F05:隣室

 それは金曜の夜だった。仕事を終えた僕は一人家に帰り、一人自分だけの時間を過ごす。土日は動画でも観てのんびりと過ごす。そんないつも通りの毎日、いつも通りの週末。その週末もそのつもりだった。

 アニメをいくつか観て、僕は一息ついた。ヘッドホンを外し、ペットボトルのお茶を軽く飲む。玄関の鍵が開けられ、人が入ってくる音が聞こえたのはその時だった。

 あの糞ビッチが帰ってきたのか。特に何も感じず、身体を全く動かさないままPC右下の時刻を見ると、まだ午後10時。長ければ日曜の夕方まで帰らない、あの糞ビッチの週末にしては早いじゃないか。

 そう思っていると、同行者がいるのか話し声も聞こえだした。友達でも連れてきたのかと一瞬思ったが、声の主は明らかに男性で。


「おう、思ったよりイイ部屋住んでんじゃねぇか。クソオタのくせに生意気に」

「でも、今が最良よ。いずれ終わるから」

「所詮そんなもんか。ハハハハ」


 奴等の言う『クソオタ』というのは、考えるまでもなく僕のことなのだろう。あの糞ビッチと結婚するにあたって、もう少し広い部屋にしようと思い立って、ちょっと高級なマンションの2LDKの部屋に替えたのだ。頑張って。結婚生活をより良いものにしようという努力の一つだったのだが。

 僕は深く溜め息をついた。それだけ、あの糞ビッチにとって僕というのはどうでも“いい人”なのだろう。自分にとって都合の良いように扱い、使い切ったらゴミとして捨てるだけ。嗚呼、馬鹿馬鹿しい。


「ん、もう! 忍ったら、ああっ! がっつき過ぎぃ」

「お前の魅力が、溢れ過ぎてんのが、いけねぇんだ」


 くちゅくちゅくちゅくちゅ。他に音のない中、唾液が交わるような音まで聞こえる。あの野郎共此処で、この部屋でキスなんかし始めた。余りにも無神経で許し難い。

 僕は今日の帰宅時、湿らさない目的で革靴を下駄箱の中に入れなかった。キッチンやリビングでも僕が夕食を取った跡は何処かしらに見えるだろう。僕がいる跡を、僕は一切消していない。それなのにこの所業。

 僕の存在に気付けなかった? いや、いないと勘違いしていても、こんなことするのは非常識。ありえない。そして、そのありえない奴等がそんなことしているならば、此処で交尾を始めるのも時間の問題だろう。

 ヘッドホンをまた耳にして、僕は動画視聴を再開する。観るのはホラー映画、いやスプラッター映画がいい。特にパリピが次々と殺されていく映画がいい。

 僕はそうしてスプラッター映画鑑賞を続けた。パリピを追いかけ回す化物(あるいは殺人鬼)に頑張れーって応援しながら。いつの間にか寝落ちするまで。

 そうやって寝たので、案の定その夜見た夢はロクなものじゃなかった。プロレスマスクを被った殺人鬼の手先となってパリピを殺しまくったのはいいものの、最後には自分もその殺人鬼に殺されてしまうというものだった。酷い結末だが、パリピを殺しまくれたのは良かった。そう、思ってしまった。








 翌朝、僕は目を覚ますと手早く身支度をして出掛けた。目的もなければ、特に行きたい場所がある訳でもない。ただ単純に、あの家にいたくなかっただけだ。あのくそったれ共のいる場所に、いた場所に、その腐った空気の中にいたくなかったからだ。

 家を出たのは午前9時。適当に歩きながら、何処へ行こうか考える。あの糞ビッチと一緒に行った場所になんか行きたくはない。だが、そう考えて避けるのは糞ビッチを意識しているからに違いなく、その意識する自分さえ何となく許し難かった。

 もっとも、この時間ではコンビニ以外ほとんどの店がまだ開店していない。僕は定期券を持って電車に乗り、会社までの区間で今まで下りたことのない駅で途中下車し、その駅前を適当にぶらついた。特に考えがあってやった訳ではない。これはただの暇潰し。街並みを眺めるのも、鳩やカラスの行方を目で軽く追ってみるのも、ただの暇潰し。

 いくつかの街をそうして適当に巡っていると、いつの間にか時間は昼過ぎになっていた。僕はその時近くにあった安価な中華料理屋に入り、一番安い醤油ラーメンを注文して食べた。どうせ味なんか感じないだろう。そう思っていたからだったのだが。


「はははは」


 自然と軽い笑いが漏れていた。あっさり系な鶏のスープが身に染み渡るようで、ラーメンは美味い。美味かった。ああ、こんなんでも僕は生きているんだな。そう実感させられていた。

