第3章(その2)

 あとはただひたすらに撤退戦であった。敵に追撃されるがままに、遠征部隊は略奪を繰り返し進撃してきた道のりを、そのまま敗走するがままに逃げ続けるしかなかった。追いすがる敵を満足に迎え討つことも出来ず、本隊とはぐれ置き去りにされてしまった部隊も少なくはなかった。神の御名を唱えながら意気揚々と進軍していたはずの彼らは、今は罵りの言葉とともに、散り散りになって砂漠のどこかへと消えていったのだった。

 背後から挟み撃ちにされて、遠征軍の本隊は陣容を崩して散り散りになってしまった。そのような混乱のさなか生き残ることの出来た者たちは取り敢えず北を目指した。ひとたび南下してきた道をひたすら引き返し、そうやって仲間と合流出来た者たちはあらためて隊列を整え、そのまま敵の追撃から逃れるために大慌てで後退していったのだった。

 そして敵の追撃部隊もまた、そういう連中を追跡していく。最初の戦闘でその場に取り残されてしまった者達は、敵軍に進路も退路も断たれ、見知らぬ土地で完全に孤立しまったのである。

 ナイゼルは乱戦のさなかで騎馬を失い、それでもなお向かいかかってくる敵を次から次に斬り捨て、自らまさに文字通り血路を開いて突き進んでいく。ふと気がついて周りを見渡せば、敵も味方も、誰も生きて立っている者の姿がどこにも無くなってしまっていた。無数の死体が折り重なるように転がっている。それが砂の平原のずっと彼方まで、どこまでもどこまでも続いているのだった。もちろんそのすべてをナイゼル一人で斬り伏せたわけではない。ある者は敵に討たれ、ある者は相打ちとなり、敵味方双方が一人また一人と減っていき……生き残った者は身の安全を図るため早々にこの戦場をあとにしていったか、あるいはそうやって逃げていった者たちを追いかけてやはり去っていったかのどちらかであろう。ナイゼル一人が、そこに取り残されたまま呆然と立ちつくしていたのだった。

 果たしてどうするべきか。折り重なる死体の山を見ているだけでは、自分が今砂漠のどの辺りにいて、どの方角を向いていて、どちらを目指していけばよいのかも分からなかったが、ただ亡骸に囲まれているだけというわけにもいかないので、とにかくナイゼルは歩いた。もしかしたら乗り手をなくした馬ぐらい見つかったかも知れないし、あるいは生存者に行き会う事もあったかも知れない――それが敵なのか味方なのかはさておくが。

 だが結局、彼はその戦場でだれに遭遇することもなかった。気がつけば転がる亡骸すら見あたらなくなり、ナイゼルは自分が戦場だった場所を離れつつあることを知った。目の前に広がるのは道もなにもない、延々と続く砂の平原だった。まるで凪の海に小舟でこぎ出していくかのごとく、ナイゼルは一人、ひたすらに歩き続けた。

 あれだけの激しい戦闘がまるで嘘だったかのように、ナイゼルは戦場を離れて以来、誰と行きあう事もなかった。味方の生き残りはおろか、敵の行軍に行き会うこともない。あれだけの軍勢で周到に襲いかかってきた敵軍だったから、もっと密に伝令の早馬なりが駆け回っていてもよさそうなものなのに、それとすれ違うこともない。まるでそのようないくさなど最初から無かったかのように、ナイゼルが行く道はひたすらに静かだった。

 そのまま歩き続けたところでどこに行くあてもない。どちらを目指せば生命の無事が確保出来るのかもまったく分からない。このまま生きて再び故国の地を踏むことなど、まず有り得ないこととしか思えなかった。

 だが不思議と、ナイゼルには何も不安に思うことなど何もなかった。

 むしろ、そのように一人気ままに放浪するような身の上になって、ナイゼルは初めて心がすっと軽くなるのを覚えた。供も連れず、騎馬も失い、ただ剣一本だけを携えて、道などほとんど無いような砂の海をひたすらに渡っていく。水も食糧も腰に下げた物入れに入っているだけのわずかばかりの量しかなく、どれほども持たないのは明らかだった。

 その点、ナイゼルはそこまで徹底的に運に見放されていたわけでもなかった。あてどもなくさすらううちに、小さな水場にたどり着いたのである。その場に生えていた弱々しい灌木が、固くいかにも不味そうな実を付けていて、それで辛うじて空腹を満たすことが出来た。ナイゼルはその付近の岩場の陰にうずくまって、日中の一番日差しの厳しい頃合いをやり過ごし、日が傾いて暑さが幾分和らいできたころに、またあてどもなく歩き出していくのだった。

 そうやって一人歩き続けているうちに、さらさらと砂ばかりの土地から、徐々に乾燥した下草がまばらに生えた荒れ野原へと景色が変わっていく。草が踏み固められた道らしきものを見つけたので、そこを辿っていくことでナイゼルは水場から水場へと、どうにか旅を続ける事が出来た。

