F13:妊娠

「孫か。孫かぁ。めでたい。めでたいねぇ」


 岸本部長は気持ち悪いくらい満面の笑みを見せていた。業務中、そんな笑顔を見せたことは一度もなかった。僕は初めて、その笑顔を殴りたいと思った。一社会人として、殴れはしないけれど。

 そんな僕は一人、岸本家を訪れていた。向かいには気持ち悪いの、もとい岸本部長とその奥さんの二人がいる。糞ビッチから妊娠したことを言われた次の日、僕は会社帰りソッコーで訪問していた。

 これ以上変なことをされては、糞ビッチとのごたごたに巻き込まれたくはない。

 そう思っての訪問だった。そんな僕の考えを見通したのか、岸本部長の横でその奥さんは冷静な表情で僕に言った。


「政樹さん。子ができた、めでたい。そんな単純な話ではなさそうですね?」

「はい」


 それは前日の夜のことだった。








「…………」

 自宅に帰る日だった僕は、何の挨拶もないままに帰宅した。挨拶をしたい相手はいないので、それが習慣となっていた。もっとも、どうせ人なんかいないだろうけど。

 そう高を括っていたが、リビングには糞ビッチが一人でいた。僕を見ると立ち上がって、ゆっくりと僕の方へやって来た。


「帰ってきたのね。LINE送っても無視するし。何なの? 何なの?」

「どうせ遊ぶ金の無心だろ? 見たってしょうがないじゃないか。まあ、出しはしないけどさ」

「そんなんじゃ、ん? 似たようなもの? 何にしろ話を聞きなさい。私達は一応『夫婦』なのだから」


 チッ。舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、僕は首を縦に振った。

 それからスマホを出し。


「ちょっとメールを処理しておく」


 僕はそう言って、メールではなく録音アプリを立ち上げて、録音を開始した。

 念の為だ。離婚に向けて有用な音声が手に入れば儲けもの。不要なら削除すればいい。

 そう思いながら気軽に向かいへ腰掛け、話を促した僕に、糞ビッチは爆弾を投下した。



 妊娠した。



「は?」

 何ヲ言ッテイルンダ?

 信じられないとか、頭がおかしいんじゃないかとか、僕にそれを言うなんて果てしない恥知らずだとか、そんな言葉なんてその時は出て来なかった。ただ、思考がフリーズした。

 すぅぅぅぅ、はぁぁぁぁ。すぅぅぅぅ、はぁぁぁぁ。何度か深呼吸をして、思考を少しずつ再起動させた。

 そうした上で再確認。


「本当か? 勘違いとか、思い込みではなく」

「本当。そう言えば随分と生理が来てないなぁと思い、妊娠検査薬を使ってみたらビンゴ。さらに婦人科行って診てもらったら、おめでたですよと」

「はぁああああああああ?」


 その瞬間、糞ビッチを殴り飛ばす自分の姿が克明にイメージされた。それでも殴らなかった僕は、何処までも理性的らしい。

 奇声を上げながら床を転がり、行き先のない拳を何度か叩き付け、荒い呼吸をしながら目の前の糞ビッチ、ザ・ネーム・オブ非常識に問い掛けた。


「自分が、何をしたか、分かってんのか?」

「安全日だと思っていたけど、その予想が外れた。ただ、それだけのこと。でも、問題はないでしょう? 私達は一応『夫婦』なのだから」


 糞ビッチは意図的なのか、淡々とそう答えた。そうじゃない。そうじゃねぇぇぇぇっ!

 いつもと違い、僕の方が激昂している。頭の片隅でそう思いながらも、僕は止まらない。止められない。


「ああ、普通の夫婦だったら、問題ないだろうよ。めでたいめでたい言うんだろうよ。だけど、ウチは違うじゃねーか。アンタが拒否ったから、ウチにはそんな関係が、今までずっとずっと、ただの一度もなかったじゃないか。僕にカッコウの子を育てろとでも言うつもりかっ!」

「カッコウ? ああ、托卵か。ええ、そうね。その通りね」

「冗談じゃない。そんな馬鹿馬鹿しいこと、やれる訳ないだろうが。人を馬鹿にするにも程がある」

「そう。でも、アンタはそうせざるをえないでしょう? 私達は『夫婦』なのだから。此処で別れようものならば、アンタは妊娠したばかりの新妻を捨てたクズになるけど? そうなると、世間がどう見るかしらね?」

「あ? そんなことさせる訳」

「後、ウチの両親もとても喜んでいるのよねぇ。二人にとっては初孫だから」


 糞ビッチはスマホを片手にニヤニヤして見せた。

 こんな糞ビッチや糞野郎の子として生まれて来るなんて、赤ん坊はあまりにも哀れだ。ならば、おろしてしまった方が良いのではないか? チラッとそう考えた僕に、嫌らしい笑顔で糞ビッチは言った。


