F12:周辺

「そういうことなら、俺も仲間に入れろよ」

「はあ」


 出社すると、開口一番挨拶よりも前に仙波先輩がそのようなことを言ってきた。古田さんからの誘いを受けたらしく、『最低最悪を討つ会』に加わるらしい。その流れで自然と奈緒美お姉さんも加わった。さらに僕の申し入れで、茜さんも加わった。

 独りだと思っていたが、こうしてみると存外仲間に恵まれていたのだと僕は実感していた。

 そこからは淡々と進んでいた。中谷さんの紹介で、元同じサークルで弁護士事務所に勤務中の佐伯さんを紹介してもらい、そこから告訴準備を進めてもらった。監視カメラによる映像や音声の記録を提出し、これだけあれば十分過ぎる程にあるとお墨付きをもらったので、監視カメラでの録画はひとまず終了として、機械は会社の引き出しにしまっておくことにした。

 その一方で、会社を離れる動きは全く進まなかった。と言うか、現状中止となっていた。仙波先輩、古田さんを中心に止められたからだ。離婚をしたからと言って職場での扱いが悪くなることはないし、あってはならない。ましてや、本人側に非のない離婚。責められる謂われは何もないのだからと。それでもし、問答無用で責めてくるようなことがあったならば、そんな腐った企業であるならば、それが分かり次第離れればいい。そう言われたら、止まらざるをえなかった。二人と離れるのは寂しく思うし、新卒よりずっと働いてきた企業だ。愛着はあった。

 そんな淡々と進んでいく日々の中を、僕はあちらこちらの場所で過ごすようになった。そのようにしていた。あの家にずっといるとストレスで死ぬので、週に何日かはインターネットカフェやカプセルホテルに宿泊し、たまに仙波家にお邪魔してまーちゃんと遊んだりして過ごした。さらに、金曜と土曜は絶対に家へは近寄らなかった。録画の必要もなくなったので、その必要性もなくなった。心の平穏と、身体の安全を守りつつ、あの二人を追い詰めるのが肝要。そう自分を言い聞かせて。

 出来ることならば、全てインターネットカフェやカプセルホテルといった外泊にしておきたかった。しかし、資金的にそれは非常に厳しく、また両者共に狭い部屋なので、ある程度広い場所で過ごしたいという気持ちもあり、引き続き週に何日か自宅で過ごすことにした。

 週に何日か泊まっていいですよと古田さんが、金土なら泊まっていいですよと茜さんが言ってくれたが、この闘争でツッコまれそうな部分は増やしたくないので、丁重に断らせて頂いた。部屋を引き払えばいい。そう考えもしたが、せっかく踊ってくれているのだ。愚者達には引き続き踊って頂こう、ということでまだ引き払わないことにした。尚、それは主に中谷さんの意見だった、という閑話休題もあり。

 何処に泊まるかなど、僕の動きについては『最低最悪を討つ会』でお知らせしていた。今日は不本意ながら自宅泊としていたのだが。


「あら、渡辺政樹さん。こんにちは」

「こんにちは」


 自宅前で、僕はお隣さんに会った。挨拶をしてきたのは奥さんで、前に話をした人だ。そして、彼女の後ろには旦那さんらしき人もいた。

 僕は会釈をしながら挨拶をして、これで終わりだろうと思っていたのだが、奥さんは続けて言った。


「今日は帰られる日でしたのね。まあ、帰りたくない気持ちは分かりますが」

「はぁ」

「ああ、そうそう。では、今日は私達の部屋に泊まって下さいな。話したいこともあるしね、ゆっくりと」

「はぁ」


 帰りたくない気持ちは分かる。そんな見通しをされて、否という答えを出すことは、僕には出来なかった。

 リビングに通された僕は、お隣さん夫婦の向かいのソファーを勧められ、腰掛けた。紅茶を出されたのでお礼を言うと、続けて夕食はとったのかとも訊かれたので、とったと回答した。仕事帰りに牛丼を。


「それがお夕飯なんて如何なものかしら? と言いたいけれど、とりあえずいいわ。早速本題と行きましょう。前、このマンションの防音はあまり優れていないって話をしたことがあると思うけれど、覚えているかしら?」

