あんた海沼大河だろ。そう話し掛けてきた明星のなにか嬉しそうな、人をからかって遊ぼうという思惑に満ちた言い方と笑い方をよく覚えている。実際に俺は驚いたし明星の想像通りに事は進んだのだろう。よく会うようになったある日腰を抱かれて全然抵抗しようって気にもならなかったんだからズブズブだ。全然駄目だろこいつってわかっている癖に転がって友人には忠告されて勝手に消えたのに追い掛けちゃって、でもそうするしかない。この理屈と理由のなさが恋愛という話になるんだろうか。ならないんだろうか。破滅かも。そんな言葉を選んだ明星陽平のどうしようもなさはどこからきてどこを目指しているのだろうか。何もわからないまま黒々とした夢を見る。抽象的な夢は目覚めた数秒は覚えていたに違いないけどすぐに吹き飛んだ。まったく見覚えのない部屋だったからではなく自分を覗き込んでいる相手になんの見覚えもなかったからだ。

 そこそこ情けない声を上げるとその人は迷惑そうに眉を寄せてからヨウヘー、と扉のほうに呼び掛けた。

「あんたゲイやったっけ?」

 懐かし過ぎる訛りだ。ちょっとだけ冷静になり、なにかだるそうにしている女性と同じ方向を見る。開け放たれた扉の傍に風呂上がりっぽい風袋の明星が寄りかかって立っている。

「どっちでも変わらんちゅうか、いつ帰っちきたんや?」

「ついさっき。今から寝るけん静かにしちょって」

「はいはい、またしばらく出掛くるけん安心しち」

 会話は終わって女性は部屋から出て行った。入れ替わりに明星がやってくる。ベッドの空いたスペースに腰を下ろして濡れた髪を雑にわしわし拭いている。

「お前ん母親?」

 つい移って訛りが出る。タオルの切れ目から顔を出して、明星はにやりと音がしそうな笑みを浮かべる。

「似ちょらんやろ。風呂くらいなら文句ゆわんやろうし、大河さんもさっさと入っちょいで」

「……なんつー大分弁ん似合わん顔や……」

「大河さんやとえらしいけどな」

 うるせえ! と強めに怒ろうとして母親の静かにしろという台詞を思い出し黙る。手早くタオルを渡されたので大人しく浴室に行こう、として場所がわからないと戸惑えば明星がエスコートしてくれる。部屋の中はあまり片付いていない。廊下には雑誌が積み置かれているし物が多いし浴室に入ると母親のものらしき化粧品が洗面台を埋めているし生活の匂いが強すぎる。なるべく緩めにシャワーを出して浴びつつ諸々処理していると昨晩のことを思い出してため息が漏れ、俺はなにをやっているんだという後悔が流れる湯とは反対に這い登ってくる。早めに切り上げて栓を捻る。廊下を戻って明星の部屋と思わしき部屋に戻れば、やっと俺は様相を冷静に眺められた。本棚がある。壁にはなにか、多分ロックバンドかなにかのポスターが貼ってある。勉強机らしき机は今の明星には小さそうだがここで暮らしている名残を残したまま、本とかCDとかが積んである。扉前で突っ立っていると明星が寄って来る。俺の濡れた髪を無造作に触って「ドライヤーはかけれんけんこんまま行くか」と独り言のように確認する。了承する。こいつの母親は多分こいつの中でかなり高い、深い、上手くいえないが重い位置にあるんだろうと推測する。

 明星は慎重に玄関を開けて慎重に閉めた。鍵も慎重にかけて俺の腰を抱くようにしながら逃げるように部屋から遠ざかる。

「明星」

「うん? ああごめん、髪乾くまで車の中にいよっか」

 階段を降りて市営住宅を背にすればもういつも通りの明星だった。何か聞こうとは思うのに質問をろくに組み立てられず、促されるまま助手席に座って朝の光を浴びている横顔を盗み見る。発進はされない。明星は朝日の方向をじっと見つめて、椅子に深くもたれかかって、何を考えているように見えるけど本当かどうかはわからない。そもそも明星の本当というものがどこにあるのかなんて俺には全然わからない。

 急に手が伸びてきた。頭を掴まれて身構えるがわしわしと髪を混ぜられ意図は察した。生乾きってところだろう。すぐに髪は解放されて、明星は流れるようにエンジンをかけた。再生されたCDは昨日と変わらないはずだけど、朝より夜に似合う気がした。

「大河さん」

 妙に静かに呼ばれる。

「なに?」

「部屋まで送るよ」

「は?」

「は? ってなんだよ。本当は雲隠れしようと思ってたんだから、は? ってよりは最後に会えて嬉しいって感じだよ、オレはね。そもそも大河さん、オレなんかに拘るのマジでやめたほうがいいと思うよ。どうせあの、なんだっけ、背の高いイケメンのあんたの友達」

「朝陽」

「そいつ」

 明星はこちらを横目で見ながら嘆くように息を吐く。

「その朝陽とか、涼香さんとか、あんたに色々忠告してくれたんじゃないの。なのにオレが車に乗ってって言ったらあっさり乗って、これでもわりと、大河さんが何考えてんのかわかんないんだよね」

「マジかお前、その言葉まるっきりそのままお前に返せるんだけど」

「ええ? オレってけっこうわかりやすいだろ?」

「はあ? 何考えてんのかまるでわからないし急に来なくなってマジで焦ったし急に現れて急に家まで連れてこられて今また急に送るって言われて殴るぞテメーって気持ちなんだけど」

