F16:最後

「不倫による離婚の慰謝料の目安は凡そ100~300万円くらいです。但し、状況を考慮しますと、今回のケースはどちらにおいてもかなり高額な慰謝料が発生することとなるでしょう。浮気の証拠が豊富に存在し、頻繁に接触しており、意図的であり、発覚後に真摯な態度で謝罪しないどころか、何の反省もせずに継続する始末。その上で不倫により子供を作るという話もあり。かなり、ええ。かなりかなり悪質な事例と言えるでしょう」


 ようやく出番の来た弁護士の先生は、ここぞとばかりに喋った。これが離婚調停の裁判になれば、かなり高額な慰謝料支払になるのは間違いない。それ程までに極めて邪悪、衝撃的に凶悪で卑劣だと言った。

 続けて慰謝料について、不貞行為の期間、及び婚姻年数では渡辺家ではマイナスだが、和田家ではプラス。不貞行為の回数はここ最近ではほぼ毎週末(金曜&土曜)なので、どちらもプラス。子供がいることで和田家にプラス、作ったことによってどちらもプラス。不倫が発覚した後も止めないこと、反省の姿勢が全くないことからさらにプラス。弁護士の先生はそう言い、数百万円になる可能性があるとまで言った。

 そんな弁護士の先生の話を、改めて服を着た糞ビッチと糞野郎は正座で聞くこととなった。逃げられないように糞ビッチは岸本部長夫妻が、糞野郎は仙波先輩と茜さんのお兄さんが拘束していた。二人とも不機嫌丸出しな顔で、何の反省もない様子でありながらも、弁護士の先生の話を聞いてはいた。自分が悪くないと言える道を探していたのだろう。

 まず糞ビッチが反論をした。悪足掻きをした。


「きょ、今日のは見られたかもしれないけれど、証拠って証拠はないでしょ? 私はそんなことはなかったって全部否認するもの。見たとか言ったって、どうせ皆関係者じゃない。第三者じゃない限り、証拠にはならない筈よ」

「証拠ならありますよ。今日のことも含め、渡辺政樹さんがかなり多くの録音・録画を行っていますから。これは明確な証拠となります」

「録音・録画ぁ? キモオタ、アンタ! 家の中を盗撮していたっていうの? 嗚呼、気持ち悪い。気持ち悪い。犯罪よ。犯罪! アンタこそ逮捕されて、私に慰謝料を払いなさい!」

「犯罪にはなりませんよ」


 僕が何かを言う前に、弁護士の先生は糞ビッチへサラッと言った。


「公共の場所ではないどころか自宅内ですし、ましてや浴室やトイレのような、通常衣服を付けない場所でもない。その上で、不貞行為の証拠集めだという明確な目的もある。よって、覗き見を禁止する軽犯罪法に触れることはありません」

「チッ」


 僕を罪に問えれば、自分のやったことが帳消しになるのではないか。少しはマシになるのではないか。糞ビッチはそう考えたのだろうが、それは叶わないと知らされて汚く舌打ちをした。

 そんな糞ビッチに、弁護士の先生は追い打ちをかけた。


「それどころか、貴方達二人は不貞による民事訴訟の他に、恐喝による刑事訴訟も同時に発生する可能性が高いです。そちらも録画・録音のものがございますので、明確な証拠として提示されるでしょう」

「あ? 金なんか最初の一回だけで、ほんの少しの金額。後は全然取れなかったじゃねぇか。法を知らねぇと思って、テキトーなこと言って俺達を惑わそうとしてんじゃねぇぞ」


 糞野郎が弁護士の先生を睨みながら、そう口を出した。残念ながら、僕も糞野郎の言う通り、あのドンドンドンドンは離婚を有利に進める為のプラス・アルファ程度くらいにはなっても、それだけで罪には問えないと思っていたが、それはあっと言う間に説明された。

 弁護士の先生は続けて言った。


「恐喝罪については刑法249条に書かれています。その恐喝罪では、最終的に脅し取れなかった場合の未遂も包含されております。その上で、貴方達は恐喝行為を何度も何度も行ってきました。恐喝罪に罰金刑はなく、起訴されて有罪判決となった場合、その判決は全て懲役刑となります。不起訴・執行猶予を目指す場合、被害者との示談が成立することが最低条件となります。しかしながらこの状況下、示談が成ることはありえません。貴方達に反省の色はない。大きな罪になるのを覚悟しておくと良いでしょう」

