#12 ハツ◯◯

『ねえ』


『今から会える?』


 金曜日の午後8時。

 立て続けに震え、机の定位置から僅かにずれたスマホを手に取ると、時間帯的にあり得ない人物からの連絡だった。


『今から?』


『俺はいいけど、大丈夫なの?』


 すぐに既読がついたけど、この質問に対する答えはなかった。8時半に専門学校近くの繁華街で、とだけ連絡が来た。もう一度『時間は大丈夫なん?』と送ったが、もう既読はつかない。


 いつもそうだ。

 一度これだと決めたら、もう止まらない。暴走と言われることもあるけど、その濁流のような強さが、本当は少し羨ましいと思ったりする。


 軽く身支度をして、歩いて待ち合わせ場所へ向かった。指定された場所は、一人暮らしのアパートから徒歩15分で着いてしまう。一方で彼女は、電車で30分かけてやってくる。


「おっす」


 お腹のあたりまで伸びた、でも手入れはきちんとされている髪を揺らして、彼女はその女性的な顔立ちに似合わない言葉を発した。色無地のTシャツに色褪せてきたジージャン、そして黒スキニー。定番の出立ちだ。


 だけど、いつもと違う点が一つある。


「その荷物……」


「あぁ、これね。家出したから」


「絵に描いたような家出少女だな」


「もうハタチだから、少女とは言い難いけどね」


「だから門限は関係ないってこと?」


「うん。今日は和人かずひととたくさん喋ってたくさん食べる」


「……腹、どんくらい減ってる?」


「腹と背中がくっつくくらい」


 お腹、と言えば、もっと可愛いのに。

 そんなことを思いながら、彼女に手を伸ばして、大荷物を代わりに担いだ。一週間分の衣服に、必要な教科書と洗面用具を詰め込んだらしい。




 どちらからともなく歩き出して、一軒の焼き鳥屋にたどり着いた。

 こんなこと言っちゃ彼女に悪いのかもしれないけど、二人とも、煙の匂いがついてもあまり困らない服装をしていた。

 荷物を持つのもそろそろ限界で、吸い込まれるようにその店へと入っていった。


「へぇ、一本120円からだって。安いな」


「100円しない店も、確かあった気がするけど」


「円安のご時世にしちゃ安いよ」


 彼女は時事問題も割と話題に入れてくる。女子同士だとこの会話は退屈らしく、結局彼女の周りに集まるのは男ばかりになる。普通、異性に人気だと同性からやっかまれるけど、彼女は文字通りのサバサバした性格のせいで、その対象にはならない。


