F11:訪問者

「改めましてこんばんは、和田茜です」

「和田翔真、です」

「渡辺政樹です」


 改めて僕は、自宅のリビングで糞野郎の妻子を迎えた。何も話を聞かずに追い返して良かったような気もしたが、何となく話を聞いた方が良いような気がしたからだ。

 何の話をしに来たのだろうか。考えながら僕は、二人の様子を見た。妻の方は非常に気弱そうで、とても怒鳴り込みに来たようには見えない。そんなパワーがあるようには見えない。それがあれば、糞野郎との関係性も切るなりなんなりどうにかなっていただろう。まあ、僕も人のことを言えないが。

 向かい合っても一向に話を始めようとしないので、まずは僕の方から分かり切った話を振る。


「どうして、此処が分かりましたか?」

「興信所の方に、調べてもらいました。夫である和田忍が渡辺政樹さんの奥様である杏里さんと不倫をしていること。それは渡辺政樹さんと杏里さんが結婚する前から続いていること。そして、渡辺政樹さんと杏里さんの住んでらっしゃる家は此処であること。あれこれ伺いました」


 でしょうね。この人だけで此処まで調べられるパワーがあるようには見えなかったので、そんなところだろうと予想はしていた。監視カメラの存在を一向に気付かない、考えもしない奴等のことだ。探偵側も調査は楽々だったろう。

 それは予想通り。では、と僕は訊く。


「で、この僕に話があると仰っていましたが、どんな話をしに来たのですか? まさか、夫を返してくださいというような話を、この僕に向かってしに来たという訳ではないでしょう?」

「はい。渡辺政樹さんも被害者ですから、そのようなことを申せはしません。それを言ってしまいますと、私もまた同じことを言われるだけですから」


 そう、何故あの糞野郎を放置しているのかと。何故あの糞野郎と別れずにいるのかと。他人のことをどうこう言ったならば、全てが彼女へのブーメランとなる。

 それを分かった上のように、彼女は話を続ける。


「あの人が他所に女性を作り、不倫をしているのは前から分かっておりました。そのことを指摘し、改善要求をしたこともありましたが、返ってきたのは罵声と暴力でした。それでも離婚を選ばなかったのは、その方がこの子の為になるのではと考えたからだったのですが」

「あんな奴、いない方が良いよ。俺は母さんにそう言ったんです」


 ぶっきらぼうな挨拶以降、それまでずっと黙っていた息子さんはそう口を開いた。そして、続ける。


「だって、父親らしいことなんか何もしねぇもん。毎日帰りは遅く、週末はいない。日曜の夕方に香水の残り香を纏いながら帰ってくる。そして、家の中ではいつも不機嫌そうで、何かを言えば怒鳴り声と暴力で返してくる。クラスの友達の父親を見ると、ウチの父親がどれだけクズで、ゴミで、どうしようもない奴だって分かるんだ。要らないよ、あんな奴。いない方が良いよ!」


 他所の父親も表向きは良きイクメン像を見せているが、裏ではそうではないかもしれない。その可能性を考えられていない分、言っていることは浅慮で、子供らしくはあったのだが、アレが想像以上に糞野郎だったというのは十分に分かった。

 これまでの行動を思えば、そうだった。いつも週末になれば、あの糞ビッチと悍ましい交尾をして過ごしている。そんな輩が、他の曜日で自分の家庭をしっかりと守り、維持している訳が、しようとしている訳がなかったのだ。

 僕は彼女に訊く。


「息子さん、ああ言ってますけど?」

「ええ、その言葉で目が覚めました。私、この約10年ずっと専業主婦で、働いたことがないのです。ですから、夫と別れた後にどうすべきか、稼ぎのない私といるくらいならば父親と一緒にいる方が良いだろうとか、あれこれ考えていたのですけれど、私が変わらないといけないのだと」


 彼女の話は僕にとって他人事であったけれど、他人事ではなかった。僕もまた、同じだったからだ。親に言われるままに進学や就職をして、上司に言われるまま見合いや結婚をして、流れに身を任せるくらいで僕の主体性というものはなかった。別れるという判断もまた、彼女と同じように切羽詰まったから、そう選ばざるをえなかっただけの話だ。

