第7章 儀式の夜

第7章(その1)



「結局、悪魔の谷で見たものについては、現地の人には誰にも言わなかったのですね?」

「ああ。ハールマルドにも、カリル・ハジャにも、もちろん向こうの僧侶どもにも、何も告げなかった。……人に話したのは貴殿が初めてだな」

 確かに、それは容易には信じられない話ではあった。

「どうであろうか。今の話を聞いて、私がすっかり気が触れてしまったと思われたのではないかな……?」

「むしろ、聞いている僕のほうがどうかしちゃったんじゃないか、おかしな話を人に聞かされている夢でも見ているんじゃないか、という気になってきましたよ。でも、あなたはその地で何かしらをみて、傷を負った」

「そう、確かにそれは事実だ。傷を見た医師も、普通の刀傷ではないと首をしきりにひねっていたくらいだから、少なくともその点は嘘や幻ではなかったという証左にはなるだろう」

「でも、あなたが何も証言しなかったのであれば、その後誰もその谷の様子を確かめに行ったりはしていないでしょうねぇ。……結局、谷で遭遇したその少女は何者だったのでしょうかね」

「気になるか?」

「いや、まぁ、そういうわけでは……気になると言ったところで、その後の行方も分かりはしないわけですし」

「どこにいるのかは、私には分かっているのだ」

「……何ですって?」


     *     *     *


 遠征軍が最後まで立てこもっていたナルセルスタの砦あたりまでは、いくさが終わって一月もたたないうちとあり、異教徒のナイゼルが一人旅をしているのを奇異に思う者も少なくはなかった。だが彼も故郷からずっと携えてきた剣のほかは鎧も甲ももはや手放したあとの簡便な旅装であったし、髪や肌の色を除けば遠目には異教徒とは気づかれなかったかも知れない。何よりたどたどしくはあっても言葉が分かるというのがやはり大きかった。どこへいっても警戒はされたが、石を投げつけられるような事もなかった。

 砦から向こうは人の住む村も乏しくなり、あとは草原地帯をずっと越えていけば懐かしい故国まではすぐだった。

 水場から水場へと、ナイゼルは買い求めた馬にまたがって一人とぼとぼと進んでいった。

 途中の街で手に入れた古い地図にある水場を探すうち、ナイゼルはうち捨てられた小さな村にたどり着いた。住人はなく、井戸も涸れていた。

 それでも砂漠から北へ行くほどに、昼の暑さは和らぎ夜風は冷たくなっていく。ナイゼルはとある廃屋の中に足を踏み入れ、そこで一夜を過ごす事にした。

 満月の晩だった。落ちた天井の破れ目から、丸い月が顔をのぞかせているのを見て、ナイゼルはあの悪魔の谷での出来事から丁度ひと月あまりが過ぎた事を知った。

(そういえば、あの晩も満月だった……)

 彼が谷で何を見てきたのかについては、砂漠でも皆が皆知りたがった事ではあったが、結局誰に対しても語る機会がなかった。あれが一体なんだったのかについては、ナイゼル自身あの場で見聞きしたことが全てで、あの贄の少女がどこからやってきたのか、あの化け物どもがどこから湧いて出てきたのか、あの谷の昼間の様子がどんなであるか、儀式の晩ではないときはどうなっているのか――あの儀式を経て仮に夜の世界の王となっていたら、どのような権力をその手に収めることが出来ていたというのか、それすらもナイゼル・アッシュマンには見当すらつかないのだった。

 そのような力が手に入るのだ、などと知ったら、あの僧侶やハールマルドはどうしていただろう。よしんば、その権利とやらをナイゼルが有しているのだ、ということが知られていたとしたら、無事に砂漠から帰してもらえていただろうか。

 あの少女は今頃、どうしているのであろうか……そんな事をぼんやりと考えていた、その時だった。

 その廃屋の片隅の暗がりに、何かがいる気配を感じて、ナイゼルは慌てて剣に手をかけた。

「何者だ!」

 同じ建物の中の、それもさして広くもない同じ部屋の中に動くものの影がある事にそれまでまったく気付かなかったということは、ナイゼルの剣士としての矜持を少なからず傷つけた。それもあって、誰何するのに幾らか声を荒らげてしまった。

 だが、声を投げかけられた方はそれに動じた様子もなく、むしろナイゼルが慌てているのをあざ笑うかのように、ことさらにゆっくりとその場に進み出てきたのだった。天井の破れ目から差し込む月明かりに照らし出された姿は、果たしてナイゼルにも見覚えのある人物のそれだった。

