F18:春

 糞ビッチとの裁判から数ヶ月が経った。今日は春の初めの、良く晴れた土曜日。今日は仙波先輩が幹事となって、東京西部のキャンプ場で日帰りの軽いキャンプをすることとなった。シンプルにBBQとも言う。

 参加者は仙波家の3人と僕、古田さんと中谷さん達糞ビッチと元同じサークルだった面々と茜さんと翔真君といった、元『最低最悪を討つ会』の面々だ。糞ビッチや糞野郎との縁が切れて『最低最悪を討つ会』の必要性はなくなった。しかし、せっかく仲間となったのだから、目的はとうに達成済みでも今度は友達として続けていくことにしていた。

 さあ、素晴らしい仲間とのBBQ、全力で楽しもうじゃないか!

 そう思った僕だったが、何故か準備開始早々に何故か仙波先輩・僕・翔真君の順で、川に向かって男3人並んでいた。手には釣り竿を携えて。


「はっはっは、ちょっとは現場の幸も入れたいと思ってな。魚を釣ろう」


 聞いてないんですけど?

 事前に聞いていれば、竿の投げ方くらいはググッておいたのに。イチニのサンで投げるべきか、アンドゥトロワで投げるべきかなど。

 そんなこと思った僕の右側で翔真君もきょとんとした顔で首を傾げていた。


「俺、釣りってしたことないんですけど、この竿ってどうやって用意するんです? どうやって使うんです? 政樹さん分かります? あ、分からなそうですね」


 僕達は同じ表情をしていた。


「僕は海のない所で生まれ育ったからね。そういうのをやる機会がなかったんだ」


 海が近くにあったとしても、なんだかんだ理由を付けて結局やらないんじゃないか、なんてこと言ってはならない。それはシュレディンガーの猫なのだから。

 僕と翔真君は仙波先輩に目を向けた。


「仙波先輩〜?」

「何だお前等、釣りしたことないのか。しゃーない。俺が用意するわ」


 言いたいことを言う前に仙波先輩は察して、僕と翔真君2人分の竿をパパッと用意して渡した。


「それでエサの付いている針をほほいのほいで投げて、魚がククッと引っ張ってきたら、リールをグルグル回して釣り上げるんだ」

「……回すってどっち向きに?」

「そっちもかーい」


 そっちもですよ?

 仙波先輩の目算では1人1匹くらい軽いだろうと考えていたらしいが、こんな僕と翔真君がマトモな戦力になれることはなく、各々1匹ずつという釣果に終わった。

 尚、仙波先輩は1人で8匹釣り上げていた。








「ククッ。残念な結果ね、ププププ」

 僕の釣果を見て、中谷さんは愉快そうに笑った。いや、嗤った。笑ってはいけないので耐えている体を装ってはいるが、内心では笑い転げていることだろう。いい年した大人が未経験の子供と同レベルかと。大人だからと言って、何でも経験していると思うなよ?

 そんな俺を知っているのか、古田さんは困った顔をして僕をフォローする。


「渡辺先輩は釣りをしたことがないんですよね? それじゃあ、仕方ないんじゃないですか」

「まあ、ゼロよりはいいと思うけど。頼りない男じゃない? もし万が一無人島に流されてサバイバルってなったらどうするの?」

「そんなサバイバルになる事態ってあり得ます? テレビとかでも無人島に何か持っていくとしたらってやりますけど」


 僕は反論した。この現代日本で暮らしていて、サバイバルが必要になる事態はまずない。災害が起きたとしても、避難所であれこれやることはあっても、独りでサバイバルって事態にはならないだろう。キャンプはあくまで趣味の範疇内の遊びでしかなく、サバイバルに備えてやるものではない。

 そう言うと、中谷さんは隠さずに嗤った。詭弁だと。


「と言うか、そんなのどーでもいいんですよ。僕が自力で1匹は釣れた。それだけで。やったことなかったエサつけ、竿振り、釣り上げで、古田さんに渡すことが出来た、最低限やるべきことはやれたのだから」

「渡辺先輩」


 少し頬を赤くした古田さんに、僕は魚籠を渡した。僕の釣り上げた魚を是非とも古田さんに食べてもらいたかったからだ。理想を言えば僕の分も釣り上げておきたかったが、そこは妥協することにした。

 中谷さんはそんな僕達の様を見て、今度は苦笑いを浮かべた。


「はいはい、そうですかそうですか。じゃ、私は馬に蹴られたくないので退散するとしますよ」


 中谷さんはそう言って去っていった。他の所のヘルプに向かうことにしたようだ。

 僕と古田さんは彼女の後姿を見て少しクスッと笑い、それからBBQの方へと話を切り替えた。僕は古田さんに状況を訊いた。


「何か手伝うこと、やり残したことってあるかな?」

「そうですねぇ、お野菜は切り終わっちゃいましたし、後は燃やす準備くらいじゃないですかね? ただ、枯れ枝はまーちゃんと奈緒美お姉さんが集めてくれたみたいですし、燃料のメインは炭みたいですし、もう特にないかもしれないですね」