 僕は変わらないといけない。彼女もそう。


「だから、私は此処にお邪魔してみたのです。同じ被害者同志ですもの。何かお互い力になれるのではないか。そう考えたのです」


 敵の敵は友達。こちらもまた、そのようになれそうだった。その期待も込めて、僕は誘う。


「こちらも離婚に向けて動こうとしています。連絡、取り合いませんか?」

「はい。喜んで」


 彼女は微笑んだ。自分と、大切な息子に希望の光が見えた。それを理解したような、喜びを含んだ穏やかな微笑みだった。








 それから僕はLINEの『最低最悪を討つ会』に新規メンバー候補を紹介した。そちら側でも「敵の敵」がいるというのは皆にとっても想定外で、古田さんも中谷さんも非常に乗り気だった。そして、僕達『最低最悪を討つ会』は仲間を一組手に入れた。

 その後、僕はいつも通り監視カメラ類の設置を行った。彼女等の前でわざわざ行ったのは、これによって不倫の証拠となるものがしっかりと確保出来ているのだと示す為だ。その説明も行い、それはいいですねと言いながらバックアップDVDを受け取った。


「あまり長くお邪魔しているのも悪いですし、そろそろ私達は帰りますね」


 話をしてから一時間ちょっと経って、彼女はそう言って立ち上がり、息子さんにも帰宅を促そうとした。その時だった。

 外から馬鹿共のはしゃぐ声が聞こえた。周囲の迷惑を一切顧みないその大声は、何処の誰のものであるのか僕達にすぐ理解させた。

 糞ビッチは鍵を持っていることだし、奴等はすぐ此処へ入ってくるだろう。それをすぐさま察した彼女、茜さんは顔を青くし、息子さんは険しい表情を見せた。


「靴を持ってこちらへ!」


 僕は二人を急かした。玄関先で靴を持たせ、それを持たせた上で僕の自室へと招いた。すぐさまドアに鍵をかけ、ドアストッパーも置いて侵入を防ぐ措置をする。

 茜さんはそれを見て軽く引いていた。


「すごく、厳重に閉めるの、ですね」

「その理由はすぐ分かります」


 彼女の問いに僕がそう言った直後、糞ビッチは糞野郎と共に帰宅した。想定よりかなり早い時間だった。茜さんの興信所調査でも想定外だろう。まだ青い顔色が、それを如実に現していた。彼女にとって夫とは恐怖の対象であり、息子さんにとっては母親を傷付ける憎悪の対象であった。

 僕達は息を殺しながら、その様子を探った。奴等はいつも通りに酔っ払い、いつも通りに恥知らずだった。


「ただいまぁっと。って、今日はキモオタはいるのかしら~?」

「杏里、お前一人だと金を素直に出そうとしないのだろう? 調子乗っているようだから、改めて教育してやるよ。血反吐の一つでも吐かせりゃ、クソバカなキモオタでもちょっとは学習するだろ」


 二人はそれからすぐに、僕の部屋の前に立って乱暴にそのドアを叩き始めた。いつもと同じように。


「キモオタが何いつまで引き籠もっているのかなぁ? そんなのがいつまでも続くと思っている訳ぇ? さっさとドアを開けて、私達に土下座して、全財産出しなさいよ。全部使い果たして遊んでやるからさぁ!」

「世間に何の必要とされていねぇクソザコが調子くれてんじゃねぇぞ? てめぇのようなクソザコは死ぬまで搾取されんのが運命なんだよ。おらっ、金出せ! 金出せ! 金出せぇええええっ!」


 ドンドンドンドン! ギャアギャアギャアギャア!

 糞野郎共はドアの外で喚き続けるが、鍵は頑丈で破られることはない。ドアそのものも頑丈で、破壊されることもない。だが、騒々しい雑音は延々と続く。茜さんはさらに顔を青くして呟く。


「これ、毎週なんですか?」

「毎週ですね」


 茜さんはドアの様子を見て、どうしてこんなにしつこく施錠をしているのかを知った。そして、その外でやっているのが自分の夫であると考え、心の中の恐怖をさらに増幅させてしまった。

 息子さん、翔真君は僕のタブレット経由で監視カメラの画像をリアルタイムで見ていた。蛮行をしているのが自分の父親なのだとハッキリ分かると、顔の険しさをこれ以上は出来ないという程にした。


