F06:傷跡

 あくる日曜日、僕は身体の痛みと共に目を覚ました。腫れた頬のひりつき、細かい切り傷の痺れるような痛み、それらが僕からあらゆるパワーを削ぎ落とした。

 何もやる気が起きない。家事なんかしたくない。出掛ける気にもならない。PCは破壊された。スマホは無事だったが、それで何かを見ようという気力すら出なかった。

 僕は最低だ。僕は最悪だ。その言葉ばかり、頭の中をグルグルと駆け巡っていたのだが。

 ぐぅ〜〜。それでも腹は減る。どっこいしょと僕は起き上がり、だるい気持ちのままキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてロクなものがないことを確認した。


「はぁああああああああ」


 面倒臭い。面倒臭い。面倒臭いのだが、最低最悪な状態のまま衰え、死んでいってしまうのだとしたら、こんな腹立たしいことはない。あの糞ビッチも僕の死体を指差し、キモオタに相応しい惨めな末路ね、と言って嘲笑うのだろう。お前がそうやって死ねばいいのに。

 僕はそんなこと思いながらいつものスーパーへ行き、一人分の食事を買ってきた。あと少しで自分の部屋、そこでまた出会う。出会ってしまう。隣の奥さんに。


「あら、渡辺さん。こんにちは」

「こんにちは」

「あれ? どうしたの、その怪我? 昨日会った時そんなのはなかったと思うけど」

「ああ、こけました。まあ、筋とか骨には問題なさそうなんで大丈夫ですよ」


 そういうことにした。転んだというのはちょっと無理がありそうだが、強引に話を『どうして怪我をしたか』から『怪我してどんな状態なのか』に変えて、不自然さを見えづらくした。

 別にあの糞ビッチを庇おうとしている訳ではない。ただ、意味がないからそうしているだけだ。顔を合わせたら挨拶をする程度の知り合いに、自分に何が起きたのかを正直に、事細かく話したところで何が変わるということはない。彼女達夫婦の、今日の晩の世間話の一つになるだけである。馬鹿馬鹿しい。

 隣の奥さんは溜め息を一つついた。


「じゃあ、そういうことにしておきましょうかね。今日のところは」

「はぁ」

「でも、一つ覚えておいてね。私達は顔が合ったら挨拶をする程度の知り合いでしかないけれど、私も夫も貴方にならばある程度力になってもいいかなと考えているってね。貴方の普段の振る舞いはそう思わせてくれるくらいに良い、誠実なものだから」

「ありがとう、ございます?」


 褒められるようなものの心当たりは僕にはなかった。僕は当たり前のことを、当たり前のようにやっているだけ。ごく普通の人間でしかないからだ。表層上は。

 ただ、オタク系趣味があるので糞ビッチ共は僕のことを最低のゴミと呼ぶ。表層のメッキが剥がれてしまえば、きっと彼女達も掌を返すのだろう。








 さらに次の日、月曜日という出勤日になっても当然ながら僕の怪我が完治することはなく、傷を負ったまま僕は出勤することとなった。


「渡辺先輩、おはようございまぁす、ってきゃあっ! どうしたんですか、その怪我?」

「おはよーっす、っておおっ! 渡辺、随分派手にやってるじゃないか。どうしたん?」

「転びました」


 隣の奥さんに言ったのと同じように、朝一やって来た古田さんと仙波先輩に僕はそう答えた。

 僕の怪我なんかどうでもいいだろうに。それでも仙波先輩はさらに突っ込んでくる。


「ああ? 顔ばかり怪我しおって、手は出なかったのか? と言うか、仮に手が出なくても転んだだけじゃ両頬だけ怪我をすることはないぞ。真ん中に鼻があるからな」


 ああ、確かに。転んで顔を怪我するのだとしたら、大抵鼻をぶつけることとなろう。鼻を避けて頬を痛めるというのは、倒れた方向に偏りがあるからなので、怪我をしたら必然とどちらか片方だけとなる。転んで頬を怪我、バウンドしてもう片方の頬も怪我。それはありえないか。

 じゃあ、とばかりに僕は言う。


「転んだ後に上から物が落ちてきて、あれよあれよと言う前にドサドサと来ちゃって」

「はぁ?」


 仙波先輩の顔は半信半疑のようだった。いや、疑が八くらいだったかもしれないが、それ以上の突っ込みはなかった。

 仙波先輩は溜め息をつきながら言う。


「とりあえず今はこれ以上あれこれ突っ込みはしないが、何かあったら遠慮なく言えよ。俺はお前の先輩なんだから。力にはなるぞ」

「そうですよ。私も先輩の後輩なんですからね。絶対力になりますから」


 仙波先輩と古田さんは次々にそう言ってくれた。

 嗚呼、本当にこの人達は良い人達だ。あの糞野郎共とは月とスッポンで、比べる自体失礼だ。だから、僕は自然と言葉にした。


「はい、ありがとうございます」

「何処か身体が悪いと感じたら、遠慮なく言うんだぞ? 私達は家族なのだから」


 岸本部長も僕にそう言った。岸本部長自身は良い人ではあるのだ。ただ、僕の負った傷のいくつかが彼の娘がつけたものであるというだけで。

 ただ、彼の娘が僕の敵であると判明したならば、きっとこの会社も僕の敵となるだろう。ただの平社員である僕と、人望溢れる岸本部長。どんな理由があれど、例え僕に正当性があれど、どちらかを選択するとなれば岸本部長になるに違いない。良い人達もまた、くるりと手の平を返し、皆が敵となるに違いない。そうして、僕は物理的にも独りとなる。

