F07:限界
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
僕は岸本部長と共に、迷惑をかけてしまった顧客に謝罪へ行った。お詫びと、二度と同じような事象を起こさないための対策案を申し入れ、それでどうにか勘弁してもらうというものだ。自業自得ではあるものの、ストレスである。
夜遅くまでサービス残業をしながらその対策案を練っていた時、何度も思ってしまっていた。『やらかしてしまった渡辺政樹を弊社から追放します。愚物が消えてしまえば、このようなことは起こりません』でいいのではないかと。勿論、社員を一つのミスで簡単に切り捨ててしまうような会社、顧客側からしたら信用出来なくなるのでNGだというのは頭では分かっていたのだけれど。
そんな顧客に謝罪へ行った日、会社に戻ってからもあれこれやることがあり、結果またサービス残業となった。そんな遅い帰り道、駅のホームで僕は電車を待っていた。特に何かしら考えることもなく、ただぼーっと立っていただけだったのだが、そんな僕の耳に駅のアナウンスが入ってきた。
『通過列車が参ります。危険ですから黄色い線の内側に下がってお待ち下さい』
その時、僕は思ってしまった。闇の奥底からの声を聞いてしまった。
飛び込もうぜぇ。飛び込もうぜぇ。飛び込んで全て終わりにしてしまえば楽になれるぜぇ。
「!」
ガタンガタンガタンガタン。
竦んで足を止めた僕は、電車が通り過ぎる音を聞きながら胸の鼓動が乱れるのを感じていた。僕は何を考えていた? 何を考えていた? 何を考えていた?
このままでは物理的に終わる。終わってしまう。不安を抱きながら家に帰ると、リビングには糞ビッチが一人でいた。
「やっと帰ってきたか、この愚図が。キモオタの上に愚図だなんて最悪中の最悪だな。あ、期待してねぇからいいか。それより、んっ!」
「?」
「んっ! んっ!」
「?」
糞ビッチは不機嫌丸出しの顔で、僕に向かって右手を突き出してきた。それが何なのか僕は本気で分からなかったのだが。
糞ビッチは地団駄を踏む勢いで言う。
「だぁかぁらぁ、さっさと金出せって言ってんだろうが、この愚図がっ! ひとまず5万でいいからさぁ、今すぐ現金で寄越せ。キモオタのようなキモい目的じゃなく遊んでやるから、私達に感謝しながら寄越せ。い、ま、す、ぐ、なっ!」
コイツは何を言っているのだ? マジで何を言っているのだ? 疲れ果て、仕事で傷付いた末、死にたい思いを抱えながら家帰ってきたらこんな仕打ちか。まあ、糞ビッチのやることは所詮こんなものではあるが。奴の言葉ではないが、僕も糞ビッチには既に何の期待もしていない。
僕は糞ビッチを無視して自室に入り、ドアストッパーでロックした。ドアを乱打して糞ビッチは喚き散らすが、僕はベッドにうつ伏せて見向きもしない。ただ、それでも心の声は止まらない。僕が僕自身に問い掛け続けていた。僕は何をしている? 何をしている? 何をしている?
これが結婚生活なのか?
キリキリキリキリ。思考は頭の中を駆け巡り続け、それ故にベッドに潜っても腹は傷み続ける。
痛みを感じ続け、死にたい思いをしながら、また週末を迎えた。普通のサラリーマンならばその休日で心身共に癒すのだろうが、僕にその癒しはない。言うまでもなく、家こそが僕のストレスの元凶だからだ。僕を傷付け、壊す大本だからだ。
カメラを設置して自宅で金曜日の夜を迎えると、これまでと何も変わらない週末の夜を迎えることとなった。糞ビッチが糞野郎を連れ込んで、僕から金をたかろうと乱暴にドアを連打する。ドアストッパーだけでなく、通販でドアロックも買って設置したので、防御力だけは前よりもアップしているのが違いか。
カツアゲ、もとい強盗が出来ないと悟ると、二人は盛り出して糞ビッチの部屋で醜い交尾を始めた。それまでもが今までと同じ。変化に乏しく見どころはないが、奴等によるやらかし記録がまた増えることにはなった。
明くる土曜日、ゆっくりと起き上がった僕は昼過ぎに出掛けることにした。そして、今晩は帰らない。どうせあの二人は今日もやって来る。強盗が隣で交尾している横に、安眠どころか安心というものすら存在しないからだ。
貴重品を持ち、新しく設置したドアロックで外から鍵をかける。部屋の内側ロックに二つ、外側ロックに二つあり、外側は当然ながら鍵を回して開閉するタイプで、僕が持っている鍵がなければ開けられない。そのロックを付けた今、週末以外でも外に出る時ロックをするようになった。糞ビッチ一人でも安心は出来ない、空き巣くらいはやりかねないからだ。
家を出た僕は、当てもなく街を彷徨った。何処へ行こうか、何をしようか、そういったことをほぼ考えておらず、ただひたすらあの家にはいたくなかっただけだったからだ。有名な電気街の電気屋やオタクショップ等を巡り、夜になったら電気街内のネットカフェに宿泊した。ネットカフェはあまり快眠にはならない場所ではあったが、隣に交尾している強盗がいない分、安眠することは出来た。尚、念を入れてカメラの様子を少し確認したが、内容は金曜の夜と何ら変わるものではなかった。そしてまた、奴等のやらかし記録は増えた。
日曜の夕方に僕は家へ帰り、これまでと同じようにカメラを回収してからデータ保存を行った。一仕事終えるとタブレットでアニメをいくつか観て心を癒し、また月曜日を迎えたのだったが。
月曜日はまだ、どうにかなった。身体はいつも以上に重く感じたものの、行き帰りが無事に出来、仕事もこれと言ったミスなくこなせていた。だが、火曜日。行きの満員電車の中で、僕は異変を感じた。
電車の中でスマホを見ていると、少しずつ視界が白くぼやけ始めた。疲れ目か何かで具合が宜しくないのか。そう考えた僕はスマホをしまったのだが、それでも白くぼやけ続けるのは変わらない。より白く、白く、白くなり続けたら。
急転直下で真っ黒になった。目は開いている筈なのに、何も見ることが出来ない。満員電車の中にいる筈なのに、それを感じることすら出来ない。此処は何処? 此処は何処? 此処は何処?
