第7章(その3)

 だが、獲物を捕らえようとひょいと伸ばされた腕をナイゼルはひらりとかわし、蜘蛛の背から今度は巨人の肩の辺りに飛び移って、大岩ほどもある巨人の顔に真正面からしがみつく。そのまま、一つきりしかないはずのぎょろりとした目玉を狙って、ナイゼルは容赦なく切っ先を突き立てた。

「――――!!」

 断末魔の悲鳴が響き渡る。不快な甲高い金切り音と、不安をかき立てる重い唸りとが混然となった大音声が、辺り一面に響き渡って、アルサスは心の底から震え上がったのだった。彼はナイゼルと異形の者達との死闘を、木の根のくぼみに身を隠すようにしながら、ただ黙って見ていることしか出来ずにいた。僧職にある身ながら、このとき以上に熱心に聖句を唱えつづけた事など、他に覚えがなかっただろう。

 ナイゼルの剣は、巨人の目を貫いたかと思いきや、一瞬だけかっとまぶしく光って、それと同時に巨人の巨大な眼球がそれこそばんと音を立てて破裂した。巨人は地の底をふるわすような悲鳴をあげて、潰れた目を押さえて激痛にのたうち回る。木々をなぎ倒しつつどさりと倒れ込んだかと思うと、地団駄を踏むかのように手足をいつまでもばたつかせ続けるのだった。周囲にいた他の怪物たちが、これの巻き添えをくって蹴散らされていく。ぬらぬらとした長虫のような生き物の胴の部分が巨人の大きな拳に叩き潰されてしまったかと思うと、緑がかった色をしたどす黒い毒液が周囲に飛散する。それを至近距離で浴びてしまった巨人の腕が、みるみるうちにどろどろに溶けていってしまうのだった。

 そんな毒液の飛散からも器用に逃れていたナイゼルは、のたうち回る巨人の背中に近づいて、横たわっているその脇腹を力任せに両断した。今度は巨人の身体が張り裂けるように四散していく。剣から生み出されて巨人を吹き飛ばした熱波が、強酸の毒液もろともに、周辺のありとあらゆるものを一緒に巻き添えにして蒸発させていく。

 今の一撃で、相当数の化け物を巻き添えに出来たはずだったが、新手が次から次に現れ、その数はまったく減じることがないように思われた。次にやってきたのはそれは果たして生き物なのかどうか、丸い輪っかの形状をした飛来物が、シュルシュルと音を立てて高速で回転しながらナイゼルめがけて飛んできたのだった。彼は落ち着き払って剣で払い落とそうとするが、その瞬間それはやや減速し、切っ先は輪っかの一端を切断するに留まった。すると今度はその切り口から、輪の形状ではなく、紐のようなぐにゃぐにゃの形状に変容したのだった。

 それがただ空中を漂っているだけならまだしも、いきなり矢のような速さで一直線にナイゼルの心臓を狙ってくる。ナイゼルは着弾地点に当たりを付け、剣の腹の部分を胸にあてがって防御した。

 甲高い金属音ともに光る紐状の何かは跳ね返される。衝突時にかなりの衝撃があったがナイゼルは片膝をついただけでどうにか踏みとどまった。

 跳ね返された光る紐はごく小さな弧を描いて、至近距離からもう一度ナイゼルを狙う。ナイゼルは、向かってきたその紐を今度は横から引っかけるようにして、くるくると切っ先で巻き取ったのだった。

 気がつけば、ナイゼルの背後に大きな口を開けている別の怪物の姿があった。口腔の中で無数の歯がぐるぐると渦を巻いて、飲み込むものすべてをずたずたに引き裂かん勢いだった。

 ナイゼルは紐状のそれを絡めとった状態のままの切っ先を、その歯の怪物の口の中にそのまままっすぐに差し入れた。剣がナイゼルの意志を汲んだかのように強く光り輝き始める。がちりと歯の怪物が口を閉じたその瞬間、巻き付けた怪異の紐ともどもに破裂して、何もかもが吹き飛ばされていくのだった。

 そんな異形の怪物の後に続いてやってきたのは、鎧甲冑を身にまとった、一見人間のように見える一団だった。だが近づいてきてみるとそれらはいずれも身の丈がナイゼルの倍ほどもあり、防具の隙間から覗いている肌は深い緑色の鱗状のものでびっしり覆われているのが分かった。それ以前に、兜をかぶったその顔が、そもそも人ではなくどうみても魚のそれにしか見えなかった。それがまるで人間の真似をするかのように剣を振り回して襲いかかってくるのだから、ある意味滑稽ですらあった。

 その数は三体。ナイゼルは怯むどころか、剣をおのれの正面に垂直に構える、戦いに臨む騎士の礼を見せたかと思うと、口元ににやりと笑みを浮かべてすらいたのだった。

 その顔――喜悦にゆがむその表情、それを見た者があれば誰もが、ナイゼル・アッシュマンはついに気がふれてしまったと思ったに違いなかっただろう。

 だが彼の砂漠での体験をすっかり聞かされたアルサスには、そうではないと分かっていた。彼にしてみれば、まさにその瞬間こそがある種の至福に満たされた歓喜の一瞬であったのだ。

