F03:新婚旅行

「新婚旅行、か」


 話がある。そう言われ、呼ばれた僕に杏里さんは開口一番にそう言った。

 新婚旅行。ああ、確かにそうだった。明日から北海道の登別温泉に、三日間行く予定だった筈だ。地味な場所と思うが、結婚前に杏里さんと話し合った時に出た彼女の希望地だ。

一応支度はしてあるし、今日も職場で仙波先輩にいじられもしたが、楽しくはならなそうなので意識から排除していた。

 そんな僕に、杏里さんはサラッと言った。


「アンタ、留守番ね」

「は?」


 何を言っているんだ、この人は?

 まるで宇宙の言語を言われたようで、僕の頭はフリーズしてしまった。杏里さんの言葉はそれくらいに信じ難かった。僕は少しずつ区切って改めて訊ねる。


「ひょっとして、明日からの新婚旅行に、新婦は行くけれど、新郎には来るな。そう言っている?」

「そうね」

「はあ? 何だ、それ。新郎新婦が揃ってなければ、そんなの新婚旅行でも何でもないじゃないか!」

「大丈夫。代わりならいるから。アンタのような恥ずかしいキモオタじゃない、立派な人が」

「は、代わり?」


 カチリ。空いていた隙間に、適したパーツがしっかりと嵌った気がした。そして、理解した。理解してしまった。

 この岸本杏里という人間、クソであると。糞ビッチであると。


「ああ、そうか。そうか。やっぱ、そう言うことかよ。要するに僕以外に好きな奴がいて、そいつと行きたいから僕には来るなって言いたいんだろ?」

「ええ、そうよ。キモオタのクズにしては意外と察しはいいじゃない。助かるわ」


 この瞬間、糞ビッチを殴らなかった自分を僕は褒めてやりたい。人に対して、此処まで殺意を抱いたことはこれまで一度もなかった。それ程までにこの糞ビッチは許し難かった。

 結婚式の時まで被っていた猫を残らず放り捨てた糞ビッチは、ただ自己中心的で救いようのないゴミだった。これ程までに最低最悪な人など知らないって程のゴミだった。嗚呼、寧ろ糞ビッチではなくプロポーズ直前の僕を殴って止めたい。

 何故、気付けなかった? だって、コイツは。


「結婚式の晩、アンタは予約しておいたホテルに来なかった。それもわざとで、その時もその男に会っていたんだろう?」

「ええ、そうよ。アンタなんかに抱かれたくないからね」


 僕は未だに杏里さんと肉体関係を持っていない。キスすらしたことがない。それは『本当の夫婦』になるまで後回し。それが何なのか、今ならばハッキリと分かる。要するに彼女は僕と『本当の夫婦』になんてなるつもりはなかったのだ。

 それはもう、きっと最初から。


「じゃあ、何で僕と結婚なんかした? 僕のこと、いい人で良かったとか言っていたじゃないか」

「ああ、そうね。アンタがいい人で良かったわ。どうでも“いい人”で。良いカモフラージュになるわ」

「は?」


 彼女の話はこうだった。彼女は僕と出会う前から和田忍という人と交際していたが、彼は既婚者であった。それでも構わずに交際を続けていたが、当然ながらご両親の反対にあう。不倫を止めるよう誓わされ、さらに見合いもセッティングされ、そこで出会ったのが僕だった。

 ご両親の言葉に従うつもりなど全くなかった彼女は、僕の“いい人”振りを見て、これは使えると考えた。僕をカモフラージュにしてご両親の目を欺き、交際を続けるつもりなのだという。さらに僕を形だけの夫にして、絶対に手一つ握らせるつもりはないと。

 控えめに言ってもクズである。


「やってられるか。こんなふざけたもの、終わりだ。終わり」

「いいの?」

「あ?」

「このことをバラしたならば、アンタは新婚初夜早々他所の男に新婦を取られるような魅力の欠片もない男だと、自分で広く言いふらすことになるのよ? ああ、隠していたけれどアニメ好きなキモオタで、社会不適合者だったか。じゃあ、無理もない。会社もクビになって、行き場も失うのも自然ってね」

「そんなことなる訳な」

「なるわよ? 世に蔓延るニートを見てご覧なさい。いい年して仕事一つしたことないニートをイメージしてみなさい。皆、アニメやゲームに夢中になって社会に適合できなくなったゴミじゃない。自分を偽ったおかげで何とか職にはつけたんだろうけど、メッキが剝がれてしまえばアンタもそんな連中と同じ。人生お終い」

「僕はそこまでディープなヲタじゃ」

「一般人からしたら、アンタも腐れニートも同じ。ただキモイ代物。そんな輩があんな大々的にやった結婚を数日で投げ出す? そんなことをしたら、二度と誰もアンタを信用なんてしなくなるわね」


 だから、此処で別れる選択肢を取ったならば、アンタは死ぬまで独身で、死ぬまで孤独なままに決まっているわね。

 そう言って話を終わらせた杏里、糞ビッチに対して僕は何も言えなかった。確かに僕は仙波先輩や古田さん、他の同僚も含め職場では誰にも、好きなアニメの話とかしたことはなかったからだ。偽っていたと言われれば、確かに偽っていた。