ゆっくり倒れゆく身体。自分のことなのに何処かしら他人事のように俯瞰している自分がいて、周囲が何かしら言っているその声も空の上のように遠く。
全ては黒に塗り潰された。
目覚めると、そこは病室だった。何で僕は此処に? といった戸惑いはない。あの電車の中で、あのまま倒れたのだろうとすぐ分かった。
近くに置かれていた自分のスマホで時刻を確認すると、既に夕方となっていた。8時間くらい意識がなかったようだ。受電履歴を見ると、午前中会社から何回かかかってきていたのが見えた。尚、午後はない。僕の鞄の中には社員証があるので、恐らく此処の病院から会社に連絡が行ったのだろう。
自分の身体の状況すら分からないが、ひとまず一報だけはしておくか。そう思って、僕は会社に連絡した。出たのは仙波先輩でも古田さんでもない別の同僚だったが、すぐに岸本部長に代わることとなり。
「分かった。あと少しで定時だ。定時になったら、すぐそちらへ向かう」
そんなこととなった。
誰がこちらへ来るのかは知らないが、来るまでに時間はかかるだろう。その間に状況を知っておきたいと考え、ナースコールのボタンを押した。目覚めたことを知らせ、かつ現状を訊く為だ。
看護師は10分と経たずに医師と共に僕のいる部屋までやって来た。起きたんですね、と口々に言いながら医師は僕の向かいに椅子を置いて腰掛け、看護師はその後ろに立った。石はまず僕に訊ねる。
「渡辺政樹さん、何処まで覚えてますか?」
「何処まで? ああ、今朝会社に行こうと満員電車に乗って、そこで倒れてしまったというところですね。で、その後気付いたら此処でした」
「記憶に障害はないようですね。ええ、渡辺さんは電車で倒れ、救急車でこの病院に搬送されました。渡辺さんが寝ている間に診察は済ませてあります。結論から言いますと、命に別状はありません。あのように倒れてしまったのは疲れ、そしてストレスによるものです」
「つまり、原因がどうにかならないとまた繰り返すだろうと?」
「そうなります。なので、休める時に良く休んで、ストレスを溜めないような生活を送るのが肝要です。さもないと、今日のようなことを繰り返した上で、さらに胃に穴を開けてしまうでしょう」
その末に死ぬか。医者の言葉を聞いて、僕は少し他人事のようにそう思っていた。その末に終わるのかと。
今の僕ならば、例え余命宣告を受けたとしても淡々と受け入れるだろう。受け入れてしまうだろう。このようなこと、今までの僕ならば考えられなかった。僕がこのようになってしまったのは、今の状況が全て悪いのだろう。そして、今までと変わってしまったのはただ一つ、あの糞ビッチと結婚してしまったこと。
つまりはそういうことだ。
「政樹君、状態はどんな感じなんだい? 昼前にこの病院からの連絡で、君が満員電車内で倒れ、運び込まれたことは聞いていたのだが」
夕方、一人でやって来た岸本部長は僕の病室に来ると、挨拶もそこそこにすぐさま本題へ入った。
僕は若干他人事のように話す。
「疲れかストレスによるものだそうです。今のところ、命に別状があったりはしてないらしいですね」
「そうか。それは良かった。だが、そういう原因だとすると、何かしら今の生活を改善しないと再発してしまうのではないか? より悪くなってしまうのではないか?」
「なってしまいますね。いずれ、胃に穴が開くだろうとも言われました」
「では、一週間ばかり休みを渡すから、その間に身体を休ませつつそうなってしまう原因を探り、どうすれば再発しないよう改善できるのか考え、改善していってもらえないだろうか? ああ、杏里と夫婦で協力しつつな。杏里にはもう連絡はしたのか?」
「ああ、まだです」
「では、そちらはなるべく早めにな」
「はい」
連絡なんかしないけどね。だって、ストレスの原因なんか考えるまでもない。あの糞ビッチ以外の何物でもないからだ。それと共にいるだけで胃に穴が開き、血を吐いて、俺の全てはボロボロのゴミクズと化すだろう。
そうならない為には、自分が考え、岸本部長も言った通り、今を変えなくてはいけない。だが、僕が岸本部長の部下である限り、僕が糞ビッチと離婚するのは難しいだろう。それどころか、糞ビッチの問題点を言うのも難しいだろう。だから、僕は言った。
「岸本部長、お義父さん。ひとまず、今の状況改善の為、僕は会社を辞めたく思います」
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