「何なんだ、アレは? 何なんだ、アレは? あんなの、ヤクザよりも最低じゃないか」

「そうね。最低ね」


 茜さんは翔真君の肩を抱きながら、タブレットからその身を離させた。僕はそのタブレットを操作し、これ以降の映像を観られないようにした。いつも通りならば、これ以降の映像はR18だからだ。小学生にそんなものを見せる訳にはいかない。ましてや、自分の父親のものなどを。

 糞野郎共はそんな心配など目もくれず、自分達だけの世界に入っていつも通りの恥知らずな行為を始める。罵声と暴力の音が途切れると、くちゅくちゅと唾液が交わる音が聞こえ始め、それが何の音なのかを理解した茜さんは泣きそうな顔をした。


「そ、そんな」


 夫が不倫していると分かってはいても、頭の中の何処かしらでそれを否定したい気持ちもあったのだろう。だが、その気持ちは今コナゴナに打ち砕かれてしまった。

 奴等は隣りの部屋に入るとすぐさま服を脱ぎだしたのか、無音のマンション内で衣擦れの音を響かせた。それから獣の呻き声のようなものをあげつつ、また唾液が交わる音を響かせる。それからは悍ましい交尾だ。見聞きするようなものではない。

 とは言え、奴等が交尾に集中している時間がチャンスでもある。


「さあ、今の内に出ましょう」

「あ、はい」


 僕は茜さんを促し、この地獄から逃がすことにした。音を立てないように注意を払いながら帰り支度をさせ、音を立てないように注意を払いながら一緒に部屋から出る。部屋に鍵をかけた上で、僕は二人と一緒に家の外へと出た。








「アレ、いつも通りなんですか?」

「いつも通りですね」


 僕達は夜道を三人並んで歩いた。せっかく出たのだから、最寄りの駅までは送っていこうと考えた。三人並んで歩いていてもしばらく無言だった。誰もが何を言えば分からないような状態だったのだが、突如茜さんがポツリとそう訊ねてきたので、僕はサックリと肯定した。肯定したと言うか、率直に言って否定のしようがない。

 茜さんはちょっと立ち止まると、僕に向かって頭を下げた。


「申し訳ありません。私の夫が何度も何度もあんな恥知らずな真似をしてしまいまして」

「貴女が謝ることじゃないですよ。貴女は何も悪くないのですから」


 茜さんが謝らなければいけないのだとしたら、僕もまた茜さんと翔真君に謝らないといけない。あの糞ビッチを野放しにして申し訳ありませんと。大きなミスをしてお客様に謝罪したあの時と同じように。

 それから茜さんは歩きながらボソリボソリと心境を語った。不倫を知りながらも何処かしら夫を信じている自分がいたこと。夫が過ちを反省し、家族関係が改善され、幸福になる可能性がまだ残っているのではないか。そんなことを考えている部分が何処かにあったこと。


「全て、私の考えが甘かったのです。壊れてしまったガラス細工は元に戻らない。接着剤で修復しようとしても、それは何処か歪で、傷を抱えた紛い物。では、もう先に進むしかないですね。この子を想うならば尚更」

「俺も母さんの力になるよ。まだ子供だから何も出来ないかもしれないけど、俺なりの全力で!」

「有難う」


 茜さんは穏やかに微笑みながら、翔真君の頭を撫でた。翔真君も恥ずかしがったり、拒否したりせず母親のすることに任せている。

 アレの妻子とは思えない程に良い人であり、良い子であった。いや、アレを父親としてしまったからこそ、あのようにはならないと翔真君は頑張っているのかもしれない。そんな想像をした。

 最寄り駅までそうやって二人を送ると、僕はその足のままネットカフェへと行った。あんな家に帰りたくはないので、そのままお泊りコースだ。漫画を見て、ネットを見て、アニメを観て楽しもう。ああ、どれもこれも非常に楽しいものだ。だが、あれこれ楽しみながらもじわりじわりと感じてしまう。

 僕は何をしているのだろう。何故、あそこに固執していたのか。こんな状況下で、何故あの家にい続けるのか。あの場所にいる意味はないのではないかと。

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