 僕に起きていることを誰かに話せば、僕はこの会社での居場所を失う。クビとなる。独りとなる。僕はそう判断し、誰にも何も言えぬまま時は過ぎていった。








 また週末になった。何処へも出掛ける気になれず、ただ部屋の中で漫画を読むばかりの週末だ。あれから今日まで、糞ビッチとの会話はない。目も合わせない。一緒の空間にいることもない。糞ビッチは僕のことを意識しないし、僕は糞ビッチを避けているからだ。だが、無神経が服を着て歩いているような奴等だ。僕が此処にいると知った上で尚、また二人此処でイチャイチャするのではないか。

 そうなるのではないか。そうなってしまうのではないか。悪い予想は当たるもので、今週末も糞ビッチは糞野郎を家に連れ込んできた。

 僕はスマホの録音アプリをスタンバイする。これで何か状況が良くなるとは思っていない。ただ、全て終わってしまった後、僕に残る傷が少しでも軽くなればラッキーくらいにしか思っていなかった。期待はしていなかった。

 こんな僕なんか眼中にないのだろう。二人は無警戒な大声で会話をし始める。


「ただいまーっと、って今日もウチぃ〜〜?」

「仕方ないだろ、杏里。ホテルは金がかかるんだからよ」

「まあ、私は忍と一緒なら何処でもいいんだけどさ」


 むちゅー。二人はそれで口付けを交わす。うん、そこで盛るなんて猿ですか? 嗚呼、そう言ったら猿に失礼か。

 二匹の悍しいナニカは汚らしい音を発し、醜い鳴き声を発しながら交尾を始める。

くちゅくちゅ、あーんあーん。スパンスパン、あーんあーん。そんな音声は非常に耳障りで、頭に入るだけで癇に障る。僕には関係のない、遠い世界の出来事だと思っても尚。

 ベッドに寝転んだ僕は、ほぼ無意識に手を伸ばす。だが、その先にPCはない。現実逃避の手段はない。隣で盛っている悍しいナニカ共が壊してしまった。

 ああーーーー! ああーーーー! ああーーーー! 湧き上がってくる叫びたい気持ちを抑えつつ、僕は布団を引っ張り出してきてそれを被る。今は夏で、布団を被るなんて正気の沙汰じゃないが、あの音声を聞かされ続けるよりはずっとマシだった。

あの音声を聞かされ続け、僕が狂って声を上げてしまったならば、先週末と同じように僕は暴力を受け、怪我をするに違いない。

 僕が出来るのは耐えるだけ。キリキリキリキリ。あ、腹も痛くなってきた。痛い、痛い、痛い。キリキリキリキリ。布団の中、そんな感覚ばかりが頭の中を駆け巡り、糞野郎共への意識が薄れたことだけは怪我の功名だった。

 寝始めたのがいつだったか定かではないが次の日、土曜日となった。知らぬ間に寝ていて、何となく目が覚めたという感覚だ。そんな感覚なので、当然ながら疲れは何一つ取れていない。朝起きた瞬間から腹に軽い痛みがあり、軽い吐き気があり、身体が何となく重い。スマホで時間を見ると、もう昼近かった。

 クソが。心の中で毒づきつつ、ベッドに寝転がったまま天井を見上げる。あの糞野郎共は何処かへ出掛けたのだろう。音がないことが何よりも心地良かった。


「クソが」


 今度は声にして、それから立ち上がる。身支度をして出掛ける。ATMである程度金を下ろしてから、お馴染みのカメラ屋という名の家電量販店へ向かう。買うのはタブレット、室内用監視カメラ、USBメモリー、ついでにドアストッパー。

 タブレットは現実逃避の為に必要……でもあるのだけど、やはり情報を取りまとめるのにPCは必須なので思い切って購入。室内用監視カメラはお年寄りとかの見守り用の物ではあるが、終焉に向けてスマホ録音の音声だけでは弱いと考え、やはり証拠画像が欲しいと思って購入。USBメモリーはその情報を複製退避する為に購入。後は自室の何処かに転がっている空のDVD何枚かに入れておけば十分だろう。ドアストッパーはゴムでできた三角形のドアを開かせないヤツ。家電でも何でもないが、何か売っているので買っておく。目的は言うまでもない。あの糞野郎共の侵入を防ぐ為だ。