 知らない街巡りはそれまでにして、午後は良く知った街の、良く知った店に行った。誰の目も気にすることなく、アニメショップやホビーショップ、カメラ屋という名の電器屋等あちこち巡り、それはそれで楽しかった。

 糞ビッチとデートしていた時は、彼女に合わせるばかりの接待モードで、緊張ばかりしていた気がして、特別楽しかったという記憶がない。あの時はそんなもんだろうと思っていた、思ってしまっていたが、今となってはそちら方面に僕は向いていなかったのだと分かっていた。

 しかしながら、僕の憂鬱な日々は続いていく。逆さには戻らない。そう思いつつ、夕方になったのでスーパーで僕一人分の夕食を買って家に帰ると、部屋の前で隣室に住む夫婦の奥さんとバッタリ会った。


「こんにちはー」

「あら、渡辺さん。こんにちは。今日は一人でお出掛け?」

「はい」


 隣室の夫婦は共に30代半ば。子供はいないようだが、穏やかな気質の良い人達っぽい感じだ。もっとも、喋った回数が非常に少ないので、分かっていることは殆どないのだが。

 その奥さんは僕に言った。


「こんなこと中々言いづらいんだけどね。此処のマンション、一部屋辺りが広い割に防音にはあまり優れていないのよ。だからね、夜の声もちょっと聞こえてきちゃっているのよね。あ、いや、新婚さんなのだからお盛んになってしまうのは非常に分かると言うか、ごくごく自然なことではあるのだけど」


 僕はその言葉を聞いて、気が遠くなりそうになった。あいつ等は恥知らずなことを確実にやっていて、それも昨日が初犯ではないと示されたからだ。

 実は僕が観ていたAVでしたというオチはない。僕はAVを観る際、必ずヘッドホンを装着している。隣室にまで音が漏れるようなことは絶対にないのだから。








 家に帰ると、家の中には誰もいなかった。あの糞ビッチ共も何処かへ出掛けたのだろう。糞ビッチと共にそのまま二度と帰ってこなければいいのに。そう思いながら、いつも通りのスーパー販売の弁当を食べた。これはいつも通りの、つまらない味。

 夕食を食べ終えると、僕はそれを片付けてから自室へと戻った。リビングのような共有スペースでこれ以上何かすることはない。テレビは各々が予め持っていたものが各個室にあって、リビングにはない。それどころか、ソファーもない。引っ越してきた当時は単にまだ未購入なだけだったが、これからも購入することはないだろう。

 部屋に戻ると、僕は動画配信サービスで映画を観た。アメリカのよくあるドカン! バカン! ズカーンッ! な映画だ。その映画が主人公とヒロインのキスでハッピーエンドで終了というベッタベタで終わった頃、あの糞ビッチ共も帰ってきてしまった。いや、やって来てしまった。


「ただいまーっと」

「うぇーいっ!」


 ドガッ! 大きな鈍い音のすぐ後に、つんざくような炸裂音が響いた。何かが壊されたのだろう。

 壊されたのが窓だとすると、鈍い音は起こりようがないから違うのだろう。リビングにあるものでそうやって壊れそうなものを考えると、浮かび上がってくるのは観葉植物の鉢だった。

 奴等も言う。


「何だ、こりゃ?」

「見ての通り、観葉植物よ。アイツが買ったの。何もないと殺風景だからって」

「あぁ? キモオタのくせに生意気な野郎だ」


 糞野郎がそう言うと、ビシビシと叩きつけられる音、幹がへし折られるが聞こえてきた。

 何なのだ、アイツは? 何なのだ、アイツは? 何様のつもりなんだ?

 叫びたい気持ちを抑えつつ、僕はヘッドホンを身につける。グチャグチャになりそうな気持ちを抑えるには、フィクションによる現実逃避しかない。

 YouTubeで音楽を一曲聴き、10分程度のトーク番組を一つ観ると、ふと尿意を覚えた。そうだ。映画を観る前にトイレへ行きはしたが、映画が約2時間半だったことを考えると、次の尿意が来るのも無理はない。

 僕はヘッドホンを外してトイレへ行こうとしたところ、隣室の声が、現実の声が耳に入ってしまった。


「あんあん。あぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 甲高い声が聞こえる。耳障りな声が聞こえる。これは誰の声だ? これは何の声だ?

 此処のマンション、一部屋辺りが広い割に防音にはあまり優れていないのよ。だからね、夜の声もちょっと聞こえてきちゃっているのよね。

 隣の奥さんの言葉を思い出さなくても分かる。何をしているのかなんて分かる。百聞は一見に如かずなんて言うが、一聞だけで奴等が何をしているか分かる。あまりにも僕を馬鹿にしている。最低だ。最悪だ。あ・り・え・な・い。

 僕は此処にいる。僕は此処にいる。僕は此処にいるんだ!

