F17:退職

 糞ビッチの夢を見た。夢を見てしまった。アイツが逮捕されて僕の前から去ったことで、僕の最低最悪な結婚生活は終わりを迎えた。それで少し、気が抜けてしまったのかもしれない。

 夢で見たのは、お見合いの日で初めてアイツと会った日のことだった。僕は岸本部長指定の高級料亭に、一番良いスーツで赴いた。いつもは1000円程度の床屋なのだが、昨日は初めて美容院にも行って、今日もバッチリ髪のセットまでした。着せられてる感満載だろうが、真摯にこのお見合いをしようとしている、そんな姿勢は見せられるだろうと思っていた。

 ただ。


「ホントに此処か?」


 スマホで岸本部長から送られてきたメールと料亭のサイト、マップアプリを改めて確認しながら、再度料亭の建物を見渡した。

 こんな立派な建物にある場所なのか? 間違いじゃないだろうか? 僕のような小市民に、こんな高級な場所は不相応だ。寧ろ、間違いと言ってほしい。

 そう思いながら暖簾をくぐって店に入ったのだが、塩を撒いて追い返されることもなく、名前を告げると店の人はあっさりと、しかしながら丁重に僕のことを案内し始めた。

 ウィーン、ガシャ。ウィーン、ガシャ。緊張した僕は、油の切れたロボットのような動きで、店員様が案内されるままついていった。その間、上京したばかりの田舎者のように店の様子をキョロキョロと見ておくのも忘れない。このような場所、次に来る機会などある訳ないからだ。

 その店の奥の部屋に僕は案内され、その部屋の前で岸本部長に会った。やはり間違いではなかったらしい。


「やあ、渡辺君。よく来てくれたね」

「ご招待、ありがとうございます。岸本部長、本日は宜しくお願いします」


 いつも通りな岸本部長に対して、僕は姿勢を正した上でキッチリとお辞儀をした。

普段、会社内でこんなことはしない。だが、今日はお見合いの席である。キッチリした所を見せないといけないって考えたのだ。

 お邪魔します。お辞儀をしながら部屋に入り、その部屋にいる女性二人にもお辞儀をした。その頃から何かマウントを取られているような気はしていた。僕の方には付き添いは誰もいないのに、彼女の方はご両親が勢揃いだったからだ。だが、僕の両親は既に亡くなってしまっているのだから仕方ない。何処でも同じだ。

 そう思いながら僕は彼女の真正面の、指定された席に立った。そして、宜しくお願いしますと再びお辞儀をしてから、腰掛けた。その時にも思っていた。これはまるで、就職の面接のようだと。

 もっとも、これが婚活というものだろう。超絶イケメンや超絶金持ちはともかく、僕のような男としてレベルの低い者はこんな面接をくぐらないと結婚へは辿り着けない。とてつもなく仕事の出来る人は何もしなくても仕事からやって来るが、そうでない人は自ら就職活動しないといけない。それと同じようなものだ。だから、これは当たり前。その時はそう思っていた。


「渡辺政樹さん、私より二つ年下か。宜しくお願いしますね。これから、末永い付き合いになるかもしれないのだから」


 アイツが余裕のありそうな笑顔でそう言ったのもまた、それが当たり前のことなのだと思っていた。嗚呼、後々になって分かった。奴はこの時にはもう、僕相手ならばしっかりとマウント取って、やりたいようにやれるのではないかと思っていたのだろう。

 僕はずっと間違い続けていた。もし人生をやり直せるならば、同じ轍は絶対に踏まないように注意に注意を重ねるに決まっている。だが、言うまでもなく人生にやり直しはない。誤ったならば、その経験を糧にして前に進むしかない。








「クソが」

 僕は反吐が出る気持ちで目を覚ました。糞ビッチの顔なんか、もう二度と見たくない。夢にも出ないでほしい。そう思っていたのに、ガッツリと夢で見てしまったからだ。朝から気分が悪かった。

