F08:仙波家

「あなた、おかえり。政樹君もいらっしゃい」

「お邪魔します」


 倒れた次の日の夕方、僕は退院することとなった。そしてそのまま、何故か仙波先輩の家にお邪魔することとなった。ナンデ?

 退院の際に岸本部長だけでなく仙波先輩もやって来て、今日から三日間僕は仙波家で居候することにした、仙波家の奥様の許可は既に取っているので何の問題もないと言い出し、岸本部長も仕方なしといった感じで首を縦に振っていたのだが。ナンデ?

 僕はそんな話を全く聞いていないのだが、あれよあれよと言う間もなく、僕は仙波家に連れてこられて、仙波先輩の奥さんに挨拶をしていた。


「私は仙波奈緒美。分かると思うけど、春樹の妻よ。奈緒美お姉さんって呼んでね」


 春樹? ああ、そうか。仙波春樹か。仙波先輩、仙波先輩って言っていたから下の名前を失念していた。忘れていた訳ではないが、意識をしていなかった。

 理由がいまだに分かっていないが、此処にお邪魔するならばそこにも意識しないとダメだな。此処は皆、仙波さんなのだから。そう思いながら、僕は返事をする。


「はい、分かりました。奈緒美お姉さん。あれ、お姉さん?」

「ハハハハ。個人的欲求で済まないのだけれど、私は二人姉妹の妹でね。ずっと弟妹が欲しかったのよ。政樹君が来てくれて良かったわ。ちゃんと年も下だし、貴方は今日から私の弟ね」

「ホントに個人的欲求ですね」

「済まんな、渡辺。ちょっと付き合ってやってくれ」


 仙波先輩はそんな暴走気味の奥さんに苦笑いを浮かべつつ、僕にそう言って謝った。さすがに止めるのは無理なのだろう。そんな雰囲気はある。ただ、どんな個人的欲求を持っていようと、お邪魔虫以外何物でもない僕を歓迎はしてくれている。そのことはとても嬉しかった。

 家の中にお邪魔すると、リビングでテレビを観ていた娘さんを紹介された。「あ、パパ。おかえり~」と言って仙波先輩に抱きついて行ったが、僕の存在を確認するとさっと仙波先輩の後ろに隠れてしまった。ちょっと人見知りらしい。だが、それが大正解だと客観的に思う。小さい子供は、知らない人に対しては警戒すべきなのだと。ただ、仙波先輩の陰からこちらをチラチラと見てはいるが。興味はあるらしい。

 そんな娘さんを奥さん、もとい奈緒美お姉さんは容赦なくこちら側へ引っ張り出した。


「大丈夫よ、愛美。このまー君はママの弟だからね。親戚の人よー。自己紹介しなさい。教えたでしょ?」

「ハイ、ママ!」


 え、まー君? まあ、それはともかくとして。

 娘さんは奈緒美お姉さんの言葉に元気良く返事をすると、僕の方へ一歩踏み出してカクカクした動きでおじきした。緊張しているらしい。


「わたしは、せんばまなみ。よんさい、でっす! まーちゃんと、よんでくださいっ! よろしくおねがいし、まっす!」


 パチパチパチパチ。パパとママは愛美ちゃんの挨拶に拍手を贈った。この挨拶を随分と練習していたようだ。と言うことは、これは僕も挨拶をしないといけない流れか。

 僕は愛美ちゃんと同じように会釈した。そして、挨拶。幼児でも聞き取り易いよう、意図的にゆっくりと。


「僕は、渡辺政樹です。まー君って呼んでね」


 もう、まー君でいいや。今まで一度も呼ばれた記憶はないけれど。

 ただ、こんな僕の自己紹介と言うか、自分と似た仇名に何かを感じたのだろう。まーちゃんこと、愛美ちゃんは目を輝かせた。


「まー君!」

「まーちゃん?」

「まーくん、あのねあのね! まーちゃんのたいせつなもの、みせてあげゆ! サイタマンのへんしんセット。すっごいんだからねっ!」

「お、お、おおおおおおおお」


 まーちゃんは僕の服の裾をつまむと、家の中を急に駆け出した。下手に抵抗して怪我をさせてはいけないので、それとなしについていくと、その先の玩具箱には特撮ヒーローグッズが詰め込まれていた。

 特撮はアウト・オブ範疇なのだがサイタマン、海無戦隊サイタマンは名前を聞いた覚えはあった。話の内容は知らないが、テンプレ通りか?

