F17.5:末路(A視点)
A、杏里視点です。長いです(;'∀')
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子供の頃の自分を何だと問われたならば、私は『無』と答える。
ただ親の言う通り、先生の言う通りに従うだけの空っぽな人形。そこに私の意志はなく、考えはなく、それ故に私は何も持たなかった。
「☆■〇▼×@#♪」
「$*◆△%§^♪」
超進学女子校として有名な高校のクラス、そこでは楽しそうに雑談しているクラスメイトがいる。私はそれを冷めた目で、だが何処か羨ましい気持ちで見ていた。
意志を持たず、考えを持たず、私はただ勉強だけを詰め込んできていて、私は今日此処にいる。その一方で、彼女達は楽しい想いをしながらも今日此処にいられている。その違いは何だ?
勉強しなさい。勉強しなさい。そうすれば選択肢が広がって、良い未来が切り開けるのだから。その言葉に縛られ、私は彼女達に加わることも許されず、高校に行ったならば次は大学へとばかりに勉強を強要されていた。その結果、引っかかったのは世間的には二流の大学。
こんなもんか。クズだな。そんな言葉を親から吐かれることはなかったけれど、努力が足らなかったに決まっているといった言葉だけは耳にタコがたくさんできる程吐かれた。努力をすれば誰もが東大に行けるのか? お前達の娘だぞ、決して天才なんかではない。そんな言葉を飲み込みながら、私は大学へ進学した。
親のことなど知らない。大学からはやりたいことを少しでもやって、今までの人生を埋めていこう。そう思った私は、まず彼氏を作ろうと考えた。高校生だった頃、恋についてあれこれ話す女子達の声を小耳に挟んで、羨ましいと思っていたからだ。
その為にはまずサークルだと考えた私は、テニスサークルに入ることにした。軽いイメージのサークルならば、初心な私でもそういうことをし易いのではないかと考えた為だ。テニスサークルは複数あったが、その中からの選択は最初に目に入ったサークルとした。軽い紹介を聞いたところで、入ってみないと分かりはしないからだ。真面目アピールしても不真面目なものはたくさんあるし、逆もまた然り。
入ったサークルが殊の外真面目なものだったのは意外だったが、それは大学に入ってもああだこうだと干渉して来ようとする両親への言い訳にも役立ってくれた。サークルの連中は高校時代にいた体育会系のようなイメージで仲良くなれる気がしなかったが、そのサークルのお陰で色々な人と逢う機会を得ることは出来た。その中で、比較的話し易かった他所のサークルの男子に告白され、私は交際することにした。私に初めての彼氏ができた。
交際は最初、とても楽しいものだった。何をするのも初めてで、どんなものもワクワクさせてくれた。両親には友達と出掛けると偽ってデートに行くのも、カップル連中が集まる場所に二人で行くのも、彼等がやるおまじない的なものを二人でやるのも、一緒のベッドに入るのも楽しかった。
ただ、時が経つにつれて彼は次第に真面目な話もするようになった。これからの将来二人でどうしていくのかなどあれこれと。今になって思えば彼は私との交際を真剣に考えていたのだと分かるが、その時の私には彼が両親と同じようなことを言う、ただ私を縛り付けるだけのつまらない男のように映った。それで途端に彼との日々が色褪せたもののように感じ、私は彼に別れを告げた。
彼と別れた後、私は次の彼氏には違うタイプを選ぶことにした。同じようなタイプでは、同じことの繰り返しになるに決まっているからだ。私は機会を求めて色々なサークルの色々な飲み会に顔を出すようになり、その中で酒も覚えた。道路で吐いたこともあるし、朝目が覚めたらラブホテルで独り素っ裸だったこともあった。中々これぞって人はいなかったが、そんな日々も楽しかった。
その一方で、きちんと授業に出て単位を取ることも私は忘れていなかった。大学に入ってもああだこうだと干渉して来ようとする両親のことだ。単位を多く落として留年という言葉が現実味を帯びるようになったものなら、ここぞとばかりに私を縛り付けるようになるのは目に見えているからだ。