 何故、そんな夢を見てしまったのか。カレンダーを見て、僕はその理由をすぐに思い出した。今日はそう、岸本部長が退職する日だからだ。

 糞ビッチが逮捕されてから1ヶ月と少しが経っていた。糞ビッチはとっくに成人していたので、アレが逮捕されるくらいで岸本部長が解雇されるようなことはなかった。だがしかし、岸本部長はすぐさま退職の意向を固め、早期退職の道を選んだ。1ヶ月はそれを成し遂げる為の引継ぎ期間だ。

 今日は最後の日。僕はその日を、いつも通りに過ごした。いつもと同じように朝食を用意して、いつもと同じように家を出て、いつもと同じ時間の電車で出勤した。


「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」


 皆で挨拶をしながら、いつもと同じように仕事を始める。その流れなのだが、その日だけは朝会の時に岸本部長の挨拶が入った。

 朝会の司会から紹介されると、岸本部長は職場を見渡してから話し始めた。


「みんな、おはよう。さっき紹介してもらったように、私は今日でもって退職する。大学を出てからずっとこの会社に勤めていたから、それはおよそ35年にもなる。その中、大きな成功をしたこともあれば、大きな失敗をしてしまったこともあった。そのどれもが私にとっては宝物であり、誇りでもある。この最後の時を君達と過ごせたことを、私はとても嬉しく思う。有難う。有難う。君達の成功を、これからもずっと祈っている」


 岸本部長は部長として、当然ながら糞ビッチのことも僕のことも一切触れない挨拶をした。どうして早期退職の選択をしたのか言わなかったのも、そうしない為だろう。それが僕に対する岸本部長の気遣いなのだと、さすがに僕は分かっていた。

 仕事自体はいつも通りに進んで、いつもより少し早めに終わりとなった。部署内引っ越しが行われる為だ。岸本部長の席がなくなり、課長が昇進となった。仙波先輩も役職が付いて、僕も任される業務が増えた。だが、それでも僕は少し不安に思った。


「これで、いいのかな?」

「それでいいんだよ。前に進むしかないんだから」


 いつの間にか隣にいた岸本部長は、さらっと僕にそう言った。そして、老兵は去るのみだとも。僕はその言葉を否定したかった。だが、それは出来なかった。それはただの感傷だからだ。

 僕が糞ビッチと別れる決心をしたその時、こうなるのは必然だった。それでも、今まで世話になったことへの恩を感じているならば、去っても不安なんかないと残る僕がそう思わせなければいけない。

 家族には結局なれなかったけれど、部下であるのには変わりないのだから。


「そうですね。まあ、後は我々に任せておいて下さいよ」

「ああ、そうする」


 岸本部長は少し寂しそうな、だが満足そうな笑顔を浮かべた。家族になろうって笑顔は糞ビッチのせいで叶わなかったが、せめてこの笑顔だけは裏切らないようにしよう。僕はそう思った。

 僕の中でも糞ビッチは糞ビッチ、岸本部長は岸本部長と思えているのか、そう思えるくらいに岸本部長へのマイナス感情は僕の中にはなかった。結婚生活の失敗よりも、職場で世話になった想いの方が強かったからだ。それはきっと、期間が長かったからであり、此処が職場だからだろう。


「あ、もう時間か」


 誰かがそう呟くとほぼ同時に、定時を知らせるメロディーが流れた。岸本部長最後の日も、そうやって何事もないままあっさりと終わった。言うまでもなく残業など何もない岸本部長はあっさりと帰ることとなり、僕達他の面子もなるべく早く帰ることにした。

 その少し前、岸本部長は僕を誘った。


「政樹君、仕事が終わったら今夜、仙波君等と一緒に私の家に来てくれんか? これでもう、最後なのだから」

「あ、はい。伺います」


 僕は迷わず頷いた。本当にこれが最後なのだろう、もう岸本部長と会うことは二度とないのだろうと思ったからだ。

 糞ビッチとの離婚協議はあっさりと終わっていた。100万円を超える慰謝料が岸本家、和田家から僕と茜さんへそれぞれにあっさりと支払われたからだ。勿論、糞ビッチにも糞野郎にもそんな現金の持ち合わせはない。だから、糞ビッチが支払うべき慰謝料は岸本部長の退職金から、糞野郎が支払うべき慰謝料は奴の両親が残していた遺産からの支払いとなった。

