もうすぐ有給消えちゃうもんねえ、いいよいいよゆっくり休んで! このような大変ありがたい言葉をくれた上司を今この瞬間も完全に裏切っていて、俺は電話を切りわざとらしく溜息を吐き一度窓の外を見るけれど、まじめな勤め人は可哀想だなって感想を漏らされたから運転席にさっと目を滑らせる。抜群に顔のいい後輩は笑っていた。分厚いハンドルを片手で操作しながら、いい顔で笑っていた。

 大分。随分長く帰っていない。高校卒業と同時に俺は家を出て離れた土地の、都会と呼べる場所にある大学に進んだ。親は存命だ。祖父母もいる。妹と弟も一人ずついる。家族は仲が良かったし俺はそれがきっと嫌だったんだなって働き始めてから悟ってしまった。その何故か嫌な土地に俺は今から連れて行かれることになったがそれ自体は然程嫌じゃないからいよいよ自分がイカれてきたなって、平凡の意味を考えながら高速で過ぎ去る高速の距離表示(キロポストと呼ぶらしいとさっき明星に聞いた)を何枚も見送った。景色は変わらないようでいて少しずつ建物の高さが低くなる。高速道路は数珠繋ぎのように名前を変えながら続いていく。東名、名神、中国道。まだ道程の半分どころか十分の一もいかないうちから動悸がしてきてよっぽど青褪めていたのかどうか、明星は一旦サービスエリアに停まってくれる。車の数は多い。富士山が綺麗に見えるらしいよと明星が言う。でもそんなのどうでもいいかと続ける。そうでもないよと俺は重ねる。

 外に出て確かめるけど曇り気味で富士山はめちゃくちゃ綺麗と呼べるほどではない。それよりも何も食べていないことのほうが問題で、俺達は昨日のように食券を買い麺類を食べて飲み物などを買ってから車に戻る。車内は相変わらずクラシックだ。オーケストラ。知ってる曲も知らない曲も明星は同じ顔で聴いている。

「大河さん、大分県嫌いだろ」

 突然核心めいた質問を放りこまれて飲みかけていた麦茶を吹きかける。明星は併設コンビニで買った板チョコをばりばり半分食べ終わってからもう一度同じことを聞く。

「好きじゃないよ」

 柔らかめに肯定すると明星は笑う。

「そうだろうと思った。小学校の後輩だってオレに聞いたときとか一瞬だけ無の顔になってたし。だからやっぱ大分がいいな、うん、血反吐撒き散らしてよ大河さん」

 天真爛漫! という笑顔を向けられる。なんだこいつ。若干引くけど明星のこういう、血反吐と称した何かを見たがる一面は今までもなかったわけではない。主にベッドの上の話だが。

 自覚した癖を活用する。黙って明星の手から奪ったチョコを齧った。話は終わりだ、明星はチョコを取り返してからエンジンをかけて富士山に興味なんか元々なかった顔のままサービスエリアをあとにする。車は順調に走ってたまに海岸線とかも広がっていて、時々休憩しつつも夕暮れ頃には名古屋に入るけど全然まだまだ半分にも満たない。

 大分までどのくらいで着くんだ? もしかして、着くまでに一緒に死ねって言ってるのか?

 どうなのか何もわからない。わからない間に夜になって明星は欠伸を落とし、サービスエリアに車を入れる。夕飯を食べるらしい。またうどんかラーメンかそばか……麺類に飽きたと思い切り顔に出してみれば通った。明星はコンビニを指差した。お互い食べたい弁当やらパンやらを買って外に出た。星よりも車のヘッドライトの方が眩しかったが、俺の肩を叩いてからふっと笑った明星が結局やっぱり一番眩しかった。

「超急いでるってわけでもないんだし、今日はここで寝よっか」

「車中泊? オデッセイならまあ、いけるだろうけど」

「いや、ここ宿泊施設併設だから」

 ほら、と言いながら明星は端にある建物を顎先で示す。確かにレストインと書いてあり、空き部屋があるとも限らない、などと言う隙もなく休憩中に予約しておいたと明星は抜け目がない。じゃあ行こっか、なんて軽く言う癖に同じ口で一緒に死ねよって言ってくるんだよなって、レストインに進み始めた背中を追いつつ息を飲む。