「はい。聞かれては恥ずかしいようなものも通ってしまいかねないと」

「そうね。エッチの声も通ってしまうと話したわね」


 おい、わざわざ遠回しな言い方をした僕の気遣いを返せ。

 と、思っても言い返すことは出来ない。要はあの糞野郎共が煩くてかなわないということなのだろう。迷惑だと訴えたいのだろうから。

 すみません。そう謝罪しようかと思った時だった。奥さんは彼女自身の唇に人差し指をあて、しーっというポーズをした。


「ちょっと静かにして。耳を澄ましてみて。今も聞こえるわよ?」


 しーん。僕達三人が黙って耳を澄ますと、遠くからのノイズが来るのが分かった。

 ドンドンドンドン。ちょっと、いないの? 金出しなさいよ、金ぇ。キモオタが金なんか持ってたってしょうがないでしょ? いい加減金寄越せって言ってんのよ! ドンドンドンドン……

 いつもの糞ビッチで、想像以上に筒抜けであった。恥知らずめと思いながらも、意外と根性あるなとも思った。暴行を受けた時に問答無用で財布から金を抜き取られた時以外、金を取られたことは一度もないのに、ああやって愚行を繰り返しているからだ。きっと、僕が他所に止まっている時もそうやっているのだろう。あの糞ビッチ、そんなに金がないのだろうか?


「最初はね、夜の声が何度か聞こえた程度だったので、あらあら新婚さんだから仲睦まじいのねぇ、ニヤニヤと思う程度だったの。でも、ある晩に急に音楽が大音量で流れて、それが突然止まって、罵声や暴行のような音が聞こえたと思ったら、貴方は怪我をした。ああ、これは違うなって思ったけれど、貴方は話してはくれなかった」

「すみません」

「まあ、仕方ないわ。私達はただ隣同士なだけで、たまに挨拶をする程度ってだけの間柄。込み入った話が出来ないというのも分かりはするわ」


 本来ならば、夫婦間のことに関して隣家がどうこう言うことはないし、そうしてはならないと思っている。奥さんはそう前置いた上で言った。


「ただ、貴女の奥様は酷過ぎるのよ。奥様って様を付けるのにも嫌悪感が出る程にね」


 確かにアレに対して様を付けて呼びたくない。それは僕も同じだ。杏里様なんて言ったら死にたくなるだろう。もっとも、糞ビッチ様ならまだいいかもしれない。嫌味っぽさ満載で。

 そんな閑話休題は置いておいて、僕はまた謝罪する。


「すみません」

「今までも言っただろうけど、貴方が謝ることではないわ。夫婦とは言え、あくまでも別個人。書類がなければ完全に赤の他人ですもの。咎まで一蓮托生というのはおかしな話だわ。ねぇ、アナタ」


 奥さんは隣の旦那さんにも話を振って、旦那さんはコクリと無言のまま頷いた。そう言えば、一言も喋ってないな。

 チラッとそう思ったが、奥さんは話を再開する。


「話を戻すけど、基本的に各家庭について踏み込んだりはしない。でも、明らかにDVを含め犯罪らしきものが見受けられる場合、周囲に迷惑を撒き散らしている場合は別よ。貴方のお家の上下左右、そして斜めの四方八方の家で大家に訴えたわ。迷惑ですって」


 それは突然の青天の霹靂、のように最初は感じた。しかし、じわりとこれは当たり前のことのようにも思えてきた。

 第一に、僕は分かっていたではないか。そして糞ビッチ共に対して、この声は隣に聞こえるぞって心の中で嘲笑っていたではないか。それを僕は記録するだけで、止めようとする努力はしなかった。

 それを思えば、これは当然か。


「突然のことって思うかしら?」

「いいえ。今までのご迷惑を考えれば当然のことかと」

「そう。ただ、残念なことに私達8軒で大家さんに貴方の奥様の退去申請を提出済みなのよ。これは、私達の総意であるわ。彼女は酷過ぎた。一人ではさっきの騒音程度だけれど、不倫相手らしきガラの悪い男と一緒になるともう、最悪。モラルの欠片もなくなってしまうようね」


