妹は、私にないものを全て持っている。母に似た綺麗な顔も、父に似た大きな才能も。私が母の腹の中に置いてきた全部を、この華奢で小さな身体に全部詰め込んでこの世に出てきた。


 私が頑張って積んだ積み木を妹は真似た。真似て、積んだ。私よりも綺麗に、高く。私が頑張って覚えた九九を妹は勝手に隣で聞いた。聞いて、覚えた。私よりも早く。意味なんて、知らないくせに。


 妹は、なんでも私の真似をしたがった。そして私よりも上手くやる。私が先に躓くから、転ぶから、後ろで見ていた妹は上手に避ける。


 絵筆を先に取ったのだって私だった。父を真似て、私が先に始めたはずだった。父の形が消えて、線香の煙のように私の中から父の記憶が次第に薄れていく中で、白い煙が無くとも香る白檀のように、父なき今も残った絵画に私は縋った。


 真似て真似て、父を追いかけて、私はやがて「天才少女」になった。


 でも暫くすれば、それすらも妹の欲しいままとなる。妹は私の隣をすり抜けて、すぐに「天才」になる。だから今の私は「元天才少女」「天才の姉」。


 妹は簡単に私の隣を通りすぎて行く。


 日が完全に沈んだらしい。橙に染まった部屋から色が抜ける。太陽の名残の仄かな明かりだけが部屋に残って、影が一層濃くなった。妹の肌が、陶器のように白く輝く。


 秋の長夜を待つ薄暗い部屋の中で、妹の絵画が先程よりも遥かに強くその存在を示してくる。色が何層にも何層にも折り重なった力強いそれらは、でもどこか繊細で、見る者に何かのカタチを思い描かせる。

 言うなればそれは、色の暴力だ。私の頭も心もガツンと揺さぶって、私という存在をただ惨めにさせる。


 その暴力的な絵の山の中、二つだけ裏を向いたキャンバスが壁際に立て掛けられていた。気になって私はつい手を伸ばしてしまう。


 表を向けたそれらはよく似た絵だった。背に羽を携えて佇む女の子が、ほとんど同じ構図で描かれている。ただそれらは色遣いが全く異なっていて、同じものなのに全く違うものにも見える。


 そのうちの一つを私はよく知っていた。淡い色を中心に描かれた、重厚感の代わりに柔らかさがある絵。ずっと昔に私が描いて、ついこの間、妹が貰っていった絵。そして世間が私を、天才と呼んだ絵。


 そしてもう一つは全体的が濃い色合いで描かれた絵。はっきりと描き分けられた配色のせいなのか、バチバチと迫り来る力強さが見る者に迫る絵。それは「描きたいもの」と「描き方」が不釣り合いなようにも見えて、まるで「上手いけれどそれだけの絵」に思えた。


 その絵はよく見ると、右端に一際濃い絵の具が小さく塗られていた。薄暗い部屋の中で見るそれはポッカリと空いた穴のようにも見えて、不思議な違和感を感じた。

 普通の人ならば気にも留めないような小さな違和感が、私には心地よく引っかかる。


「ねえ、これ描いたのあんたでしょ」


 一人の部屋で、私は思わず口に出す。


「ぜんぜんうまくないじゃん」


 くすりと笑ったら水のようにさらりとした鼻水が溢れそうになって、ずっと鼻を啜った。


 父は温かな絵を描いた。それを真似る私も同じ。でも妹の絵は私や父とは似ていない。それは原色が折り重なった見る者に重くのしかかる色の塊で、それでいて繊細な、誰の真似でもない絵。そんな絵を描く妹が、


