第6章(その4)

 ここを悪魔の谷と最初に呼んだ者は、果たしてこの谷が本当にこのような悪鬼の巣窟であることを知って、そのように名付けたのだろうか……次第に薄れ行く意識の中で、ナイゼルはそのようにどうでもいいことを、あれこれと思案を巡らせるのだった。

 ともあれ、本当にすべての脅威が去ったと確証が得られぬ限り、このような場所に長居をしているわけにもいかない。少女を連れ、安全なところに逃げなければ……。

 薄れゆく意識の片隅で、そのような事を考えながらも、結局は身体がいうことを聞かない。よろよろと祭壇の方に向かおうとするが、やがてナイゼル・アッシュマンはその途上で力なく崩れ落ちたのだった。

 果たして、どれほどの間気を失っていたのだろうか。

 彼が再び目覚めると、傍らに人影があるのが分かった。うっすらと目を開けて見ると、そこにいるのは祭壇に戒められていたはずの、あの少女だった。

 少女は固い表情のまま、しばしの間ナイゼルをじっと見つめていた。ナイゼルが意識を取り戻したと知ると、うっすらと微笑みを浮かべ、物怖じもせずにいきなり彼の唇に口づけをするのだった。

「君は……?」

 唇を開放されて、ナイゼルはかすれる声でやっと問いかけたが、それに対する答えはなかった。彼女が口を開いて飛び出して来たのは、彼女の方からのナイゼルに対する問いかけだった。

「それで、そなたは私を受け入れるのか、受け入れないのか」

「……?」

「思いも寄らない成り行きだ。儀式の晩に、まさか人間風情が現れて、しかも勝者となるとは」

 そう言って彼女は微笑んだ。いや、冷ややかに笑った、というべきか。

「私は……まだ生きているのか?」

「生きている」

 半身を起こして、傷をあらためる。怪物の巨大な爪に深々と引き裂かれていたはずの胸部は、ひきつれたように肉が盛り上がって、見事に癒着していた。

「この傷を治してくれたのは、君か?」

「人間とはなんとも脆弱な生き物だな。かりそめにも私のあるじたる権利を有する者が、そう簡単に死んでしまうようでは私が困る」

「その、あるじというのは一体何だ?」

「儀式の晩に最後まで勝ち残ったのはそなただ。ならばこそ、そなたにこそ私をおのがものにする権利がある」

「権利」

「勝者の権利だ」

 満足げな笑みをたたえて、少女はナイゼルを見やる。

「……どうやら、私は本当に場違いなところに足を踏み入れてしまったらしいな」

 つまり、少女に群がっていた化け物どもは、まさしくそれぞれに彼女をおのがものにせんという野心のもと、醜く争っていたのだ。ナイゼルはそこに傍からこっそり現れて、勝利を横取りしてしまったという次第であるらしかった。騎士たる者の所業としては、何ともせせこましい結末とも言えた。

「なるほど、君ほどの美しさであれば、勝者への手向けに充分足るものであろうな」

「美しいか、わたしは」

「……」

「そなたにとっては私もまた異形のものであろう。そなたの目にも、私は美しくみえるか」

「ああ、見えるとも」

 ナイゼルがそう答えたきり、二人はしばし沈黙のままに互いを見つめ合っていた。

「それで、私はどうすればいい。君を妻にでもめとればいいのか?」

「〈契約〉を交わせばよい。私と交わって、しかるのちに身体の一部を口に含むのが決まりだ」

「口に含む、というのは」

「喰らう、という意味だ」

 つまりはかよわき乙女を、力でねじ伏せ、切り刻んで食べるのがしきたりということらしかった。何とも醜悪な決まり事ではないか。

「それは遠慮こうむる。一つめはまだしも、二つめは人の身である俺には到底承伏しかねるな」

「人は、人の肉を喰らわんのか?」

 ナイゼルは苦笑いして首を横に振った。

「それは困る。だったら、私はどうすればいい」

「どうすれば、とは」

「しきたりは、しきたりだ。そのようにして貰わねば、困る」

「つまり、君は私に殺されなくてはならぬ、と?」

「欲しくはないのか、私が」

「そのような意味では、欲しくはない」

「では、力はどうだ」

 少女は言う。

「我こそは百年に一度、暗き王国よりこの地に遣わされた贄の媛。それを犯し、喰らったものに与えられる、魔なる者の栄冠と力を、人の身で得たものなど当然未だ誰もおらぬ。その機会が今、そなたの前に巡ってきたのだ。どうだ。本当に私が、欲しくはないのか?」