 これから何をさせられるか分かっていた僕は戦隊もののテンプレストーリーを思い描いていると、少し困った顔をしながら仙波先輩が声を掛けてきた。


「済まんな。俺が昔から特撮ものが好きでさ、その影響をモロに受けてしまったみたいなんだ。贅沢を言えばもっと魔女っ子ものとか、女の子らしいものを好んで欲しかったんだが」

「まあ、いいんじゃないですか?」


 ま■マギや魔法少女◆イトのようなアニメにハマるより遥かに健全だと思います。それだけの意味だったのだが。

 何か仙波先輩のスイッチも入ったらしく。


「そうかそうか。やはり俺の愛美は天使だよな! 特撮まで好きだなんて、天使中の天使! 完璧に次ぐ完璧だ!」

「はぁ」


 この親バカ、何を言っているのか分からないんですけど。

 ただ、一つだけ分かることはあった。これから仙波先輩も含めたサイタマンごっこ遊びが始まるのだと。奈緒美お姉さんが「夕食ができたわよ!」とフライパンを鳴らしながら止めるまで続くのだと。

 一応僕、病み上がりの筈なんだけどなぁ。








「「「「いただきます」」」」


 四人で手を合わせ、僕達は食事を開始した。その瞬間、僕はふと疑問に思っていた。このように「いただきます」と言って食事を始めたこと、前はいつだったのだろうかと。外で岸本部長と食事した際に挨拶的にやった以外はないのではないか。

 一人で食事していると、まずもってそう口にすることはない。外で食事する時は尚更、先の挨拶的なものを除いてしまえば一人であろうとなかろうとすることはない。このような家庭的な挨拶、前にやったのは両親がまだ健在だった時まで遡らなければならなかった。そして、今後もこのような挨拶を僕の家でやることはないだろう。

 食事をする。内容は典型的な和食で、奈緒美お姉さんは僕が病み上がりだから腹に優しめなイメージでこうしたと言っていた。味は客観的に、プロがプロの目で言ったならば可もなく不可もなくといったくらいだろう。だが、此処にはプロにない暖かさがあった。工場出荷の画一的な冷たさにはない、暖かさがあった。

 これが家庭か? これが家庭なのか?

 少し遠く聞こえる仙波家の会話の中、僕はふと両親の姿を思い出した。子供の頃、両親と共に過ごした時間を思い出した。


「あれ? まーくん、ないてる。いたいの? かなしいの?」

「え?」


 まーちゃんの言葉で僕は現実に引き戻された。その言葉に従って自分の目元を拭うと、確かに涙が流れていた。前に流したのは、糞野郎共に殴られて怪我を負い、金を盗られ、小便を漏らした後のアレか。アレは思い出すだけで腹が痛みそうだが、今回はあのような屈辱とは全然違う。

 僕は心配そうな顔で見てくるまーちゃんに大丈夫だよと答える。


「大丈夫だよ。痛くも悲しくもないから」

「ホントか?」

「ホントに?」


 仙波先輩と奈緒美お姉さんも訊いてきた。


「ええ、ホントです。痛みも悲しみもないです。ただ、死んだ両親を思い出しました。そして、随分と思い出すことがなかったんだなぁと、思っただけです」


 痛くはない。痛くはない。それは本当だ。だが、悲しくないのかどうかは、正直自分でもよく分からなかった。

 ずっと両親のことを思い出しもしなかった自分の薄情さに呆れはしたものの、思い出せたこと自体は嬉しかった。しかしながら、このような当たり前の家庭を当たり前のように構築し、享受している仙波家に対し、それが出来ないでいる自分、ずっと出来そうにない自分が情けなく、悲しくもあった。妬ましさも感じていた。

 それからは普通の時間だった。普通の時間だ。どうでもいい世間話をしながら食事をした。それだけの話。

 数時間後、午後9時。


「具合はどうだ?」

「悪くはないと思いますよ。ただ、良く分からないです」


 夕食の後、僕達はしばらくまーちゃんの遊びに付き合っていたが、おねむの時間になったので、彼女は風呂入って歯を磨いて寝た。余談だが、一人で歯磨き出来るんだよと言って、ドヤ顔で歯磨きを披露する姿は可愛かった。