数年経って、大学生活も終盤となり、就職活動をしなければいけなくなったのだが、その時の私には希望業種も職種も何もなかった。子供の頃の自分を何だと問われたならば、私は『無』と答える。そんな私には小さい頃から大学に入るまで、将来どうやって働いていきたいと考えることすらなかったからだ。今更希望などと問われても、仕事に対する夢なんか何もない。私はただ、入れる会社の入れる場所にロクに考えもせずに入社した。
会社勤めもまた、私にとっては『無』であった。課せられた通りに会社へ行き、課せられた業務を遂行する。それだけ。将来像を思い描かないからだと言われるだろうけど、小さい頃から勉強するだけで夢見ることすら出来なかった私には、鉛筆を持ってもその使い方が分からないように、将来像の思い描き方そのものが分からなかった。
ただ、週末に飲み会と称して夜の街を歩くのは楽しかった。道路に吐くのも、朝目が覚めるとラブホテルのベッドで素っ裸だったりするのも。
空っぽの『無』だった私には、享楽だけが生の実感だった。そして、こんな私のことを両親は未だに『真面目でお固い娘』と言う。少し困った感じを装いながら、内面では誇らしげに。嗚呼、自分がそう仕向けたこととは言え、現実とのあまりにも乖離振りに私はもう両親とマトモな話は出来ないと感じていた。その頃、私は忍に出会った。
とある週末、仕事でのちょっとしたミスを大きく捉えられ、より大きく叱責されたストレスを解消すべく、私は独り居酒屋で酒を飲んでいた。その店の中で、忍はナンパをしていた。
ああだこうだと軽い言葉を言いながら、30代半ばの男が若い女性に声を掛けていた。その様はいっそ滑稽で、どの女性も見向きすらしないものだった。イケメン振ってはいるが、特別イケメンという訳でもない。普段の私ならば、見向きもしなかっただろう。
ただ、その時の私は鬱に近い程のストレスを抱えていた。いっそ自分を傷付けたい程に。
だからこそ私は忍が声を掛けていたきた時、その手を取った。身体を開いた。
忍とのセックスは想像以上に良かった。いや、私に合っていた。忍のセックスはテクニックもへったくれもなく、ただ勢い任せで乱暴なだけだったが、いっそ自分を傷付けたい私には非常にフィットしたものだった。
朝、ラブホテルで目が覚めても隣に忍はいて、私は独りではなかった。だから私は忍と連絡先を交換して、それからもしばしば会うようになった。
忍と会っている時、しばし彼の左手薬指に指輪があるのを見掛けたが、私はそれをスルーした。これはストレス解消、それだけなのだからいいだろうと。
ただ、そうやって幾度となく忍と会っていると、街中に忍と一緒にいるタイミングで、父と会ってしまった。
向こうも会社の飲み会の帰りで酔っていたのだろうが、私の姿を見掛けただけで酔いがさめたのかすっと真顔になった。
「杏里、隣のその男は何だ?」
「え?」
父は腕を組んでいる私達の手をじっと見ていた。私の右手と彼の左手、奇しくも彼の左手には外し忘れの指輪があった。
何というタイミング! 今日は運勢最悪で、大凶か?
そう思った私だったが、悪いのはそれに留まらなかった。忍が父に絡んだのだ。
「何だ、ジジィ? てめぇのようなジジィの分際で、俺の女に手を出そうってのか? あぁん?」
それ以降は最悪だった。その時の父は一人だったのだが、騒ぎを聞きつけてすぐ人が集まって大騒ぎとなってしまった。
ハナシアイの結果、忍が父に絡んだ件については彼女を助けようとした「勘違い」で済んだのだが、既婚者と交際していることが父に、両親にバレてしまった。
「別れなさい。もう、あんな輩と連絡を取るんじゃない」
「…………」
私を真正面に正座させ、父は有無を言わせず私にそう言った。命令をした。
その時、父は昔と何も変わらず私の話を聞く気がないのだと、私は改めて気付かされた。ストレスを抱えたこの日々の中で、忍の存在がどれだけ私の癒やしとなっていたか、楽しみになっていたかなんて、両親にとってはどうでもいい。私という娘なんてものは『真面目でお固い娘』であれば、他はどうでもいいのだろう。
「はい、別れます」
断腸の想いで、私はそう頷かざるをえなかった。
嘘だけど。
私は親には黙って、忍に会い続けようと考えていた。今までだって忍のことは親に言っていなかったし、あの時までバレなかったのだから大丈夫だろう。そう考えていたのだが。
ラブホテルの前であっさりと見付かった。今日は残業だと言っていたのに、何で? 何で? 何で?
