第6章 悪魔の谷

第6章(その1)



 最初のうちは捕虜なのか客人なのか曖昧な立場だったナイゼル・アッシュマンも、転戦を重ねるうちにやがて討伐部隊の兵士達からも一目置かれるようにまでなっていった。

 最初のうちはやはり元は敵の士官ということもあって、あくまでもハールマルドの目の届くところに常に置かれていたのが、やがてやむを得ず部隊を二手に分けるときなど、別動隊の方に振り分けられる機会も増えていった。

 そのようなさいに別動隊を率いるのはカリル・ハジャというハールマルドの腹心の部下の一人だったのだが、これがまだひげも生えそろわぬような……ともすれば少年とさえ呼べるような若者ということもあって、ハールマルドとしてはいささか心許なくもあったのだろう。もちろん彼の部下はそんな年若い者ばかりでもなかったのだが、砂漠の民にしてもそれなりに生まれた氏族の優劣というような上下関係があって、ハールマルドら士官と、そうでない兵卒どもとでは身分が厳格に分かれており、年少のカリルに兵を預けざるをえないのもそういった事情があるからなのだった。

 もちろん、まだ若く血気盛んなカリル・ハジャにしてみれば、異国人がお目付役然とした素振りで自分に付き従ってくるのはいささか面白くはない。ことあるごとにナイゼルに突っ掛かってくるのだが、これをいちいち生真面目に取りあったりするナイゼルでもなかったので、少年はますます敵愾心を顕にするのだった。

 残党達の根城のひとつを叩きに兵を率いていったハールマルドに代わって、そんな二人が別の一帯で村々を襲っている野盗どもを討伐するために、別動隊としてしばし追跡行を続けていた、丁度そんな折だった。

 とある村が襲われているという報を受けて駆け付けた彼らだったが、賊はあと一歩のところでその村から逃げ去ったあとだった。

「……賊どもめは、かなたに皆様方の馬影が見えたと知るや、一目散に逃げていってしまいました」

 村人がそのように説明するのを聞いて、カリル・ハジャはあからさまに舌打ちした。

「くそ! 異教徒どもめ、なんてすばしこいんだ」

 少年が憤りの言葉を吐くのを、ナイゼルは黙って見ていた。

「アッシュマン卿。僕らが討伐任務についていることが、あの連中にもずいぶんと知られるところとなってしまっているみたいだね。いったい、どこで知ったんだろう……?」

「襲った村で、村人から聞いたのであろう」

 ナイゼルが訳知り顔でそう答える。事実、敗残兵達の出没に関して広く情報提供を求めていることもあって、近隣の村々の者達にしてみればハールマルドの部隊の事は周知の事実だったから、ナイゼルの言う事も簡単に推論出来る事だった。だがそれを異教徒であるナイゼルの口から説明されるのが、カリル・ハジャには気にくわない。

 まあ彼にしても、例えばナイゼルが敵と内通しているなどと、極端なことを本気で疑っているわけではなかったにせよ、当てつけのような態度になってしまうのはやむを得なかったかも知れない。ナイゼルにしてもそんな子供じみた当てこすりは意に介した風でもなかったので、それが余計に少年には気にくわないのだった。

「それで? 賊どもはどっちに逃げたんだ?」

 カリルがそのように問うと、村人は律儀に、凶賊が逃げていった方角を指し示した。だがそこから追撃のためにただちに出撃しようという素振りを見せたのは、何故かナイゼルただ一人だけだった。

「……どうした? 敵を追わないのか?」

「そうか。あんたはよそものだから、知らないんだな」

 カリルが言う。その口調はべつだんナイゼルの無知をあざけるでもなく、至って真面目くさった態度なのが意外と言えば意外だった。

「どういうことだ?」

「これを見ろ」

 カリルはそういうと、懐から使い込まれた地図を取り出して広げた。うすくなめした獣皮の上に丁寧に地理を図示した、その絵図面のさり気ない正確さは、砂漠の民を野蛮人だと思い込んでいる北方の人々が見れば驚くべきものだろうが、今はそこに書き記されている文字の方が問題だった。

「……悪魔の谷、だと?」

「そのとおり」

 今現在彼らがいる村から北東の方角、確かに地図の上には渓谷のような地形が描き込まれており、そこに「悪魔の谷」という文字が並んでいた。

「仰々しい名前だが、この谷がどうかしたのか。いったい何があるというのだ?」

 そういえば、目立って峻険な山地など、天然の要害ともいうべき地形をナイゼル自身この砂漠ではあまり見た覚えがなかった。おどろおどろしい名前からナイゼルがまず想像したのはそのような険しい難所だったが、地図上の距離から考えてもそこまで地形の起伏に富んでいるようにも思えない。ナイゼルがそのように思いを巡らせていると、カリル・ハジャが言うのだった。