 ――世に聖なると邪なるとが共存すること。その剣を振るうたびに離れていく一方であった彼と神との距離が、今は逆にとても近しいものになっていると感じられるその充足。忌まわしき怪物をひとつひとつ葬り去っていくごとに……おのが身をそのような命のやり取りのさなかに置くことで、ナイゼル・アッシュマンはおのれの内側に、確かに信仰を取り戻していたのであった。

(だからって……だからって、そんな)

 一人の騎士に幾多の魔物が群がるその光景は、煉獄のさなかとしか思えぬ絶望的な光景だったかも知れない。だがその修羅のさなかにこそ、ナイゼル・アッシュマンはおのが神の存在を確かに見出していたのだった。

 おお、神よ。

 天にいましますわれらが神よ。

 あなたはこの男を、騎士ナイゼル・アッシュマンを、一体どこにお導きになろうというのですか。

 これが、彼のものが歩むに相応しき道であると……それこそがあなたのご意志であると、あなたはそうおっしゃるのですか――。

(神よ)

 アルサスの内心の問いかけに、応える者などあるはずもなく――。

 ナイゼル・アッシュマンはと言えば、三体の魚男達を前にして、力の限りに雄叫びを張り上げた。それに応じるかのように剣がひときわ強い輝きを放ったかと思うと、彼らがすぐ眼前にまで迫り来るのを待って、ナイゼルはその剣で力強く地面を穿った。

 はじけ飛んだ砂のつぶてが、紗幕のように魚男達の視界を覆い尽くす。

 ナイゼルはその隙を見計らって、正面に相対する魚男の脇腹に剣の一突きをくれてやった。切っ先は武具の隙間を貫いて、その刺したところから半身がはじけ飛んだ。胴がねじ切れて上半身がゆっくりと地面に崩れ落ちていくと、残る二体が若干ではあるが怯んで後ずさるのが分かった。そんな者どもを相手に、ナイゼルは勇ましくも立ち向かっていく。

 それを遠目に見ていたアルサスは、ふいに自分のすぐ間近に何者かが迫っているのに気付いて、そちらをふり返った。アルサス一人を丸ごとぺろりと飲み込んでしまえそうなくらいに大きく口を開いた、蛙に似た巨大な生き物だった。今にもアルサスに食らいつこうとしているところを、彼は慌てて手で印を組んで、叫ぶように聖句を唱和した。

 次の瞬間、蛙は大きくふくらんだかと思うと、風船のようにばちんと弾けて、そのまま跡形もなく消えて無くなってしまった。

(効いた――?)

 アルサスはその事実に目を疑った。僧職であるがゆえに日頃から唱え慣れた聖句ではあったが、職務ゆえに機械的に唱えていただけで、その意味など深く考えた事もなかったのに。

 ともあれ、おかげで怪物に丸呑みにされることは回避出来た。だがその代わりに他の魔物どもが、今のでアルサスの存在にも気付いたようで、何体かは彼のいる方角に向き直って近づいてくるのだった。アルサスは自棄をおこしたように聖句をひたすらに唱え続ける。彼に迫る魔物どもが、それで次々と退けられていくのだった。

(――駄目だ、ここにいたら、命がいくつあっても足りるもんか――!)

 それ以上、アルサスはその場に留まっていられなかった。いや、足がすくんで動けないというよりは幾分かはましだったかも知れないが……身を潜めていた木の根のくぼみから飛び出して、道があるもないも見境なく木立の陰に飛び込んでいこうとする。

 怪物達はナイゼルらのいるこの場所を目指して四方からぞろぞろと集まってきていたが、丁度アルサスが飛び込んでいこうとしていたそこだけは、魔物の影が途切れていたのだ。

 だがアルサスが一歩身を乗り出したその瞬間、背後で爆発――そう、それは爆発としかいいようがなかった――が起こった。突発的な爆風にあおられて、アルサスは前方に大きくつんのめってしまう。半ば吹き飛ばされたと表現してもあながち嘘ではないくらいだった。

 ちらりと振り返れば、ナイゼルは全身をきらきらとした緑色の鱗で覆われた、小山ほどもある巨大な魔物と対峙していた。ごつごつとした岩肌のような皮膚、二本の足でやや前傾気味に地面を踏みしめ、先端に鋭いとげの生えた長いしっぽを引きずり……短い背びれの並んだ背中に羽毛のない黒い翼をめいっぱいに広げ、鋭い牙の並ぶ大きな口からは真っ赤な炎がちろちろと洩れていた。

 それはまさに、幼い日に読んだ絵物語に出て来た火吹き竜そのままの醜悪な生き物だった。ナイゼル・アッシュマンは無謀にも、その暴れ竜に挑みかかっていく。誰かがやめろと言っても、きっと彼は聞く耳など持たなかっただろう。彼が向き合っているのは醜い化け物などではなく、おのれの心の内側にいる神そのものだったのだから。

 成り行きを見守っていたかったが、アルサスはそのまま山の斜面を転げ落ちるがままに滑り下っていく。そんな彼に竜とはいかないまでも、小さな妖躯のたぐいがまとわりついて来るのだった。アルサスは聖句を唱えるのをやめるわけにはいかなかった。取って返して斜面を駆け上がっていくわけにもいかず、闇雲に暗い森の中を走り続けるしか無かったのだった。

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