「そんな難しい感じに言ったって騙されないからね!」

「そうだそうだ! んな馬鹿なことがある訳ねぇ! じゃあ、カツアゲしてる連中なんかは皆お縄になんないといけねぇじゃねぇか!」


 糞ビッチと糞野郎はそれでも信じない。嘘に決まっていると騒いだ。嘘でないと困るからだろう。逮捕されれば確実に前科1となり、今勤めている会社を懲戒解雇になるのは必至だからだ。身の破滅である。

 ファンファンファンファン。その時、遠くからパトカーのサイレンらしきものが聞こえてきた。弁護士の先生はそれを耳にすると、ニヤリと笑った。


「私の言うことは信じて頂けないようですが、同じような説明はきっと警察の方がして頂けるでしょう」

「ま、まさか?」

「はい。貴方達が渡辺政樹さんを恐喝している音を私共はリモートで拝聴していたのですが、その音声を流しながらそのまま110番しました。お巡りさんはすぐ此処へいらっしゃいますよ。ご安心下さい」


 弁護士の先生はニコリと笑った。それは花が咲くような満面の微笑みだった。

 その微笑みに僕を含めて皆が若干ひいていると、パトカーのサイレン音が止まって少しだけ静かになった。翔真君がマンションの廊下から下を見て、このマンションの前に止まっていると報せてくれた。

 つまりはそういうことだ。足音のノイズが次第に大きくなり、それと同時に人の気配とノイズも大きくなり、此処へ警察の人達がやって来た。署の名前を言いながら、警察は部屋に入るとすぐさま状況確認をした。


「通報されたのは、どなたですか?」

「はい、私です」

 弁護士の先生がスッと手を挙げた。それからスムーズに状況説明をした。犯人はそこの糞ビッチと糞野郎であること。家族や友人が『たまたま』近くにいたので、取り押さえられたこと。このようなことは今まで何度も行われていたと。

 お巡りさんはその話を聞きながら少し首を傾げ、そして訊いてきた。


「そう何度も行われていたならば、何故もっと早く110番されなかったのですか?」

「実際に盗られたのは最初の一回だけで、その時の証拠はありません。そして、それ以降脅され続けてかつ録音音源はあるものの、盗られた訳ではありません。それじゃあ、何にもならないかなと思いまして」


 お巡りさんの問いに、僕はそう答えた。うん、今の今まで離婚を有利に進める材料の一つくらいにしか思っていなかったのは本当だ。

 そんな僕を、お巡りさんは否定した。


「ダメです、それは。何かあってからでは遅いのですよ? 恐喝は未遂であっても罪となります。今度からはいち早く通報するようお願いします」

「はい、すみません」


 弁護士の先生と同じことを言ってくれたお巡りさんに、僕は頭を下げた。まあ、今度というものはもうないと思うけど。

 これで最後なのだから。


「では、連行しろ」

「はい」


 お巡りさん達は糞ビッチと糞野郎の抑え付けを代わった上で二人を立たせ、その両腕に手錠をして連行しようとした。これでもう僕は、あの糞ビッチとマトモに話をする機会はなくなるだろう。

