上
妹が死んだ。
妹は今、自室のベッドの上でまっすぐに天井を向いて、ただ静かにその身を横たえている。この姿を別の誰かが見れば、きっと眠っているだけだと思うだろう。
しかし私はすでに妹が死んでいることを知っている。
妹は死してなお、美しかった。
きめ細やかな白い肌と、黒く艶やかな長い髪、薄く開いた形の綺麗な唇と、そこから覗く深い闇。血の温かみを失った身体が描く黒と白のコントラストが、言い表せない美しさを描いていた。
妹は、シンプルで真っ白なワンピースにその身を包んでいた。庭の木々は葉を落とし、空気は冷たく乾き始めたと言うのに、薄いワンピース以外はなにも身につけていない。
その余計な装飾の一切を取り除いた姿からか、はたまたその白い布と白い肌のせいか、私には妹が、白く溶けて消えてしまうような気がした。
私は部屋の中を見渡す。同じ家に住んでいながら三年ぶりに入る妹の部屋は、あの頃と変わらず殺風景だった。淡いブラウンのカーテンが取り付けられた西側の窓の下に妹が眠るベッドがあるだけでそれ以外に家具と呼べるものはない。そのかわり、大小さまざまなキャンバスと、パレットや絵筆が部屋中を埋め尽くしていた。並んだキャンバスには既に色が乗っていて、どれも美しい。
私の体をそれらが放つ、独特な絵具の香りが満たしていく。そしてそれが私の思考に懐かしさを引っ張ってきた。
私は妹の体に近づいた。眠る妹を起こさぬよう、そっと、静かに。
そこではたと気がついた。妹は目を覚まさない、覚ますはずがないのだと。私はそれを知っている。それなのになぜ、そんなことをしたのだろうか。
私は妹の動くはずのない腕に触れた。そうすると見慣れた人の姿と、触り慣れた人の肌の質感、それと私が知らない冷たさがそこにあって、ぞわりと奇妙な感触が脳を支配する。
私はその奇妙な感触を味わいながら、優しく指を滑らせた。しばらく指先でなぞった後、手のひら全体で触れるとそのまま手首をしっかりと握る。持ち上げれば肉の重みを感じて、妹がそこにあったことを私に伝えてきた。
私は掴んだその腕を、肘の位置で丁寧に折って妹の腹部に乗せる。死後間もない妹の体は、重たくはあったがなんとか動かせた。
腕の位置を整えたら、今度は指先も曲げていく。人の関節に逆らわずただ自然に、その妹の美しい四肢がより美しく見える向きを考えながら、丁寧に作業を進める。
小指まで綺麗に曲げたら、私は一度立ち上がって部屋の扉のあたりまで下がる。命のない肉体に初めて触れて緊張しているのか、それともただ興奮しているのか、私の息は少し上がっていた。
腕や指の位置を整えた妹は、先程よりも美しかった。しなやかな指先がよく見えるようになり、その細さが消えてしまいそうな儚さを表現する。
その変化に、私は私の口元が緩むのを感じた。
今度は私の両手の親指と人差し指を使って、四角い枠を作る。左目を瞑って、その枠の中に妹を収める。
それはまるでキャンバスに収めるような、額縁の中に収めるような、そんな感覚。
私の額縁の中に収まる妹は美しくて、私の中で何が暴れた。
思いが溢れて、感情が声になる。
「はは…。ほんと、さいこう」
思いが溢れて減った分を、鼻から吸い込んだ空気で埋める。肺に広がる絵の具の香りがまたしても、懐かしさと創造欲を掻き立てた。
私はその欲に逆らうことなく、ただ妹の体を動かし続ける。
時折頭の中で何かが警鐘を鳴らしている気もしたが、別の何かがそれ以上の興奮を伝える。そしてどこかで、この美しいこれを完成させることが私の使命のような気もした。
ああ、本当に、さいこう。
私の口角がひくりと揺れる。
華奢で雑に扱えば簡単に折れてしまいそうな腕も、白くて小さな頭も、持ち上げればずしりと重くて体中を動かしていくのは容易ではない。それでも私は妹の体を動かし続けた。
冷えた空気が私を刺してくるというのに、額にはじわりと汗が滲む。顔や首に張り付く色気のない髪が鬱陶しくて真っ黒なパーカーで雑に拭った。ついでに袖を肘のあたりまでまくり上げる。
そのとき不意に、妹の白いワンピースが私の視界の端にチラついた。しかし私は、あえて何も見えなかったふりをする。