 僕はPCからヘッドホンのプラグを外し、音量をMAXにしてから動画を再生した。不快な嬌声が消し飛ぶ爆音で音楽が流れだした。

 嗚呼、僕は此処にいる。僕は此処にいる。僕は此処にいるんだ!

 僕は此処にいる。僕は此処にいる。僕は此処にいるんだ!


「うっる、せぇええええっ!」


 隣から男の怒鳴る声が聞こえた。ざまぁみろ。邪魔してやる。邪魔してやる。邪魔してやる。僕はそう思っていたのだが、次の瞬間に男はフルチンのまま僕の部屋に飛び込んできて。

 ドガッ! 僕の顔面を思い切り殴り飛ばした。殴り合いのケンカなんてした記憶すらない僕は、訳分からないまま一瞬フリーズしてしまったのだが、その隙に奴は僕の反対の頬も殴り飛ばした。さらに爆音を発しているPCを椅子で叩き壊してから、僕の胸倉を掴んだ。


「ぁあ? キモオタの分際で何調子くれてんだ、コラ? てめぇのようなキモオタのカスはなぁ、みっともなく隅で震えてりゃいいんだよ。クソがっ!」


 男はそう言って僕の腹を蹴った。さらに唾を吐いて汚した。


「あ、イカ臭っ」


 そんな中、あの糞ビッチも僕の部屋の中に入ってきた。へし折られた観葉植物の幹を持ち、きちんと服を着直した上で。

 糞ビッチは「キモ、キモ、キモ……」と連呼しながら僕の部屋を見渡してから、へし折られた観葉植物を僕に叩き付けた。僕の部屋は特にアニメのポスターもなければ、フェギュアの類もない普通の部屋なんだが、彼女等にはどうでもいいらしい。と言うか、僕のものであれば全て唾棄すべきものに見えるようだ。


「何、この部屋? 初めて入ったけど、キモ過ぎてあり得ないわ。体調悪くなりそう」

「て言うか、何もう服着てんだよ」

「ええ? だって、こんなキモオタなんかに裸どころか下着姿だって見せたくないじゃん。それに、コイツのせいで何か萎えてきちゃったしさぁ。こんなトコでやらずに、他所行ってやろ?」


 糞ビッチはそう言って、僕の財布から無断で二万円を取り出して自分の財布にしまった。男は大きく溜め息をつきながら、確かにと言ってへし折った観葉植物を拾った。それで自分の肩をとんとんと叩きながら。


「今日のところはそうすっか。だが、次こんな馬鹿な真似しねぇように教育はしておいてやらねぇとなっ!」


 そう言って、観葉植物で僕を打ち据えた。右に左に何回も。

 その姿を見て、糞ビッチもニヤニヤと笑いながら、倒れている僕を足蹴にした。右に左に何回も。

 その時だった。


「あ」


 漏れた僕の声と共にアレもまた漏れ始めた。そう、小便だ。ああ、元々トイレに行きたくてヘッドホンを外したんだったな、と頭の片隅で何処か冷静に思いながらも小便は止まらない。一度堰を切った小便は、寧ろ勢いをつけて流れ続けた。

 糞ビッチと糞野郎は、驚きながら僕からパッと離れた。


「うっわ。この野郎、小便まで漏らしやがった。きったねぇ。最低最悪のゴミクズだな」

「何コレ? キモオタの上に汚物放流? 超ありえないんだけど。ああ、もう、死ね。死ね。死ね!」


 奴等はそんな悪口雑言を口々に言ってから、男は僕に向かってへし折った観葉植物を投げつけ、糞ビッチは近くにあるゴミをいくつか僕に向かって投げつけた。近寄りたくはないのだろう。奴等の僕への暴行はそれで終わった。僕の尊厳を貶める小便が、結界となって僕を守っているのは酷い皮肉だった。

 男はそれからすぐに服を着直し、糞ビッチと共に出て行った。そうして僕の部屋に、再び無音が戻った。


「あは、あはははは」


 乾いた笑いが漏れた。笑うしかないだろ、これ。

 骨や筋にまで問題はなさそうだ。しかし両頬は腫れ上がり、いくつもの細かい切り傷もある。その上で、みっともなく小便まで漏らしている。僕の上にはへし折られ、メチャクチャにされた観葉植物。PCは壊され、部屋に唾まで吐かれている。

 最低だ。最悪だ。これが結婚と言うのか。


「うぁああああ。ああっ、ああああああああっ!」


 泣き声が零れた。泣き声が止められなかった。こんな声など出した記憶がないくらいみっともない、まるで幼子のような声が。

 最低だ。最悪だ。僕の今は最低最悪だ。気持ちも心も最低最悪だ。その最低最悪なまま、僕は後片付けをした。まずはメチャクチャにされた観葉植物から。

 尚、その観葉植物はオリーブである。花言葉は「平和」であった。見ての通りメチャクチャで、ゴミと化し、もう元には戻らない。

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