F04:後日談

 新婚旅行という名の引き籠もり連休から約一週間、僕は概ね平和に過ごしていた。平日でどちらも仕事をしていた為か、あの糞ビッチと関わることがなかったからだ。この一週間、会話もしなければ目を合わせることもなかった。あの糞ビッチがいなければ平和。あの糞ビッチがいなければ、独身時代と大差なく過ごせていた。

 土日が明けてまた一週間が始まる。今週もまた、そんな一週間と思っていたが。


「なあ、渡辺。お前は普段奥さんとどういった場所でデートしている?」

「は? 唐突ですねぇ」


 そう、唐突だった。仕事がちょっと一息ついた時、仙波先輩がそう話を振ってきたのだ。今日は天気が良いね、みたいな感じで。

 僕は結婚前のことを少し思い出し、少し嫌な想いを抱きながら答えた。


「映画観に行ったり、何かの名所へ出掛けてみたりといった感じですかね」

「普通だな」

「普通ですよ?」


 デートで奇をてらっても良くはならないんじゃないか。僕はそう思っている。変わったことをしても、喜びはしないだろうと。

 もっとも、あの糞ビッチ相手では以下省略だが。


「前の土日は何してた?」

「出掛けたのは近くのスーパーくらいで、後はずっと家にいましたね。で、動画やテレビを観たってくらいですかね」


 独りで。だが、それがベストな休日だ。人には言えないけれど。

 そんな時だった。岸本部長が僕達の会話に乱入してきたのは。


「ん。政樹君は前の土日、ずっと家にいたのか?」

「ああ、すみません。無駄話しちゃって」

「それは別にいいんだ。それより前の土日、ずっと家にいたのか? 新婚旅行の土産話を聞きたくて、前の日曜に来るようその前日杏里にLINEしたのだが、君は用事があると言って、来たのは杏里だけだったからな。外せない用事があったんじゃなかったのか?」

「何もなかったですね。ただ、部長宅に呼ばれていたというのも、前の日曜日に彼女が実家に帰っていたというのも、今初めて知りましたけど」

「本当か? 本当に杏里は君にこのことを」

「言ってないですね」


 そもそも、あの糞ビッチとここ一週間ばかり全く会話もLINEもしていない。伝えるとか、伝えないとかそれ以前の問題である。


「どうしてそのようなことに」

「さあ? 単純に忘れたか、職場での会話で満足させられなかった僕がいても意味がないと思ったかのどちらかじゃないですかね」


 まあ、後者だろうがね。だって、僕は新婚旅行に行ってないですから。登別温泉、今まで一度も行ったことないですから。感想という名の想像話しかできない。

 だからこそ、糞ビッチは嘘をついてでも一人で実家に行ったのだろう。僕が隣にいると、それだけで話の中に差異が生まれ、ボロが出てしまうだろうから。どうでもいいことだけど。

 岸本部長はそんな俺にこう言った。


「では、今日。仕事が終わったら何処か食べに行かないか? 奢るよ」








「頂きます」

 僕は向かいの岸本部長に頭を下げ、箸に手を付ける。今日は岸本部長と二人の夕食だ。

 岸本部長が連れて行ってくれた店は、居酒屋を高級にしたような感じの所だった。そこそこ良い和食が頂けて、そこそこ良い酒も頂けるらしい。とは言え、我々は明日も仕事があるので酒のオーダーはしなかった。僕も岸本部長も酒に強くなく、次の日に響きかねないからだ。


「息子と酒を飲みかわすのはかつてからの夢であったんだけどね、それはまた次の機会にするか」

「はい」


 次の機会、あるんですかね? 今のあの糞ビッチとの仲を考えると、僕が岸本家の面々と一緒になって食卓を囲む姿すら想像しづらい。

 まあ、こんな嬉しそうな顔をされると言えないけれど。

 汁物で口を潤しつつ、ホッケの開きを口に運ぶ。そして、時折ご飯。漬物の塩気で箸休めをしながら、小鉢の煮物で気分転換もする。どれも丁寧な仕事で、じんわりと染み渡る落ち着いた和食。実に良いものだった。


「で、政樹君。杏里とは上手くやれているかね?」

「上手く、ですか?」


 僕はホッケを咀嚼しながら考える。上手く、上手く、上手くねぇ。どういう感じなら『上手く』と言えるのか。

 一般的には僕とあの糞ビッチのように一週間ばかり何の言葉も交わさない状態を『上手く』やれているとは言わないだろう。だが、僕はあの糞ビッチと口なんて利きたくないし、あの糞ビッチも僕と口を利くことを望んではいない。双方の願いが叶っている点で言ったならば。


「やれているんじゃないですかね」

「それにしては新婚っぽさが、その幸福感が滲み出ていないと仙波君は言っていたぞ」

「ああ、仙波先輩は特別ですから」

「ま、まあ、そうなのかな?」


 つい最近、唐突に仙波先輩が僕に彼のスマホの写真を見せてきた。奥さんと娘さんが写っている写真だったのだが、その際に言ったのが「これが俺のマイ・スイート・ハニーとマイ・スイート・エンジェルだ」だった。確かに奥さんも娘さんも幸せそうに微笑んでいて、可愛らしくはあったのだが、冷めた気持ちで『俺のマイ……』じゃ意味重なってないですかね、と思ってしまった僕はきっと悪くない。