「もうね、私の両親には連絡済み」

「冗談じゃない。書類上だけの妻が他所の男と作った子供なんか、自分の子供なんてとても思える訳ないじゃないか。僕をそんなものに巻き込むんじゃない!」


 僕はそう言って、糞ビッチとの会話を一方的に終わらせ、自室へと戻った。糞ビッチとしてもそれ以上僕に話すことはないのか、それとも自身の描いた未来妄想に絶対の自信があるのか、それ以上僕に何かをしようとはしなかった。話をしようとはしなかった。

 自信? そのようなものは崩してやろう。僕は『最低最悪を討つ会』にLINEで情報共有した上で、その次の日部長宅へ一人で訪問した。それで今へと至る。








「父親は僕じゃないですから」

 子ができてもめでたくはない。その理由を僕は単刀直入に、正直に告げた。僕のその言葉に岸本部長は険しい顔をして苛立ちを隠そうともしなかったが、奥さんはその隣で表情を変えなかった。

 岸本部長は声を荒らげながら説教を始める。


「政樹君、君はまだそんなことを言っているのか! 父親になるというのはこれまでの自分ではいられなくなるということで、変わる覚悟は必要だ。私にも不安はあった。だが、天から授かったのだか」

「アナタ、ちょっと黙ってくれるかしら?」


 その説教は序盤で、隣の奥さんによって強制終了させられていた。岸本部長は不満そうだったが、真っ直ぐ射貫くような奥さんの目によってそれ以上続けることは出来なくなっていた。

 旦那さんを黙らせると、奥さんは僕を真っ直ぐに見て訊ねてきた。


「政樹さん、貴方がそう言うからには自分は父親ではないと100%の確信を持っているのでしょう。その理由はどういうものかしら?」

「ああ、シンプルな話です。僕と杏里さんの間では、出会ってから現在に至るまで一度も子供ができるような行為をしたことがないからです」


 性行為どころか、キスすらしたことがない。結婚式も神前式だったので、式の中に『くちづけ』はなかった。糞ビッチが神前式を望んだのでそういう形にしたのだが、後になって思えばそれは僕とキスをしたくなかったからなのだろう。

 岸本部長達は僕の言葉に驚きの表情を見せた。


「にわかには信じられないわね」

「そうだ。結婚式の後とか、新婚旅行とか色々あったではないか。政樹君が酔ってしまったとかで、覚えていないだけではないのか?」

「ああ、その二つならばよく覚えてますよ。結婚式と言うか二次会の後、僕達で予約取っておいたホテルの部屋に彼女は来ませんでした。朝になって、ホテルのチェックアウトの時間になっても。他所行っていたと彼女は言ってましたね」

「そんな馬鹿な」

「そして、新婚旅行。僕は行ってません。休みを頂きましたが、ずっと家にいました。彼女が他の人と行くから、僕には来るんじゃないと強要したからです」


 新婚旅行は登別温泉だった。国外でもなく、そんなに遠くもない場所。それも糞ビッチのチョイスだったが、やはり最初から僕を除外することを企んだ上でのものだったのだろう。

 変な所で糞ビッチは用意周到だった。


「職場にお土産持って行けなかったですよね? 登別温泉がどういう場所だったか、ロクに話も出来なかったですよね?」

「ああ。ああ」

「行ってないからです。行ったことないからです」

「…………」


 岸本部長は言葉を失っていた。僕と糞ビッチがそういう仲になったであろう箇所を探しているようで、少しうんうん唸っていたが、すぐに閃いて口にした。


「結婚前には凄く仲睦まじかったではないか。デートなんかは土曜の昼に出掛けていって、翌日曜の昼に帰るなんてことが頻繁にあったではないか」

「え? 結婚前のデートも土曜当日の夕方には必ず帰していましたよ? 結婚前の娘さん、ましてや部長の娘さん相手に、世間様が誤解するような真似をする訳ないじゃないですか」

「「「…………」」」


 三人の間に、また沈黙が流れる。僕とのデート終了後、糞ビッチが何をしていたのか想像がついてしまったからだ。つくづくあの糞ビッチは、僕のことを馬鹿にしていた。

 そう言っても尚、岸本部長は信じられない気持ちでいっぱいのようだった。奥さんも似たような気持ちなのか、長く溜め息をついていた。今度は奥さんが言う。


「政樹さん、貴方の言っていることに矛盾はないように見える。それは分かるの。でもね、それでも親の欲目なのかしらね、まだ信じられない、信じたくない気持ちでいっぱいなのよ。あの子は本当に、私達の前ではずっと良い子だったから」


 まさか、そのようなことが……

 そのように思いながらも、もし結婚前のあの姿をずっと見せられていたのだとすると、糞ビッチの悪意は親と言えども分からないのかもしれないと思った。事実、僕は結婚するまで分からなかったのだから、演じるのは慣れているのだろう。