 色んなことが流動しながらも明星のうみだす渦に向かって回っている気がして俺は、本格的に溺れ死ぬ予感をやっと覚える。



 与えられた部屋に入って弁当を食べシャワーを浴びたあとには案の定押し倒された。でもいつも通りはここまでで、明星は前までの何倍も執拗だったし意地が悪かった。突っ込まれてろくに喋れない状態になっても地元のどこが嫌いなのかとか自分がいなくなってからどうしていたかとか明日には着くから今のうちに後悔して暴れてよとか、何かと話し掛けてきて全然離して貰えなかった。早う離せもう無理やけん。切羽詰り過ぎた挙句に絞り出した訛った拒絶に大きな笑い声が返ってきた。明星は俺の頭を掴み、ベッドに押し付け、えらしいなあ大河さん、可哀想やなあって、耳の軟骨をがじがじ齧りながら責めるように囁いた。たぶん毎日取り替えられている白いシーツを耐えるために噛んだ。その間に明星はまた好きにしていて、ああこれこいつタガが外れたってやつなのかもしかしてと朦朧としながらやっと思う。ぶっ壊れ始めた。いや違うぶっ壊れてるところで俺を殴ろうって判断した。思い至った直後に一瞬目の前が白くなる。次には一瞬黒くなる。髪を思い切り引かれて顔を上げさせられたあと、自分の口からだらりと唾液が零れて飲めなかった一塊は気管を塞いだ。咳き込んだ。唐突に髪を解放されて前のめりに倒れこみ、何度か咳をしてからどうにか体を仰向けに変えた。明星はいる。部屋の暗がりの中で一番深い闇を持っている癖に、俺にはやっぱり一番眩しい。泣きたくなった。眩しい闇。真っ暗な光。明星陽平とはそういう矛盾を抱え込んだやつなのだ。

 腕を伸ばして引き寄せる。お互い汗でべたべたする。両足を絡み付けるけどぬるついて引っ掛からない。でも明星が留めた。そして笑う。そういうとこ好きだって言ってんじゃん。楽しそうに言われるけど朦朧は続いているからろくに言葉を返せない。もう出るもんも出ないしお前もよく立つよなって言い返したいけど自分勝手に揺らされてなにかしら呻くだけが精一杯で出たのかどうかもよくわからないまま気がついたら寝ていた。というかほぼ失神だった。起きると真っ白な朝日がカーテンの合間から差し込んでいて隣で眠る明星は物凄くあどけない顔で寝息を立てていた。それを数秒眺めた。数分だったかもしれない。半身を起こすと体のあちこちが痛くて特に尻は限界だった。明星は起きない。だから突然降って沸く。


 今なら殺せるんじゃないか。


「……そうくるんだ」

 馬乗りになって首に両方の掌をかけたところで明星は目を閉じたまま呟いた。だからってわけではないけど掌に力は篭らないし体重を預けようとも思わない。ただ乗っかって首を撫でているだけに等しい。それ以上はないし以下もないのに俺は段々息が苦しくなってきて突っ伏した。明星の上に。突っ伏したままちょっと泣く。昨日から壊れている。明星だけじゃなくって俺もじわじわぶっ壊れ始めているんだなって思いはするけど泣き止めない。

 明星があやすように俺の背中を撫でる。それが余計に涙に繋がる。泣き続けていると息を段々吸え無くなってきて擬似的に溺れ始める。こんなんで大分までいくとか冗談じゃない、引き返してくれ頼むからって言いかけて飲み込んで縋りつく。明星はずっと背中を撫でている。そのうちに泣き止んで体を起こすと何もなかったみたいにおはようと言ってくる。俺も掠れた酷い声でおはようと返し、ベッドを降りてカーテンを限界まで開け放つ。

 真っ白に光るわかりやすい朝がある。

「今日の夜には着くよ、多分ね」

 いつのまにか隣まで来ていた明星が欠伸混じりに言う。俺は頷いて横を見る。明星の首に痕はないし、俺が流した涙も特に痕跡が見当たらない。朝の光を受けた明星陽平は恐ろしく眩しくて恐ろしい。

 俺がやっぱり帰るって言い出すのを多分待っているんだろう。だからぎりぎりで飲み込んだ。そこまでを見透かしたような顔で明星は完璧に微笑んだ。


 チェックアウトして車に戻る。オデッセイは俺と明星を大分県へと運び込む。長い冒険旅行って意味だよ、叙事詩のオデッセイアが由来らしい。明星は高速道路上に戻りながら独り言のように俺に教えた。

 長い冒険旅行。

 今聞くとそれはただの事実でしかないんだよ、明星。

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