第5章(その2)

 と、丁度その時。

「アルサス殿、静かに」

 ナイゼルは不意に厳しい表情を見せたかと思うと、声をひそめてそう注意を促した。一体どうしたのだ、と思わず質問しそうになったアルサスを、ナイゼルは制止する。

「不用意に動かぬように」

 そう言ったナイゼルの手が、いつの間にか腰に差した剣に添えられていた。彼はいつでも、剣を抜き放てる体勢にあった。何事かと見ていると、彼はゆっくりと立ち上がり、木立の陰に向かって声をかけた。

「出てくるがいい。そこに隠れ潜んでいるのは、分かっている」

 彼が一体誰に声をかけたのか、アルサスにはまったく分からなかった。しばし何の反応も無かったが、別にナイゼルが何か思い違いをしていたのでもなかった証拠に、ややあって本当に林の中から幾人かの男達が姿を見せたのだった。

 その数は四人。いずれもその手には山刀のたぐいが握られていた。草木生い茂る林の中を歩き回るのだから、薮をはらうのに必要なものではあったが、そういう用途のために今この場で握りしめているわけでもなさそうだった。

 一体この場で何が起ころうとしているのか、とアルサスは気が気ではなかったが、ナイゼル・アッシュマンはあたかも最初からそうなると知っていたかのような冷静な態度で、彼らに向かって静かに問いを投げかける。

「一応、訊いておこう。貴公らの狙いはどちらだ? この私か、それとも僧侶どのか」

「坊主の方だ」

 男の一人が答えた。名指しされたアルサスはと言えば、飛び上がらんばかりに驚いた。

「ぼ、僕? ど、どうして僕なのです。僕が一体、何をしたと……」

「恐らく、貴公にワルスタットに到着してもらっては困る、という事ではないのかな。貴公をここで足止めすることで、異端審問を妨害したいということなのであろう」

 淡々としたナイゼルの推察は、いかにもなるほどと合点のいくものだった。異端審問は第三者の告発が発端となることが少なくなかったが、中には人を陥れる目的で虚偽の告発がなされることも、往々にしてよくあることだった。現地に到着するまで、このたびのワルスタットでの異端審問の委細についてはアルサスも未だ詳しくは知らぬままだったが、例えば地方領主やら貴族やらといった有力者が、そういった異端審問のごたごたに巻き込まれてしまうような事もあっただろうし、そういう立場の者が人を金で雇って、このような極端な手段に出るのも、有り得ない話とは言えない。

 そのような事実を前にしても、ナイゼルはまったく動じたふりさえ見せなかった。

「先の宿場に従者が現れなかったというのも、もしかしたらその者達の差し金だったのかも知れぬな。金をやって途中で引き返させたか、あるいは亡きものにでもしてしまったか」

 平然と言ってのけるが、事実であればとんだとばっちりだ。アルサスは頭がくらくらする思いだった。

 ナイゼルはさらに続ける。

「この私も、たまたま居合わせてしまったからには、傍観しているだけというわけにはいかぬのであろうな」

「邪魔だてするつもりか」

「そなたらに加担するいわれもない。それにここなる僧侶どのとは一応は旧知の仲でもある。見過ごすわけにも参らぬ」

 ナイゼルがそう言い終わるのと同時に、男達は怒声を張り上げ、山刀を振りかざして躍りかかってきた。

 ナイゼルは冷静そのものだった。すっと半身をかがみ込ませて、最初に躍りかかってきた男をするりとやり過ごしたかと思うと、いつの間にか抜き放たれていた剣がその男の喉元に突き立てられていた。続けて躍りかかってきた二人目を一太刀で斬り伏せるが、同時に背後に迫っていたもう一人の一撃をかわすいとまがなかった。

 危ない、とアルサスが声をあげそうになった瞬間……背後にいた男が不自然な体勢で地面に倒れたのだった。まるでそこにもう一人誰かいて、思いっきり突き飛ばされたかのようだった。アルサスは思わず目を疑ったが、ナイゼルは少しも慌てず、地面に転がった男の心臓に遠慮なく切っ先を突き立てた。

 すべてはほんの一瞬の出来事だった。瞬く間に三つの死体が転がり、残る一人が劣勢とみるや茂みの向こうへと逃げ去っていく。

「捨ておけ」

 誰に言っているのか、ナイゼルがそのようにぼそりと告げた。まさかアルサスがその曲者を追いかけるはずもなし、独り言だったのだろうか。

 男が茂みをかき分けていく音が、徐々に遠ざかっていく。やがてその場には、焚き火のはぜる音の他何もない、夜の静けさがまた戻ってきたのだった。

「……また、来るでしょうかね?」

「この夜更けに、森を一人で抜けるのも難儀ではあろう。仲間を失ったというのに、この上単身で危ない思いをしたくもなかろうし」

 それより、とナイゼルは剣を拭いながら涼しい口調で言った。

「アルサス殿。貴公にこういったことを頼むのも気が引けるが、少々手伝ってはくれぬか」

「何をでしょう?」

「この亡骸だ」

 ナイゼルはそう言って、その場に転がる三つの亡骸を指し示した。一番手近にあった男の遺体の両肩を持ち上げたかと思うと、アルサスに言う。

「すまぬが、足の方を持ってくれ」

 あまりにさりげない素振りでそのような事を頼まれて、アルサスは内心ぎょっとした。

 嫌です、と言って断りたいところだが、そもそもこの曲者どもはアルサスの命を狙ってここに現れたわけだし、純粋に通りすがりだったにも関わらずナイゼル・アッシュマンは彼の命を助けてくれた形になるわけだから、言われるがままに手を貸すより他になかった。