 これで最後なのだから。


「…………」


 岸本部長夫妻は、連れて行かれそうな娘を見るだけで、止めようとはしない。それどころか、何も話をしようとしない。

 ただ、見続けてはいた。首を横に振って視線を逸らそうとしても、すぐ娘へと戻す。親としてその最後、現実ときちんと向き合おうとしているように見えた。

 嗚呼、そうだ。これが最後なのだ。最後なのだから。


「ほんのちょっと待ってもらっていいですか?」


 僕は我儘を言った。お巡りさんに連行をちょっとだけでいいから待って欲しいと。

 面倒くせぇなぁ。そう言いたげなお巡りさんを横目に、僕は茜さんと翔真君に言う。


「茜さん、翔真君。もう終わり、最後ですよ? 旦那さん、お父さんと話をする機会はもうないでしょう。何かあるなら今伝えないと!」

「「あ、ああ。そうですね」」


 茜さんと翔真君は声を合わせ、合わさったことに少し苦笑いをしながら前に出た。糞野郎と向き合った。

 まずは茜さんから問い掛けた。


「アナタ、前から訊きたかったんです。アナタにとって私とは、妻とは何だったんですか?」

「お前は妻で、大切にすべき存在だよ。結婚の時に誓ったのと何も変わりはしない」

「嘘。そんな型にはめた定番文句は要らないの。昔はそうだったのかもしれないけど、今のアナタにとって私はただ都合の良い女でしかないのでしょう? 文句を言わずに家事全般をやってくれて、暴力に抗う力も度胸もない」


 違う! とは、糞野郎もさすがに言えなかった。言おうとしていたけれど、言えなかった。

 どう考えても嘘に決まっているからだ。

 茜さんは続けた。


「私、気付いていたんですよ。アナタはただ若い女性が好きなだけの変態であると。私が若い頃は私、私がオバサンになってきたらそこの杏里さんへ。そして、最近は杏里さんへの情欲も薄れつつあるのでしょう?」

「そんなこと!」

「あるでしょう? 杏里さんがさっき取り押さえられた時、アナタは『潮時だな』なんて言ってましたし。アナタの最近の携帯、出会い系サイトへのアクセスが頻繁に行われているみたいね。結果は芳しくないようだけど。ああ、それはそうね。40代の、安月給の、チンピラ紛いのオジサンに引っ掛かる馬鹿なんているもんですか」

「ちょっと、忍! どういうことよ?」

「嘘だ。嘘だ。嘘だ! と言うか、何でお前が俺のスマホにアクセス出来る? パスワードは教えてない筈だぞ!」


 茜さんの言葉に糞野郎と糞ビッチは乱れる。

 そんな二人を気にも留めず、茜さんは糞野郎のスマホを手に取って、あっさりとパスワードを解除してみせた。


「0601、アナタの誕生日。さすがに安直過ぎません?」


 茜さんは苦笑いを浮かべながら、糞ビッチにスマホのブラウザで履歴を見せた。見せ続けた。


「ほらほら、よ〜くご覧になって下さいな。こんなにも、こんなにもあるんですよ? ほら、こんなことまで言っちゃってるんですよ? どれもこれも全て、けんもほろろですけどね」

「何なの? 何なの? 何なのよ〜〜」


 糞ビッチはスマホから目を逸らし、俯いた。

 そんな糞ビッチなど見向きもせずに、茜さんは翔真君の所へ行った。そして、翔真君に問い掛けた。


「翔真、これで最後なのよ? 貴方はこの人に何か言いたいことはないのかしら?」

「え、俺が?」


 茜さんの問いに翔真君は少し考えてから答えた。


「特別言いたいことはないかな? 二度と俺達の前に顔出すなって言いたいところだけど、俺が言わなくてももう出すことはないだろうし。こんな奴、父親だなんて全く思っていないから今更思うこともないしね」

「あ? 父親に向かって何て口利いてんだ、お前!」

「父親? アンタが父親らしいことを何かしたか? 俺の学校行事に何か参加したことあったか? 俺と一緒に親子らしいこと何かやったか? 土日になれば勝手に遊び歩いて家にいないし、平日夜は家に帰ってもマトモに話すらしない。アンタの何処が父親だって言うんだよ? アンタ以下の父親なんて、世界の何処にもいやしないよ。ホント、マジで、俺達の前から失せろ。消え失せちまえ!」

「…………」


 翔真君の言葉で、糞野郎は俯いた。俯いて何も言えなくなった。翔真君の言ったことが全て、いや大部分が本当と言うだけで、この糞野郎は父親失格である。もし僕がいつか父親になる日が来るとしたら、こいつを反面教師にするくらいに。

 仕事でたまたまやって来たお巡りさんも含め、此処にいる皆がその糞野郎に軽蔑の眼差しを送った。それだけ父親と言うか、人としてありえなかった。下がった翔真君の頭を茜さんが黙って撫で、翔真君が少し照れ臭そうにした。そんな二人を守るように茜さんのお兄さんが糞野郎の前に出た。茜さんのご両親もそれに続いた。

