「普通の旅人であれば、運が悪かったとしか思わなかっただろうがな」

「僧侶だから、ですか?」

 その問いへの答えであるかのように、ナイゼルはその場で剣を抜き放った。

「そもそもこの剣は最初の遠征行に出征するにあたって、簡単にではあるが清めが執り行われているのだ。それをやったのが徳の高い高僧だったわけでもなく、まったく形式だけでしかないと思っていたのに、これが邪をはらう力があるという。……こんな剣が、異形の者どもには確かに効いたのだ。この娘もこの刃には触れようともせぬしな」

「であれば、不心得者であるこの僕が聖句を唱えたとして、その化け物たちに効き目はあると?」

「生き延びたくば、そう信じることだ」

 ナイゼルがそういうと、突然生ぬるい風がその場に吹き込んできて――先刻から弱々しくくすぶっていた焚き火が、ふっとかき消えてしまった。

 差し込む月明かりに、贄の媛の白い顔が浮かび上がる。彼女はその場の真ん中にゆっくりとした足取りで進み出たかと思うと、何かを合図するかのように、ゆっくりと両手をあげた。

 ナイゼルは抜き身の剣を手にしたまま、周囲を警戒の眼差しでぐるりと見渡す。気がつけば、はっきりと姿は見えないものの、怪しげな生き物の気配にその場がすっかり取り囲まれていることが、アルサスにもそれとなく窺い知れた。

「……ちなみに、彼女はこの場で僕らを助けてくれるんですか? 生首がここにあるということは、彼女も戦えば相応の手練れということなんですよね?」

「だが、これから始まるのは彼女を奪い合う事だ。勝者が彼女を得るというのに、彼女が誰に荷担するというのだ?」

 それも、そうだった。

 そうこうしている間に、木々の間からみるからに異形としかいいようのない影が、ひとつ、また一つと月明かりの下に歩み出てくる。ある者は木の幹のように太い二本の足を踏みしめ、ある者はまるで巨大な蜘蛛であるかのように高い八本の足を素早く繰り出し、またある者はぬらぬらと水気を帯びた寸胴を収縮させながら、這うようにしてそこに進み出てくる。いずれも普通の人間などぺろりと呑み込んでしまいそうなくらいに口は大きく、体躯も相当な嵩があった。がちん、と噛み合わせた歯がそのまま波打つように口腔の中でぐるぐると渦のように回転し、呑み込むものすべて砕いてしまうものもあった。

 その場に人間の姿を見出すと、弱い者から片付ける、と言わんばかりに、彼らはナイゼルらのいる方を目指して一斉に集まってくるのだった。

 もはやこれまでか、と今にも悲鳴をあげそうなアルサスに対し、ナイゼルは少しも臆することなく、化け物どもに立ち向かっていく。

 不思議なことに、ナイゼルが手にした剣は、邪な化け物どもが近いてきたかと思うと、謎めいた青白い光を放ち始めた。しかもその光は異形の者達が接近してくるにつれ、輝きを増していくのだった。

 まずやってきたのは巨大な蜘蛛のような怪物だった。何本もある長い足が木々の隙間を縫うようにして地面に振り下ろされてくる。固そうな体毛に覆われた黒々としたその足の一本を、ナイゼルは横薙ぎに、力任せに叩き斬った。

 その足一本だけでも木立の幹ほども太さがあったが、ナイゼルの膂力ゆえかその剣のあやしい輝きゆえか、いともあっさりと切断されてしまった。怪物はバランスを崩し、頭をこちらに向けて倒れかかってきた。口のような部分に触角のような器官がぬらぬらと蠕動を繰り返していて、それがナイゼルに向けて近づいてくるのだった。

 怪物はこれ幸いとばかりにその口からぬらりとした生っ白い器官をするすると伸ばして、ナイゼルを絡め取ろうとする。彼は怯むことなく、自らの剣をあやしい蠕動を繰り返す口腔に突き立てた。剣の柄が触れるほどに深々と差し入れられたと思うと、次の瞬間、蜘蛛の頭部そのものが破裂、四散した。

 あるじを失った身体の方が巨大な障害物となって、他の化物の侵攻を邪魔する。ナイゼルはその蜘蛛の死体の背にひょいと足をかけ、そのまま駆け上がっていく。そのまま蜘蛛の背を踏み台にして、四本腕の巨人に向かってひらりと跳躍した。

 ずんぐりとしたその巨人は、手足がそれぞれ大木の幹ほどの太さがある代わりに、胴も足もちんまりと短く、どことなくユーモラスなシルエットだった。だがそう言っていられるのもそこまでで、ひとつきりしかない血走った目は爛々と輝いており、両肩からそれぞれ二本ずつ生えた腕はまさに筋肉のかたまりとでもいうべき強靱さだった。捕らえられたが最後ものすごい膂力で握りつぶされてしまうだろう。

 だが、獲物を捕らえようとひょいと伸ばされた腕をナイゼルはひらりとかわし、蜘蛛の背から今度は巨人の肩の辺りに飛び移って、大岩ほどもある巨人の顔に真正面からしがみつく。そのまま、一つきりしかないはずのぎょろりとした目玉を狙って、ナイゼルは容赦なく切っ先を突き立てた。

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