#11 ミニマリスト(*)

 寂しい。




 最近、私の頭に浮かぶのは、この言葉ばかりだ。


 一人暮らしの部屋に帰ってきた時はもちろん、会社にいる時も、スーパーにいる時も、同性の友達とご飯を食べている時も、満員電車の中でさえも、寂しいと思っている。


「そんなに寂しいなら、やっぱりまた彼氏見つけた方がいいよ」


 フォークを持つ手にペアリングを光らせて、友達はそう言う。

 彼女は半年前、「妥協した」と言っていた。自分を一度でも好きだと言ってくれた人間を捨てたら、バチが当たる気がしたって。


 あの時は正直、彼女を見下してた。

 今まで全部、第一希望が叶う道を通ってきた人なのに。結果的にあまり大きな意味を成さない学歴とか職歴だけで成功して、何だかんだで一番大事なパートナー選びは失敗したんだって。


 だけど、ペアリングが嵌められた手首から見える腕時計の文字盤を見て、やっぱり彼女は失敗なんかしていなかったのかもって、今更思う。


 私が寂しさを覚えている間に、彼女は妥協して選んだ男を自分好みに育てて、結婚の話をちらつかせている。

 男なんかもういらないと思っている間にも、時計の針は絶対に歩みを止めてなんかくれなくて、また求める頃には私自身の消費期限が迫っていた。


 今私と彼女が同時に死んだら、きっと私だけが人生を後悔するんだと思う。

 私の亡骸を抱いて口付けてくれる人間なんて、どこにもいないんだから。




 寂しい。




 おかしいな。あの時は寂しいっていう感情こそ、最も求めていたものだったのに。


 とにかく一人になりたかった。嫌われたかった。


 緑色のアイコンの右上で、数字がどんどん膨れ上がっていく赤い丸が心の底から憎らしくて。ピン留めを外したって、常に画面の一番上に鎮座する。


 1日に10回も「愛してる」の文字が並ぶと、むしろ本当に愛されているのか、愛とは何なのか、本気で分からなくなって頭が痛くなる。

 初めは嬉しさで体が温かくなったけれど、続けば続くほど、「愛」の一文字を見るだけで寒気がするようになった。


 耳元で囁かれた日なんか、見て分かるくらいに鳥肌が立った。でも彼……元彼は「寒い?」と囁いて、さらに強く私を抱きしめた。もう逃げられない、そんな恐怖が全身を支配した。


 私の発した一言一句、私の見せた一挙手一投足、全て覚えていて、何か見る度に「これって前に言ってたやつだよね!」「これって前カラオケで歌ってたやつ?」と矢継ぎ早に聞いてきた。

 体調のせいで私の機嫌が悪くなると、延々と「ごめんね? 俺何か悪いことしちゃった?」って、眉根を深く下げて尋ねてきた。


 私を何よりも優先して、常に喜ばせようとしてくれて、最初は嬉しかった。本当に、ちゃんと嬉しかったんだ。


 だけどいつからか、私の心が濁ってしまったんだろうか。


 あの人の献身的な姿勢が、まるで私があの人を有無を言わさず従えているような、自分が独裁者であるような、そんな気持ちにさせた。絶えず愛の言葉を吐くこと、私の様子を伺ってくること、全てが私の心を逆撫でしていった。

 彼氏じゃなくて、いつの間にか臣下に見えていた。




 寂しい。




 あの時だけじゃない。


 いつもいつも、途中から相手を彼氏だと思えなくなっていた。中学生の時からそうだったじゃんって、今更思い出す。真っ暗なワンルームで。


 自分が無理やり相手に好意を持たせて、愛の言葉を吐かせて、抱かせているように感じられた。そこまでの負担を強いているのに、私は何も返してやれない。何の褒賞も与えてやれない。


 手を繋いでくれるだけでいいって、口づけをしてくれるだけでいいって、抱きしめてくれるだけでいいって、隣にいてくれるだけでいいって、皆口を揃えて言った。


 でも私の手にも、唇にも、体にも、空気にも、ありがたがるものなんて何もない。それらを差し出すだけで彼らがうっとりした顔をする理由が、心底分からなかった。相手を変えれば分かるかと思ったけれど、10年経っても分からない。




 楽だ。




「私は別にあんたのこと、好きでも嫌いでもないよ」


 カメラのマークをしたアプリを開けば、瞬時に世界が広がる。


 いつかどこかで、クラスが同じだっただけ。

 そんな人達が何を間違ったか、投稿が0の私をワンタップでフォローしてきて、自分のプライベートを見せてくる。「ねぇ見てよ。こんな生活、どう?」って、毎日毎日問いかけてくる。


 画面の上部に並んだ丸いアイコン達をタップすれば、ほっぺたをピチッとくっつけ合った知り合いと私の知らない人がいる。右側にスワイプすれば、今度は私の知らない人のトーク画面が何個も貼られた、誕生日の知り合いがいる。

 どの基準で入れられているのか分からない、限られた人しか見られない緑の輪っかをタップすれば、妥協したのかしてないのか分からない男らしき手が映り込んでいる。もう一度タップすれば、ミッキーとミニーの耳だけが画角に入った写真が小さく置かれているけれど、これでもかというくらいの存在感を放っている。


 多分私は、人から「好きだ」と言われることが苦手だ。そして「好きだ」ということを示す行動を取られることも苦手だ。


 フォークからグラスに持ち替え、ペアリングから新たな光を発する彼女は、私を「好きでも嫌いでもない」と言う。


 体の愛は妥協して育てた男で埋める。

 心の愛は元からいらない。信じてるのは自分だけ。

 空いた時間と感情の隙間に入ってきても人生の無駄だと感じない人間だけ、こうして招き入れてる。

 だからあんたのことは、好きでも嫌いでもないよ。


 私には今、体の愛が絶対的に不足している。

 心の愛は、求めているのかどうか分からない。本気で私を逃したくないという人間を、魅力に感じたことはない。「ずっと友達でいようね」と腕を絡めてきたあの子は、今どこで何をしているのか分からない。




 楽だ。




 私を心から欲していない人間に抱かれるのは、楽だ。

 顔を引き攣らせて「私も愛してる」って言わなくていいから、楽だ。


 私の顔に触れようとしてくるその手は、薄暗い照明に照らされて僅かな輝きを纏っている。


「外そうか」と言ってきたから、その唇を塞いだ。

 物理的に伝わってくる熱しか、いらない。


 最低限でいい。


 洋服だって、化粧品だって、収納だって、お金だって、別に最低限でいい。

 憲法にもそう書いてあるじゃん。健康で文化的な、最低限度の生活って。


 愛だって、別に最低限でいい。

 私だけに注がないで。苦しいから。

 私に従わないで。時には逆らって。


「言ってほしい……言葉は……ある?」


 息も絶え絶えに彼は言う。絡めた右手は、いつの間にか熱を帯びていた。だけどその硬い圧が、私を楽にしてくれる。


「お前……なんか……好きじゃない、って、言って」


「え?」


「……その方が、燃えるの」


 言葉は時として苦しい。

 攻撃的な言葉だけじゃなくて、優しい言葉でさえも、時に人を苦しめる。


 ただ臆病なだけなのかもしれない。

 私も愛していると言うことが、とても怖いだけなのかもしれない。

 言われてきた分の嬉しさを言葉にすることから、逃げているだけなのかもしれない。


「お前なんか……好きじゃ……ない」




 楽だ。




 愛の借金を完済できたみたいに楽だ。


 だけど、




 寂しい。




 今日もまた、すっかり温もりを失くしたベッドで一人、付け根が凹んだ中指と薬指を、私は眺めている。

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