新たな世界

 

  

  

 高台になる、国道脇にある果樹園に必死で走った。しかし、果樹園にあと一歩という所で俺達は、津波に呑まれてしまっていた。


 水の勢いに揉みくちゃにされながら、上下左右判らない状況のまま、水中で出来る事と言えば……。

 猫入りケージを抱えて身体を丸める事と、息を止める事ぐらい。


 それしか出来なかった。


 時折身体を襲う強い衝撃にーーその都度、肺から空気がもれる。ーー水中を舞う木の葉のようにーー抗う事も出来ないこの体はーー細かい傷を増やしていく。ーー段々と意識が遠のいて行く。思考が白み始めた。


 ブワッ! ……ほぼ全部の空気を吐き出してしまった。 身体から力が抜ける。

 水中で漂う貝殻のように、トイチの体も漂い、沈んでゆく。


 もうダメなのか、俺は死ぬのか。……それもいいかも。……兄貴、父さん、母さん、俺もソッチに行くよ。


 ーー死を覚悟した瞬間。



「……チリ〜ン」 また風鈴の音。


「…チリ〜ン」 ……イエ。


「チリ〜〜ン」 君に逢いたい。


 そして、フッと意識が途切れた。




♦︎♦︎♦︎




 視界に映るーー小さな俺の手を引く爛れた細い腕に、まだ独りでは生きる術を知らない子供の俺は、すがる者がこの手しかない無い事を解っていた。


 月明かりも乏しい、ろくに舗装もされてない道を、燃え盛る町を背に子供が二人足速に歩いている。 


 この先は闇しか存在しないのに。


 イエ……。また彼女だ、幼い頃の記憶。まだ小さな俺と少女の彼女、背中に煤けた人形をおぶって……嫌、違う、彼女の弟をおぶって、その爛れた手で俺を引っ張ってくれている。


 この焼けた町から逃げる為、こうなった原因を作った奴等から逃げる為、彼女は足早に森へと急いでいた。

 時折振り返り、燃え盛る町を見る彼女の瞳は、大切な人との別れの時みたいに、とても寂しそうな瞳をしていた。

 

 彼女の向かう先、森の入り口は、凄く暗くて怖いところで、まるで底の見えない深い井戸を覗いた時みたいに、吸い込まれそうな黒い闇で。

 まだ子供でしか無い俺は、足を止めたくなるくらい、とても恐ろしく思えて。


 だけど彼女は、そんな俺の手を離すまいとギュッと強く握り締めてくれて、日和ひよる俺に優しく微笑み掛けてくれた。未だ血の後の残る、でも愛らしく優しい顔で微笑み掛けてくれた。


 それだけで安らいだ。恐怖と不安に染まる心が癒されていった、まだ行けるって思わせてくれた。


 彼女はいつもこうなんだ、いつも俺を助けてくれる、いつでも俺を守ってくれる。

 懐かしいと思えるこの感覚に、無償の愛に似たこの感じに、……俺は彼女に、母親を重ねていたんだと思う。



 そうだ、俺は彼女を探していたんだ。


 全てを無くした二年前、唯一残された彼女の事を、俺は探していた。

 現実なのか夢なのか曖昧な存在でしか無い彼女を、それでも俺は探していたんだ。


 年端も行かない少女にすがる、情け無いだけの小さな俺。

 それでも、ただ前だけを向いて生きると、あの日あの時、俺は君に誓ったんだ。



 そして、出会って間もないふたりがまるで、本当に仲のいい姉弟みたいに森の闇に消えていくのを、すすけた三日月だけが見送っていた。


 

 森に入った瞬間、暗転。



 次に、一枚、また一枚と、まるでスライドショーの如く映り変わってゆく絵の中で彼女は、旅を続けながらその小さな体で懸命に俺を守り、傷つき、食べる物を工面し……いつでも俺を愛してくれた。