「なんでこんな絵を描いたの?」


思わず私の疑問が音になる。

 そう言えばあの日、私の絵を大事に抱えた妹が言った。


『お姉ちゃんにはさ、この世界がどう見えてんの?』

『別に普通だよ。ていうか、いつまでここにいるつもり?』


 絵が欲しいと言った妹に、私は承諾の返事をした。要件は済んだはずなのに、何故か妹は私の元に居続けた。


『こういう、優しい色合いで見えてるの?』


私の質問を無視を通して、私が描いた絵を大切そうに抱えた妹は聞いた。


『だから、普通だって』


適当に、同じ言葉を繰り返した。


 私が描く絵は、淡い色で満たされている。何色重ねようと重さや暗さはなく、柔らかい。悲しみを表現した絵でも、浮かぶのは「悲哀」で「絶望」には至らない。

 父の絵がそうだった。無意識にそれを真似ていた私の絵は、父の絵に似ている。だからきっと、優しい世界を見る瞳は私ではなく父のものだ。


 私は優しくなどない。


『あんたこそ、世界はどんな色合いに見えてるわけ?』


私も聞いてみた。


『私も普通だよ』


今度は妹が、同じ言葉を繰り返した。


『ふうん』


「じゃあどうやってあんな絵描いてるの?」と口から出かけた言葉は、私が飲み込んだせいで音にならず消えた。


『そう言えばお姉ちゃんはさ、なんでいっつも黒い服なの?』

『別にいいでしょ。それよりいい加減、出て行ってくれない?』


答えたくなくてまた、適当に返した。


『だめ、似合ってないもん』


何故か居座り続ける妹は、理不尽に怒った。


『服なんて着れればいいよ』

『えー、深い緑とか似合いそうなのに』

『そんなの持ってないし、興味もない』


 見た目に拘るのは、余計に自分が惨めになりそうで昔から嫌いだった。でも妹には、絶対に言わない。


『ふーん』


妹は視線を私から外して、白くてさらりとしたスカートの裾をひらひらと弄んだ。


『あんたこそ、なんで絵描くのにわざわざいつも白い服な訳?』


今度は私から妹に、話題を振ってしまった。


『白じゃだめなの?』


妹がまた、私に視線を戻す。


『汚れるじゃん』

『袖まくってたらだいたい大丈夫だよ。それに汚れた時は汚れた時だし』

『意味わかんない』

『えー、なんで』


妹は口をぷうと尖らせる。その可愛らしい顔があったら、私にも理解できたのだろうか。


『それに白い服は、あたしにとってユニフォームなの。』

『は?』

『小さい頃にさ、一回だけ一緒に絵描いたじゃん?』

『いつの話?』

『だいぶ昔。お姉ちゃんがまだ絵を描いてた頃』


あぁ、と私は思い出す。私がまだ天才と呼ばれていた頃の話か。筆を握る私の隣で、案の定妹は私の真似をした。あの時の話。


『あたしあの時、白のワンピース着ててさ、それを真っ赤に汚してママにめちゃくちゃ怒られたんだよね』


妹の目線がここではないどこか遠くに刺さった。


『あれ思い出すと、すごくインスピレーションわくの』

『は?尚更意味わからんない』

『記憶辿ってもさ、お姉ちゃんと一緒になんかしたのあれしかないじゃん』

『そうだっけ』

『めちゃくちゃに怒られたけど、楽しかったの』


そう言って、遠くを見つめて微笑む妹の顔は美しかった。


『あ!あの時のお姉ちゃんさ、あたしのこと騙したよね?』

『なにが?』


妹は「あたし、もうわかってるんだからね」と続けながら、今度はクスクス笑っていた。


『あの時、お姉ちゃんは作業服着てたのに、あたしは普通の服を着てた』

『あぁ』


つられて私もクスリと笑ってしまった。


『あたしが手に赤い絵の具つけちゃって、どうしよう?って聞いたら、こうしたらいいよって、お姉ちゃん普通に言ったよね』


妹は私があの時のやったみたいに、真っ白なスカートに手を擦り付ける動作を繰り返した。


『あんたのスカートはみるみる真っ赤になってった』

『それに、あたしの顔にも絵の具つけてきた』

『は?それは自分でやったんじゃん、私は知らないよ』

『嘘だぁ。顔に絵の具ついてるよって言いながら、あたしの顔触ったじゃん。あの時のつけたでしょ』

『いや、本当にそれはやってないって』

ってことは、騙して服汚させたのは認めるんだね』


今度はケラケラ笑いながら言った。


 私が妹の服を汚させたのは本当のこと。汚して、美しい妹が綺麗好きの母に怒られればいいと思った。そうして「絵なんかやらない」と思えばいいと思った。あれはそう、幼かった私の小さな抵抗。