今の私には「創造」以外の全てが煩わしい。頭の中に浮かび続けるイメージを早くカタチにしたくて、それ以外の一切を考えることができない。
はふっと熱を持った呼吸が、歯列の、赤くて薄い唇の、隙間を縫って漏れて出た。
どのくらい作業をしていただろうか、私は随分と姿勢を変えた妹から離れて、全体のバランスを観察する。
胴は軽く捻り、片側を持ち上げた骨盤から伸びる両膝は、軽く曲げてこちらに向けさせる。腹部に乗せた方と反対の手は、顔の近くで軽く指を曲げる。
少女の可憐さも残しつつ、体の曲線が描く女としての艶かしさを見せることを意識した。
ああ、その姿、やっぱり美しい。
しかし、何かが私の頭の中にあるイメージとずれている。
がりがりと頭を掻いた。人差し指と親指で作った枠にもう一度妹を収めると、ぐるぐると思考と想像を巡らせる。
私は部屋の枠の片隅から、雑に片付けられた白い布の塊を見つけた。私はその布を手に取る。それは絵画を日光に当てないため、妹がよく絵画にかけていた布だった。シングルサイズのシーツのようなそれはほとんどが絵具でひどく汚れていたが、一枚だけはなぜか汚れていなかった。
その布から、頭の中にぼんやりとイメージが湧き出てくる。私はこの感覚が好きだ。
よく言う『ピンとくる』という言葉は、この感覚のことだと思う。
私は妹の上半身を起こすとその体の下に白い布をひく。起こした上半身で妹の頭が力なくがくりと揺れて、やはり重かった。
それでも私は妹の背中に腕を回してなんとか支えると、執念でそこに布をひく。そしてその上にゆっくりと妹の上半身を置くと、もう一度妹の腰や膝、指先の細部に至るまでを先程の要領で整えた?
体を戻し終わると、今度は妹の背の下にひいた布を整える。背中からベッドへ、ベッドから床へ。丁寧にシワの一つまで整える。
背中から徐々に広がるように整えたそれは、一見ただの乱れた寝具のようにも見えた。しかし妹のその美しく艶かしい姿と合わさると、まるで羽のようにも見えた。
乱れた寝具の上に体を横たえる艶かしい女のようにも、羽を広げて休む天使のようにも、片翼の折れた女神のようにも見える妹に、私はひどく興奮する。
「はは…。できた…」
笑いながら、がくりとその場に膝をついた。疲れが波のように押し寄せる。
「はは…、ははは。あははは」
それでも笑いが抑えられない。これはまさに、二度と再現することのできない、最高の芸術だ。
「妹よ、これが姉の芸術だ」
私は動かない妹に向かって笑った。こめかみをつうと汗がつたった。これほどの高揚感が私を包むのは、いつぶりだろうか。
私は扉の前に膝を抱えて座ると、妹を見つめた。もうすぐ消えて無くなってしまうこの美しい作品が、私の目に焼き付けられていく。
儚くて朽ちてしまうからこそ、この芸術はこんなにも、今が美しいのだ。
壁に背を預けて腰を下ろす。汗が滲んだ背が徐々に私の熱を奪う。妹の部屋に入るのが三年ぶりでも、私はこの部屋をよく知っている。
この家の二階、一番奥の部屋。窓は西側に一つだけ。窓の外には大きな桜の木があって春は窓いっぱいに桜が咲く。夏は緑の葉が窓を覆って日差しを和らげる。秋が深まり冬が近づくと、葉を落とした無数の枝が部屋の中に不思議な影の模様を描く。その模様を描く柔らかな夕日が私はたまらなく好きだった。
もうすぐこの部屋に、その夕日が降り注ぐ。扉の前で膝を抱えた私は静かにそれを待った。
「でも私の芸術はね、これだけじゃないよ」
妹に言った。当たり前だが返事はない。時間が経てば経つほど、妹から人間らしさが消えてゆく。
「もう少し、待ってな」
ソワソワと浮き足立つ心を落ち着けたくて、返事がないことは分かっていながら話し掛ける。
でもそうしていると、なぜか心に穴が開いた。私と妹は別に仲がいいわけではない。それは私たちが小さかった頃からずっとかわらない。
「あんたはもちろん天才だけど、私だって天才なの」
無意味でも話しかけて、声を出していないと、つんと熱を持った鼻の奥からそのまま感情が溢れてしまう気がした。
私の体から熱が抜けていく。捲っていた袖を下ろす。もうそろそろだ。
風に揺れる桜の木の長い影が、私の足先を掠めた。
