第6章(その2)

 村を出てしばらく進んでいくと、次第に周囲が岩だらけのごつごつとした地形に変わっていくのが分かった。巨岩の間を縫うように続く道を一人とぼとぼと進んでいく。なだらかではあったが登ったり下ったりという土地の起伏が目立ってくるにつれ、ナイゼル・アッシュマンは自分が谷と呼べるような土地に差し掛かりつつあることを知った。

 ふと振り返ると、少し離れて一騎、彼のあとをずっと付いてくる者があった。そのうち諦めて去っていくかと思ったが、なかなかどうして、どこまでもしつこかった。

 ナイゼルはそこで足を止め、追跡者が追いついてくるのを待った。

「カリル・ハジャ。一人で追いかけてきたのか」

「あとの連中には、村に残って警戒するように伝えた。半分はあんたの言うとおり、迂回路を通って次の村へと向かわせた」

「で、貴公は一人で私を追いかけてきたというわけか。……忌避の土地に、そろそろ差し掛かりつつあるようだが、いいのか?」

「やっぱり、引き返す気はないのか」

「私のことなど放っておけばよかろう。どうせ呪われた異教徒だ。どこでどのような死に様を遂げようと、貴公には関係なかろうに」

「あんたがどこかへ行ってしまうと、僕がハールマルド卿に叱られるんだ」

「だが私は引き返さないぞ」

 ナイゼルはそういうと、カリルの返事を待たずに馬を進めた。

 カリル・ハジャはええい、と短く呟いたかと思うと、剣を抜いて、馬の腹を強く蹴って一足飛びにナイゼルの前方に回り込んだ。

「どうしてもっていうなら、僕と戦え」

「遊んでいる暇はない」

 ナイゼルはそういうと、有無を言わさず剣を抜き放ち、カリル・ハジャの剣をあっさりと叩き落としてしまった。

 ともに戦う中で、ナイゼルが相当の手練れであることは分かっていたが、自分もそこに並ぶくらいの力があると思い込んでいただけに、ここまで勝負にすらならない事にカリル・ハジャは愕然とした。転げるように馬を下り、慌てて剣を拾い上げるが、ナイゼルは彼に一瞥すらくれずに、先に進むのだった。

 情けない思いだった。カリルは慌てて馬に乗って、ナイゼルの背中を追う。

「どうしてだ。余所者のあんたが、どうしてそんなに悪魔の谷にこだわるんだ!? 異教徒のあんたには、そこに悪魔がいようがいるまいが、何の関係もないはずだ!」

 カリルがそういうと……意外にも、ナイゼルはそこで歩を止め、振り返った。

「いかにも。悪魔など、いようがいまいがこの私には何の関係もない。……だが、神は別だ」

「……?」

「カリル・ハジャよ。そなたは、そなたの神の存在を信じるか。神が確かに、常に貴公とともにあると、その存在を確実に感じ取ることが出来ているか?」

 どう返事して良いか分からずに少年が目を白黒させていると、ナイゼルはその切っ先をカリルに向けた。

「この剣を見るがいい。砂漠に出征するにあたり、私は一番使い慣れたこの剣を選び、ここまで携えてきた。神のための戦いであるからと、坊主どもが形ばかりに清めの儀式すら行った。だがその剣で我らがやったことは一体何だ? ただの殺戮、略奪……おおよそ神の御心とは一番かけ離れた事ではなかったか」

「……」

「私を含め、愚か者どもが皆砂漠に放り出されてしまったことはあるいはその報いだったのかも知れぬ。だが奴らは悪びれもせず、未だに神の名を騙って盗みや殺しを繰り返している。一体どこのどのような神が、人々に盗めと説いているものか。どこの神が、殺せと説いているものか。……だのに、神はそのような者達の誰にも鉄槌を下そうともしない。あるいは私がその代わりとなれば、と思ってここまで戦ってきたが、もし本当に神などがいるのだとすれば、神の代行者を騙るこの私こそを、ここに現れて罰するべきではないのか」

「ナイゼル・アッシュマン、あんたは……」

「それが出来ぬとあれば、この世には神など、やはり居はしないのだ。……だとすれば、神がおらぬのに悪魔の方だけが実存するなど、そのような理があろうはずもない」

「……」

「悪魔の谷、けっこう。私はこの目で、是非とも悪魔を見てみたい。もし悪魔が存在するのであれば、それこそは神もまたこの世に存在しうるという、確かな証左であろうからな」