 昔、私は画集を出したことがある。「天才が描く美しくて上手な絵」をまとめた画集。でもそれは数年もすれば、申し訳程度の値札とともに古本屋のワゴンの一部になった。


 私の画集が誰の目にも止まらなくなった頃、妹も画集を出した。私の小さな抵抗虚しく、絵を描き始めた妹の画集には、奇才、天才、天使、美女、さまざまな文字が泳ぐ帯がまかれた。


 妹は、絵を描く姿すら「絵」になった。真っ白な服を着て、サラサラの髪をなびかせて、華奢な腕で豪快に色を塗り、時折自分の手足にも色を重ねながら絵を描いていた。そんな絵の具に塗れながらキャンバスに色を乗せる妹の姿は、もはや絵画の一部分だった。そうやって絵を描く妹の姿は、しばしばネットやテレビを彩った。


 その頃だったと思う。私が妹へ抱くこの感情に「劣等感」という名前がつくのだと気がついたのは。


 そして、私は絵筆を置いた。惨めになるくらいなら、初めから何もしないでいようと思ったから。

 

 絵を描くのが好きだった。

 芸術家でいたかった。

 でも辞めた。


 妹は白い服を着た。

 だから私は黒い服を着る。

 私は妹の後ろで、目立たない影になろう。


 ああ、やっぱり私は妹が嫌いだ。


 部屋の中から太陽の名残はいつしか消えていた。代わりに大きな月から降る青白い光が差していた。その光が作った桜の枝の影が、妹の体に無数の線を引く。これもまた、嫌になる程美しかった。


 月が薄い雲に隠れたのか、部屋の中の闇が少しだけ濃くなる。


 私は妹が嫌い。

 私は私が嫌い。

 こんな姉が嫌い。


 私のことも隠してください。


 私は勝手に惨めになって、人のせいにして投げたした。


 私が惨めなのは、私が私であるからだ。

 

 先程よりも、空気がピンと張り詰めた。汗の引いた身体がひどく冷えていることに気がついて、ゆるゆると膝を抱えて小さく座る。


 雲が流れて、また、光が差す。白いワンピースがぼんやりと光った。それを見て、また思い出す。


 あの日、部屋に居座る妹に、私の口が何故だか軽くて幾度目かの話題を振ってしまったこと。白いワンピースの裾に、絵の具ではない赤茶色のシミがあるのに気がついたら、溢れる疑問を抑えることができなかったこと。


『ねえ、あんたそれ、まだやってんの?』

『それ?』

『脚だよ、脚』

『脚?』


しかし、なかなか会話は成り立たない。どう言えばいいのかわからなくて、私が核心をつかない言い方をしたからだ。


『まだ、切ってるの?』


少しだけ、情報を付け足す。


『ああ、脚ね。切ってる切ってる。』


妹は理解したのか、にこりと笑って言った。くいっと上がる口角がいやに可愛らしい。

 しかし「切る」とは自分の身体のことだ。「まだ、自分の身体を切っているのか?」という問いに、にこりと笑って答える妹が可愛らしくも違う何かに思えた。


『いい加減、やめたら?』

『なんで?』

『…なんでって…?』


 可愛らしく首を傾げて理由を聞く妹に、私は何も言えなくなる。


『いいんだよ。血が流れるのは生きてる証拠だもん』

『だからって…。それにお母さんは何も言わないの?』

『ママ?ママがこんなの知るわけないじゃん。知ってたら既にめちゃくちゃ怒られてるって』


 妹はケラケラと楽しそうに笑った。

 今度こそ完全に、私の口から音が消えた。


 月に照らされる妹の、太腿にある無数の傷を見つめた。今ここで新たな傷を刻んでも、もう赤く温かい血は流れないだろう。「生きてる証拠」と笑った顔が、頭の中を行き来する。


 美しい妹と美しい絵画が世間に認知され始めた頃、綺麗なものが大好きな母の興味は完全に妹のものになった。みんなの心を惹きつける妹が、私は羨ましかった。でも妹が、自身の身体に赤い線をつけ始めたのはこの頃で、私には意味がわからなかった。