そう目を丸くした私に、父はあっさりと言った。
「杏里の携帯電話にGPSアプリとやらを入れてあるからな。それで残業というのは嘘だと分かったのだ。もう一度言う。そんな男とは別れなさい」
「くっ!」
隣を見ると、忍はもういなくなっていた。ただでさえ家庭のある忍のことだ。他所の家のゴタゴタには巻き込まれたくないのだろう。
私はスマホを取り出して、アプリの一覧をざっと見ると、そこには見覚えのないアプリがあった。これか?
ソッコー削除してやろうと思ったが、そんな私に父は言った。
「そういうのに詳しい部下がいてね、相談したらそういうソフトがあると教えてくれたので、母さんが入れてくれたんだ。だが、そうなるとそれを削除すればと思うだろう? ああ、削除すれば今何処にいるのかは分からなくなるだろう。だが、それはやましいことをしていますと言っているのと同じだ。それを忘れないように」
削除という選択肢は消された。誰だ、IT関連に疎い父にそんな余計なことを教えたのは?
どうすればまた忍に会えるようになるか。それを考えながら、私はスマホをしまった。スマホがなければ待ち合せたり出来ない。移動時には必須。とは言え、複数台を持つような予算なんか私にはない。八方塞がりだった。
「杏里、お前は変な男に捕まって変になってしまっただけだ。あんなのとは縁を切って、また昔の良い子だったお前に戻るんだ。お前ならば出来る」
父のその言葉に私は頷かざるをえず、私はまた『無』となった。
それから3ヶ月、私は『無』のまま日々を過ごしていた。平日には会社に行って働き、夜には家に帰って眠る。休日には両親に課せられた茶道や習字の稽古。何の刺激もなく、何の張り合いもなく、ただストレスばかり積もる毎日だったが、なんとかかんとかこなし続けてはいた。
ただ、何もかもを捨てて遠くに行きたい。そんな気持ちが強くなっているのを感じていた。そんな気持ちを抑え、此処に居続けたのは、こうしていればまた、忍に会う機会が巡ってくるかもしれない。そう思っていた、願っていたからだ。
その頃合いで、父は私にこう言った。
「杏里よ、今日まで私達の言うことをよく聞いて頑張ってくれた。素晴らしい! さすがは私達の娘だ! やはり、やれば出来るのだよ。うむっ!」
「お父さん、早く本題に……」
「あ、ああ。そうだな。茶道の先生も書道の先生も杏里のことを褒めてくれて、嬉しくてついな」
父はああだこうだ言って私のことを褒めたが、私はちっとも嬉しくはなかった。あれは過去の私と同じ、ただの『無』がやったことだから。
そんなことより、母が促した通りにさっさと本題に入ってほしかった。そう思う私に、父は存外あっさりと言った。
「杏里よ、見合いをしてみないか? 父さんの部下にな、独身でありながら凄く良い子がいるんだ。将来も結構有望だぞ?」
父さんより?
