F09:回復

「経過は良好です。倒れた時と比べると、状態は非常に良くなっております。この状態を維持出来れば、仰った予定通りの職場復帰も問題ないでしょう」

「ありがとうございます」

 仙波家に居候した二日後、僕は病院に戻って診察を受けた。結果が思いの他良かったのは、僕自身から見ても驚きであった。どれもこれも仙波家のおかげである。まーちゃんもとっても良い子だし。

 医者は続けて言う。


「これも奥様の献身的な介」

「姉です」

「え?」

「姉です」

「し、失礼しました。お姉様による良きご協力が功を奏したと言えるでしょう」

「ありがとうございます」


 そう。僕の今日の診察には、何故か奈緒美お姉さんが付き添っていた。僕は自分一人で行くと言ったのだが、何かあってはダメだと聞かなかったのだ。

 仙波先輩も奈緒美お姉さんに続けて言っていた。僕は何でも一人でやってしまう傾向がある。少しは周囲の人間を信じ、頼るべきなのだと。頼っているとは思うんだけどなぁ。周囲からはそう見えるということなのか。

 医者はこう締めた。


「とは言え、これまでの生活に戻ってしまうと、今回のような事象の繰り返しになってしまうでしょう。そこはお気を付け下さい」

「はい。ありがとうございます」


 そうして僕の診察は終わり、僕は奈緒美お姉さんと共に仙波家に戻った。その途上で奈緒美お姉さんは聞いてきた。


「これから、どうするつもりなの?」

「ああ、元に戻ります。戻します。そのつもりです」

「でも、それだと繰り返しになるって!」

「ええ。ですから、それよりさらに前へ戻すんです」


 仙波家に戻り、夜になって仙波先輩も戻ってきて同じ話となった。身体良くなって良かったね。では、これからどうするのかと。

 診察後、奈緒美お姉さんとしたそんな話に、仙波先輩はさらに重ねて訊いてきた。


「前、渡辺が出そうとした退職願いはその為のものか? 大学生時代にでも戻るつもりか?」

「その為のものではありますが、そこまで戻るつもりはないです。戻れるものでもないですし」


 卒業した以上、戻りたいと思っても大学へは気軽に戻れるものではないし、戻る意味もない。実家も賃貸マンションだったので、両親の死後そこは解約済みで、もう別の家族が住んでいるので戻れない。

 と言うか、そもそもそういう意味ではない。そんなこと望んでもいない。


「仙波先輩も言っていたじゃないですか。僕がおかしくなったのは、結婚してからだと。だから、戻すんですよ」

「それは、つまり?」

「ええ、部長の娘さんとは別れようと思います」

「ああ、だから退職願を出そうとしたと?」

「はい。せっかく部長の娘さんと結婚させてもらったというのに、一年どころか半年も経たずに別れるなんてマネしたら、会社に居場所はないものと思いまして」


 んー。仙波先輩は唸りながら左右に首を捻った。何を言うべきか少し考えているようだ。

 仙波先輩は十数秒考えてから言った。


「考え直すつもりは、歩み寄るつもりは、ないんだな? 結婚式の日にチラッと見ただけでロクに話もしなかった俺には、その娘さんがどういう人物なのかさえ分かってないからどうこう言えはしないのだが」

「ないですね。出来ないですね。もう、一緒に住んでいるだけでお腹が痛くなってきますから。結婚前はたくさん猫を被っていたので気付けませんでしたが、その猫が残らずいなくなったらこうなりました」

「部長、お義父さんに相談は?」

「出来ないです。部長は彼女のこと、心根が非常に良い子だと言ってましたから。残念な思いはさせたくなかったですし、それ以前に信じてはくれないでしょうしねぇ。まあ、今となってはそうも言ってられないですけどね。自分が壊れてしまったら元も子もないですし」


 岸本部長は自分の娘が如何に可愛いかを語っていた。その話はまるで別人の夢物語のようで、そしてそれは岸本部長が今の娘を見れていないことを表す証左でもあった。そんな部長を見て僕は、あの糞ビッチについての相談を部長には決して出来ないと確信した。

 仙波先輩はどうだろうか? 岸本部長は立派な人だから、その娘も良い人に違いない。僕が妄言を吐いていると決めつけ、ガッカリしてしまうだろうか。それとも、信じてもらえるだろうか?