 まあ、そうか。仙波先輩はお茶を飲みつつ、僕に言った。


「今のお前は身体を治すのが仕事だ。焦りは禁物。ゆっくりと休み、元に戻ればいい」

「はい」


 そう返事はしたものの、元に戻るだけではダメだというのは、僕にも分かっていた。治した上で、変えなければいけないと。

 岸本部長に言った退職願いはその為の一歩だったのだが、仙波先輩は僕に言った。


「ああ、そうそう。お前が部長に言った退職願いは未受領だからな? 病院で言うようなものではないし、仮に本当にそうするのだとしても急にするような内容でもない」

「ああ、言われてみればそうですね」


 辞めます。了解。さようなら。

 バイトじゃあるまいし、会社務めがそれで終わる訳がないというのは当然の話だった。それすら考えられていなかったなんて、相当焦っていたようだ。


「何故急に辞めようなんて考えたんだ?」

「何かを変えないと、今回のようなことの繰り返しになるからです」

「繰り返し? また倒れてしまうと?」

「はい。その末、胃に穴があくかもしれないと医者には言われました」

「だが、渡辺がこうやって倒れたりしたのは今回が初めてだろう?」

「そうですね」

「「…………」」


 少しの間、僕と仙波先輩は共に無言となった。お互いに何を言うべきか探っているような状態だった。

 そんな中、仙波先輩は少しずつ切り出した。


「渡辺が倒れ、一週間の療養となった。その療養先が俺の家になったのを疑問に思っているだろうし、不自然に思っているだろう? それは俺が申し入れたからだ。最初は自宅療養、もしくは部長宅での療養だった」


 自宅療養、もしくは部長宅での療養。それは嫌だな、と仙波先輩の言葉を聞いて僕はそう思った。前者はいいが、その場合最低でも糞ビッチは家に帰ってもらいたい。一人にしてもらいたい。岸本部長宅での療養? 何も休まりはしないだろう。

 仙波先輩は続ける。


「渡辺がウチの所で勤めるようになって数年、何の問題もなかったどころか、風邪をひいて休んだ記憶すらないくらいだ。そんなお前が疲れ果て、倒れ、身体を壊してしまった。両者の間に何の変化があったのかと言えば、お前の結婚であることは一目瞭然。ならば、一旦離してみるのが良いのではないか、という話になったのだ」

「はあ、そうですか。ありがとうございます」


 しばらくあの糞ビッチと会わなくて済むようにしてくれて。

 あの糞ビッチが顔を出したら、こんなことを言うだろう。キモオタのくせに、いっちょ前に身体壊しやがって。壊れても働き、稼いだ金を私に捧げろ。その金で彼氏と心ゆくまで遊んでやるから。

 嗚呼、思い出しただけで腹が痛くなりそうで、僕はちょっとだけ顔を顰めた。だが、すぐに顔を戻していつもの表情を今度は奈緒美お姉さんに僕は向けた。


「奈緒美お姉さんもありがとうございます。ほぼ見ず知らずの人間を、ただ旦那さんの後輩ってだけで居候させてもらってしまって。非常に迷惑をかけてしまっ」

「いいのいいの。貴方はもう、私の弟なんだから。姉は姉として、弟の面倒はきちんと見るものよ」


 奈緒美お姉さんは僕の言葉をぶった切って、そう言った。今までは会社の懇親会的なナニカで何度か顔を合わせ、挨拶をした程度だったのだが、もう彼女の中で僕は弟として固定化されているようだ。

 僕は一人っ子だったので、弟妹が欲しかった気持ちも分かりはする。もっとも、他所の子に向かって「お前は今日から僕の弟妹な!」だなんて、口が裂けても言えないが。

 そんな僕と奈緒美お姉さんを見ながら、仙波先輩は思い出したかのように、僕に言う。


「ああ、弟妹ってことで思い出したが、渡辺。お前の妹である古谷さんもお前のことを心配していたぞ。後でLINEなり何なりしてやってくれ」

「そう言えば身体は大丈夫かとか訊かれてましたねぇ。了解です。やっときます。まあ、妹ではないですけど」

「まー君の妹ってことは、私の妹でもあるってことね。どうしよう? 弟だけじゃなく、妹までできたわ。神様、ありがとう」

「いや、ですから妹ではないと、って人の話聞いてないっすね」


 どうすればいいんだ、これ?

 困った僕は仙波先輩の方に目を向けたが、仙波先輩はすっと目を逸らした。俺にはどうしようもねぇな、とでも言わんばかりに。

 いや、アンタの奥さんでしょう、コレ? 少なくとも僕の姉ではないのだが。僕にどうこうしないといけない義務はないのだが?

 と、そんなバタバタ劇もあった。ただ、これはストレスだらけの日常の中で、一片の清涼剤でもあった。

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