「もし、仮に――それに挑むものが相打ちを果たし、すべて共倒れに終わってしまえば、君はどうなっていた?」

「次の儀式の晩を待つことになるな」

「では、君もそれを待てばよい」

「王になる気はないと? 手ぶらで人の版図へと帰還を果たすというのか?」

「この悪魔の谷に、何かしらいるのは確かだということは分かった。それが分かれば、私には充分だ」

「……そうか」

 彼女はそう返事をしたきり、黙り込んでしまった。

 どのみち、腹部の傷口はふさがったとは言え、そこがまだうずくように痛むのは確かだったし、疲れ切って立ち上がる事も叶わない。彼は砂の上に身を横たえたまま、仰向けの姿勢で夜空を見上げた。

 満月が、煌々と地上を照らしていた。

 少女はゆっくりと立ち上がると、その満月の明かりを全身に浴びるかのように、天を仰ぎ両手を開く。

 ナイゼルが最後に見ていたのはそんな光景だった。まぶたは重く、開け続けていることさえ叶わなかった。少し眼を閉じるだけのつもりだったのに、やがて彼は砂の上に倒れ伏したまま、するすると眠りに引き込まれていくのだった。


     *     *     *


 次に目を開けると、夜明けの払暁が彼方に見えていた。

 満月は彼方の空へとすでに隠れてしまったあとだった。身を起こして見回すと、辺りの風景に見覚えはなかった。朦朧とする中、自力でそこまで歩いてきたのか、はたまた何者かが彼をそこまで運んだのか。

 あの少女の姿はどこにも見当たらなかった。

 脇腹はまだ疼くように痛んでいた。ぱっくりと裂けた傷口こそ塞がっていたものの、怪我そのものがすっかり癒えていたわけではなかった。身体はひたすらに重く、脇腹の他にもあちこちに痛みが残っていた。何もない荒野に倒れ伏していたところで誰が助けに来てくれるわけでもない。適当に方角に当たりをつけて重い足を引きずるようにしてとにかく歩き続けたが、どれほども行かないうちにまた彼は意識を失い砂上に倒れ伏した。

 そんな風に荒れ地に行き倒れている彼を発見したのは、ナイゼル・アッシュマンと別れたのちにぐるり迂回路を通って、谷を抜けた先にある最寄りの村に回ってきていたカリル・ハジャとその配下の兵士達だった。

「……おい、しっかりしろ!」

 少年は馬上から声をかけてみたが、返事はなかった。部下の一人が馬を降りてナイゼルに近づき、かろうじて息がある事を確認すると、カリル・ハジャは苛立たしげに、罵りの言葉を吐いた。

「だから僕は言ったんだ。谷へ近づくのは間違いだ、ってな!」

 少年の命令で、傷だらけの彼は街まで搬送され、手当を受ける事となった。

「……私は死に損ねてしまったようだ」

 様子を見に立ち寄ったハールマルドの顔を見るなり、ナイゼルはそう自嘲した。

 一緒にやってきたカリル・ハジャはいかにもばつが悪そうに、ハールマルドの影に隠れていた。ナイゼルにしてみれば行き倒れていたところを拾われたのだから礼のひとつも述べねばならぬところだったが、少年にしてみれば、勝手にしろ、と谷の手前で言い放った結果がこれであったので、何とも顔を合わせづらいやら、ハールマルドに対してもいささか引け目を感じるところがあるのだろう。

 そのハールマルドはもう一人別の供を連れていた。僧衣を着ているところから、その者が僧であるのは分かった。

「この御仁は……?」

「俺が一人で勝手に部隊を率いているうちは良かったのだがな。何せお前はあの『悪魔の谷』から生きて戻った初めての男だ。それが北方の異教徒となれば、お前の事を内緒にもしておけぬ」

 ハールマルドはそう言って肩をすくめた。そう、本来は異教徒であり侵略者である彼だから、仲間としてともに戦うなどもってのほかであっただろう。

「異教徒の残党狩りに出向いた部隊が、肝心の異教徒を傭兵として雇っていたなど実にとんでもない話です。ハールマルド卿でなければ、充分に処罰の対象となっていたでしょうな」

 そう冷ややかに述べた僧に向かって、ナイゼルは問う。

「それで、私はどうなる。捕らえられて、処刑にでもなるのか」

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