「殴ればいいじゃん、そこまでキレてて大人しく抱かれる意味がわかんねえよほんと」

 言葉に詰まる。どうしようかとうろうろ視線を動かして足元とかCDの刺さったボックスとかシフトレバーを無意味に見ていると明星が急に爆笑する。

「なんだよ!」

「いやね、大河さん、あんたのその癖けっこう好きなんだよね」

「癖?」

「困るとなんか食べたりしてごまかす癖」

 指摘されて初めて気付いた。思わず自分の口を手で覆うともう一回笑われた。

「ふふふ、えらしいかわいいなあ、大河さん」

「……」

「わかったよ、あんた多分はっきりして欲しいんだろ」

「……、はっきりって何を」

「もう別れ」

 ばちん! と案外大きな音が響いてからはっとした。明星は目を見開いて俺を見ている。反射で明星の口を塞いだ俺は、うわそういうことかよってじわじわ背筋が寒くなる。ついでにそんなつもりもないのに目頭と鼻の奥が熱くなってきて、手を退け顔を背けてどうしようって一瞬思うけど体は勝手に車を出ようと身を捻る。あっさり捕まる。後ろから引っ張られて外には行けず、でもこんな朝ドラかよ寒いだろって状況なのにがっちり抱き込まれるとどうでもよくなってくる。明星なりの誠意だったと思われる言葉を拒んだ先でどうするかなんて何も考えていないのに、なんだか恐ろしく馬鹿だったし惨めだったし俺も俺が何を考えているのか全然わからなくなってくる。どうにか堪えていたけど自分の分離を感じた瞬間涙は零れた。明星の腕がずり上がる。顎を掴まれて上向かされて涙で滲んだ視界にはちょっと驚いた顔の明星が映って、何を考えているのかまったくわからない様子でキスされた瞬間更にぼろぼろ泣いてしまう。明星は顔を離してからまず溜息を吐いた。肩に頭がずしりと乗る。その隙にさっさと涙を拭い、謝ろうとするけど大河さんって低く呼ばれてつい噤む。

「勝手に勘違いして勝手に暴れて勝手に泣き出すやつはそこそこいたけど、なんか、あんたが泣き出すのは違うと思う」

 まだ少し取り乱し気味の俺の耳元で明星は平静な声で続ける。

「大河さん。海沼大河。大分の小学校で妙に溺れた名前だった先輩。オレは涼香にあんたの名前を聞いてさ、まさかなって思いながら合コンに行ったけど、本当にあんただったから驚いた。だからこれでも結構、あんたを気に入ってはいるんだよ。でもオレはこの先もこのままだ。人の間を渡り歩いて生きていくしずっと底にいると思う。変わろうと思わない。というか、変わっちゃってから変われない。明星じゃなかった頃、離婚もしなくて父親も母親もいた頃のままあんたに再会できてりゃ良かったんだろうけど、無理じゃん」

「……変わらなくていいよって、俺じゃない誰かにも、言われたことあるだろ」

「あるよ。でもまあそんなの思考の途絶っていうかさ、無責任じゃん。オレは好きにしたいんだよ。オレの好きにしたい。じゃあそれを邪魔するなって話になるけど気に入った相手を好きに抱いたりケーキとかパイ食わせてくれる人の部屋に入れてもらったりしたいから月の半分以上家にいないしでもその上でオレは母親を投げようとは思わないからオレの母親ともまあまあ付き合えなきゃ駄目になるじゃん、あの大河さん目の前で息子にあんたゲイやったっけとか言い出すくらいする明け透けな母親とさ。それに耐えられる人がいるか? オレはいないと思うしいたとしても既にループしてまた途絶なんだよ。その人の人権が一切認められてないからさ」

 めちゃくちゃ喋るじゃん。思わず漏らせば明星は顔を上げて俺の首に顎を擦り付けてくる。

「大河さんは良いよ。けっこう苛烈なところ、本当に気に入ってる。だからもう会いたくねえな、それが嫌なら一緒に死ねよ」

「えっ?」

「1か0かって時に1が良いなら足し算じゃなくて掛け算して欲しいんだよね」

「……、……、待って混乱してきた」

 俺のストップに明星はちゃんと待った。足し算じゃなくて掛け算。何の話だよ。喋られ過ぎて涙は完全に引っ込んでいてそれはありがたいけど、急に話を曲げられて事故を起こしたようにも感じて、実際にそうしたんだろうと思う。昨晩の突然セックスでもするかって引っ張られたときのことも思い出す。俺が困ったら黙るように明星は困ったら端折るのかもしかして。01234って段階を踏んでから急に100の話をし始めるのか。そう仮定するんなら、明星に消えられたくないんなら、じゃあ。

 俺は俺の人権を手放して明星が満足する100を探さなきゃいけないんじゃないか?

「明星」

「うん、なに?」

「掛け算するよ、どうしたらいい?」

 明星はしばらく黙った。その間に太陽は昇っていって俺の髪はほとんど乾いた。ずっと後ろから抱かれていたから何台か入ったり出たりした車の運転手には朝からやめろよという視線を向けられた。そのうちに明星がゆっくりと手を離してまずはCDを停止した。ラックから取り出された新しいCDは一瞬眩しく太陽光を反射した。

「大河さん破滅させるなら、あそこがいいな」

 言葉の続きを何故だか予測できたし、明星はその通りに呟いた。

 大分までドライブしよっか。

 俺は頷いた。ほとんど同時に流れ始めたのはどこかで聴いたようなクラシック曲だった。

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