 岸本部長は支払った金額分、娘に対して一応貸しとしておくらしい。ただ、糞ビッチは一人娘である。遺産相続を考慮すると、代理での支払いと大して変わりはしないとも言っていた。これでアレと関わらずに済むという点では、その措置は非常に良いように思えた。糞野郎の遺産徴収も同様。

 何はともあれ、もう最後なのだ。








「乾杯!」

 岸本部長宅で、僕達はグラスをぶつけ合った。岸本部長最後の出勤日の夜、僕と仙波先輩と古田さんの3人で岸本部長宅にお邪魔していた。『最低最悪を討つ会』の3人だ。職場での送別会は先週末に終えていた。今日は家族で、という場に僕達はお邪魔していた。

 皆がグラスに入ったビールを飲む。酒がダメな僕も、グラスに入った烏龍茶を飲む。奇しくも今日は金曜日、明日は休みなのでどれだけ遅くなっても大丈夫という訳だ。

 場に並べられた食事は、会社帰りにスーパーで揃えたものだ。この集まり自体が急な話だったからだ。居酒屋で予約しておくにも、家に用意して頂くにも、どちらにしても時間が足りなかった。

 ただ、並べられた品を見ると、各々の個性が分かる。サラダのような身体に良さそうなものがあるのは、古田さんのおかげだろう。


「美味しく、それでいて少しでも身体に良いものをって思いまして」


 古田さんはそう言って微笑んだ。

 その一方で、明らかにツマミっぽいものが並べられたのは、仙波先輩のせいだろう。


「美味く、それでいて少しでも酒が進むものをって思ってな!」


 仙波先輩はそう言って笑った。

 どんなチョイスでもいいけど、この場でアタリメを選ぶのってどうよ? などと思わなくもなかった。言わないけど。

 アタリメは縁起物で『寿留女』と書かれたりするが、結納の時に相手方へ収めるものなので、やはりこの場に相応しくない。言わないけど。

 ただ、仙波先輩。余ったらちゃんと持って帰って下さいね。

 そんなことを思いながら、宴は進んでいった。僕達の間でされたのは、主に職場での思い出話だった。この場にいたのは『最低最悪を討つ会』の面々だったけれど、糞ビッチの話はずっとしないでいた。

 そうしていて、気が付いたら1時間くらいが過ぎていた。それで話が一息ついた頃合いで、岸本部長の奥さんが僕に向けて小鉢を一つ出した。


「政樹さん、これを食べてみらえないかしら?」

「これは?」


 肉じゃがだった。岸本部長の奥さんも言った。


「肉じゃがよ。今日のことは急な話だったけれど、このくらいのことは用意しておこうと思ったの」

「政樹君、これは我が家の献立の中で私が一番好んでいるものだ」

「ええ、だからずっとずっと食べてもらいたかったのよ」


 二人は口々にそう言った。

 新婚旅行の話を聞く名目で僕達を呼んだ際も、こうやって共に食卓を囲んで岸本家の味を知ってもらいたかったのだと。まあ、全ては糞ビッチが悪いのだが。

 僕は非常に大切なものを扱う気持ちで小鉢を取り、箸でそっと自分の口へ肉じゃがを運んだ。キリッと利いた醤油味の中で、豚肉・じゃがいも・玉葱・ニンジンが優しく崩れ、溶けていった。マイルドな味わい、嗚呼これは。


「美味しい。ええ、とっても美味しいです」


 僕は正直な気持ちでそう言った。

 僕の母が作った肉じゃがとは違う。しかし、同じような包み込む優しさが、この肉じゃがには込められていた。これは非常に良いものだ。大切にしないといけないものだ。でも、僕達はすれ違い、そしてもう会うことはない。