 信じてもらえないことを前提に行動すべきと僕は考えていた。仙波先輩はともかく、離婚に向けて動くのであれば客観的事実を目に見える形で出す必要があるからだ。あの監視カメラ等もその一つであった。


「その気持ちも分からなくはない。仮に俺も愛美の悪口を言われたとしたら、それがどんなに客観的な事実だとしても信じられはしない、信じたくないだろうからな」

「ですよね。まあ、まーちゃんは非常に良い子ですけど」

「当然よ。で、どうするつもりなんだ?」

「身体が万全になったら、まずは情報収集から始めようと思います」








 結局僕は元の家に戻った。糞ビッチと別れるにしろ、何にしろ、この部屋の賃貸契約はどうにかしないといけないからだ。例え糞ビッチがこの部屋を出て行くのだとしても、僕はこの部屋に住み続けるつもりはなかった。なぜなら、この部屋にはもう、嫌な思い出が多過ぎるからだ。

 家に帰ると、リビングで糞ビッチが黙々とスマホをいじっていた。ああ、今日は日曜日。午後には一人で此処にいるということだったか。それを理解しつつも、久し振りにその姿を見ただけでちょっと嫌な気分になり、ちょっと腹が痛くなった気がした。


「あのさぁ」


 僕は糞ビッチを無視して自室に籠もろうとしたが、帰宅に気付いた糞ビッチに呼び止められた。

 何の用だよ? 嫌だなぁ。そう思いながら、僕は糞ビッチの方に振り向いた。まさか、僕の体調を気遣う言葉が出て来たりするのか? チラッと思ったが、思った次の瞬間、倒れたことも数日仙波家にお邪魔していたことも、何一つ伝えていないことを思い出した。一切連絡を取っていないことに気が付いた。尚、糞ビッチからの連絡もない。

 それ故か、糞ビッチの言葉もそれとは何の関係もないことだった。


「アンタ、いきなり自分の部屋に鍵を付けたりしたじゃん。何なん? 何なん、あれ? メッチャ感じ悪いんだけど。私のこと、信じられない訳?」

「信じるに値する言動があったとでも?」

「あ、んだとぉっ!」


 それ以上の問答は無用とばかりに、僕はそこで糞ビッチとの会話を一方的に終わらせ、自室に入って鍵を締めた。開けろ、この野郎! 殺すぞ、キモオタ! 何とか言えや、このゴミカスがぁっ! 糞ビッチの怒鳴り声が聞こえるが、全て無視する。

 ただ、糞ビッチは気付けていないのかね? この罵声もスマホでしっかりと録音していると。そして、此処は嬌声さえお隣さんに届いてしまうレベルの防音設備しかないから、今のその声もしっかりご近所さんまで届いているに違いないと。

 そうして僕の休養が終わり、出勤日を迎えた。僕はそれまでと同じように出社したところ、まずは岸本部長との面談になった。ある程度休んでしまったので当然か。

小会議室で岸本部長と二人向かい合い、まずは会社の上司と部下として挨拶。その後で状態について訊いてきたので、僕は答えた。


「状態は休養、仙波先輩のおかげもあってほぼ通常かと。ただ、今の状況をそのままにしておくと、今回のようなことの繰り返しにはなってしまいます、確実に」

「繰り返さない為の退職願いだったとは仙波君から聞いている。現状保留中ではあるが、もしその願いを通したとして、それからどうするか考えてはいるのか? 杏里とも話はしているのか?」

「いいえ、何も」


 転職活動は勿論、転職サイトでの会社選びすらしていない。まだ、そこまで踏み出せてはいなかった。

 その上で、自分のことについて糞ビッチと話し合いなんてあり得ない。そもそも話し合いになんてならないし、糞ビッチはもう無関係、僕にとっては敵なのだが。

 岸本部長はまだ言う。


「今まで君は自分のことは自分で決めてきたのだろう。だが、杏里と夫婦になったのだ。もっと杏里と歩み寄って、話し合いながら決めていくことは出来ないのかね? 少し前に私から君の体調について杏里に訊いたら、杏里は何も知らないと言っていたぞ。心配をかけるようなことをするんじゃない」

「心配はかけてないですよ。されてないですから。なぜなら、僕が病院にいた間、そして仙波家にいた四日間、彼女からの連絡はゼロです。一切ありませんでした。そして、休養が終わって家に帰ると彼女も家にいたのですが、彼女の口から出たのは自分の部屋に鍵を付けるんじゃない、遊ぶ金を寄越せ、といったことだけです」


 心配をかける。そんな何も知らない、何も見ていないようなことを言うので、僕は糞ビッチとのことを誤魔化さずに言った。退職願を出してしまった以上、例え此処で不興を買ってしまったとしても構わないとさえ思っていた。

