第4節(その2)
「別に私は、そんなこと……」
考えてもいない、と言おうとして、ふと振り返ると、近衛騎士ルーファスがいつの間にか抜身の剣を手に下げていた。アドニスは短く息を呑んで、どうしたらよいか分からずにベオナードの方を振り仰いだが、彼もまた渋い表情のまま、腰に下げた剣をゆっくりと鞘から抜き放った。賢い判断とは言えなかったかも知れないが、血気にはやる近衛騎士の無言の主張がこの場は正しいのだと、ベオナードも認めざるを得なかったということだろうか。
近衛騎士ルーファスが苦虫をかみつぶしたような表情で、オルガノフに迫る。
「貴君に恨みがあるわけでは無いが、元より黒竜の討伐こそ我らが最終的な使命でもある。貴君が死ねば竜を止められる……その言い分、我らが試させてもらうぞ!」
ルーファスが剣を振りあげ、魔導士に躍りかかる。当の魔導士は踵を返して逃げるでもなく、身構えることすらしない。丸腰の相手に刃を向けるのは正騎士ベオナードとしてはためらいを覚えないわけでは無かったが……そうは言っても、竜の事を抜きにしても相手は魔導士であるし、何かしらの手妻でルーファスが反撃を受けた場合に、傍らで抜刀しているベオナードがただ傍観していました、では済まされない状況に陥ることも考えられるので、やむなく近衛騎士の一歩あとに続く形で、魔導士との間合いを詰める。
オルガノフは、笑った。
彼が普通に刃におびえる素振りを見せていれば、少なくともベオナードだけでも寸でのところで思いとどまっていたかも知れない。だが悠々たるその態度が、何かしら含みのあるものに思えて仕方がなかった。ルーファスが振り下ろした切っ先が魔導士の肩を切り裂いたのに続いて、ベオナードの一突きが、オルガノフの脇腹を貫通していた。
魔法使いは苦悶のうめき一つ漏らさなかった。
代わりに、背後で身を休めていたはずの竜が、突如として悲痛な叫び声を上げ始めた。
まるで竜自身が何か深い傷でも負ったかのように、恐ろしげな咆哮をあげ、翼をばっと広げたかと思うと、太い脚で石畳の床を強く踏みしめる。動き出した竜を、その場の一同は皆恐怖におののきながら見上げる。
だがアドニスだけは違っていた。刀傷を真正面から受け止め血を流すオルガノフが、彼女をしかと見据えていた。血塗れた魔法使いと相対したまま、彼女は目をそらすことが出来ずにいたのだ。
二人の騎士に引き下がらなかったオルガノフは、今度は一歩二歩と血を流しながらアドニスににじり寄る。
アドニスは固唾を呑んだ。そこまでの旅程で一度も抜いたことのない、護身用の短刀をいつの間にか抜身のまま握りしめていた。
「アドニスよ、忘れるな。竜の怒りは人に呪いをもたらすぞ」
「……!」
アドニスは我知らず、恐慌のあまり手にした短刀の切っ先をオルガノフの鼻先に突き付けた。それでも視線をそらさない魔法使いを、恐慌のあまり思い切り突き飛ばしてしまった。
さすがにオルガノフは足をもつれさせ、その場に膝を折り崩れ落ちる。それに呼応するかのように、荒れ狂う竜の叫び声が響き渡った。
竜が強く踏みしめた後ろ足が、彼らの立つ建屋の床を踏み抜き、それを支えていた石の柱を砕いた音がした。竜はそのまま翼を大きく一度、二度と羽ばたかせると、上屋の尖塔から軽く跳躍し、建屋の屋上へと飛び降りたのが分かった。
「建屋が崩れるぞ! 皆逃げろ!」
叫んだのはベオナードだった。
正騎士は呆気に取られて動けない兵士たちに、その場から引き下がるように促す。
だが近衛は様子が異なっていた。その場から逃げ出したくてうずうずしている近衛兵に、ルーファスが何ごとか指示を下しているのが分かった。兵士の一人が背負った背嚢からひと房のロープの束を取り出し、それを肩にかけると、崩れかけた尖塔の最上階の足場の先端部分まで駆けていく。
ルーファスの合図に従い、その近衛兵は階下にいた別の近衛兵に、ロープの束を投げ渡す。
見れば、四人の近衛兵が二手に分かれて、互いに投げ渡したロープを思い思いに手繰り寄せていた。そのまま竜は、ぴんとまっすぐになったロープに絡め取られてしまう。
そのロープの突端を握る上階の近衛兵が、竜が身をよじるのにつられて足場から落ちそうになる。
ベオナードは思わず駆け寄り、落ちそうになる近衛兵の身体を支えるのだった。近衛のたくらみを手伝う気は更々なかったが、ルーファスの浅はかな計画に兵卒たちがうかつに危機にさらされるのを見過ごすわけにもいかない。
「縄を放せ! 引きずられるぞ!」
「し、しかし……!」
竜を目の当たりにした恐怖、ロープを実際に引っ張る膂力の強さに対する戸惑い、任務を果たさねばという義務感と相まって、もはやその近衛兵はどう対処してよいか自分でも分かっていなかったようだった。
「えいやっ」
ベオナードは兵士に退去を促すため、その手から無理やりにロープを奪う。だがその瞬間、ものすごい力でロープが引っ張られる。そこで手を放してしまえば彼は石畳の上に墜落ししたたかに身を打ち据えていただろう。その覚悟を決めて思い切りよく手を放すべきだったかも知れないが、一瞬の決断を迷ってしまったがために、彼はそのままロープと一緒に竜に手繰り寄せられる格好になった。
「ええい、ままよ……!」
そのまま、竜の背に思い切ってしがみつくのだった。
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