「あ」


 気が付くと、はらりはらりと涙が零れていた。視界が滲むのでそっと指で涙を拭うが、中々視界は改善される気配はない。

 僕は少し恥ずかしい気持ちでいた。


「何でだろう? 何でだろう?」

「ハイ、渡辺先輩。これで」

「ああ、ありがとう」


 僕は古田さんからハンカチを受け取り、改めて涙を拭った。それから少し瞑想のイメージで深呼吸をして、心を落ち着かせたら涙は止まった。

 そんな僕を、岸本部長は今までにないくらい優しい目で見ていた。その上で岸本部長は言った。


「政樹君、済まないな。そして、ありがとう」

「?」


 済まないは糞ビッチのことだろう。アイツが巫山戯たマネをしなければ、僕達はこうしてすれ違うことはなかったのだから。

 それは分かる。だが、ありがとうは分からなかった。僕は首を傾げたが、岸本部長は続けて言った。


「そこで涙が零れるのは政樹君、君が優しい人間だからだ。他人を大切に出来る人だからだ。仕事をしていた中で私はそれを分かっていたからこそ、公私混同でありながら君を見合いへと誘った。そんな優しさを、こんな結末を迎えてしまった今でも見せてくれる。だから、ありがとうなんだよ」

「あの子には通じなかったけれど、私もこの人も政樹さんのことを心から息子にしたいと思っていたわ。変なことに巻き込んでしまい、ごめんなさい。そして、今日までありがとう」


 岸本部長の奥さんもそう言ってくれた。

 これはとても優しい光景だった。仙波先輩も古田さんも、その様子を優しい眼差しで見守っていた。こうなれていたのだ、あの糞ビッチがいないだけで。あの糞ビッチが乱さない、それだけで。








「だが、どうしてなんだろうなぁ。私は何処までも何処までも父親なんだなぁ。あの子が全然ダメで、救いようのないクズなのだとしても、見放してなかったことにするという選択肢はないんだ」

 夕食後、岸本部長はアルバムを引っ張り出してきた。岸本部長が若い頃から今日に至るまで、アルバムの中には奥さんと糞ビッチの3人が溢れていた。そこに映る光景はどれも幸せそうで、糞ビッチもまた普通の、良い子のようだった。あの時岸本部長が言い張ったように。

 僕はそれを見て何も言えなかった。これを見れば、悪い人間のように見えないのも分かる。だが、糞ビッチが僕にやったことは客観的事実なのだ。

 岸本部長は自虐的に嗤う。


「あの子は良い子だった。良い子であるように見せてくれていた。愚かな私はそれが事実なのだと、ずっと今も続く真実なのだと妄信していた訳だ。そして、それが嘘なのだと分かっても、もう壊れてしまったと分かっていても、いつかきっとこんな日が戻ってくれるのではないかと、頭の何処か片隅で思ってしまっているんだ」


 岸本部長は仙波先輩に向かって言った。


「仙波君、君も娘を持つ父親だ。愚かな私のことを覚えておくといい。親は子のことを何でも分かっていると思いがちだが、実のところ良く分かってはいないのだと。自分の娘はこうだという決め付けを持ってしまうと、さらに見る目を曇らせてしまうと」

「はい、気を付けます」


 まあ、まーちゃんは良い子で、天使ですけどねぇ。

 などと決めつけてしまうといけない訳か。決めつけていたから岸本部長と僕達の間で糞ビッチの評価が大きく乖離し、岸本部長の現実を見る目が損なわれていた。それは岸本部長だけに起こることではなく、仙波先輩や未来の僕にだって起こりうることなのだろう。

 岸本部長は僕と古田さんにも言った。


「君達もいずれ親になることもあるだろう。その時は他人の声をよく聞いて、客観的な視点を常に持つようにしておくと良い。私のような愚かな親にならないようにな」

「「はい」」


 僕と古田さんはそう言って、頭を下げた。

 それから少し軽い話をして、僕達は岸本家から失礼した。これが最後なのだから何か特別なことをと思わなくもなかったが、いつもの帰り道と同じように終わった。古田さんを家の近くまで送り、一人で家に帰った。こんな日々がまだ続きそうに思えたが。

 僕はこの日を最後に、岸本部長達と会うことはもうなかった。

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11/23 「岸谷 → 岸本」

誤字修正しました。ご指摘ありがとうございます<(_ _)>

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