そんな言葉を私は飲み込んだ。父はそこそこな規模の会社の部長。出世したのだろうが、父の年はもう50代後半に差し掛かっていて、その上はない。
返事もせずにそんなことを考えていると、あっと言う間に見合いの日程まで決まってしまった。父だけでなく、母もまた乗り気だったせいだろう。
「渡辺政樹と申します。本日は宜しくお願いします」
見合いの席で初めて会ったキモオタは真面目な好青年のようで、昔の完全に『無』だった私のようでもあった。嗚呼、その『無』をよしとしている。それだけで、私とは相容れぬ存在だと感じていた。
両親の気持ち悪い笑顔に押され、キモオタとの接点は見合い1回では終わらず、何度か会うようになり、そして2人でも会うようになった。
「杏里さんとの出会いのキッカケを頂き、岸本部長には感謝しても感謝してもし切れません。もう、足を向けて眠れないです」
2人で会うと、キモオタはよくそう言っていた。馬鹿言ってんじゃないよと思ったが、私は言わなかった。身体どころかキスすら許さなかったし、許すつもりもなかったが、キモオタは何も言わなかった。
それでもキモオタは色々な話をしていた。両親が既に亡くなっているので、新しく家族ができたら嬉しいといったことから、最近観たあのアニメがとても面白かったというどうでもいいことまで。その頃はただ、画面の向こうのどうでもいい情報くらいにしか思っていなかったのだが、ふと気付いた。これは使えるのではないかと。
キモオタとのデートは土曜の夕方に終わる。それを終わらなかったことにしてしまえば、日曜の夕方くらいまで自由になれるのではないか。忍と会う時間が作れるのではないか。
試しにやってみたら大成功で、日曜の昼間に帰っても「上手くいっているようで何よりだ」くらいにしか言われない。私はそれを何度か続け、そうしたらキモオタからプロポーズされたので、こんな日々が続けられると思ってOKした。私にとって大切なのは忍との逢瀬であって、キモオタのことなんかどうでも良かった。
結婚式は神前式とした。私も女。ウェディングドレスを着て教会で……という願いもありはしたが、キモオタと並んでそんなことしたくはなかったし、キスもしたくなかった。それは忍とするものと思っていた。
結婚式の二次会の後、私は忍と待ち合わせをしていた。キモオタとは事前に別のホテルを予約しておいて、そこに奴を置き去りにしておこうという算段だ。それは上手くいって、私は忍と二人の夜を迎えた。
忍と私はニヤニヤと笑った。
「マヌケな新郎は今頃、別のホテルで待ち惚けって訳か」
「ええ。私には貴方だけよ、忍♪」
私と忍はそうして口付け、熱く激しく交わった。それはもう、今までで一か二を争うくらいに素晴らしい夜となった。その為、次の日の朝となっても、忍と別れて眠い目をこすりながら家に帰っても、何か心地良い気持ちのままだった。夢見心地のままだった。
その気持ちを台無しにしたのはキモオタだった。
「近寄らないでくれる? キモオタがうつるから」
近付くんじゃねぇって言ってんだろうが、このクソが!
気が付けば、私はキモオタを罵倒していた。いずれバレることだろうと思ってはいたが、汚い手で私に近寄って夢見心地を台無しにしたせいで自分の想像以上に腹が立っていた。その時期も早くなるだろうと思ってはいた。
まあ、いい。新婚旅行でも最初はアレコレ理由を付けてキモオタを留守番させようと考えていたが、開き直ってしまおうと思って率直に留守番を命じた。そうしたらさすがにキモオタも私と忍の関係について勘付いたようだが、それでも良かった。私の父はキモオタの上司で、キモオタはあくまでも部下。将来はどうか知らないが、今の状況と勢いで押し切れば大丈夫だろうと踏んでいた。そして、その時は大丈夫だった。新婚旅行の様子をキモオタが話せず、後日私が両親に話をしなければいけなくなるという些事もあったが、それも含めて大丈夫だった。