 茜さんのお兄さんは糞野郎に告げた。


「和田忍、さすがのお前でも分かっているだろう? 家庭を壊したのはお前だ。他の誰でもないお前だ。お前が茜の夫に戻ることは絶対にありえないし、翔真の父親に戻ることも絶対にない。そうしたのはお前自身なのだから」

「は、反省はしている」

「そんな薄っぺらな言葉など要らん。我々がお前を信じることは未来永劫あり得ない。本当に反省をしているというならば、さっさと罪を償った上で、慰謝料という形で見せろ。その上で、二度と俺達の前に顔を出すな」


 茜さんのお兄さんはキッパリとそう言った。糞野郎の今までの言動を考えれば、反省なんて言葉はその場限りの誤魔化しでしかないだろう。僕はそう思うし、他の誰もがそう思ったようだ。誰もがその言葉をスルーしていた。

 茜さんの父親も糞野郎へ告げた。


「忍君、君が昔は茜のことを大切にしてくれたことは覚えているよ。だが、それを忘れ去ってしまう程に昨今の君は酷過ぎた。一度自分の言動を客観視した上で、十分に反省したまえ。その上で、もう二度と私達の前に顔を出さないでくれ」

「茜」


 義父にもそう言われ、糞野郎は茜さんにまた顔を向けた。それは助けを求めているようだったが。

 茜さんは迷わず、躊躇わず糞野郎へと告げた。


「もう、終わっていたのです。アナタが終わらせたのです。零れた水が元に戻らないように、私とアナタが元に戻ることはありえません。だって、もうずっと、アナタのことが大嫌いですから」

「…………」


 糞野郎の表情が絶望で満ちた。頭の何処か片隅で、それでも茜さんならば助けてくれるのではないかなんて甘いことを考えていたのだろう。その甘えを完全否定されたからだ。

 糞野郎はお巡りさんに促されるがまま、パトカーの中へと消えていった。

 次は僕の番か。僕は糞ビッチの前に立った。糞ビッチは僕のことを睨みつけてきた。その上で吐き捨ててきた。


「何よ? 私のことを笑いにでもきたの? 惨めに捨てられた私を笑いにきたの? 笑えばいいじゃない。ほら、ワハハハハと笑いなさいよ」

「笑えば、ねぇ」


 これはWeb小説なんかでよくありそうな『ざまぁ』の現代日本版である。だが、それで笑えるかと言われても笑えないというのが正直な気持ちだった。糞ビッチを指差して、その惨めさを嘲笑う? そうするのは人間として如何なものかと思えてしまったからだ。だからそう、笑えない。嗤えない。

 僕は少し長く溜め息をついてから糞ビッチに訊いた。


「あのさぁ、アンタは自分が僕に何をしたのか分かっているのか?」

「はぁ?」


 糞ビッチは怪訝そうな顔をした。何をしたもクソもないだろう、とでも言いたげだった。それだけ僕のことを考えもしなかったのだろう。

 僕は考えていた。何故、コイツはこんなことを平然と出来てしまえるのかと。その答えは何も出なかったけれど、きっとそれが答えなのだろう。考えもしなかった。考える必要性を感じていなかった。

 僕はそんな糞ビッチへ分かり易いように話した。


「アンタが僕にしたことを、もしアンタがやられていたらどう思っていた? 結婚式の夜、新郎は他所の女を抱きに行ってアンタを放置した。家に帰って合流したかと思えば、アンタをクソミソに貶して、手も触れるんじゃないと拒絶した。予定を組んでいた新婚旅行もアンタをクソミソに否定した上で、他所の女と行った。結婚後もアンタへ向けられるのは罵りの言葉と否定だけ。その女とはずっと続いていて、終いにはアンタの部屋の隣で平然とエッチをする始末。さらに手酷く殴られ、金を奪われ、それを継続させようとする。そんな蛮行をして、悪いだなんて欠片も思わない。そうされていたら、どう思っていた? どう思っていたんだよ?」

「…………」


 糞ビッチは何の言葉も返さなかった。何を言っても彼女を有利にさせる正解にはならないと分かっていたのだろう。知ったことじゃないと言えば人でなしだし、そんなことある訳ないと言えばただの愚か者だ。