 奥さんはそう言って、糞ビッチ共の行動を挙げていった。

 酔っ払い、大騒ぎしながらマンションの中をフラフラ歩く。五月蝿くて迷惑ですよ、と丁重に注意した年配女性を恫喝。通路には唾を吐き、嘔吐しても知らん顔。朝には楽しそうに過ごす小さい子をうるせぇと怒鳴りつける。その他諸々あり、皆で文句を言ったならば、俺の後ろには暴力団がいる、占拠してやるぞと言う始末。

 つらつらつらつらと、奥さんは二人の蛮行を挙げていった。どれもが僕の知らないものだったが、どれもが事実なのだろう。

 暴力団か。それは厄介だな。そう思いながらも、ちょっと待てよとも思い、留まってみた。


「あ、ちょっと待ってもらっていいですか? 軽く確認してみますので」

「いいわよ」


 奥さんの了承を取って、僕は茜さんにLINEしてみた。

 今、ちょっといいですか?

 いいですよ。

 旦那さんって暴力団と繋がりあったりします?

 ないですね。ああ、すみません。興信所が調べたものの中に、そんな言動を渡辺さんの周辺住民にしたってありましたね。言うの忘れてました。すみません。

 じゃあ、繋がりはないんですね?

 はい。念を入れて調査もして頂きました。その結果、その手の人から公に出来ないエッチなビデオを1回買ったことがあるだけというものでした。すみません。言いづらかったんです。

 言いづらかったのは分かります。こちらこそ無作法にすみません。そして、ありがとうございます。

 僕は茜さんにお礼のLINEを送り、LINEを終わらせた。そして、その結果を奥さんに伝えた。暴力団と繋がりがあるのは嘘、ハッタリだと。


「ああ、そうなの。何か想像以上に残念な人達ね。拍子抜けよ」

「ですね」


 虎の威を借る狐ならぬ、暴力団の威を借るクズ。どうしようもないDQN。どうしてそんなことをするのかと疑問に思ったり、そうする奴等をいっそ哀れに思う程に。

だからと言って許されるものではないが。


「まあ、いいわ。今度彼等が酷いことしたならば、近隣住民で囲んでやりましょう。田舎の村社会のように」

「ええ、お願いします」

「で、貴方はこれからどうするつもりかしら? 私達としては、あの二人がいないのならば貴方には継続して住んでもらっても全然構わないのだけど。これも近隣住民含めた私達の総意よ。ね、アナタ」


 奥さんは隣に座っている旦那さんに話を振って、旦那さんは黙って頷く。って、ホントに何も喋らないな、この旦那さん。

 まあ、それは置いておいて。僕は少し考えてから答えた。


「この一件は後一ヶ月、遅くとも二ヶ月以内にケリをつけるつもりです。それが終わり次第、部屋は引き払います。此処は嫌な思い出ばかりありますので。全てアレが悪いのですけど」

「そう、進んではいるの?」

「ええ。友人紹介の弁護士とも話をし始めています」

「それならば良かった。ハッピーエンドを迎えたならば、引っ越してしまった方が心機一転になるだろうしね。どうせ此処は賃貸マンションだし。じゃ、そんなところで、重たい話は以上!」


 以上! を殊更大きな声で言って、奥さんは話を終わらせた。そして、その直後に出て来たのは酒である。

 明日も仕事ありますから。そう言って極限まで飲まないように注意をしていたが、ふと気が付くと翌朝の早朝になっていた。何かニヤニヤしている奥さんと、黙ったままの旦那さんに挨拶して自宅に戻り、シャワーを浴び、スーツを着替え、軽く朝食を取ってから会社へ向かい、いつもの日常へと戻った。その通勤電車中にふと気が付いた。

 結局あの旦那さん、最後まで喋ることがなかったと。まあ、悪意はなさそうだったので別にいいけれど。

 会社へ行けば仙波先輩や古田さんがいる。中谷さんやその友達の佐伯さん、佐伯さんの勤め先の弁護士の先生、そして典型的な敵の敵である茜さんと翔真君。仲間に囲まれ、それを感じられる日々は結婚前の日常よりもずっと良いもののようにさえ思えていた。

 僕はいっそ浮かれていたのかもしれない。しかし、隣家との話以降そうやって数日間過ごしていた僕に、水を差す報せが入った。








 糞ビッチ、妊娠。

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