「何があるかなんて、誰も知りゃしないさ。何せそこに足を踏みいれた者は、今まで誰一人として帰ってきていないという話なんだから」

 カリル・ハジャのような若者が神妙な顔つきでそんな事をいうのが、ナイゼルにはどうにも不思議だった。普段は何につけ勇ましい物言いの彼なのに、どうしてこのように大人しい態度になるというのか。

 ナイゼルは問い返す。

「だが、この地図にはちゃんと地形らしきものが描かれているではないか。誰かが行って見てきたからこそ、このように地図に表されているのではないのか」

「それは単に入り口と出口をそれらしくつないであるだけさ。だいたい、誰もいかないのに地図だけ正確でもしょうがないじゃないか」

 討伐部隊とともに砂漠をかけずり回る中で、部隊に支給されている地図の正確さに感心していたからこそナイゼルにはそういう疑問が頭に浮かんだのだが、そのように反論されては何も言い返せなかった。カリル・ハジャにしてみれば、地図の文句を自分に言われても困る、と言いたげであったし、事実そこが論点ではないのだ。

 ナイゼルは広げた地図に再び視線を落とし、谷を越えた向こう側を指さした。

「では、距離は少なくとも正確であるとしよう。もし連中が無事に谷を抜けたら、明日にはここの村が襲われる」

「まさか」

 そんな事が出来るはずがない、と言い捨てるカリルだったが、ナイゼルは引き下がらなかった。

「この村で目立った収穫が何もなかったのだ。奴らも食っていくためには、次にまたどこかを襲わないといけないはずだ」

 迂回路を通って先回りすることは出来ないのか、とナイゼルは問うたが、そこは地図の記載を信用する限りでは、谷の周辺にそれらしい近道は見出せなかった。

「……多少遠回りになっても構わない。念のため、使いをやって急を知らせた方がいいかも知れない」

「そんな必要、あるとは思えないけどな」

「ではどうする、カリル・ハジャ。逃げた連中をそのままにして、ハールマルドにどう報告するつもりだ」

 ナイゼルにそう問いつめられて、少年はばつ悪そうに肩をすくめた。

「事実そのままを。悪魔の谷に逃げ込んだと言えば、あの人だってそれで納得するさ。……アッシュマン卿、あんた一体、何を考えているんだ」

「貴公らがいやというなら仕方がない。私一人でも、連中を追いかける」

「……何だって?」

「連中が何かしら、谷の名前に相応しい難に会ってくれればそれでいいさ。私はそれを見届ける。何事もないのなら、私が連中にとっての災難になる」

「冗談じゃないぞ」

 カリル・ハジャはそう言って声を荒げた。

 彼にしてみれば、ナイゼルの身柄が自分の元にあるということは、ハールマルドから彼の監視を託されているという事でもあるのだという認識があっただろうから、ここで彼を一人行かせるわけにはいかなかった。

 だがナイゼル・アッシュマンは説得に応じる素振りも見せなかった。

 カリル・ハジャがもう少し冷静であったなら、ナイゼルの言動を反乱行為と見なして、部下の兵士たちに彼の身柄を拘束させればよかったのかも知れない。だがいうことを訊かないナイゼルに向こう腹を立てて一方的に非難の声を浴びせるだけでは、下々の兵士達もどうしていいか分からず、結局ナイゼルが一人村を離れ、悪魔の谷へと向かっていくのを思いとどまらせることは誰にも出来なかったのだった。


     *     *     *


「……何故です? 何故そんなに、あなたはその谷にこだわったのですか?」

 焚き火を挟んで向かい合うナイゼルに、アルサスは問うた。土着の不気味な言い伝えは確かに気がかりだったが、それこそ今彼らがいる森だってどんなけものが潜んでいるとも言えず、決して安全な場所というわけでもない。旅の難所に、そのような逸話が付きまとうのはどこの土地へ行ってもありそうなことではないか、と旅慣れしていないアルサスでもそのように思うのだったが。

「確かに、事の真相は明らかになってみれば大したことのない事であるのかも知れぬ。だがハールマルドの部下はいずれも鍛え上げられた鉄の軍団だ。悪魔の谷結構、そこへ行って死ねと命じられれば、恐れることなく突撃していってもまったくおかしくないような連中だぞ? それが揃いも揃って、本気で言い伝えを恐れているのが私には気にかかったのだ。……それゆえに、私はその事の真相を、私自身がその地に赴き、おのれ自身の目で確かめるべきだと、堅く信じていたのだ」

「どうして」

 アルサスがそのように問うたのに、ナイゼルはただ薄く笑っただけだった。

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