 彼女にとっては沈黙が金なのだろうが、そんな糞ビッチの前に岸本部長夫妻が立った。これ以上ないってくらいに不機嫌な顔で。岸本部長の奥さん、糞ビッチの母親が怒鳴り、問い掛けた。


「さあ、杏里。答えなさいよ! 政樹さんが訊いているでしょう? そんなことされたらどう思うのか。さっさと答えなさい! ハッキリと、明確に!」

「さ、最低、かな?」


 糞ビッチは考えながらもそう答えた。まあ、そう答えるしかないだろう。どう考えても、此処で『最高』などと言えるものではないからだ。それは糞ビッチを含め、皆が分かっていた。分かり切っていたのだが。

 バチーンッ! そこで糞ビッチの母親は彼女の頬をビンタした。何の手加減もなく、何度も何度も涙を流しながら。


「その最低を、アンタがやったんでしょうが! 他所様の子を家族として迎え入れる振りをして騙し、手酷く傷付けて、馬鹿にして、侮辱し続けて、それをよしとしていた。何なの? 何なの? 何なのって、それはこっちが訊きたいわ!」


 岸本部長はそんな奥さんを制して、下げさせた。そして、今度は自分が前へと出た。

 ただ、出たものの岸本部長は数秒の間何も言葉を発せずにいた。岸本部長はゆっくりと糞ビッチへ話しをした。


「杏里よ。私はな、お前がずっと政樹君にやってきたことを聞かされてもずっとずっと信じられずにいた。そんなこと、ある訳ないとまで思っていた。だが、それは客観的事実として認めざるをえなくなった。その時からずっと考えていたよ。父親として、何を言うべきか。何も正解はないように思えたがね。まあ、何も言えないか。私はダメな父親だった。杏里のこと、何も分かっていられなかった。ずっと良い子のままいると思い込んでしまっていた。ただなぁ、やはり私はダメな父親のままか。ひょっとしたら杏里は反省して、また良い性根の子に戻ってくれるのではないか? まだ私は頭の片隅でそんな愚かなことを考えてしまっているんだ」


 嗚呼、ダメだ。ダメだ。

 岸本部長もそう言いながら下がり、そして視線を僕の方へと向け、頭を下げた。


「済まない、政樹君。父親としてもっと厳しいことを言わなければいけなかったのだが、どうにもこうにも上手いこと言葉が出ないんだ。ダメな父親で申し訳ない。こんなダメな娘を君に嫁がせてしまって申し訳ない。だが、心の底までそう思っていても尚、それでも私は杏里の父親なんだ」

「いえ、いいです。僕達はもう大人ですから。部長に謝って頂くことではないです」


 そう、これは僕が終わらせなければいけないことだ。僕は再び糞ビッチの前へと出た。

 糞ビッチは僕からそっと目を逸らした。睨みつけもしなければ、怪訝な顔もしない。それは僕への攻撃を失ったことを示すものではあったが、それと同時に自分がやってきたことに対して真摯に向き合うつもりがないこともまた、同時に示していた。

 最後までこれか。大きく溜め息をついて、絶望したい気持ちを押さえながら僕は糞ビッチに訊いた。


「アンタさぁ、僕のことをしょっちゅうキモオタとか言って見下してきたじゃないか?」

「事実でしょ?」


 僕に目も向けないまま、糞ビッチはそう言い捨てた。

 僕は少し長い溜め息をついて、呆れた気持ちを隠さずに言った。


「僕のオタク度がどうかはいいとして、仮に弩級のヲタクだとしてそれがどうだと言うんだ? ヲタク相手ならば、何をしてもいいと言うのか? ヲタクには人権はないとでも言うのか? ああ、言っていたな。僕のこと、どうでも“いい人”だって。世に蔓延るニートと何ら変わらないクズだって」