ただ、流れが変わってきたのはやはり金だった。私の給料はあまりよろしくない。忍は家庭がある。結婚というカモフラージュを得たことによって、私と忍はまた毎週末に逢えるようになったのだが、今度は金銭面でそれがダメになりそうだった。
「じゃあ、杏里。お前の家でやればいいじゃねぇか」
提案したのは忍だった。私は最初、その案に乗り気ではなかった。隣にキモオタがいて、もし私の喘ぎ声を盗み聞きして、それで私の裸を想像してオナニーでもしたら、絞め殺したくなるくらい気持ち悪いと思ったからだ。
とは言え、先立つものがないのも事実。私は忍の案に乗り、忍を連れて家に帰った。家にキモオタの靴はあるが、音はない。奴は自室に籠もっているのだろう。何をしているのか分からないが、興味はない。
最初はそれでも様子を伺いながらキスをして、私の部屋の中に入って服を脱いで交わった。最初は声もなるべく出さないように注意していたのだが、隣からのリアクションがないのですぐに慣れた。キモオタがどうしているかなんて気にしなくなり、いるかどうかすらも気にしなくなり、いつも通りのセックスとなった。そして、金がかからなくなったことで、前以上に頻繁に忍と逢うようになり、セックスするようになった。そんなある晩、いつもどおりのセックスを始めて少し経ってのことだ。
イェイイェイイェイイェイウォオオオオオオオオッ♪
隣室から馬鹿みたいに大きな騒音が聞こえてきた。その騒音を聞いて、すぐに私はそれが誰によるものかを理解した。それは忍も同じだったのだろう。
「うっる、せぇええええっ!」
忍は裸のまま部屋を飛び出して、キモオタの部屋に乗り込んで、悪の元凶をぶちのめした。私はチラッとだとしてもキモオタなんかに裸を見られたくないので、ちゃんと服を着直してから乗り込んで成敗してやった。財布から金も貰ってやったので、ラブホテルへ行き直す資金も出来て一石二鳥だった。
次の日、ラブホテルで目が覚めた私達は引き続き土曜日の街をデートしていたのだが、キモオタから金を頂いたとは言ってもそれは微々たるもので、先の先まで続けられるようなものではないと気付かされた。ラブホテル行くのにも金、何か食事をするのも金、テーマパークで遊ぶのにも金、そこへ行くのさえも金、金金金と金はどんどん取られていく。
「じゃあ、またあの野郎から貰ってやればいいんじゃねぇか?」
忍のその案に、私は躊躇せずに頷いた。それはキモオタに対して最初から自分の夫だなんて思っておらず、便利なATMくらいにしか思っていなかった。小動物を狩るような気楽な気持ちで赴いたのだが。
ドンドンドンドン! 今度はいくらキモオタの部屋のドアを叩いても、いくら罵声を浴びせかけても、そのドアが開くことはなかった。何かしら重しでもつけて開かないようにしているのだろうか。姑息なことをするもんだ。
そう不愉快な気持ちになったが、私達はそこで我慢比べをする気にもならなかった。そんな時間の無駄をいつまでやっていても楽しくはないので、少しやってダメだと思うとすぐに私の部屋へ場所を移し、セックスをすることにした。その方がずっと楽しく、気持ち良いからだ。
私と忍はそうやって毎週末、金曜と土曜の夜は必ず私の部屋でセックスして、一緒のベッドに寝ることとなった。そうやって関係が続いて、少し経ってのことだった。
私は妊娠した。
「さらに楽しくなってきたな」
「ええ♪」
妊娠したことをまず忍に話し、私達はキモオタに金だけを出させることに決めた。法的に私とキモオタの子供になってしまうのは癪だが、それ以外は私と忍で考えて決めようと思った。キモオタには命名権すらやらない。金だけ出せばいいのだ。
そうし易くする為に、キモオタに妊娠について話す前に手を打っておくことにした。キモオタにはセックスどころかキスさえ許さなかったので、どんなにキモオタが馬鹿でマヌケなのだとしても、私のお腹の父親が自分ではないことは分かるだろう。