 まあ、それはそれとして。


「では、昨日の彼女との会話を聞きますか?」

「「え?」」


 声を合わせた二人に、僕は続ける。


「昨日、彼女から話があるとか言ってきたんですよ。もう随分の間、会話らしい会話なんかしていなかったのに、そんなこと言ってきたので怪しいと思って、メールの処理をすると嘘言って録音しておいたんです。それです」


 僕はそう言って、昨日の晩の糞ビッチとの会話の音源を流した。僕は録音を前提としているので、今までそういうことを一切していなかったとハッキリ明言し、糞ビッチがそれを一切否定しなかったもの、他所の男との子供を僕に育てさせようとするものだ。

 二人はそれを聞きながら、驚いた顔をしたり険しい顔をしたりした。音源の再生が終わってからもその表情の変化を繰り返し、しばらく二人は何も喋らなかったのだが、岸本部長から再度。


「それは捏造じゃ」

「ないですね。前も言いましたけど」

「アナタ、そんな馬鹿なこと言ったの?」

「あ、ああ。杏里を陥れようとしているのではないかって思ってな」


 険しい顔をそのまま向ける奥さんに対し、岸本部長はしどろもどろに答えながら、項垂れた。

 そんな夫に対し、奥さんは追い打ちをかけた。


「捏造って気軽に言ったのかもしれないけれど、そう簡単に作れるものではないでしょう? そして仮にそれを簡単に出来てしまうとしても、問題とすべきなのは新婚の夫にそうやろうって思わせてしまうことじゃないかしら?」

「あ、ああ。言われてみれば、ああ、そうだな」

「政樹さん、この人が前にも捏造って言ったということは、他にも証拠となるものがあるのよね?」


 奥さんは顔を僕に向けて訊いてきた。僕は首を縦に一つ、軽く振ってから答えた。


「はい。図に乗ったのか、他に理由があるのかは分かりませんが、堂々と自室で不倫行為をするようになったので、監視カメラを設置してその様を撮ってあります」

「監視カメラ? そんなもの、一般人である君が手に入れられるのか?」

「通販で簡単に買えますよ。用途はお年寄りの介護とか、幼児の見守り用ですが」

「ああ、そうか。そういうものか」


 監視カメラと言ったので大仰なものを想像したのか岸本部長は驚いた顔をしたが、詳細を聞くと力が抜けたようにガックリとした。確かに大仰なものではない。通販で10000円もしなかったのだから。

 岸本部長はそれから長い溜め息をついたが、奥さんの方は休むことなく訊いてきた。


「政樹さん、その証拠品はどうしたのかしら?」

「データはタブレットで管理しているので、此処にあります」


 僕は出勤用の鞄を指差した。そこには例のタブレットが入っていた。普段は漫画なんかが電車内で見ることが出来る。


「ただ、バックアップはいくつか取ってあり、その内の一つは既に弁護士へ提出済みです」

「そうか」


 それでは、いよいよ捏造の可能性はなくなるのか。

 岸本部長は項垂れながらそうぶつぶつ独り言を漏らしていたが、ふと何かに気が付いて顔を上げ、僕の方へ顔を向けた。


「政樹君、そうか。それでか! 君が退職をしたいと言い出したのは」

「はい。人望溢れる部長の娘さんを嫁に頂いておきながら、その結婚生活をすぐに破綻させてしまう。そんな僕なんかに居場所はないと思いまして」

「ああ、君が悪くないのならば、わざわざ君が離れる必要はない。あれこれが終わって、もし杏里が全面的に悪いと証明されたならば、寧ろ会社を離れるべきなのは私の方だ」

「え、でも部長は」

「政樹君、君はまだ20代で未来ある身。私は50代後半で先のない、たかだか部長。どっちを残すべきかと言ったならば、勿論君の方だよ。早期退職の案内も出ているくらいだ。寧ろ丁度良い」


 岸本部長はそう言いながら何もない天井の方に目を向け、長い溜め息をついた。部長は何も言わない。それ以上何も喋らず、少しの間無言が続いた。

 そんな岸本部長に対し、僕は何も言うことが出来ないでいた。寧ろ、何も喋らずにいべきではないかとさえ思ったのだが。

 奥さんの方が話を振ってきた。


「政樹さん、貴方が悪くないのであればと夫は言いましたけれど、これら以上にもっと明確な証拠となるようなものってないかしら?」

「これら以上、ですか?」


 糞ビッチと糞野郎の交尾を収めたDVD、それは何よりも明確な証拠となるだろう。だが、それよりも強烈な証拠が何かないものねぇ。

 そう問われて、僕は茜さんと翔真君のことを思い出した。ああ、同じようにすればいいのか。そう思い立ち、僕は提案した。


「では今度の週末、金曜の夜にウチへ来てみますか?」


 起こるかどうかは分からないけれど、生を見てみませんかと。

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