 枚数が進むにつれ、彼女が見る見る痩せ衰えていくのを気づかない筈が無い。


 フイに、古い映画のフォルムさながらに、チラチラとノイズの入った動きのある映像が始まった。


 そこは、かつて草原であった名残のある場所。見渡す限りの空と大地と灰色の空に閉ざされた、そんな場所。枯れ草を敷き詰めた大地に、しんしんと雪が降り積もる。


 音の無いとても静かな世界で、薄い着物とわらで編んだ不恰好な長靴を履いた子供が二人、抱き合うよう歩いている。


 骨ばった彼女の腰にしがみついて……嫌、今は支えながら……かつての力強い歩き方とは違うおぼつかない歩き方で、彼女しか知らない場所を目指して歩いていく。



 あの日、あの夜に、彼女は意図せず聴力を失っていた……故に話せない。

 自ずと俺も言葉を発し無くなっていて、身振り手振りだけで意思疎通を行なっていた。



「…………アッ!?」


 ドッと受け身も取らぬまま、彼女は急に前のめりで倒れてしまった。


 さっきよりも勢いを増した雪に、白一色に染まっていく大地に、糸の切れた操り人形のように倒れた彼女。

 俺は彼女に何もしてやれず、おろおろしながら、ただ見守る事しか出来ずにいる。


 幼い俺は、彼女の側で泣きそうに顔を顰めたまま、ひざまずく事しか出来ない。何もしてやれない。


 彼女が逝ってしまう。


 そう思うと、涙が止めどなく流れてくる。そんな役立つな俺に彼女は、倒れた姿のまま薄く開けた翡翠色の瞳で、柔らかい表情のまま。



 “……い…き…て……”


 ひび割れた唇で、声にならない声で語りかけてきた。

 そして懐から、彼女が最後に食べたはずの、ただの蒸しただけの芋を、そのただれた手で渡してきて。


 “………い……き……て………”


 我が子を慈しむ母親のような優しい表情のまま、彼女は言葉を吐き出した。……そして、ソッと目を閉じた。



「……あ"⁉︎」

「あ"ぁっ、あ"ぁ〜〜!ぁあ"ぁ〜〜〜!あ"あ"〜〜〜〜〜‼︎」


 忘れ欠けていた、声が、喉が、感情が、一気に爆発する!!


 泣き叫びながら、彼女を失わない為、今出来る事を懸命に探した。

 ただソレは彼女の為なのか?自分の為なのか? ーー今はそんなこと、どっちでもいい!


 彼女を失いたくない! やっと出会えたんだ、かけがえの無い人なんだ!!


 その思いしかなかった。だけど子供の俺に出来る事といえばーー。



 降り積もる雪をはらい覆い被さることで、冷えた彼女の身体を温め、雪と寒さから守ること、それしか出来ない。 


 そんなことしか出来ない。



 音を無くした静か過ぎるこの世界。雪雲に覆われた赤茶けた大地は、いつしか純白に染まっていた。まるで全ての罪を浄化するように、醜い物を覆い隠すように……この、音を許さぬ無音の世界は、静かに白く染まってゆく。




 痩せ細った彼女の背中で、いつしか俺は眠っていた。



♦︎♦︎♦︎



「パチッ………パチッ………」


 木の爆ぜる音。暖かな囲炉裏の側で俺は目を覚ました。

 思えばここ数日、寒さと飢えで碌に眠れていなかった。



「がぁあ"っ……!」


 ひしゃげた声のまま勢いよく上体を起こす。彼女の姿が見えなくて、慌てて体ごと回し彼女を探していた。


 彼女と離れたくなくて、彼女を守るって決めたから、彼女と生きていくって決めたから。顔面蒼白になりながら彼女を探した。

 


 見開いた目のその先に、彼女が……いた! いてくれた。それだけで、緊張で固まった全身の筋肉が緩んだ。



 スゥー、スゥーと規則正しい寝息をたてながら、彼女は俺の少し離れた場所で眠っている。


 ……よかった。本当に、よかった。強張った顔が一瞬で泣き笑いに変わる。


「ふっ…。ふぐっ……。ふっうぅ……」


 溢れ出る涙とともに俺は、掛けられた布団ごと彼女にすがりついていた。

 生きてる、生きてると、何度も囁きながら縋り付く。

 すぐにでも折れてしまいそうな、細くて薄いその体に、小さく上下する彼女の胸が力強く鼓動を刻む。堪らず俺は、顔を埋めて抱きしめていた。


 ーートクン、トクン、と聞こえる心地いい心音を俺は、いつまでも聴いていたくて。


 彼女さえいてくれたら、他は何もいらない……この命さえもいらない! この時の俺は本気でそう思っていた。





「おきたかい……?」


「……あっ!」


 かけられた声に驚いて我に帰ると、声の主はすぐそこにいて。

 笑みを湛えた老婆がひとり、俺達を包み込むような眼差しで見てくれていた。

 