それから徐々に、ゆっくりと時間をかけて部屋中に広がっていく。それは床や壁、私の体に無数の不規則な線を描いて、風が吹けば合わせてゆらゆらゆれた。
オレンジがかった光と共に、それが妹の顔や体にも差し掛かる。
「ほら、言った通りでしょ」
私の胃よりも少し上、食道よりも少し下あたり、心臓と呼ぶにはあまりにも広い。そんななんとも形容し難い場所がきゅんとむず痒くなり、汗で冷えた背中がもう一度ぽうっと熱を帯びた。
「もう一回言うよ。」
私の頬を涙がすべり落ちる。
「これが私の芸術だ」
妹の顔は夕日を浴びて橙に染まった。長い睫毛とつんと上向きの唇、すっとのびた鼻筋の影が憂いを帯びる。その姿はただただ美しい。姉の私はそれを持っていない。
その美しい姿に見惚れていた私の頭に、妹との数少ない会話の記憶が流れた。
これは夏の名残を含んだ風と、鈴を転がしたような音色が私たち二人の肌を撫でた頃の話。
唐突に私の部屋の扉を開けた妹と、実に数年ぶりに始まった二人の会話。
『お姉ちゃん、今いい?』
『何?』
あの時の私は、驚きに浮つく唇を押さえ込みながら、最低限の言葉だけを返した。
『わお。お姉ちゃんの部屋、まじで普通だ。』
そんな私にキャンバス塗れの異質な部屋の住民が、あっけらかんとした様子で返事をするので、私はどこか小さく苛立った。
『要件は?』
『あ、そうそう。ねえ、これ貰ってもいい?』
『その絵?私はもう要らないから、好きにして』
『ほんと?やった、ありがと』
『そんなの欲しがるなんて、あんたも物好きだね。』
『なんで?これ、すごい絵じゃん』
『やめて。腹が立つ』
私の部屋に来た妹は、小さな絵画を抱えていた。それは私がずっと昔に描いた絵。周囲が私を天才と呼んだ絵。
妹はなぜか、それを大事そうに抱えていた。
『ねえ、一つ聞いてもいい?』
久しぶりの会話に変な浮遊感を感じていたせいか、私はふと口を開いた。
『なあに?』
『あんたはさ、何で自分の絵の中にいっつも変な色を一色混ぜるわけ?』
『あ、やっぱりお姉ちゃん気付いてた?』
『さすがに気づくでしょ』
『いや、普通の人は気づかないよ。やっぱお姉ちゃんは天才だね』
『ウザい、それ』
『だって本当のことじゃん』
妹はいつも自分の絵の中に、一色だけ小さくバランスの悪い色をのせた。それは不協和音にも似ている。
妹はなぜか、私を天才だと呼んだ。私はそれがとてつもなく嫌だった。
私はかつての天才で、今の私はただの「天才の姉」でしかない。
『変な色入れてたらさ、お姉ちゃんがそれ変だよって話しかけてくれると思ってたんだよね。』
『なにそれ。そんな理由で自分の絵を壊す理由がわかんないんだけど』
『お姉ちゃんは完璧主義だよね』
『普通でしょ』
『完璧なものより不完全な方が目を引かない?完璧なものはさ、近寄りがたくて平面的で、完成してる。それよりは、どこか少しだけ不完全なところがあって、バランスが悪い方が、気になるし、面白い』
そう言うと、妹は笑った。
でも、私は妹の笑った顔が嫌いだ。ふわりと上がる口角も、白くて綺麗に並んだ歯も、長くてばさりと揺れる睫毛も、全部。
全部、嫌い。
私は橙色に染まった妹の体に近づくと、白いワンピースの裾を太ももの上のほうまで滑らせた。白く細いしなやかな太ももが露になる。するとそこにあった無数の傷跡も橙色に染まって、でこぼこと不自然な影を作った。
私はそのまま扉の前まで下がって、妹の全身を視界に入れる。
無意識に、くっと息が詰まった。
傷が妹を人間に戻した。美しい天使のような姿の中で、傷だけが妹をただの人間に見せてくる。
ああ、と私は納得した。確かに不完全な方が気になるし、面白い。立体的で見る者の想像を呼ぶ。
「やっぱり私、あんたが嫌い」
ずずっと私は鼻を啜って涙を拭くと、笑顔で妹に言った。妹は答えなかった。
「なにが『お姉ちゃんは天才』よ」
もう一度涙を拭く。
「私にないもの、何でも持ってるくせに。」
ああ、私は敵わない。
やっぱり。私はこの妹が嫌いだ。
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