 全部で三つの遺体を、森の木立の向こうへと運び出す。少し距離はあったものの基本的には右から左に無造作に移動しただけだった。死者を冒涜する意図などまるでなかったが、血塗れた遺体にあまり長く触れていたいとも思わなかったし、育ちのよいアルサスにしてみればそのように重いものを持ち上げる機会もそうそうある事ではなかったので、最後の方にはまるでぞんざいに放り投げるような扱いになってしまうのは否めなかった。

 アルサスにしてみれば、まさに青ざめるような体験の連続といえた。刃傷沙汰をこんな間近で見るのももちろん初めてだったし、他殺死体にじかに触るのも無論初めての事だった。今しがたナイゼルから戦地での凄惨な体験を散々聞かされていたとは言え、そういったものを実際に目の当たりにするのはこういう事なのだと、少なからぬ衝撃を受けていたのだった。

 とは言え、アルサスにしたところで、異端審問官である以上血なまぐさい事とは完全に無縁というわけにはいかないのが実情だった。書面を確認し承認を下す、実際に彼自身がこなしている業務といえばそれだけなのだったが、やはり異端審問であるのだから拷問や刑罰が皆無というわけにもいかない。そういった諸々に、アルサスもまた荷担しているのは明白な事実なのだ。

 聖地奪還は失敗に終わった。いくさゆえに勝ち負けは様々な要因に左右されうるだろうが、それこそが神のご意志である、と僧会が明言していた以上、何故失敗に終わったのかその責任の所在が何とも微妙であった。責任者を処分しようにも軍は壊滅、そもそも出兵を決定したのは最終的には国王であるから、その非を問うわけにもいかない。結局、世論を焚き付けた僧会が、おのれに批判の矛先が向かうのを避けるために、「人々の不信心」こそが敗因であったとし、それを断罪するために異端審問をむやみに繰り返すようになり……挙げ句の果てに、そんな審問にかこつけた虚偽の告発が横行するに至ったのだ。結果的に、異端審問の件数増加に対応するためにアルサスのような若輩者までを異端審問官に任命するに至ったのは、そういう事情があったゆえだったのだが。

 なので、アルサスとしてもナイゼルのこの場での凶行を、頭ごなしに非難するわけにもいかないのだった。

「まったく……このような刃傷沙汰が日常になってしまっては、神の不在を疑いたくなるあなたの言い分も、分からなくもないですよ」

 そう呟いたのは何気なしにだったが、ナイゼルがちくりと言った。

「お立場から言えば、充分に異端的ともいえる発言だな」

「よして下さい。こんな薄ら寒い森の中で、誰が僕を断罪するというのですか。それに、元はあなたが言ったことですよ」

「確かに」

 ナイゼルは苦笑しながら頷く。

 その場から死体は撤去されたが、血痕は残されていた。まじまじと見つめていたくもなかったので足で砂をかけてごまかすが、地面に染みのようなものが残ってしまった。けものが出るような山奥でなければ、呑気に焚き火など囲んでおらずこのような場所からは少しでも早くおさらばしたかった。

 両者の間に沈黙が訪れた。曲者の出現が水をさす格好になって、どこから会話を再開すればよいのかが分からなかった。

 黙りこくっていると、ナイゼルが言った。

「もうすっかり夜も更けた。一眠りするといい」

「あなたは?」

「私はもうしばらく、こうしている」

 ナイゼルはそういったきり、揺れる炎にじっと視線を落としていた。

 それで会話は終わりと言いたげな雰囲気だった。アルサスは仕方なしに、外套にくるまって、落ち葉の上に身を横たえた。

 だが目を閉じたところで、到底ぐっすりと安らかに眠れるような夜ではなかった。風が森の木々を揺らし、葉擦れのさざめく音が幾重にも折り重なって常に低く唸り続けている。ナイゼルもまだ眠らないつもりなのか、焚き火のはぜる音が断続的に響いて、それがアルサスの気分をことさらに苛立たせるのだった。

 どうにも、ゆっくりと眠れそうになかった。

 アルサスは身を起こすと、再び火の前に戻ってきた。

「寝ないのか?」

「どうにもこうにも、眠れるわけがないじゃないですか」

「そうか……」

 そう呟いたナイゼルの前に、アルサスはどっかと腰を下ろす。

「さきほどのお話。まだまだ続きがあるんですよね。敵の討伐隊に手を貸して、それでそのまま大手を振ってこの国に帰ってきました、というだけの話ではないんでしょう?」

「面白い話ではないかも知れぬぞ」

「さて。確かに気が滅入るような話の連続ですけど、色々と興味深い話ではありますね」

 アルサスは半ば自棄になったように、ぶっきらぼうな口調で言った。刃傷沙汰に付き合わされ、気が立っていたがゆえの物言いだった。ナイゼルは何がおかしいのか、小さく笑みをこぼしたのだった。



(次章へ続く)

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