「……あ"、あ"りがどうござ…」


 助かったのはこの人のおかげなんだと、今更ながらにお礼の言葉を口にするが、声が上手く出せない。


 えぇって、えぇってと、皺の多い顔をさらにクシャッとさせて、人の良さそうなこの老婆は応えてくれた。


 俺は改めて今の状況を知るべく、頭ごと目をキョロキョロさせて家の中をみまわした。


 ……板を張り付けただけの、今も冷たい隙間風が入り込んでくる簡素な造りの家。土間と板間に別れただけの昔ながらの住居。


 囲炉裏にかけられた金属製の鍋からは、さっきからグツグツと美味しそうな音と匂いを漂わせている。



 グゥー、ここ数日何もを入れてない胃袋が、大声で催促してくる。

 お腹を押さえながら、恥ずかしそうにうつむいていると。


「どっこいしょ…」


 土間にある棚からお椀をもって、お婆さんは囲炉裏の前に腰を落として。


「腹がへっては何ちゃらと言うじゃろ」


 そう言って鍋から雑炊のような物をよそって、手渡してくれた。その美味しそうな匂いに口の中にヨダレがあふれ出る。


「さぁさ、食べんさい」


 お婆さんの満面の笑みを横目に、まずは彼女に食べて貰いたくて、彼女の肩を揺すって起こした。


 う、うぅんと一言。寝ぼけ眼の彼女は、それでも美味しそうな匂いに鼻をスンスンと鳴らしている。


「……ほれ」


 もう一杯よそってくれた雑炊を彼女に手渡すと、彼女はボーとしたまま少しづつだが食べて始めてくれた。

 その事に安心した俺は、飲むように喉の奥に雑炊をかき込む。本当に空腹すぎて限界だったから。


 それを、目を細めながら見ていたお婆さんがポツリと。


「イエは親戚筋の娘じゃが……。お前さんは誰じゃ?」お婆さんの優しかった瞳が鋭くなる。



「………」


 俺は、と言いかけた瞬間ーー。ガッと彼女に抱きしめられ、ビックリして持っていたお椀を落としそうになった。

 しかも隣にある彼女の横顔は一変しており、形のいい眉を吊り上げ、緑色の瞳でお婆さんを睨んでいた。


 お婆さんは、一度大きく目を見開くと、また優しく目を細め。


「ホッホッホ………。そうか、そうか。わかった、わかった」


 全てを察してくれたみたいに、お婆さんが楽しげに話すも……。

 フーフーと鼻息を荒げている彼女。俺の肩を更に強く抱きしめ、両目を更に吊り上げ凄みを増していく。


「これはまっこと、すまなんだ」


 お婆さんは深くきざまれた目尻の皺を更に増やして、俺を真っ直ぐ見つめこう言った。



「そんなら、お前さんは今から『イエ』の弟、『紋次モンジ』じゃ。………ソレでええか?」


 優しいお婆さんの声で、モンジと命名された瞬間だった。



♦︎♦︎♦︎



「はっ…!」


 急に目が覚めた。……ってか、まじリアルな夢だった。


「……んっ!?」


「……どこ、ここ?」


 見知らぬ天井、見知らぬ場所で。イヤ、マジ、エッ…エッ…。って、何処よ? ………んっ、確か津波に呑まれて…………エッ、ここ避難所?


 木造家屋の中、格子窓から差し込む月明かりのおかげか、朧げだが辺りを伺える。

 

 そこそこの広さの場所で……学校の体育館ほどの広さはあるかな。俺みたいに寝かされている人が、十数人、イヤ、二十数人いそうだった。


 時折聞こえる、痛みを堪えるような低いうめき声に、避難所というより、簡易的な病院だと思える場所。

 取り敢えず、朝になるまで大人しくしていた方がいいかもと、そんな事を、考えていたら………!?


 右腕にしがみついている、物凄く柔らかい感触に違和感を覚えて。

 仰向けに寝ている俺の、頭一つ下、丁度視界に入りづらいその位置に、フワフワな茶髪の女の子が、右腕にピッタリくっ付いたまま寝息を立てていた。


 どこの、子だろう?


 不思議に思ったんだが……。けど、なんか……うん、なんだろう……落ちつくって言うかしっくりくるって感じ?

 まぁ、いいっかって事で、結局この場は気にしないことにして、そのままにした。


 もしかしたら寒いからって、知らん娘があったまってるだけかも知れんしな。


 この状況をスンナリ受け入れることにしました、はい。取り敢えず生きてるし、夜だしね。



 冷静になると、途端に皆んなの顔が頭をよぎった。ーーみんな大丈夫なんだろうか?……優作、神代さん、ソレにお友達ちゃん、大丈夫だといいけど。

 津波に呑まれて運良く生き残った訳だけど……。


 どうしても、みんなのことが心配になってしまう。そして最後まで一緒にいた三毛猫がいない事に、最悪の事態を想像してしまった。


 トヨフツ……ゴメン。俺はお前を守り切れなかったみたいだ。


 命が奪われる事に強烈な忌避感を覚える。いや、これは、恐怖心なのかも知れない。

 何度も経験してるからって慣れるもんじゃ無いし、慣れたくも無い。


 とにかく、明日は朝イチでみんなの安否確認を最優先で動かなきゃ。 と、明日の行動を考えていたら、今だ疲労感の残るこの身体とすぐ側で聞こえる寝息も相まって、俺はまた深い眠りに落ちた。



 

 

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