 脱衣所で偶然妹のそれを見た時、私は声が出なかった。もうその頃には妹との会話が随分と減ってしまっていたのもあったが、その様は私に言葉を発することを止めさせた。だから私は、どうして妹がこんなことをしていたのか、知る由もない。


「もっとちゃんと話してたら、理由を教えてくれた?」


 暗闇で妹の身体を眺める私は随分とお喋りだ。でも、返る言葉はもちろんない。


 私は理由を知らない。妹がその身を切る理由も、今、こうしている理由も。


 妹が眠るベットの下にぼろぼろの教科書とノートが見えた気がした。でも、きっと気のせいだろう。だってこの部屋はこんなにも暗いのだから。


『あの、さ…』


 あの日、お喋りだった妹が突然言いづらそうに口を開いた。


『何?』

『もう一つ、お願いがあるんだけど』

『お願い?もうあげられる絵は残ってないよ』

『絵は、もういいの』

『じゃあ何?』

『あたしを飾ってほしい』

『飾る?』

『うん。あたしが死んだら、あたしの身体を芸術にしてほしい』


初めて見る、真っ直ぐで真剣な目だった。


『こんなこと、こんなに優しい絵を描くお姉ちゃんにしか頼めないから』

『…は?意味がわからない…んだけど…?』

『だからね、私が死んだら私を綺麗に飾って』

『…だから、なんで…?』

『なんででも。ねえ、お願い』

『理由を、教えてよ』

『…ねえ、お願い』


それ以上、妹は何も言わなかった。


『私、もう絵は描かない。だから芸術家でもなんでもない。それに優しい絵はお父さんの真似事で、私の絵じゃない。だからきっと、出来ないよ。だから、意味のわからないことはやめてよ』


『ううん。出来る。お姉ちゃんなら、出来る。あたしが憧れたお姉ちゃんだもん』


そう言って妹は、また黙る。


『…ほんと、意味、わかんない』


 「憧れ」とはなんだ。こんな惨めな姉に、何を言っている。

 「死ぬ」とはなんだ。あんなに綺麗な妹が、何を求める。


 私も黙った。


『…じゃあ。お願いね』


 黙った私に、妹はそれだけ言って部屋を出た。それから私たちはまた、以前のように話さなくなった。何事もなかったかのように。


 そうしてしばらく時間が過ぎた。


 あの日の会話も忘れかけた今日の昼。青く澄んだ高い空に浮かんだ、掠れた白い絵の具のような雲を眺めていた私にメッセージが届く。


〈今日、よろしくね〉

〈何が?〉

〈あたしを飾ってくれるんでしょ〉

〈了承した覚えはないよ〉

〈えー、でも、もう無理なの〉

〈やだよ〉

〈だめ。今日は天気もいいから、今日がいい〉

〈天気はよくても、今夜は満月じゃないよ。満月の方が綺麗でしょ?だから今日はやめた方がいい〉


なんとなく嫌な予感がして、素早く長文のメッセージを返した。


〈だからいいんでしょ。完璧はだめ、少し欠けてる方がいい〉

〈やだ、無理、だめ〉

〈「だめ」は無理、やだ〉

〈それがだめだって〉


 ああ、あれからどうしてこうなったんだっけ?

 鼻の奥が熱くなる。


 私はあんたの期待に応えられた?

 胸がざわつく。


 私は芸術家になりたかった。

 芸術家でいたかった。


 ねえ、妹よ、これが姉の芸術だ。

 よく見ろ、これが姉の芸術だ。

 あんたが憧れた、惨めな姉の芸術だ。


 あんたは私の、この天才である私の妹だ。

 それも、たった一人の。

 そして私は、なんでも持っていた筈の

 そのあんたの姉だ。


 私はあんたが嫌い。

 私が持ってないもの、なんでも持ってるんだもん。


 ねえ、どこで間違えたんだろう。

 ねえ、どうしたらよかった?

 ねえ、どうしてほしかった?

 

「ねぇ、教えてよ」


 まるで美術の教科書にでも載っているかのような美しい芸術作品に、私のあまりにも普通な声が無常に響いた。

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