私はキモオタよりも前に両親へ妊娠の報告をした。シンプルに『妊娠したみたい』と。両親、特に父親は存外に大喜びで、ベビー用品とかあれこれ買ってくれるとか先の話まで浮かれ口調で言い出した。ああ、これなら大丈夫だろう。そう思って、私はキモオタにも妊娠を告げた。LINE送っても既読にすらならないので、家で待って直接。
「ああ、普通の夫婦だったら、問題ないだろうよ。めでたいめでたい言うんだろうよ。だけど、ウチは違うじゃねーか。アンタが拒否ったから、ウチにはそんな関係が、今までずっとずっと、ただの一度もなかったじゃないか。僕にカッコウの子を育てろとでも言うつもりかっ!」
キモオタは私の妊娠に驚いた後、そんなことを言った。口調が乱れているのは、馬鹿でマヌケで小心者なキモオタでも混乱しているのだろうと思った。だが、それでもお前にはもうどうにも出来ないとも思っていた。
その上で、此処で離婚という選択肢を取ったならば妊娠したばかりの新妻を捨てるクズになること、既に両親には報告済みで存外に大喜びしていることをトドメとして言ってやった。
「冗談じゃない。書類上だけの妻が他所の男と作った子供なんか、自分の子供なんてとても思える訳ないじゃないか。僕をそんなものに巻き込むんじゃない!」
キモオタはそんな捨て台詞を言って自分の部屋に閉じ籠もったが、そんなものは負け犬の捨て台詞だ。ニヤニヤ嘲笑いながらそう思って、こんな日々がこれからも続くのだろうと思っていたのだが。
その次の週末、私と忍には地獄、破滅が待ち受けていた。
いつも通りに忍と愛し合っていたら、前と同じようにキモオタが馬鹿みたいな大音量を出したので、前と同じように忍が成敗に行ったら、何故か人がたくさんいて、その中には私の両親までいて、気が付いたら警察に私達は拘束されていた。
何も悪いことなんかしていない。ただ、忍と愛し合っていただけなのに何で? 法律の知識がないと思って、適当なこと言って騙そうとしているんじゃないよ!
そう思ったが弁護士に、そして警察に私達のどういった行動が違法だったかを挙げられていった。そして、その手筈を整えたのが他の誰でもないキモオタ自身であったと。
ふざけんな。裏切りやがって! 私にどんな恨みが?
一瞬だけそう思ったが、次の瞬間には恨みしかないだろうなと私も気付かされていた。自分を殴り、怒鳴り、隣室に他所の男を呼んで抱かれる妻に対し、プラス感情を持つことはないだろうと。
ただ、それでもいいだろうと私は頭の片隅で考えていた。此処までしたならば、さすがに私は忍と正真正銘一緒になれるのではないか。そのような希望を抱いたのだ。だが、それは早々に砕かれた。
40代くらいのオバサンが忍に言ったのだ。
「私、気付いていたんですよ。アナタはただ若い女性が好きなだけの変態であると。私が若い頃は私、私がオバサンになってきたらそこの杏里さんへ。そして、最近は杏里さんへの情欲も薄れつつあるのでしょう?」
「そんなこと!」
「あるでしょう? 杏里さんがさっき取り押さえられた時、アナタは『潮時だな』なんて言ってましたし。アナタの最近の携帯、出会い系サイトへのアクセスが頻繁に行われているみたいね。結果は芳しくないようだけど。ああ、それはそうね。40代の、安月給の、チンピラ紛いのオジサンに引っ掛かる馬鹿なんているもんですか」
「ちょっと、忍! どういうことよ?」
私の中にある将来像が、ガラガラと音を立てて崩れていった。それどころか、今ある幸福さえも崩れ落ちるのを感じていた。
そのオバサン、忍の妻らしきブスは私を嘲笑いながら忍のスマホの画面を見せつけてきた。忍が他所の女性へ一生懸命にアプローチを仕掛け、みっともなく散っていく様を次々と。この頃の私はもう、忍のことを愛しているのだという自覚があったのだが。
私は忍に愛されていない? 私は忍に愛されていない? 私は忍に愛されていない? 私は忍に愛されていない?