「そうか。それは残念だな。もっと力になりたかったんだけど」

「まあ、未経験の我々は仕方ないです。経験豊富な仙波家の皆さんのようにはいきませんって。私だってお野菜切っただけですもの」

「一つ一つ積み重ねていって、いずれもっと活躍出来るよう頑張ろうか」

「はい」


 僕と古田さんお二人で肉や野菜の乗った皿を運ぶと、茜さんや翔真君も手伝いにやって来てくれたので一緒に皿を並べて準備した。すると中谷さん達も手伝いに混じり、最終的には大人数となった。そのおかげで、テーブルの準備は存外早く終わった。

 すると枯れ枝収集を終えた奈緒美お姉さんとまーちゃんも帰ってきて合流した。まーちゃんは誇らしげに枯れ枝を大きく上に掲げてやって来た。


「まーくんまーくん、あのねぇ。まーちゃん、こんなおおきなえだ、みつけたんだよー♪」

「おおっ、まーちゃん凄い凄い」


 僕は少し大げさに手を叩いて讃えた。ただ、凄いと思ったのは本当だ。まーちゃんが持ってきた枝は大振りでありながらきちんと乾燥しており、火が良く通りそうなものだったからだ。僕だと、生枝を持ってきたかもしれない。そこも要学習か。

 そんなこと思っていたら、まーちゃんは古田さんの方へと方向転換した。


「ふーちゃんふーちゃん、ほら! おおきなえだー♪」

「おおっ、まーちゃんはさすがだねー♪」


 それから翔真君の方へも行って。


「しょーくんしょーくん、ほらほらぁ!」

「おおっ、頑張ったなぁ!」


 まーちゃんは色々な人に自分の手柄を見せて回った。仙波先輩に割って薪にするのだから寄越してくれと言われるまで。

 それだけ嬉しかったのだろう。僕はそんなまーちゃんの様子を、古田さんと並んで微笑ましいものとして見ていた。ただ、その微笑ましいものが終わる頃、古田さんはボソリと呟いた。


「ふーちゃんって、どうして私だけ名字呼びなんですかね?」

「それは……なんか響きがまーちゃんに刺さったんじゃないかな? きっと」


 知らんがな。一瞬そう思いはしたが、それをぐっと飲み込んで。

 僕はそう答えた。そういうことにした。ガッカリさせたくなかったから。








 焼いて食べて、焼いて食べて、焼いて食べて、最後はお片付け。後はそれだけなので、特に問題なくBBQは終わった。魚も含めて美味しく食べて終えることが出来た。

 帰りは行きと同じように僕達が住む街により近い駅まで戻り、そこで解散。仙波家、中谷さん達はそれぞれ帰っていき、僕と古谷さんが残った。

 送るよ。僕はそう言って、古田さんと一緒に電車へと乗った。古田さんと並んで座り、彼女の家の最寄り駅まで二駅区間、およそ10分弱。それが僕に与えられたチャンスなのだと分かっていたけれど。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車に揺られながら、僕は古田さんと良い会話が出来ずにいた。何か言え。何か言え。自分自身にそう言い聞かせ、口は僅かに動かせたものの、それは声にはならなかった。

 ただ、走馬灯のように古田さんとの日々が頭の中を駆け巡っていた。彼女が入社した時、教育を任され行った時、彼女が一人前と周囲から認められた時、そして今日までの仕事の日々、それらが脳裏を駆け巡った。そして、思い返せばそのどれもが楽しいものだった。少し極論だが、彼女達と共に糞ビッチ等をやっつけるのも楽しかった。楽しかったんだ。

 こんな日々が続けばいいなぁ。続かせたいなぁ。そう思う僕だったが、気の利いた話が何も出来ないまま。

 古田さんが使う最寄り駅に到着してしまった。試合終了のホイッスルを聞くような気持ちで、僕はそのアナウンスを聞いていた。

 待ってくれ。待ってくれ。もう少しだけ待ってくれ。

 心の底からそう願うが、古田さんを困らせてはいけないという気持ちもあって声には出せない。でも、僕はほぼ無意識に手を伸ばしていた。そんな自分に気付き、僕は古田さんと一緒に下車を、途中下車をしていた。ロスタイムである。

 とは言え、ロスタイムと同じようにオマケの時間はあっと言う間に終わってしまう。僕はまた気の利いた話が出来ないまま、彼女が出て行くであろう改札が見えるのを確認した。

 改札から出て、さらについて行くことは出来ない。それはもう、彼女のプライベートに踏み込むも同然で、今の僕にはその資格がない。資格が。

 嗚呼、僕はその資格が欲しいんだ。その為にはどうする? 糞ビッチとの見合いと同じように、ぼーっと口を開けて、ただ指を咥えて、何らかのチャンスが転がり込むのを待つのか? 否、否、否!