「あ、あんたは……あんたは間違っている!」

 カリル・ハジャは声を荒げて反論した。

「あんたは間違っている。神を試すような事をして、いずれ天罰が下らぬ事などあるはずない! よしんばこの谷に悪魔なんてものがいないとしても、いずれあんたの身に災厄が降りかかるその時、その災厄こそがあんたにとっての悪魔だったって事になるに違いなかろうさ!」

 もうあんたにはついていけない、勝手にしろ……カリル・ハジャがそのように吐き捨てたところで、ナイゼルはただ薄く笑うばかりだった。

「ではここでお別れだな。……いや、もしかしたら谷を越えた先でまた会えるかも知れないが」

 ナイゼルはそのように言うと、カリル・ハジャをその場に置き去りにして、さらに先へと進んでいくのだった。

 少年はそれ以上、ナイゼルを追いかけては来なかった。禁忌の土地ゆえにそれ以上足を踏み入れられなかったのか、それとも本気でナイゼルに愛想を尽かしたか……。

 ともあれ、ナイゼルは一人黙々と、谷への道を進んでいった。

 やがて周囲の地形が、谷というに相応しく、いっそう険しくなっていくのが分かった。

 そそり立つ岩壁に挟まれた狭わいな地形が、ずっと先まで続いていた。彼方に沈み行こうとしている太陽が、大地を見事な茜色に染め上げているのを横目にしつつ、ナイゼルは気忙しく先を急いだ。その夕景の輝きが故郷の荘園を思い起こさせたが、それもごく短い間の事だった。

 谷を抜けるのは夜半過ぎ、村にたどり着くのは早朝になるだろうか。それ以前に、連中に追いつく事が出来ればいいのだが。一人とぼとぼと進んでいくうちにやがて日も落ちて、丸い月が反対側の空に顔を覗かせていた。

 馬を消耗させないように、時折速度をゆるめながらも、足を止めることなく前進してゆく。やがて地形はさらに険しくなっていき、そそり立つ岩と岩の間をすり抜けていくような、峻険な道を彼は通り抜けていくのだった。ささやかな起伏ではあったが、上ったり下りたりという地形が、馬にとっても負担にならないはずがない。やがて馬がむずかるのに根負けして、ナイゼルはその場で足を止めて一時の休息をとるのだった。

 革袋の水を一口含み、馬の口の中にも多少なりと流し込んでやる。腰の物入れから小さな干し肉の破片を取り出して、おのれの口に放り込む。馬も腹を減らしているだろうが、ここは我慢させておくしかない。

 だが――馬は何が不満なのか、どうにも落ち着かないさまで足踏みを繰り返すのだった。何とかなだめようとするナイゼルだったが、うっかり手綱を手放した瞬間、馬はナイゼルを振り切って、来た道を一目散に引き返していくのだった。

 連れ戻すべきか、と思ったが、追いつくのも容易ではなさそうだったので早々に諦めた。

 もしかしたら盗賊達がすぐ近くにいるのかも知れない。ナイゼルは用心しつつ、徒歩で細い斜面の道を上っていく。

 やがて、斜面を登りきって、下りに差し掛かろうというところで、向こう側にほのかに明かりが見えてきた。

 這々の体で逃げ出した盗賊たちが、野営して一息入れているのだろうか。確かに追っ手はナイゼル一人、夜通し必死で逃走し続けなければならない理由はなかったかも知れない。連中にとって都合のいいことに、足場の悪いごつごつした岩場の道はそこで途切れて、向こう側はひらけた場所になっているようだった。そこから先は、身を潜めるような適当な岩陰も乏しかった。

 だがその明かりは、焚き火の炎というには少々趣が違っていた。何に火をともしているのか、それは青白くぼんやりと揺れている。

 ナイゼルは剣を抜き、足音を忍ばせてゆっくりと近づいていく。何の根拠もなかったが、背中にざわざわと嫌な気配を感じ取っていた。

 その明かりのところに、盗賊達などいないことは 程なくしてすぐに分かった。下り道の途中で、ナイゼルは足元に幾つかの死体が転がっているのに出くわしたのだった。

 村では直前に逃げられたので顔や風体をその目で見て知っていたわけではなかったが、肌の色や身にまとっている装束をみれば、彼らがナイゼルと同胞の北方人種であることは明白であり、彼らこそが追いかけていた盗賊達に他ならなかった。

 問題は、何故彼らがここで死んでいるのか、ということだ。

 その謎はおそらく、この先に見える明かりの元にあるのではないか、という気がして、ナイゼルは彼らを捨て置いて、さらに斜面を下りていった。

 その明かりの元に――何と言えばいいのだろう、祭壇か何かといった様子の石の台のようなものがそこにはあった。

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