 目的の物を買うと、僕はすぐ家に帰った。まずは室内用監視カメラを開け、説明書で使用方法を見ながら自宅の主にスマホ用のWifiに繋げて、まずはテスト。テストが無事終了すると、室内用監視カメラを二つ持って設置へと向かう。一つをリビングの特に入口辺りが良く見える場所に、もう一つは糞ビッチの部屋のベッドの様子が良く分かる場所に、それぞれ存在が分かりづらいようにしながら設置した。それからタブレットを設定し、カメラとの連携をした。そこまでやるともう夕方だったのだが、それまで糞ビッチ共が帰ってくることはなかった。

 そうやって一通りやるべきことやり終えると、ちょっと腹が減ってきたので近くの安価なうどん屋へと向かった。ムシャムシャとご飯類を食べる気力まではなかったので、それでいいやーというだけのことだった。

 ゆったりと味わうタイプではないので、サッと食べて、サッと家に帰った。隣の奥さんを含め、それまで誰にも会わなかった。

 家に帰ってタブレットで適当に動画を観ていると午後9時過ぎになったので、一旦鑑賞を中断してトイレに行っておいた。同時に風呂も済ましておく。それから部屋に戻ってドアを閉め、今度はドアストッパーも仕込んだ。開かないことを確認し、一安心。まあ、念を入れてちょっと離れた場所に重く壊れにくい物を置いて第二のドアストッパーにしたが。

 糞ビッチと糞野郎の糞コンビは午後10時過ぎに帰ってきた。奴等の下品な振る舞いは、カメラ越しでもハッキリと分かる。そして、より高画質になったカメラのおかげで、映っているのが奴等だというのもハッキリと分かる。


「ただいまーっと、って今日もウチぃ〜〜?」

「仕方ないだろ、杏里。ホテルは金がかかるんだからよ」


 奴等はコピペのような同じ会話を繰り返す。そこで悍ましいナニカになって汚らわしい交尾を繰り広げるのがいつものパターンだが、糞ビッチは言い出す。


「じゃあ、キモオタからまた取り上げましょうよ。今度は5万円くらい」

「おおっ、それは良い案だな。どうせキモオタが金持っていたってキモイことにしか使わねぁからな。俺らが使ってやった方が世の為人の為だ」

「そうね、そうね」


 自己中の典型みたいなことを奴等は言いながら、僕の部屋をノックもなしに開けようとする。が、それをドアストッパーが阻む。何度開けようとしても、ドアストッパーが阻む。

 その次はドンドンドンドンと乱暴にドアが叩かれ、開けろキモオタとか、金寄越せキモオタとか喚き続けているが、当然ながら僕がドアを開ける訳がない。そして、それらの全てを録画、録音している。

 さらにその次に、僕のスマホへLINEメッセージが入ってくるが、勿論それも僕は見向きもしない。そんなもの、糞ビッチからの罵詈雑言に決まっているからだ。

 僕はそれからまたヘッドホンをして、フィクションの世界へダイブした。そうすれば耳障りな雑音は聞こえなくなり、ストレスが軽減されるからだ。奴等は奴等で勝手にすればいい。僕の関係ない場所で。

 キリキリキリキリ。嗚呼、それでも何となく腹が痛い気はしていた。

 さらに次の日の日曜日、あの糞野郎共が出掛けて行ったのを確認してからカメラを回収した。映像はWifi経由で既にタブレット、USBメモリーやDVDに保存してある。USBメモリーを自室の机のカギのかかる引き出しにしまい、DVDは梱包して出勤用のカバンに入れた。これは職場の自分の机の引き出しに保管しておく予定だ。破壊されるリスクの軽減を目指す為だ。と言うか現状、自宅よりも職場の方が安全性は高い。だが、考えがそこへ至った時、僕は思った。思ってしまった。

 僕は何をしているんだろうと。








 週が明けて、また平日となった。仕事の日々となった。何となく疲れの取れないまま、何となく腹の痛みが取れないまま、僕はいつも通り一生懸命に働いていた。そう、いつも通りだ。だが、それでも前よりもパフォーマンスが落ちてしまっている気がしてならなかった。

 どうしてもアレが負荷になってしまっているのだろう。ストレスになってしまっているのだろう。だが、そんなプライベートなんか仕事に関係ない。


「渡辺、何か疲れてないか?」

「渡辺先輩、お疲れじゃありません?」


 仙波先輩や古田さんが心配そうな目を向けてくれたこともあったが、僕はそれに対して有り難く思いはしつつも首を横に振った。


「疲れはありますけど、仕事ですからね。キッチリしないと。疲れなんて言い訳にしちゃダメですから」


 そう、仕事において疲れているからダメというのは言い訳にもならない。ならば、そうならないように自分で調整すればいいだけのこと。僕はそう思いながら、疲れた身体に鞭打って働いた。だが、普通は疲れを癒す自宅が僕にとって最もストレスのかかる場所になってしまった以上、どうやっても疲れを取り切ることが出来ないまま。

 僕はある日、仕事で大きなミスをしてしまった。

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