 その上で、ちょっと冷静になってから考える。そして、理解した。理解してしまった。岸本部長は職場の中でかなり人望のある人だ。どんな理由があろうと、その岸本部長の娘との結婚を数日で廃棄したとなると、職場で僕の居場所なんか消えてなくなるだろうと。

 結婚の誓いを数日どころか、数時間で裏切るようなクズに言われたくはないと思いはしたけれど。








 翌日の朝、僕はゆっくりとした時間に独りで目を覚ました。時計を見ると、もう昼近い。それも昨晩、中々寝付けなかったせいだろう。だが、今日から三日間休日だ。せめて、独りのんびり過ごそうと考えていた。YouTube観て、動画配信サービスでアニメでも観よう。嗚呼、それは独身時代の休日と何ら変わりはしない。

 新婚旅行なんてなかったんだ。結婚なんてなかったんだ。そう思うことにすれば、いくらか心が楽になったような気がした。

 とは言え、さすがにラブストーリーを観る気にはなれなかった。僕がこうして独りでカップラーメン啜りながら動画観ている間に、あの糞ビッチはこれと同じようなことを満面の笑顔で満喫しているんだろうなと思ってしまうからだ。

 そうして僕は近場のスーパーかコンビニに食料をたまに買いに行く以外にこれと言って特に何処へも出掛けず、ただ引き籠もる休日を過ごしていた。別に職場の誰かに会ってしまう可能性を考えてとかではなく、ただ外出すら億劫になるくらいに面倒臭くなっていた。心が疲れていたのだ。

 昔と何ら変わらないようで、何処か昔より不愉快。そんな感情を抱きながら、僕は無為なまま三日間の休日を終えた。ずっと独りで、誰とも会話することさえなく。

 糞ビッチは三日目の夜遅くに帰宅したようだが、顔を合わせることすらしなかった。しようとしなかった。そんなことしたら、ただでさえ不愉快な気持ちがさらに大きく増幅するのは間違いないからだ。

 そして休日明けの朝、憂鬱な気持ちを抱いたまま僕は出社した。そんな僕に、何も知らない同僚達が絡んできた。


「新婚さん、いらっしゃ~い」

「ヒューヒュー、幸せ者め。この野郎、この野郎♪」

「新婚旅行、楽しかった? 楽しかった? いいな、いいなぁ~」


 それらは全部善意で、僕に幸福あれといった気持ちでやってくれているのは分かっていたのだが、それが却って僕の鬱を増幅させてしまっていた。しかし、此処で僕は溜め息一つつくことすら許されない。みんな、善意だから。

 そんな善意の祝福という暴力をいくらか受けると、そこで大ボスがやって来た。義父、岸本部長である。俺を囲っていた同僚はモーゼの海割りのように左右へと綺麗に分かれ、部長に僕への道を作った。部長はその道を堂々と、そしてゆっくりと歩いて僕の所へとやって来た。


「やぁ、政樹君。お早う」

「おはようございます、部長」

「登別温泉はどうだったかね?」


 登別温泉? ああ、そんな所にあの糞ビッチは行ったんだっけか。ちょっと記憶から抹殺されかけていた。

 まあ、地図で見る限り。


「自然の綺麗な所でしたね」

「それだけか?」

「はい」


 だって、行ってないもん。登別温泉、行ったことないもん。

予め登別温泉がどういう場所なのか調べておいて、こうした今日に備えておくというのも考えなくもなかったが、そのようにはしなかった。僕のことを心底馬鹿にしている糞ビッチや、それにまつわることを考えるだけでどうしようもなく鬱になり、何もかも嫌になり、何もかも破壊したくなってしまうからだ。


「場所以外の何かに夢中で、記憶に残ってないんじゃないっすか~?」

「馬鹿を言うな、仙波。ったく」


 此処で仙波先輩が乱入。まあ、彼としては無意識が善意かのどちらかなのだろう。デリカシーというものが何処かに忘れ去られている気はしなくもないけれど。


「まあ、いい。それより政樹君、何か土産みたいなものは買ってきてくれたかね?」

「あ、それもないです。すみません。これぞってものがなかったので」


 家のスーパーやコンビニでは北海道フェアの類をやってなく、北海道っぽいものすら売っていなかった。なので、それっぽい物を土産として職場に持ってくることも出来なかったのだ。

 糞ビッチには頼んでないし、頼みたくないし、仮に頼んだとしても買ってくることもなかっただろう。義両親宛にはどうなのか知らないが。


「仕方ないなぁ。こういうのは気持ちなんだから、変にこだわらずに簡単なビスケットとかで良かったんだよ」

「すみません」


 じゃあ、森永のビスケットでも良かったんですかね? それならば近くのスーパーやコンビニで売ってたんですが。でも、それじゃダメでしょう?

 そう言えない僕は、ただ謝るしかなかった。そうして一つ、二つ、また鬱が積み重なっていく。されど、僕のようなクズはそれに耐えていくしかないのだろう。そうしないと生きていけないのだから。

 嗚呼、疲れた。ホント、疲れた。

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