「お、お前は――!」

「また会ったな、人間よ」

 そう、そこに立っていたのは……先の満月の晩に、あの悪魔の谷で出会ったはずの、あの贄の媛その人であった。

「何故だ。何故そなたがこのような場所に……いったい何をしに来たのだ」

「契約が、完了しておらぬ」

 ナイゼルの問いに、彼女はただ短く答えた。

 契約。夜の世界の王たる資格を手に入れるべく、この媛と交わすべき、契約。

「言ったはずだ。お前と契約するつもりは私にはない」

「それは知っている」

 贄の媛は、淡々とそのように答えた。事実この場で、あの時のようにことさらに契約を交わせと、ナイゼルに迫ってくることはもはや無かった。

「……その、契約とやらを求めにきたのではないのか」

「違う」

「では、なんだ」

「今宵は満月だ」

 少女の受け答えはとにかく簡潔で……言い方を換えれば非常に言葉足らずではあった。だが彼女が、いったい何を言わんとしているのか、ナイゼル・アッシュマンにはわからないわけではなかったのだ。

 そう、今宵は彼女の言うとおり、満月だった。

 そして、彼女がそのように言った、それとほとんど同時に――。

 ナイゼルはかなたに、遠雷のような音を聞いた気がした。

 いや、それが雷ではない事はすぐに分かった。分かっていたのだ。それはかすかにではあるが、規則的に、それほど長くはない間隔でもって、断続的に響いてくる。そしてその音はこちらに向かって徐々に近づいてきているのだった。

 間違いない。それは「何か」の足音だった。

 足音だけではない――ナイゼルは、目には見えないが何かいやな気配にすっかり取り囲まれているのを知って、はっとしてその場から立ち上がった。

 何が起ころうとしているのかは、充分に分かった。

「しかし何故だ。ここは悪魔の谷では――」

「そなたが谷を出たからだ」

 少女はまるで、当たり前のことをなぜ知らぬのか、とでも言いたげな口調で、ぶっきらぼうにそう告げた。

「そなたが気を変えて私を欲するのであれば私はそれに応えなければならぬ。だから私は、そなたの影をずっと追いかけてここまでやってきたのだ。だが今宵、再び満月の晩が来てしまった」

「満月の晩が来たら、どうだという」

「儀式だ。儀式を、やり直さねば」

 少女は言う。

 彼女が何について言及しているのか、ナイゼルには充分に分かっていた。あの晩見聞きした通りのことを、ここでもう一度、繰り返すのだ。

「……私は、拒めないのだな」

「そうだ」

 彼女がそう返事するのを待たずに、ナイゼルは剣を抜き放った。

 次の瞬間、小屋の柱がめきめきと音を立ててへし折れた。どさりと倒れかかってくる丸太棒をひらりとかわすと、あらわになった壁の向こうに、ぎょろりと赤い一つ目がこちらをじっと眺め下ろしていた。

 ナイゼル・アッシュマンは雄叫びをあげると、その魔物に向かって果敢にも斬りかかっていくのだった。


     *     *     *


「まさかあの悪魔の谷を、砂漠を遠く離れた先で、今更のように異形の怪物やあやかしの娘に付きまとわれるなど、思ってもみない事だった。あのように奇異な体験は、あの禍々しき谷に限ったことだと……そう考えるのが普通であっただろう。だが砂漠を離れ故国へ戻っても、こやつらはどこにでも現れる。どこにでも現れて、贄の媛をおのがものにせんと、幾多の怪物がこの私に戦いを挑んでくるのだ」

「となると……」

 アルサスは空を見上げる。満月が頭上で煌々と照っている。

「そうだ。程なくして、時が訪れる」

 そんな、ナイゼルの話が終わるか終わらぬかという丁度その時……二人が向き合って囲んでいる焚き火のすぐ側に、突然何かがどさりと転がり落ちてきたのだった。

「うわっ」

 いきなりの事だったので、アルサスは驚いて飛び上がってしまったが、それが次には悲鳴に変わった。そこに投げ込まれたのは、なんと血にまみれた人間の生首だったのだ。

 心底肝を冷やして後ずさったアルサスをさらに恐怖に陥れたのは、ナイゼル・アッシュマンの背後の暗がりに、いつの間にか彼に寄り添うように立ちつくしていた人影の存在だった。

 闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い顔、冷ややかなまなざしが、じっとアルサスを見つめていた。

「――――!!」

 恐ろしさのあまり、もはや声も出なくなってしまったアルサスの前に、その少女はゆっくりと進み出てきた。暗闇をその身にまとうようにして暗がりに潜んでいた彼女は、その闇を脱ぎ捨てるかのように揺れる火の元に姿を晒したのだった。

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