 問題はやはり食べ物だ。こればかりは下草を食うわけにもいかず、木の実でも探すほかは、結局どこかで対価を払って人から譲り受けるよりなかったのかも知れない。だがそこは敵地で、彼は無法な侵略者なのだ。ここに至るまで人に出くわす事はなかったが、いずれ誰にも出くわさなければ行き倒れ、出くわしたならば敵として石持て追われ……いずれにせよそこが彼の旅の終わりとなってしまう可能性が高かった。

 自分が一体どこを目指しているのか、方角すらもよく分からないまま歩いているうちに、下草もよりまばらになり、やがて彼は再び一面砂しか見えない砂丘に出てしまった。そのうち風が出てきたかと思うと、砂塵が巻き起こって、やがてナイゼルの身体を砂のつぶてが容赦なく包むのだった。

 いよいよ、進退窮まってきたようだった。あてどもなく放浪を続けてきたが、ここら辺りが自分にとっての最期の土地になるのだろうか、とナイゼルは一人苦笑いした。苦笑いしつつも、それでも彼は前進するのをやめなかった。

 吹き付ける砂のつぶてに思わず目を閉じそうになる。空腹のせいでその歩みに力もなく、とぼとぼと弱々しい足取りで彼は砂丘の斜面を登っていった。

 その斜面の途上で、彼は風に混じって、人の声のようなものを聞いた気がした。

 果たしてそれが空腹やら疲労やらのもたらす空耳であったのか、本当の声であったのか……目の前にそびえたつ砂の丘を、どうにか越えた辺りで、ナイゼルはふと足を止めて、その向こう側にじっと視線を凝らした。

 前方、はるか向こう側に、ほんの小さい人影ではあったが、誰かしら動く者があるのが見えた。

 同時に――それを目の当たりにするや否や、瞬時に緊張が走るのが分かった。

 人が、襲われていた。

 どうやらそれは旅の商人であるらしかった。積み荷をくくりつけたラクを数頭従え、騎馬の群れに取り囲まれておろおろとしているのが見える。そんな彼らを包囲しているのは、ナイゼルには見覚えのある意匠の鎧甲冑を身にまとった男達の群れだった。

 その集団が、猛り狂ったようにしきりに怒号を上げているのが、ナイゼルの立っている場所までもかろうじて聞こえてきた。

「呪われた異教徒め、死ね!」

 そう言って、鎧甲冑に身を包んだ騎兵が、馬上から剣を振り下ろす。相手は屈強な兵隊でもなんでもない。おろおろと逃げまどう、痩せた老人に過ぎなかった。騎馬の兵はそんな年寄りを背中から切り伏せると、倒れたその背中を馬蹄で踏みにじり、高らかに笑い声をあげるのだった。

 状況は明らかだった。土地の者を野盗同然に襲っているのは、敗走を続けていたであろう友軍の兵士たちだったのだ。

 はるか離れた砂丘から見えるその光景は、実に見苦しいものだった。それが教養のない一兵卒どもの所行であれば、他人事ゆえにまだ仕方のないことだと諦めがついたのかも知れない。

 だが、彼らが身にまとっている甲冑は砂塵にまみれてもなお日の光を照り返してきらきらとまばゆく光り輝いていた。それを見やれば、彼らがそれなりに名の知れた、由緒のある家柄の子弟たちであろうことは想像に難くない。本来であれば本隊の奥深くにいて、前線の本当の前列にはまず出てこないような者達だった。そういう連中は敵の追撃を受け本隊が撤退を始めた時点で、我先にと逃げ出したはずではなかったか。そんな彼らも結局ははぐれて異郷の地に置き去りにされたということか、それともそんな彼らだからこそ、今ここまで追撃の手を逃れて、未だにこのような場所をうろうろしていられたということなのか。

 食い詰めてどうにもならないのは、ここで立って見ているだけのナイゼルにしても同じことだった。とは言え、武器も持たぬ者を背中から切り伏せ、殺してものを奪い取る、そんな行為に人としてためらいを覚えたり、恥じ入るということを彼らは知らぬのであろうか。

 その蛮行を、彼らは神の名の下に行っているのだ。

 だが彼らが血刀を振り上げ、斬り捨てた者達にとっても、彼らなりの神はいて、その神に対して救いをもとめる言葉を連ねながら、非業の最期を迎えているに違いないのだ。そのようなむごたらしい凶行に及ぶのに、何故に神のためだなどと言い訳するのか。

 むしろ、本当に神がいるのであれば、どうして無惨に殺されゆく哀れな者どもに、救いの手を差し伸べてはやらぬのか。

 どうして、あの愚か者どもに、報いの鉄槌を下してはやらぬのか。

 ――いや。

 ナイゼルはふと、ひらめいた。

 自分が、今ここにこうして立っているではないか。

 誰も見咎める者がなければ、彼らの凶行は最後まで完遂されていただろう。それを仮に邪魔だてするものがあるとすれば、それは今この場に居合わせた、ナイゼル・アッシュマンその人しかありえないのではなかろうか。

 そうだ。

 その巡り合わせをこそ、呪うがいい。

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