頭の中にそう繰り返され、私は混乱して、そして叫んでいた。
「何なの? 何なの? 何なのよ〜〜」
忍に愛されていない私には、もう何も残ってはいなかった。母に叩かれ、父に育児失敗と謝られ、キモオタには社会不適合者はお前自身だと論理的に言われ、それに対して何も反論出来なかった。
そして私はまた、『無』に還った。
数ヶ月経った。キモオタとの離婚裁判は終わり、私の刑事裁判も終わり、一応初犯ではあるので懲役も終わった。示談にもならず、執行猶予にもならなかったのは最悪だったが、それでも期間が短かっただけマシだったのだろう。
出所になると、私には両親だけが迎えに来ていた。それまでキモオタは勿論、忍や他の人からの手紙や連絡は一切なかった。それが私の価値だと彼等は言いたいのだろう。
子供に関しては結局おろさないことにした。逮捕や裁判で混乱していたせいで頭から抜けていて、期間を過ぎてしまったというのもあるが、子供をしっかり残しておいた方が後々忍と一緒になれるのではないか。そんな気がしたからだ。
そんな私にある日、父は無言で新聞を渡して地方欄の記事を見るように示した。そこにはこう書かれていた。電車内で女性の体を触ったとして、和田忍容疑者を逮捕した。署によると容疑を認めているという。
「結局はそういう輩だった訳だ」
不倫をしてまでして、私のことを好いていた訳でもない。ただ、手頃な場所に都合の良い若い女がいたから抱いていただけ。都合が悪くなり、私が若くなくなってきたらポイ。あのオバサンが言っていたことは本当だった訳だ。
どれだけ時間が経っても、忍は私の所へやってこない。二度とやってこない。思い出しもしないだろう。
何なの? 何なの? 何なのよ〜〜!
声も出せず、ポロポロと涙を落としても誰も救ってはくれない。父も、母も、ただこんな私を見下ろしているだけ。
父は私へ無機質に言った。
「杏里、今日のこの結果は全てお前の自業自得だ。私達は両親だからお前を見捨てるという選択肢は取れないが、他の人達は皆お前を見限り、去っていった。それは余りにもお前が自己中心的で、他人のことを、他人の迷惑を考えもせずに行動し続けた結果だ」
「じゃあ、どうすれば良かったと? どうすれば間違いじゃなかったと?」
「それを考えるんだ。自分で。お前はもう、いい大人なのだから。だが、いくつになっても私達は親だ。その為の手助けくらいなら、私達もしようではないか」
「そんなこと言われても分かんない。分かんないのよ~~!」
私は泣いた。まるで子供のように。
今まで積み上げたものが何もなかった私はずっと『無』で、私はどうあれば良かったのか、これからどうすればいいのかなんて想像も出来なかった。
ただ、そんな私でも一つだけ分かっていることはあった。実の父親から求められていないどころか、忘れ去られているかもしれない子供を抱えた私のこれからの人生、どうあがいてもろくなものにはならないと。
「じゃあ、岸本杏里さん。さようなら。もう裁判以外で会うこともないでしょう。貴女のことはもう、誰も信用することはないでしょうけれど、孤独に生きて孤独に死ぬがいい。だが全て、僕の知ったことではない」
キモオタは最後、そのように捨て台詞を吐いていた。
嗚呼、お前が望んだ通りになるだろうよ。ざまぁみろと嗤うがいい。逆ギレ気味にそう思いながら、私はふと気付いた。アイツのことをキモオタキモオタと言っていたせいで、そのフルネームが思い出せないと。どうでもいいどうでもいいと思っていたから、仮にも夫とした人間のフルネームすら思い出せないと。
お前は余りにも自己中心的過ぎる。アイツが言い、父が言い、皆が私に言ったことだったが、嗚呼確かにその通りだった。
私は最低だ。そんな最低な私に描ける、良い未来など何一つとしてありはしない。そんなことを実感していた。
「何なの? 何なの? 何なのよ〜〜」
馬鹿みたいに泣きながら。救いなど何もないと分かっていながらずっと。ずっとずっと……
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