「だから、何よ? 事実でしょ?」

「じゃあ、そう言うアンタは価値ある人間なのか? 僕よりマシな人間なのか?」

「それは勿論」


 そう言うだろうな。予測していた僕は、鼻で笑ってやった。


「違うだろ? 僕はちゃんと働いている。これからも働いていく。仲間もちゃんといるし、今日もこうやって助けに来てくれた。アンタは僕のことを社会不適合者なんて言っていたが、ちゃんと適合は出来ているじゃないか。その一方で、アンタはどうだ? 恐喝の件でアンタは会社を懲戒解雇となり、無職となるだろう。学生時代、ろくでもない連中とつるんでいたから、今のアンタには仲間がいない。友達がいない。助けてくれる人がいない。此処での振る舞いは周辺住民から退去要請が出るレベルでクレームを出され、忌み嫌われている。アンタこそが社会不適合者じゃないか」

「…………」


 糞ビッチは反論の術を持たず、何も言えなかった。逮捕・立件されれば解雇は間違いないし、この状況下で僕が示談を受ける訳がないことも分かっていた。完全に身の破滅である。

 糞ビッチは周囲を見渡したが、そんな彼女を庇う者はいない。この騒ぎで周辺住民が様子見に来ているが、彼女を助ける訳がない。それどころか、警察に拘束されている姿を見て冷たく嘲笑うだけだ。明らかに忌み嫌う態度だった。

 そんな中、糞ビッチは中谷さんの姿を見て少し安心した表情を見せたが、中谷さんはそんな糞ビッチを見て鼻で笑った。そして、言った。


「あ、私の顔を覚えていたんだ。意外ねぇ。でも、私にそう思わせてしまう程にアンタとの付き合いはなかったでしょ? 友情を育むことなんか一度もなかったでしょ? アンタと友達だったことは一度もない。これからもない。馬鹿なアンタだから、ハッキリと言ってあげる。サークルの元メンバー全員、アンタとは完全に絶縁よ」

「…………」


 糞ビッチの表情は絶望に染まった。両親も含めて、助けてくれる人は誰もいない。それを心の底から実感しているようだった。

 そんな糞ビッチに僕は言った。


「不倫発覚時、この結婚を投げ出せば二度と誰もアンタを信用なんてしなくなる。此処で別れる選択肢を取ったならば、アンタは死ぬまで独身で、死ぬまで孤独なままに決まっている。アンタは僕にそう言ったが、アンタこそがそうなりそうだな。メッキが剥がれて、人生お終い。ご愁傷様。だが、それはアンタが選んだことだ」

「それはアンタが私を嵌めようと」

「いや、全部アンタの自業自得だろ? ご両親にアイツと別れるように言われ、僕とのお見合いを勧められ、アンタは僕と向き合うのではなくて、ただ利用することを選んだんじゃないか。それから今日までずっと、僕を嵌めていたんじゃないか。だから今日こうなるのも、これからどうにもならなくても、全部アンタの自業自得だろ?」

「…………」


 糞ビッチは再び沈黙した。結婚してから今日までずっと、僕のことを夫として扱わなかったどころか、敵対行動ばかりしていた。

 そんな自分を再認識し、改めて眼の前にいる僕がただの敵であると知ったのだろう。そうしたのは自分だと知ったのだろう。

 そんな糞ビッチに、僕は最後の挨拶をした。


「じゃあ、岸本杏里さん。さようなら。もう裁判以外で会うこともないでしょう。貴女のことはもう、誰も信用することはないでしょうけれど、孤独に生きて孤独に死ぬがいい。だが全て、僕の知ったことではない」

「…………」


 糞ビッチからの言葉はない。謝罪は勿論、反論も逆ギレもない。そして僕ももう、何も期待していない。

 僕がそうやって糞ビッチから離れると、糞ビッチを拘束していたお巡りさんが僕に目を向けた。もういいのか、と訊きたいのだろう。


「すみません、お待たせしてしまって。もう、いいです。連れて行って下さい」


 僕はお巡りさんに向かって頭を下げた。


「「宜しくお願いします」」


 岸本部長夫妻もまた、声を合わせてそう言って、深く深く頭を下げた。

 畏まりました。お巡りさんはそう頷くと、糞ビッチをキビキビとパトカーの中へと連れて行った。糞ビッチは抵抗しなかった。

 パトカーは奴等を連れて、静かに僕のマンションから離れていった。その遠ざかるテールライトを見送りながら、僕はこれでこの、渡辺政樹の最低最悪な結婚生活も終わりなのだと思っていた。

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