 案の定、岸本部長は僕の言葉を信じない。


「う、嘘だ! 私の杏里は性根が非常に良い子なんだ。そんな人を人と思わぬ行動、する訳がない!」

「録音音源、すぐ手元にありますけど聞きます?」


 僕はそう言うが早いか、岸本部長が是非を言う前にスマホを取り出し、仙波家から帰った直後の音源を再生した。

 ドンドンドンドンドンドンドンドン! 乱暴にドアを叩く音から始まり、その中にチンピラのような罵声が飛び出す。ドア開けろ、キモオタ。引き籠もってんじゃねぇ、キモオタ。さっさと金寄越せ。お前のキモイ目的じゃなく、有意義に忍と遊んでやるんだからさ。感謝しながら、給料全部寄越せ。

 そんないつもと何ら変わらない音源だが。


「やめろ! やめるんだ!」


 岸本部長は怒鳴った。慣れない全力の大声を出したせいか、息も切らしていた。

 こんなのが毎日ですよ。体調の一つや二つ、崩してしまうのも無理はないですよね? 僕はそう心の中で思いながら、音源の再生を止めた。

 これで現実の一つでも知ってもらえれば。そう思いはしたのだが。


「このようなもの作って、何を考えているんだ? こんなもので、私達を陥れるつもりか? 君がそんな非常識で、悪辣な輩だったとは思わなかったよ。ガッカリだ!」

「は?」


 何を言っているのだ、この人は?

 心の底から、僕はそのように思った。娘の今を見れていないような雰囲気が前から岸本部長にはあったが、良いという昔の姿が続いていると妄信するだけで、そもそも現実を見るつもりもないらしい。ガッカリはこちらの台詞である。この状態だと、映像を見せたところで捏造と言い張るだけだろう。

 杏里が可哀そうだ。杏里が可哀そうだ。何で私はこんな奴なんかに、などと岸本部長はブツブツ独り言を呟くので尚のこと。僕はため息を一つついて、立ち上がった。そんな僕を岸本部長は止める。


「何処へ行くんだ?」

「仕事に戻りますよ。今はまだ此処の社員なので、仕事がありますからね」


 そう言うと、岸本部長はそれ以上止めようとはしなかった。糞ビッチとのことについてはプライベート。職場で長々と話すものではないというのは分かっていたようだ。

 僕は仕事に戻る為に小会議室を出ようとした。その時、ちょっと足を止めて一つ情報収集しようと考え、岸本部長に訊ねた。


「ああ、そうそう。岸本部長は和田忍、という男の名前に聞き覚えはありますか? ありますよね?」

「ああ、杏里の元恋人だろう? ロクでもない輩だったから私達両親で交際に反対し、杏里も心から反省して縁のなくなった者だ。君は伴侶となる者の過去の過ちさえ許せぬ程に狭量なのかね?」

「過去じゃなく、今も繋がってます。コレ、自宅カメラで隠し撮りしたものですけど」


 僕はそう言って、岸本部長に写真を一枚渡した。自宅に設置した監視カメラの画像をプリントスクリーン昨日で静止画にして、プリントアウトしたものだ。糞ビッチと糞野郎の糞カップルが写っている。アップにしたので、両者の顔も良く分かる。手前味噌だが、非常に良く出来た証拠写真だ。

 岸本部長はその写真をまじまじと見て、目を逸らしながら机に叩き付けた。尚、タブレットに元データはあるし、バックアップも取ってあるので、その写真を破り捨てても無駄であるが。

 岸本部長はそれでも首を横に振る。


「どうせ過去の写真を何処からか得たのか、捏造だ」

「信じるも信じないもご自由に。では、今度こそ業務に戻ります」


 僕はそう言って、自分の机に戻った。メールをチェックしたり自分の業務に取り掛かりつつも、その合間に仙波先輩から訊ねてきた。岸本部長との面談、どうだったのかと。

 僕はありのままを答えた。健康状態は戻ってはいるが、改善しないと再発するだろうこと。岸本部長の娘との夫婦関係は一切歩み寄りが出来ず、改善の兆しはないと。何を見せても、自分の娘が悪いとは信じようとはしない。悪い意味で予想通りだったのだと。

 そう話すと、仙波先輩も唸った。


「んー、どうすべきか」

「前に言った通り、情報収集の継続ですね。部長との面談で一石投じてみたのも、その一環でしたから。と言うことで、古田さ~ん」


 僕は近くの古田さんを呼んだ。ちょうど手が空いていたのか、古田さんはすぐ僕の所へやって来てくれた。


「ハイ、渡辺先輩。何か用ですか? と言うか、元気ですか? 何処か悪くしていないですか? 何も問題はないですか? 何か手伝えることはありませんか?」

「ああ、大丈夫。大丈夫。ただ、一つお願い出来ないかな?」

「何でしょう?」

「僕の結婚式の二次会で古谷さん、中谷さんと仲良くなって、友達になったよね? 今度の休みの時でいいので、会って話を聞くことは出来ないかな?」


 情報収集。そう、次の相手は糞ビッチの旧友である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る