 僕は一歩前へと踏み出した。そんな僕に古田さんは振り返り、微笑みながら会釈をする。


「渡辺先輩、今日は本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。また、月曜日に」

「ふ、古田さん!」


 月曜日に、職場で会いましょう。

 その言葉を遮って、僕はそう声にしていた。緊張のせいで少し声がひっくり返ったかもしれないが、気にしてはいられなかった。

 これが最後だ。最後のチャンスだ。その理由は何もないのだが、そんな気持ちで僕は古田さんに言った。


「僕もとっても、とってもとっても楽しかった。だから、こんなことがもっと、もっともっと出来たらいいなって思った、思うんだ」


 此処までは序章、ただの挨拶。でも、古田さんは微笑みながら僕の続きを待ってくれている。

 嗚呼、彼女にはいつも助けられているなぁ。だから、僕は進める。進むことが出来る。有り難う。有り難う。そう思いながら、僕は続けた。


「今度は2人で何処かに出掛けないか? 気の利いた話は上手く出来ないかもしれないけど、僕は古田さんと今日みたいな日々をこれからも過ごしたい。ずっとずっと過ごしたい」


 僕はそこで少し区切り、軽く深呼吸をした。そして、最後の一言を言った。

 彼女の目を見て、真っ直ぐに。


「古田さんのことが好きだから。誰よりも大好きだから。か、彼女になって下さい!」


 僕はガバッと頭を下げた。

 もう、彼女の顔は見れなかった。彼女は喜んでくれているだろうか? それとも困らせ、悲しませてしまったか? 審判を待つ僕は、全てが恐ろしく思えていた。

 一瞬のようでありながら、永遠のような時間の後、古田さんは話し始めた。


「渡辺先輩のご両親が亡くなられた時、私はまだ新入社員のペーペーでした。だからと言ってしまえば言い訳ですけど、普段世話になっているのだからこういう時こそ恩返ししよう、そう思っていてもこれと言って出来ることはありませんでした。結果としては仙波先輩が無遠慮に渡辺先輩を連れ回したりしたのが良かったんですが、私にはあのようなデリカシーのない行動は出来ませんでした」


 どうしよう? 何か、古田さんが毒を吐いている。

 少し不安を抱いた僕に、古田さんは少し泣きそうな顔で言った。


「私ね、悔しかったんですよ。私がやりたかったこと、出来なかったこと、それをあっさりとやられてしまったから。だから、いつか力になろう。いつか力になろう。あの時からずっとそんなことを考え、願っていました。その願いが日に日に強くなっていくにつれ、私はその想いが何なのか理解するようになりました。でも、それは違うんじゃないか? 力になりたいと思っているのに、困らせてしまうんじゃないか? そんな思いがグルグルしてしまい、踏み出せずにいたのです。そんな最中に聞いたのです」


 あの人との結婚を。

 古田さんはそう言った。


「嗚呼、今度は岸本部長に、その娘さんに持っていかれてしまうのか? そう思いはしましたけど、もう決まってしまったことでしたし、また家族が出来るので嬉しいと渡辺先輩も言っていましたので、もうお祝いするしかないなと。何処か悔しくて悲しかったんですけれど、渡辺先輩が幸せになれるならばそれでいいかなと、そんなことを思っていました」


 僕の脳裏に、糞ビッチとの結婚を報告した際の古田さんの表情がフラッシュバックされた。あの顔は、あの時僕が考えたことは勘違いだったのか?

 古田さんは続ける。


「でも、渡辺先輩とあの人との結婚生活は上手くいかなかった。それどころか、最悪とも言えてしまうものでした。だから、中谷さんにも言われました。きっとこれが最後のチャンスよと。降って湧いた最後のチャンスよと。それは言われなくても分かっていました。実感していました。だから、最悪を終わらせる為積極的に尽力しました。最後のチャンスを逃さない為に」


 古田さんはゆっくりと僕の方へ歩いてきて、数歩前の所で止まった。僕を見上げ、真っ直ぐな視線を向けた。

 僕は少し嬉しい気持ちを感じながら、その視線を真っ直ぐに受け止めた。もう、不安はなかった。

 古田さんは言った。言ってくれた。


「好きです、渡辺先輩。何処の誰よりも。私を渡辺先輩の彼女にして下さい」


 花開くような、満面の微笑みで。


「!」


 言葉にもならない。それはこういうことを言うのだろう。

 何も言葉に出来ないまま、僕は古田さんを抱きしめた。古田さんもまた、僕の背中へと手を回してくれた。

 嗚呼、人とは暖かいものなんだな。今更ながら、そんな当たり前のことに初めて気付かされた気がした。








「ところで、政樹さん」

「お、おおう?」

 思わず変な声が出た。ハグが一息ついて物理的に離れた直後、古田さんは僕の方に振り返ってそう呼んできた。

 渡辺政樹、言うまでもなく僕の名前だ。ただ、呼び方が違うと全然別物のような気がした。関係が変わったということで、呼び方から変えたというのだろう。


「政樹さんは私の下の名前、知ってますよね?」

「あ、ああ。勿論さ」


 職場では勿論、中谷さんにも名字で呼ばれ、それどころかまーちゃんにも名字で呼ばれてしまい、呼ばれることのない彼女の名前。勿論知っている。

 こういう関係になった以上、古田さんと呼ぶのはあまりにもよそよそしいということも。だから僕は、少し深呼吸をしてから答えた。


「君の、君の名は……」

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