「何頼む?」


 彼女に尋ねた。


「和人は?」


「うーん、俺は……」


「あぁ、ごめん」


 ん? と返すと、彼女は伏し目がちに笑った。


「いっつも和人に最初、意見聞いてるなって気づいて。和人からしちゃ、俺が聞いてんだから先答えろよって思うよな」


 正直言えば、今言われるまで気づかなかった。だけど確かにそうだった。先に意見を言うのは、いつも自分だ。


「いや、俺はそんなこと思ってないよ。気にすんなよ」


「いや……これも全部、重篤な副作用なんだって思ったら、アホくさくてさ」


 そうこうしているうちに注文が決まり、備え付けのタッチパネルで注文を飛ばす。アルコールが来てから少しして、焼き鳥が運ばれてきた。


 つくね、もも、ねぎま、レバー、皮、ハツ。

 タレと塩両方頼んでいるので、実際には2倍の数が来ている。


 彼女は、レバー、皮、ハツを自分の方に引き寄せた。


「なんか……主演がいないな」


「確かに。あたしみたい」


「人生の主演は自分だろ」


「はっ、待って。何言って……まぁそうか、普通の人ならそう考える?」


「普通だろ、お前も」


「普通だったら、こんな大荷物持って家出なんかしねぇよ」


 そう言いながら、彼女はハツのタレ焼きの串をひょいと持ち上げる。


「ハツってどの部位か知ってる?」


「当たり前じゃん。心臓だろ?」


「正解。今のあたしさ、こんな感じなの」


 心を焼かれて、ブッ刺されてる感じ。と彼女は歯を見せて笑いながら言った。突然のことに笑い返すこともできなくて、行き場を失った右手がジョッキを掴む。


「あたしの人生の主演は、母親。あたしはAD。舞台さえあればいいんだよ。脚本なんていらない。だからあたしの心は必要ない」


 ハツを一口食べてから、彼女はまた問いかけてきた。


「どっちが不幸だと思う? 心臓を焼かれた動物と、心を焼かれた人間。感情を殺されずに肉体だけ殺される動物と、肉体だけ残されて感情を殺される人間」


「んん……考えたことなかったけど、多分感情殺される方が辛いかもな。人間らしさを失うことになるから」


「やっぱ和人もそう思うんだ。あたしも同感。だから、もはや刺されたいかな」


「は?」


「肉体もいらないじゃん。人間らしさ失ってんだから。あたしもこのハツみたいに刺されたい。グサって」


「えっ。いやいやいや……やめろって」


 半ば本気で焦った。こういうことを言う人間に、出会ったことがなかったからだ。どう反応したらいいのか分からない。


 そんな気持ちが顔にはっきりと出ていたようで、彼女は「ごめん。食べてる時に話すことじゃなかった」と謝る。


「いやいいよ。飯でも食ってないと、もっと言葉の掛け方に迷ってた」


 冷めてきたつくねのタレ焼きを食べて、ふと思った。


 自分は、何も考えずに逃げてきただけだった。

 心が焼かれるとか以前に、父親の魔の手が忍び寄るのを察知して、逃げてきただけだ。きっと兄は今、目の前の彼女のような状態なのかもしれない。でも自分は兄さえも捨ててきてしまった。心配する権利すらない。


「なぁ」


「ん?」


「なんでさ、もっと前に母親から逃げなかったの?」


「うーん。自分が死ぬから。母親を痛めつけながらこの世に出てきたのは事実で、母親を捨てたら、自分の存在意義がますます分からなくなると思ったから。あとは……やっぱり、あたしがいないとあの人、本気で自分のこと刺しちゃう気がするから」


「どういうこと?」


 ちょうどその時、彼女のスマホが机の上で震え始めた。バイブの間隔は長く、それが電話であることを示している。

 彼女は伏せられていた画面をパッとひっくり返して、すぐにまた伏せた。


「噂をすれば何とやら、ってやつ」


 電話が鳴り止むと、今度は短い間隔のバイブが立て続けに響き出す。


「ほら、こうなるんだよ」


 画面には、『今どこにいるの?』『帰ってきて』『なんで無視するの』『お母さんもう生きる価値ないってこと?』という文字がずらりと並んだ。


「何回もやってんの、この人は。勝手にやってるだけって分かってる。頭では分かってるけどさ、やっぱりあたしが悪いのかなとか、人殺しになるのかなとか、考えちゃうんだよ」


 そう考えるくらいならやっぱり、自分が刺された方が円満に終わるし。

 心臓の切り口に塩揉み込まれたって、焦げそうなくらいの熱で焼かれたって、別に苦しくないんだよ。


 さっきより少し湿った声で彼女は言って、ハツの塩焼きを貪った。わずかに残った弾力が、彼女の口の中で跳ねる。それを両顎の強靭な力で引きちぎって、砕いて食道へと送り込む。

 小さな心臓が、彼女の心臓の近くを通った。


「君たちはいいよね……その命に感謝されながら殺されてさ、死んでもあんたの個性を残そうと料理人が頭使って丁寧に仕込まれてさ、いただきます、美味しいねって言われて誰かの血肉になって、またその中で生きてさ」


 必要とされない命ほど無駄なものはないよなぁ、と力なく彼女は笑った。


 どんな声かけでも薄情に聞こえる気がして、何もできなかった。ただ串刺しにされた肉を見て、思いを巡らす。


 消費者に必要とされた命。

 養鶏業者に必要とされた命。


 他の動物に比べて人間は、あまり必要とされていない命なのかもしれない。


「俺は必要だけどな」


「え?」


「ざっくばらんに話せる女友達、お前くらいしかいないし」


「あたしだけじゃつまんねぇし、考えが偏るよ」


「つまんねぇかどうかは、俺が決める」


「なんで」


「お前の母さんは地球の皇帝でも女王でもないだろ」


 たまたま遺伝子が似ているだけだ。


 彼女は途端に鼻をすすり始め、さらにハツを追加注文した。彼女は今日、何羽分の心臓を自分の血肉にしたんだろう。




 ほぼ全財産を持って家出してきた彼女に払わせるほどケチではないので、今晩は奢った。


「泊まってけよ」


「いい」


「泊まるとこ決まってないんだろ?」


「ほんと、奢ってくれただけですごい感謝してるから。迷惑かけらんねぇ、これ以上」


 迷惑じゃない、と言っても多分通じないからやめておく。一度決めたら、テコでも動かない面白い奴だって、知ってるから。


 彼女の名前を夜風に乗せてみた。


「なぁ、こころ」


「どうした? 和人」


「お前は自由だよ、大丈夫」


 だから生きろよ、と叫ぶと、こころは恥ずかしそうに笑って、ひらりと手を振った。

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サフランは捨てて 水無月やぎ @june_meee

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