 敢えて悪いと言うならば、僕もあの糞ビッチもこの関係性を改善しようとする気がないということだが、少なくとも僕側が反省して改善するようなものではないとも考えていた。

 と言うか、美味いもの食べながらあの糞ビッチのことなんか考えたくない。ご飯が不味くなる。だが、岸本部長は言う。


「あの子もね、昔は色々とあった時もあったりしたが、心根は非常に良い子だからさ、長い目で見てやってくれないかな?」

「は? はぁ」


 心根が非常に良い子、と言われて僕はその言葉が即座にはあの糞ビッチと結びつかなかった。それの良い子が挙式の数時間後に不倫なんかしないと思うんですけどね。

 僕は一応訊いておく。


「じゃあく、いや、杏里さんは小さい頃どんな子でした? 互いにあんまりそういった話をしていないんですよねぇ」

「そうだなぁ、天使みたいな子だったよ」

「はい?」


 岸本部長は仙波先輩のようなことを言った。まさか、僕の目の前に今いるのは岸本部長の皮を被った仙波先輩だったりしないですよね? 僕なんか、ついつい心の声の『糞ビッチ』が出てきそうだというのに。天使みたいな子? 一体何の冗談だと言うのか。

 そんなこと思ったりした僕に、岸本部長は自分の娘が如何に可愛いかを語り出した。その話はまるで別人の夢物語のようで、そしてそれは岸本部長が今の娘を見れていないことを表す証左でもあった。ただ、それと同時に僕は気付いてもいた。

僕がどうでも“いい人”だから糞ビッチを押し付けてしまおうと考え、岸本部長が僕と彼女の見合いをさせた訳ではないのだと。岸本部長には悪意はなかったのだと。

 それが僕にとって救いでもあり、同時に救われないものでもあった。








「渡辺先輩、ありがとうございます」

「ん、はい?」

 岸本部長との会食から数日後の金曜午後、古田さんが唐突にお礼を言って、頭を下げてきた。彼女の仕事のミスもここ最近では特になく、フォローの必要もない。

それ故に僕はちょっと目を丸くしてしまったのだが、彼女は続けた。


「今日の夜、先輩の結婚式で会った部長の娘さんのお友達の中谷さんと食事に行くんですよ。へへへ、凄く楽しみです」


 部長の娘さんと言うのでは古田さん、あの糞ビッチの名前を覚えていないのかな? ああ、別に覚える必要はないか。

 それよりお友達と言うのであれば。


「二次会の時、古田さんの隣にいた人だったかな?」

「そうです。中谷さん、頼れるお姉さんって感じですっごく良い人なんですよー。先輩のおかげで素晴らしいお友達ができました。ありがとうございます」

「良い出会いがあったなら、それは良かった。まあ、良い人と友達になれたのは古田さんが素晴らしい人だからというだけなので、僕に礼なんかいらないけどね」

「そ、そんなことないですよぉ」


 そんなこと、あるだろう。古田さんならば、あの結婚式なんかなくても良い友達の一人や二人、簡単にできるだろう。類は友を呼ぶと言うのだから。

 と、ちょっと待てよ。類は友を呼ぶと言うのならば、あの糞ビッチと縁ができてしまった僕もまた、それ相応の糞だというのだろうか。

 そんなことを思ってしまった僕に、古田さんは重ねる。


「先輩には普段からお世話になりっぱなしですし、今日の私があるのも先輩のおかげですから」

「あ、ありがとう?」


 うん、他に何を言えと?

 予想を遥かに超越したお礼を言われた僕は、ただ困惑するばかりだった。そんな時、乱入する影が一つ。

 仙波先輩は後ろから僕の両肩を掴みながら絡んでくる。


「渡辺君、いかんぞぉ。職場なんかでイチャイチャしては。いかんぞぉ。新婚早々不倫なんかしては。ほら、お義父様が睨んでるぞぉ」

「何アホなことを言ってるんすか」

「で、どんな話をしていたんだ?」


 何も聞いていなかったんかい!

 そう思いつつも、僕は仙波先輩へ冷静に返す。


「僕の結婚式をキッカケにして、古田さんに新しい友達ができたらしいんですよ。で、良かったねーって話です」

「おう、それは良かったじゃないか。おめでとう」

「へへへ、ありがとうございます」


 後は普通の話を三人で少しして、それからすぐ僕達は仕事へと戻った。そんな平和なやり取りだった。

 嗚呼、新婚生活よりもこんなやり取りの方がずっとずっと楽しい。あんな最低な結婚生活になるのならば、結婚なんかするんじゃなかった。その時の僕はそのように思っていた。だが、その時の僕はまだ知れずにいた。

 あの糞ビッチとの結婚生活はまだ底ではない。下には下があると。

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